1 神社と地名の分布
赤四角は、「鹿島」地名
青丸は、「鹿島」を名のる神社 鹿島(嶋)神社 鹿島(嶋)社 鹿島宮など
緑丸は、 その他の名前の神社 高杜神社 真喜神社など
この分布図は、これまでと同じように、インターネット上の 「地震まっちゃ」というところに「自由地図」というのがあり、神社の所在地を所定の欄に入力すると自動的にGoogleマップ上に分布図を描いてくれるものを利用して作りました。
「大字」までの認識で、「小字」までは認識してくれないので、大雑把なものです。また地名と神社や、神社同士が近すぎると重なってしまうので、意図的に離して重なりを避ける工夫は少ししてあります。逆に、離れすぎておかしいところもあります。要は、一覧表では分かりにくいものを分布図にしただけということで、大まかなイメージで良いだろうということで作ったものです。分布図のもとの一覧表は、本文の後に掲げてあります。
長野県は、「鹿島」地名が8カ所で18地名あり、神社は72社、「鹿島」を名のる神社が多く60社、それ以外の神社が12社ありました。
調査最初は「鹿島」地名が4カ所10地名、神社は32社でしたから、ずいぶん増えました。
「鹿島」地名がわりあい多く、「鹿島」を名のる神社も多かったのが特徴といえます。ただ神社は、成立年月不詳、由緒不祥の、小社・小祠が多く、今では合祀されていて一見分からない神社がほとんどという印象でした。
長野県は、旧国名が科野→信濃(しなの)国。岩手県、福島県に次ぐ面積の広い県です。内陸県で、日本の屋根とも称され、北、中央、南のアルプスなどのある地帯です。また、日本列島を南北に走る地の割れ目フォッサ・マグナの西縁糸魚川静岡構造線があり、中央構造線も諏訪付近から南に走るという地質学的に興味深いところというだけでなく、文化的にも東西の境をなしていることが指摘されています。
歴史的にはいろいろありますが、古代において信濃国から分離して養老5年(721)から天平3年(731)の一時期諏方国が設置されたこと、木曽が中世ぐらいまで美濃国と意識されていたこと、明治になってから明治4年から9年まで南信と飛騨国が一緒の筑摩県という時代があったこと、古代律令制のもとで馬と信濃布は有名ですが、海から遠いにもかかわらず鮭製品が貢進されていたことなどがいささかおもしろいと思います。
これらが、以下の話に一体どの程度関係しているか、簡単にはわかりませんが、私には無縁とは思えないこととして頭の隅におくようにしています。
広い長野県は、4地域に分かれます。長野市を中心に北信、上田市や佐久などの東信、松本市や安曇野の中信、諏訪や伊那の南信です。
上の分布を見ると、北信が36社、東信6社、中信25社、南信5社となり、東信、南信は大変少ないといえます。分布図で分かるように、天竜川筋がほとんどありません。また安曇野から犀川流域に大きく分布しているようになっています。しかし、少ない南信の飯田市松尾に「鹿島踊り」があるということで、興味深い問題がないわけではありません。
多くても少なくても、各地に謎が転がっているのが鹿島信仰の問題と思っています。
2 調査について
まずは次の神社数の表を見て下さい。
長野県神社庁 歴博一覧表 本調査
鹿島 8 26 72
香取 1 3 5
長野県神社庁のHPによると神社総数は2,459社あるということですが、鹿島神社は8社、香取神社は1社だけしかありません。これが現状の神社を示していると言えます。ここには摂末社が入っていませんから、歴博や本調査の数字との単純な比較はできませんが、鹿島・香取は表面上きわめて少ない、めずらしい神社になっています。
歴博一覧表は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の数字です。私の調査の早い時期に参照したものですが、「全国神社明細帳」や「各都道府県宗教法人名簿」などから「香取または鹿島を冠する神社を採録した」とあり、摂末社も採り上げています。
しかし、今までも言ってきたように、私の調査とほぼ同じようなものを見ながら、差がありすぎです。国立機関の調査ですが、まともな調査をしているとは思えない研究というほかありません。
私の調査は、現地調査をこれまでちょこちょこ積み重ねていましたが、今回も新型コロナ6~8波の感染拡大のため、計画していた調査をやめざるを得なくなることばかりでした。市町村史のいくつかを見ることができなかったり、現地に行けばおそらく簡単に分かることが未確認のまま、この報告を書くことになりました。
したがって「神社明細帳」や市町村史を充分に見ていません。
しかしその代わりに、1884(明治17)年成立の『長野県町村誌』(以下『町村誌』とする。)の活字本(1936年)を、国会図書館デジタル資料として県立図書館を通じて何度か見ることができました。ところが、大分経ってからよくよく県立図書館を検索したところ、なんと『長野県町村誌 第1巻北信編』があることがわかり、これは借り出してじっくり見ることができました。
『町村誌』は、地域によって大変細かく記述され、神社も「雑社」ということで小祠・小社がたくさん記されているところもあり、ここから拾えた情報は大変貴重なものでした。今回の最大の収穫です。
残念ながら、地域によってはほとんど神社などは記さないところもあったため、一覧表を見れば分かるように、歴博の一覧表を出ることのできなかったところもかなり残りましたが、とにかく「鹿島」を名のる神社だけでも60社、全72社を拾いました。
最初の表からはっきりわかりますが、、ほとんどの鹿島神社が封じられ、忘れられたものばかりと言えます。
なお、香取神社は参考までにあげてみました。長野県ではほとんどありません。これもまた何度も指摘してきましたが、鹿島神社とセットにはなっていないことが良く分かります。鹿島・香取というのは、限られた地域と時代においてセットとなったものです。
一覧表の出典を見れば分かるように、いろいろなものから断片的ともいえる情報を集めました。今回は特にその特徴が良く表れています。
神社に関しては、成立年月不祥、由緒不祥が多いのですが、神社に遺る伝承やその周辺地域の伝承の断片をこつこつ集めていくほかないだろうと思っています。
断片をたんねんに拾い集めることによって、まずは今までの歴史が抹殺し、封じ込めたものを明らかにしていくことです。そのことによって、今までの歴史像が徐々に変わっていくことがぼんやりながら見通せるようになってきたと思っています。
3 諏訪信仰と鹿島神社
「信濃国一之宮諏訪大社御分社名簿」(諏訪大社、1984年4月調べ)によると、諏訪神社の分社数が、長野県では1,152社、全国では5,590社あるといいます。(1)
歴博の「全国香取鹿島神社一覧表」の数字によると、全国の鹿島神社は860社、香取神社は538社です。私の調査では鹿島がもっと多くなると思いますが、さすがにこの諏訪神社にはとうてい及びそうもありません。長野県ではどこでも諏訪神社ばかりが目立ち、全国でも多い神社といえます。
『古事記』(和銅5年712完成)によると、「建御雷神」が大国主神に国譲りを迫ると、まず事代主神は服従して、その後に「建御名方神」が現れ、力競べで「建御雷神」に投げ飛ばされ、科野国(しなののくに)の州羽(すは)の海まで逃げて、命乞いして、ここからはどこへも行かないと服従を誓います。こうして大国主神の国譲りがなされます。
この話の大事なところは、まつろわぬ神「建御名方神」に対して「建御雷神」が力づくで制圧、諏訪に封じ込めて、大国主神の国譲りをさせていることです。ところが不思議なことに、この「建御名方神」の話は『日本書紀』(養老4年720撰)には全くなく、「建御名方神」も出てこないし、大国主の系譜にもいないということでこれまで大きな問題になってきたようです。
この「建御名方神」が諏訪神社、「建御雷神」が鹿島神社といわれてきました。(2)
諏訪については、持統天皇5年(691)8月使者を遣わし、大和の竜田の風神とともに信濃の「須波」・「水内」等の神をまつらせたことが初見の記事ということです。(3)
『古事記』とほぼ同じ頃の諏訪に関わる話になります。そこで普通には、「須波」「水内」の神は、「建御名方神」と見られているようですが、「諏訪の神」「水内の神」等とそのまま受けとめておくのが正しいでしょう。「建御名方神」は北陸から入ったのではといわれていますが、縄文文化以来の諏訪の神々の信仰に習合していくのは並大抵のことではなかったはずです。
持統5年の原因は、この年の大雨などの天候不順であると言われていますが、5月の詔で、この長雨が「朝も晩も政道に過失があったのではないかと考え、憂い恐れている」とし、公卿・百官に身をつつしみ、諸寺に誦経せよと命じています。そして、その前後に持統天皇は吉野に籠もり、一方広瀬大忌神と竜田風神をまつらせ、さらに竜田風神と信濃の諏訪と水内等の神をまつらせたわけです。恐れ謹み、辺境信濃の、更級・埴科でもなく小県でもない、諏訪と水内の神を祀っているわけです。
ところで、天武天皇は信濃国に特別な特別な思いをもっていたようで、信濃に副都を造ろうとして人を派遣し、束間温泉に行幸しようとして行宮を造らせています。天武天皇には、越の蝦夷対策、北信濃の渡来人の動向、新しく渡来の馬の文化への注目などがあったからだといわれています。(4)
しかしそのわりに、『日本書紀』の記述は、「是の地に都つくらんとしたまへるか。」「束間温湯に幸さむとおもほすか。」と今ひとつ確信がありません。
天武の後を継いだ持統天皇は、大津皇子の謀反事件などがあって天武の信濃への思い入れもすっかりなくなっただけではなく、信濃国のイメージも変わったのではないかと思われます。
その例になると思いますが、ヤマトタケルの伝承における『古事記』と『日本書紀』の信濃国の記述は大きく違っていて、驚きます。
『古事記』では、東征の帰り甲斐の酒折宮で休息し、「その国より科野国に越えて、すなはち科野の坂の神を言向けて、尾張国に還り来て」ミヤズヒメのもとに戻ったとしています。おそらく、諏訪や伊那を通ったはずですが、何もなく戻っています。
ところが『日本書紀』では、甲斐の酒折宮で「信濃国・越国のみすこぶる未だ化に従わず」として、碓日坂に向かいます。その碓日嶺で「吾嬬はや」といい、吉備武彦を越国に遣わし、ヤマトタケルは信濃に入ります。その信濃国では、「山高くして谷幽(ふか)く」「巌(いはほさが)しくして」、山神に苦しめられます。そして山神が白鹿になって現れますが、蒜で殺してしまいます。そのため道に迷い、白狗に導かれ、やっと美濃にでて尾張に還ります。これがヤマトタケルの不幸の始まりになります。
信濃国の山神が神聖な白鹿で現れたのを殺してしまうというのは、ただ事ではないエピソードです。古墳を考えると信濃国は安全地帯かと思われますが、いつのどういう状態なのか、不穏な地帯だったということなのでしょうか。この『日本書紀』のイメージは大変重要だと思います。
この後養老5(721)年から天平3(731)年まで、信濃国を割いて諏方国が置かれています。なぜそうなったかについて諸説あるようですが、私は「諏訪の神」などを鎮祭することが大きかったのではと思います。
こうして大同元年(806)になってようやく祭神としての「建御名方神」(実際は「建御名方富命神」)が確認できるようになります。そして以降9世紀には異例なほどに神階昇叙し、貞観年間に従一位になり、『延喜式』では「南方刀美神社二座 明神 大」となります。祭神二座は健御名方とその后神八坂刀売神であるとし、現在の諏訪大社に継承されているとしています。(5)
それでは、まつろわぬ神「建御名方神」を制圧し、諏訪に封じ込めて、国譲りを完成させた「建御雷神」はどうなったか。
『延喜式』信濃国四八坐には、「建御雷神」を祀っているはずの鹿島神社は全くありません。「建御雷神」を主神とする神社もありません。合祀している神社は一、二ありますが、「武甕槌命」も「武雷神」も「タケミカヅチ」の神は式内社に入っていないという不可解な状態になっています。
それどころか、鹿島神社や「タケミカヅチ」を祀る神社は、諏訪を巡る地域にしっかりと制圧した神としても祀られてもいません。摂末社や小社、小祠が多く、近世・近代に合祀されて表面上なくなっていて、ここ信濃国では冷遇されているとしか思えません。
分布図を見ると、諏訪から伊那にほとんどありません。安曇野から犀川流域に集中しているのは、信濃国の古墳地帯をさけているか、その勢力に追い立てられたかのようです。信濃国の弥生文化とそのうえに発展した古墳文化は、千曲川水系と天竜川流域に集中しているといわれていますから不思議な感じがします。(6)
以下は諏訪と鹿島が仲良く並んでいる神社です。
24信州新町牧野島の真喜神社は、もと諏訪大明神といわれ、寛政元年(1789)に現社号になったといいます。祭神は「健御名方神、八坂刀売命、経津主命、建甕槌命」の四神です。祭神として諏訪と鹿島香取が並んでいます。
43・44北安曇郡小谷村の二つの諏訪神社は、どちらも境内社として「鹿島様」を祀っています。51南安曇郡梓川の諏訪神社も境内社に「鹿島社」があります。
68諏訪郡下諏訪町の諏訪大社秋宮にも、境内社の「鹿嶌社」があります。
18上水内郡信州新町水内の「建御名方富命彦神別神社」は、式内社論社の一つですが、祭神は「彦神別命」、相殿が「建御名方命、八坂刀売命、神八井耳命」、境内社に「鹿島社」があり、明治41年には別な無格社「鹿島社」をも合併しています。
37小県郡芳田村の場合は明治の初年のことですが、「諏訪社・鹿島社合社」となっていて、後に吉田神社に合併されています。
以上、諏訪と鹿島が一緒の神社も不思議な感じがしますが、ここには『古事記』に対応する話が伝承されてもいません。実はこればかりでなく、鹿島神社関係では『古事記』の話に対応する伝承がほとんど見つかりません。
あったのは、隣りの山梨県の資料『甲斐国誌』(文化11年1814)でした。
白州町大武川(北杜市)の諏訪明神の所に、「社記に曰く、上世建御名方の命出雲の国より此の地に至り、武甕槌命と誓ひを為し、始めて和議調ひし処なり。川を隔てて東南の方諏訪領上蔦木村に武甕槌命の旧跡あり。」とあり、「鹿島石 上蔦木村に武甕槌命の旧跡あり」とし、この「鹿島石」は「齢石」ともあり、「奇なる巌窟あり・・・巌窟中央より清水湧出」とあったのです。(7)
ここから調べて、69諏訪郡富士見町落合上蔦木の「鹿島明神」を発見しました。
しかし、これがまた『町村誌』ではすんなり見つからなかったのです。落合村の神社の項には見当たらず、地名で「鹿島平」があり、寺院の項で「鹿島山三光寺」、その中にようやく「鹿島明神」の名が出ているだけでした。
「鹿島山三光寺」はわりあい大きな禅宗の寺です。この地は元甲斐の領地であったところ、武田信玄の先祖が僧となり一堂を営んだことから始まり、元禄ごろ鹿島山下の鹿島平に再興されたとあります。ちょうどこのあたりから、甲斐国へ急な坂を下るところにあたります。寺の背後にあたる鹿島山からは、東南はるかに富士山が眺めることができるはずでしたが、木が茂りすぎて実際の眺望はありませんでした。
鹿島山を背後に回り込んだところが、縄文の遺跡として有名な井戸尻遺跡で、井戸尻考古館と歴史民俗資料館が並んでいました。ここで資料をもらって、神社の位置を教えてもらってようやく「鹿島明神」にたどり着けました。なお、ここの縄文土器は、蛇・みずち・龍・蛙と月などの模様があり、出産絵画のあるものも有名です。また富士山は、ここからは高く聳える姿が奇麗に見えます。おそらく縄文時代には火を噴いたり、噴煙がたなびいていたはず、縄文人が富士に向かって祈りをささげる場ではなかったかと思われます。鹿島信仰と何らか関係がありそうな気もします。
井戸尻遺跡から鹿島山の裾を下る途中で、細い山道を登り、鹿よけの網などくぐり抜けると、小さな神社にたどり着けました。地元の資料では、「無格社鹿島明神 祭神武甕槌命 氏子百余戸」とあり、「巌窟中央より清水湧出してその閑静云ふも更なり。産婦のために水を汲みし伝説ある『齢石』の故事あり」とありますが、神社の背後に大きな岩があり、祠が三つならんでいました。安産に関わるところが重要です。
絵図など見ると、ここには「かしま森」とあり、山は「鹿島山」、寺のあるところは「鹿島平」とあって、かってはかなり大きな「鹿島」の地があったのでは思われます。神祭りの場としては言うことない絶好の場所、しかし今は小さな「鹿島社」(鹿島明神)があるだけになっています。(8)
しかもこれを、「建御名方神」の押さえとして配置されたとするのは、いささか無理な気がします。ここはこれだけで「鹿島明神」を祀る独自な場になっていると思われます。 信濃国の鹿島神社は少ないとはいえ、重要な位置に祀られているような気がしますが、『古事記』のタケミカヅチにはどうやら対応していない祀られかたです。
4 鹿島槍ヶ岳について
「鹿島槍ヶ岳」は、長野県と富山県の県境にある標高2,889.7mの山。最も高い「鹿島」地名の山です。南峰と北峰よりなる双耳峰で、眺望は開けているので、東・東南方面に浅間山や富士山が見えるようです。登って確かめていませんが、富士山もかっては火をふく山でしたから、浅間や富士の方面からのご来光は荘厳なものであったでしょう。富山県では、立山山頂からみると、ちょうど夏の太陽が「鹿島槍ヶ岳」付近から上るので神職が特別な敬意を込めて「御影ケ岳」とよんでいたといいます。(9)
『角川日本地名辞典』によると、「鹿島槍ヶ岳」という名は、「ふもとの大町市の鹿島集落に由来するもので、『信府統記』によれば『鹿島山となずけたるは昔し鹿島明神出現ありしとて此所に祭りしより今に此名あるなり』とある。そして大正初期に陸地測量部の5万分の1地形図が作られる際に、南の槍ヶ岳に対して鹿島の槍ヶ岳と称したことに始まるとされている。長野県側では古くからこの山には背比べ・鶴ヶ岳・羚岳(ししだけ)の名があった。・・・富山県側では後立(ごりゅう)山と呼ばれていたらしい。」などとあります。どうもすっきりした話になっていません。
『信府統記』は、享保九年(1724)に成立した「信濃における地誌として最も完備したもの」と言われています(10)。つまり、「鹿島槍ヶ岳」の名に関する一番古い記録ということになりますが、ここには各所に「鹿島山」が登場します。
まず「鹿島川」、「水上は野口村より北に当て、鹿島山と云ふあり、其奧より出て、野口村の西南にて高瀬川へ落合ふ、鹿島山と号することは昔鹿島明神出現ありしとて、此所に祭りて、今に其名あり。」とあります。ここに「鹿島山」が出て来て、その奧から高瀬川に合流するまでを「鹿島川」と呼んでいます。「鹿島明神」に関しては、出現した時期を「昔」としています。(11)
別なところでは、「田村将軍・・・大同元年(平城天皇の元年なり)鬼賊退治あり、此時鹿島大明神に祈誓ありし故、大明神示現、直に神託あり、山中騎戦叶ふへからす、馬をは悉く麓に置へきよしを命せらるに依て、馬とも?き置ける所、今の駒沢なりと云ふ。」
ここでは坂上田村麻呂に関わって、「大同元年」に「鹿島大明神示現」とあります。(12)
「大町組借馬(かるま)の内鹿島村と云ふ所の山に、大明神を祭られ、宮柱太敷立しとなり、社人鹿島神太夫と云ひしとかや、神領の山として、天狗沢の岸よりたいら川辺まての中にて、木を伐鳥井等建立と云云」。(13)
ここでは「社人鹿島神太夫」「神領の山」という表現が出ています。組織的な鹿島信仰とその信仰のお山ということだと思います。
山に関しては「奥山回り」として、「大町与 鹿島山廻り 鹿島 長九郎」が出て来ます(14)。さらに橋を架ける際の木に関して、
「大町組橋数大小八十八カ所
橋三カ所 借馬村
此橋木鹿島山より出し、所人足にて掛る、
橋三カ所 木崎村
此橋木鹿島山より出し、借馬村より青木村まての人足にて掛る、
橋二カ所 森村
此橋木鹿島山より出し、所人足にて掛る」(15)
とあります。借馬村・木崎村・森村までの橋というのは、糸魚川街道までの橋ということでかなり広い範囲になります。その橋の木を、「神領の山」から切り出して改修するということのようです。
橋というのは、渡しの場でもあり、神祭りの必要な神聖な場です。「鹿島」は渡しに関係していましたから、これもそうした意味だと思われます。大町温泉に「鹿島大橋」というのがありますからこれも同じかも知れません。
「鹿島大明神」のところでは、「当社は常陸の国鹿島勧請のよし、年代知れす」ともあり(16)、享保段階で「年代知れず」としているほど古い時代の事としています。
先の田村麻呂伝説に関連しては、「将軍都に上り給ふ時、跡に等々力(とどろき)玄蕃允と云ふ者を残し置れけるとなり」(17)とあり、これは安曇野市穂高等々力の等々力城主につながる伝承と思われます。等々力城跡にも鹿島神社があり、中世には武田信玄配下の仁科氏被官となっていました。この鹿島神社についても、『信府統記』は、「当社は古へ保高の神社造立の節鬼門守護のため勧請ありしと云伝ふ、縁起知れず」(18)としています。穂高神社と共に作られたとありますから、やはり平安時代の初めにさかのぼる話です。
なお、大町市の借馬に、弥生から平安時代まで続く集落遺跡の借馬遺跡があります。
ここでは住居跡68件、建物跡30軒、遺物の量も膨大な、広大な集落跡といわれます(19)。安永2年(1773)の吉沢好謙『信濃地名考』によると、「野口の奧鹿嶋入りといふも、借馬同じ地名成べし」(20)といいますが、借馬が「鹿島」の可能性は大きく、ここには大きな「鹿島」地域があったのではないかと思われます。
明治35年(1902)初版の吉田東伍『大日本地名辞書』では、「鹿島岳」という項目をとり、「信越の州界に当り、槍が岳とも云ふ、・・・」とあります(21)。やはり主なる名前は「鹿島岳」ですから、「鹿島山」のことです。「鹿島の槍ヶ岳」ではありません。
ところで、ここにある「槍が岳」の地名や、『角川日本地名辞典』のいう「長野県側では古くからこの山には背比べ・鶴ヶ岳・羚岳(ししだけ)の名があった。・・・富山県側では後立(ごりゅう)山と呼ばれていたらしい。」について、いつのどのような資料にあるのか調べてみましたが良く分かりません。
以上の名前があったにしても、地名は複数あることがしばしばですが、「鹿島山」を否定するほど古い記録にある地名なのかが問題となります。
『大町町史』は、明治37年刊『新撰仁科記』の「天災地変史」を引用し(22)、天文3年(1534)の地震の際鹿島川が氾濫したため、常陸国の鹿島明神を勧請して、「鶴ヶ岳を改めて鹿島大岳と云ひ、駒沢川を改めて鹿島川と云ひ、駒沢村の牧場を改めて鹿島と云ひ、・・・同時に大町若一王子社内、及宮本神明宮内にも鹿島明神の小祠を設けたり」といっています。
宮本神明宮末社の内に鹿島明神のあることは『信府統記』にもありますが、天文3年の地震に関わる話はなく、大町若一王子社の末社の記載もありません。これほど大きな被害とその後の改名が享保年間の地誌に記録がないのは不可解です。そうして過去の地誌などに全くふれることなく地震による改名を記すのも分からない話です。
『新撰仁科記』というのは長野県では信頼できる地誌・歴史書なのでしょうか、これに続いてなかなかおもしろい記述があります。
「抑我信濃国は諏訪明神開拓の地と称せられ、国中大小の神祇幾千百坐あり、然れども鹿島明神を祭るは、諏訪明神の神慮にあらずと称し、諏訪社家の故障あり、試に信濃全国の神社調を見よ、我郡の鹿島社の如きもの一坐だもあらず、我郡中村社百余坐中、諏訪社殆ど半数を占む、然るに山川にまで鹿島の名を冠するを思へば、此の震災の影響甚大なりしを知るべし、蓋当時戦国の世にして諏訪社家の聞知せざりしに由るか、将社家の承諾を得て山川の地名まで変ぜしか、今知るに由なし。」
信濃国は諏訪明神開拓の地であるから、諏訪明神の神慮にあらずとして鹿島明神などは1社もない、それを山川にまで「鹿島」の名をつけるのは諏訪社家が知らなかったのか、承諾を得たのか、というわけです。『古事記』では「まつろわぬ神」として制圧され、命乞いした神の方が、制圧して諏訪に封じ込めた神に対して居丈だけになっていて、これまた明治にできた書としては勇ましい書です。ところが困ったことに、『富山大百科事典』などはこれに全く従った地名説を書き、『日本歴史地名大系』もこれに引きづられた説明をしています。
私は「鹿島明神」「鹿島神社」の神と「建御雷神」「タケミカヅチ」の神とは別物ではないかと疑ってきましたから、この記述はなかなかおもしろいと思いましたが・・・。諏訪明神が威張って鹿島神社を排斥するのは、『古事記』の記述からすると転倒した歴史意識です。まさか「まつろわぬ神」の地信濃国という主張でもないでしょうから。
5 信州新町周辺の鹿島神社
分布図を見ると、「鹿島神社」が犀川筋、とりわけ長野市信州新町を中心にした一体にに集中しているように思われます。
当初から地名「鹿島」と「鹿島立」がありましたが、「鹿島神社」はなかなか見つかりませんでした。やはり『町村誌』を見て、「鹿島川」を見つけ、小社をいくつか発見したことがきっかけです。『小川村史』『信州新町史』ばかりでなく『式内社調査報告』や『長野県史 民俗編』からもいくつか発見できことは驚きです。
現地も行きましたが、観光案内や町の表示にはなく、お店の名前に「かしま」があった程度で、最寄りのところで聞いてもわからないようでした。
「鹿島」「鹿島立」は小字一覧のものですが、『町村誌』にもあり、現在の「鹿島地区」と思われます。
「鹿島川」は、現在は大田(だいた)川と呼んでいますが、「源を山穂刈村萩野池より発し、山穂刈村、本村(越道)、山上條村を東流し、信岡村に至り、犀川に入る」としています。信州新町越道の奧に発し、信州新町新町で犀川に合流するまでのようです。全国の「鹿島」地区には11カ所ある地名ですから、「鹿島」信仰の根強い地域の特徴の一つと考えて良いと思います。(23)
この流域の信州新町越道に、『町村誌』によると「鹿島社 雑社」が14、15と二つならんでいました。さらに信州新町山上条にやはり雑社の「鹿嶋社」16、17が二つならんでいました。現在は違う名前の神社に合祀されているようですが、『町史』は合祀経過を記していないので、厳密にはわかっていません。
信州新町新町の「鹿島」地区には、『町村誌』に「鹿島社 雑社」がありました。「鹿島」地区にある「旧村社 神部(とものを)神社」にてっきり合祀されているものと思いましたが、『町史』には書かれておらず、神社にいってみても分かりませんでした。消えてしまったのかという感じです。
信州新町は11社あり、信更町1社と南の大岡2社も関連する地域です。北を見ると、上水内郡小川村9社も関連しそうな分布を示しています。
信州新町水内の18健御名方富命彦神別神社は、すでに一度触れていますが、境内社に「鹿島社」があり、明治41年には別な無格社「鹿島社」をも合併しています。
この神社の由緒では、「創立年月日不詳なれど、本社は諏訪本宮と同じく神代の鎮座にして水内神と称せり。これ地名に権与したる処にして大古奇石を奉安し御霊代として斉き奉れり。持統天皇紀に所見の水内神にして・・・此時暴風雨鎮静祈請為め薙鎌に鉾を添へ幣として捧げられたものが神宝として現存す。」(24)などとあります。
式内論社の一つですが、社地を中心に「斎宮遺跡」があり、縄文・弥生・古墳・歴史時代の遺跡が重層している(25)ことで、注目すべき神社といえます。
信州新町周辺に広く残る伝承は、古代に関しては不詳、中世に牧野島の城主香坂氏が広く牧を経営していたといわれています。牧にちなむ地名、神社名がたくさん残っています。牧田中の25「鹿島社」の由緒では、「牧野島の城主香坂小太郎入道心覚、城の四周のの鎮護神として奉祀せらる。小太郎の祖先承久の乱に北条氏に属し軍功あり。執権の命にて更級郡にて七牧、即ち、南牧、中牧、牧田中、牧野島、須牧、牧原、北牧の地を賜り牧官として牧野を司る。」とあります(26)。
「鹿島社」自体が牧の鎮護神とされています。馬牧との関係は、全国的にも何ヶ所も確認しています。
上水内郡小川村の「武生八幡宮」は、配祠11神のなかに武甕槌命がいて、さらに明治42年の合祀14社の中に「鹿島社」と武甕槌命2社が入っています。次の由緒が関係しているわけではありませんが、この地域の伝承の古さを示すものでしょう。
「景行天皇四十三年日本武尊東征の際部将吉備武彦を遣はして越後方面の賊を征せしむ、武彦久米路を渡り越道を経て竹生に入る。長途の疲労を休め後鬼無里戸隠を経て越後に入る。」後に武部の府を置くとあります(27)。
ヤマトタケルの命により越国に遣わされた吉備武彦が、この地を通って戸隠を経て越に入ったというのがおもしろい伝承です。まさにここが征夷の前線であった(いつのことかは不明ですが)ことを示しています。
『町村誌』北信編は、どの村々もたくさんの小祠・小社を「雑社」としてあげています。
「越道村」は「村社」1、「雑社」21社で計22社も1村にありますが、「鹿島社」は2社で、「八幡社」4社、「飯縄社」3社が多い神社になります。「山上條村」は「雑社」37社ですが、「天白社」が1番多く8社、「鹿嶋社」2社、「伊勢社」2社、他は1社ばかりです。
「鹿嶋社」が多いとはいえ、1村ごとに見ると必ずしも多いわけではありません。「鹿島川」の地名があり、犀川べりに「鹿島」地名を残していますから、鹿島信仰が古い時代に強かったことはうかがわれますが、他の神社との関係を細かく見ていかないと真相はつかめないだろうと思います。
ただ近代にこうした小社、雑社が整理されていく中で、「鹿島神社」がほとんど表面上分からなくなってしまったというのが、この地域の特徴です。
6 木曽の鹿島神社
木曽郡には4カ所の「鹿島神社」がありました。地名は大桑村須原の「鹿島」「鹿島林」と野尻の「鹿島平」で、「鹿島山」と同じような地名とみられますから、古くからの鹿島信仰を感じさせる土地です。
地名辞典は、角川、平凡社の大系ともに、中世小木曽荘の地頭になった常陸国の真壁氏が勧請したものと述べています。(28)
『日本の神々 神社と聖地9』に長野県ではただ1社載っている須原の「鹿島神社」の解説でも、「また明治9年の『大桑村史』は『鹿島社。常陸国武甕槌命を祭る。神護景雲年間の創建なり』と記している。・・・神護景雲年間の創建とあるが、近村の旧荻原村(現上松町荻原)、旧野尻村(現大桑村野尻)にも鹿島社があることからして、3社とも常陸国の豪族で小木曽荘の地頭となった真壁氏によって勧請されたものと思われる。」としています。(29)
小木曽荘は、鎌倉時代の終わりごろから南北朝期に見える荘園で、常陸国の豪族真壁氏が地頭となり、一族には木曽谷に土着した者もあったとされています。また真壁氏は陸奥国蜷河庄(福島県会津坂下町周辺)の地頭にもなっていますが、「また、両庄の故地には、鹿島社が現在でも祀られており、常陸国の真壁氏の名残をとどめている。」(30)としています。私は、福島県下の「鹿島神社」も調べましたが、該当しそうな神社はあります。ただ福島県の「鹿島神社」はかなり多いので、そこから逆に真壁氏と言えるかどうかは疑問と思っています。
何よりこの真壁氏勧請の説は、神社の伝承にないことが最大の問題です。
『大桑村の神社 調査報告書』(31)が、野尻と須原の「鹿島神社」などについて興味深い神社の資料を紹介しています。
野尻の「鹿島神社」は、「鹿島平」にありますが、祭神は「宇賀魂(宇賀神)―宇迦之御魂神―」となっています。「宇賀神」「宇迦之御魂神」は龍蛇神ですから、本来の「鹿島」の神を示しているものかも知れません。
神主さんの話として、「このお宮の御神体が盗まれ、群馬県の安中のお宮に納まっており、安中でも木曽の野尻からお移しした神様だといっているそうである。」と紹介されていますが(32)、安中には確かに中世の鹿島神社があります。
同じ野尻の須佐男神社の祭に謡われる御輿古歌は、
「 一、京の町のおくりに
まむしなんぞはきりたって
あゝ三郎三郎金三郎
金よりつばさは、お宮のかしま
ちょうさや、ぼうさや。
二、からす城の子馬には
にしきじょうのくらをおき
くつわのくつわの大ぐつわ
こまにかまして、かまして
そうすれば、じいねんの
あゝ三郎三郎金三郎
金よりつばさはお宮のかしま
ちょうさや、ぼうさや。
三、鹿島のしょうじゃく
しょうじゃくはやれやれ
なんで人の心は
すんずりもんずりゆうごうて
かたびらはかたにかきょ
仰ぎょは、天の鹿島
ちょうさや、ぼうさや。 」(33)
ほぼ同じ神歌が、「鹿島神社」に絵馬などと並べて掲げられてありました。歌詞の意味は分からないのですが、一番では「まむし」が出て、二番では「子馬」が出て、三番は「鹿島神社前を御輿が御通過の時のみこれを歌うを例とした。」とあります。まさに「鹿島」の神を讃える神歌です。
正徳5年6月18日、長雨のため天王洞が崩壊して山津波が起こり、社殿・御輿などを押し流してしまったので、翌年享保元年2月に古宮から遷座しました。この地方で言う「蛇抜(じゃぬけ)」です。これと前後してはやり出した歌「江島節」が野尻宿に定着したものと解説されています。(34)
須佐男神社は八岐大蛇退治で「蛇(じゃ)」を退治する祈りが込められていたのかも知れませんが、歌は「鹿島」の神への歌です。「蛇」を鎮めるのは本当は「鹿島」の神であったわけです。
須原の「鹿島神社」は、「現在、本殿及び境内に合祀される主なる祭神」11神をあげていて、その内3社が「武甕槌命」です。「神社名」と「祭神」と併記されていますが、
「 世願 武甕槌命(地主の神)
熊野権現 武甕槌命(地主の神)
鹿島神社 武甕槌命(源礎の神)
香取神社 経津主之命 」(35)
( )内は昔からの言い習わしなのか、調査者の解釈か、わかりませんが、「鹿島神社」と「武甕槌命」がどうやらこの土地の大元の神ということを意味していると思われます。
由緒は「口伝によれば、当鹿島神社の鎮座は人皇四十八代称徳天皇の御代神護景雲二年(七六八年)六月二十一日というが明確でない。」としていますが、安永2年の「吉蘇須原駅鹿島大明神祠沿起」(原漢文)と明治14年「信濃国西筑摩郡木曽須原駅鹿島神社由来沿起」を全文載せています。(36)
前者は「其の地に一祠あり、鹿島大明神を祀る、其の創建何代を知らざるなり。伝に云ふ、昔常陸州に時風秀行なる者あり。二人協心勠力神体を奉じ春日山に赴く。その後時風春日山に止り、秀行は此の地に帰任す。因り以て奉祀すと云ふ。是を以其子孫祠官となり、永世秀の字をもって名となし、須原をもって氏とす。」とあります。後者は、明治のものですから創建を「神護景雲2年」などと明確に記し、春日遷幸の話など分かりやすくしています。
しかし、重要なことはこの二つの縁起には「真壁氏による勧請」の話が全くないことです。
水害火災で貴重な文献が失われているとありますから、やむを得ないとも言えるかも知れませんが、神社草創の縁起ならば口頭の伝承が何らかあるはずと思われます。
二つは「鹿島」の神の春日遷幸に関わる伝承で、東京と滋賀県で同様な伝承を持つ鹿島神社がありますから、荒唐無稽と断ずるのは早すぎます。やはり土地の伝承の断片をていねいに集めて、考えていくべきものでしょう。
また宝暦七年(1757)の『木曽志略』に「古へは松本領洗馬村より大豆五斛を献り神事に資す、今は復た納めず」とありますが、洗馬村(塩尻市下小曽部)には地名「鹿島ノ森」があり、63「鹿島神社」があります。ここは平安時代に洗馬牧があり、洗馬庄になったところです。馬牧の関係ではないかと思われますが、やはり古い由緒をしのばせる話です。(37)
なお、大桑村長野の伊奈川神社は、祭神素戔嗚尊としながら本尊弥勒菩薩他の仏を社宝としています。これは神仏習合の時代のものですが、古い寺の本尊が弥勒菩薩であったようです。
この境内神社に「椎河脇神社」があり、「ききなれぬ名の社名であり祭神も分からないが」と記しています(38)が、静岡県天竜市の鹿島山に同名の神社があります。「鹿島」と関わる神社であることは確かです。
もう一つ、同じ伊奈川の井出八幡神社も「祭神弥勒菩薩(五体)」とあり、「子どもたちに弓で射られ、なたで切られ、ひっぱりまわされた御神体の、丸太のようになった仏像。」の写真が出ています。(39)
ここでは弥勒信仰が「鹿島」と隣り合わせにあることに注目したいと思います。案外もう少し古い鹿島信仰の痕跡かも知れません。
7 その他の鹿島神社
小諸市の「鹿島神社」は、現在は小諸城址の懐古園内にあります。しかしこれは1949年に移転したものでした。もとは小諸城外郭に「鹿島曲輪」があり、そこに「鹿島山」があって、40「鹿島宮」があったものでした。その周辺が、「鹿島裏町」、「鹿島表町」とよばれていました。小諸築城の際(武田氏など諸説あり)勧請したとのことです。
現在はすっかり「鹿島山」「鹿島曲輪」を堀り崩し、駅前の市街地になっています。その際、神社跡から古墳が発見され、駅前ロータリーに巨大な蓋石が保存されています。
小諸は、北国街道が千曲川にぶつかる要衝の地、ここに小諸城が築かれ、城の鎮守として「鹿島神社」がもともとの土地神として祀られたのではと思われます。(40)
上田市には「富士山」が2カ所あります。
一つは、「富士山(ふじやま)」地区の「富士岳山」(1,034.3m)、この山頂で雨乞いをしたとあり、かって石造多層塔「弥勒仏塔」(おみろくさま)があったが、現在は麓の西光寺にあるといいます。西光寺に接して白鬚神社、明治11年に38「佐加神社」と改称した神社があります。祭神が猿田彦神、経津主命、武甕槌命(健雷命)です。(41)
もう一つはその少し西、野倉に「富士山」(1,029.4m)があります。字山ノ神峯には雑社39「雷神社」があり、祭神は健雷命です。(42)
「富士山」は新しい地名かも知れませんが、意外に各地で見つけます。地名辞典を引いても触れていないことが多いので、富士信仰の古い歴史があるのではと思っています。富士信仰と鹿島信仰、弥勒信仰のつながりは、静岡県富士市の「賀島」でもありました。
佐久市協和の42「鹿島太神」は、『町村誌』によると地名「鹿島」があり、神社は「社」の項にはなく、「彦狭島王墳墓」がこんな所にあり、この記述に続いて「又古へ鹿島社あり。・・・享保中樹を刈り、田をなし、吏人某死し、爾後鹿島社を王宮神社の傍に併す。」とあります。景行紀55年の彦狭島王が亡くなった「春日穴咋邑」がここだというわけですが、別なところにあった「鹿島社」を傍らに併せたということです。魔除けの意味でしょうか。
「彦狭島王墳墓」と称する墳墓はインターネットによると群馬県には3カ所あると言うことです。それはともかく、隣の春日温泉などの春日地名は奈良の春日神宮以前の春日を偲ばせるものかも知れません。
ここは古東山道の道筋とも言いますから、「鹿島社」「鹿島太神」も古いものと見ることができそうです。(43)
最後に飯田市松尾の「鹿島踊り」を紹介しておきます。
『長野県百科事典 増補版』によると、「推定300年以前から伝わる古典的な神楽の型をもつ芸能。7年に1回大宮諏訪神社の式年祭『おねり』に出演。」とあり、「約300年前から伝わるという古典的な鹿島踊り」の写真があります。(44)
静岡県島田市のものが「鹿島踊り」の西のはずれとされていたと思いますが、長野県天竜川沿いのものは珍しいのではないかと思われます。
8 まとめ
長野県では諏訪信仰が圧倒的であることから、まず『古事記』の「建御名方神」と「建御雷神」(武甕槌命)に焦点を当てて、鹿島信仰からうかがえる状況、「鹿島神社」が式内社にも入っていない、冷遇された状態を指摘しました。富士見町の「鹿島山」などは鹿島信仰の絶好の場でしたが、小さな社があるだけでした。ただ産婦のための清水は、鹿島の神の本質に関わる伝説と思われます。
そういえば『梁塵秘抄』の有名な「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮」の詞章、軍神として「鹿島香取諏訪」が並んでいますが、信濃国では違ったようです。ここでいう「鹿島香取」は鹿島神宮、香取神宮だけのことで、そこらの「鹿島社」「香取社」を指すのではなさそうです。
「鹿島槍ヶ岳」とその麓の「鹿島」も、鹿島信仰にとっては大変重要な地域と思われました。本文では触れませんでしたが、「双耳峰」というのも、筑波山(鹿島山の呼称もあった)やいくつかの島に類似点があり、今までの情報を整理する必要を感じています。
ここでは現在の地名研究や『町史』に疑問を呈しました。
信州新町周辺の「鹿島」は、地名だけを残して、神社は併合されてしまって、ここになぜ「鹿島」が集まっていたのかが分かりにくくなってしまいました。川と陸路の交通の要衝ですが、舟行、渡し、馬産といったところが浮かんできます。
木曽の「鹿島神社」では、中世真壁氏の勧請説を批判し、神社の伝承などからもっと古い由緒と信仰の痕跡を指摘しました。野尻の祭神宇賀神も重要でしたが、大桑村では神社で弥勒菩薩を祀っているというおもしろいところが見られました。「神護景雲2年」の創建伝承も無視できないものがあり、全国的に見ていく必要があります。
最後に、小諸市の「鹿島」地名と「鹿島宮」、古墳があったというのは他にもいくつかありますから、時代を推定する材料にはなります。
上田市では、富士信仰と弥勒信仰と関係しそうな神社二つを紹介しました。
佐久市の「鹿島神社」は、「彦狭島王墳墓」と関係した話ですが、他にも「聖墓」といわれる墓に「鹿島之神」を祀るという話がありますから、伝承をもう少し調べる必要がありそうです。
飯田市の「鹿島踊り」も未調査のままです。大きな課題になりそうです。
長野県でも調べきれないものがたくさん残りました。ただ全国を見ていると、いろいろ似たものが見つけられるようになってきたと言えます。そこから鹿島信仰の実際の様相が分かってくるはずです。
9 神社と地名の一覧
|
神社名 |
所在地 ( )内は現在地名 |
祭神 |
備考 |
出典 |
歴博 |
1 |
鹿嶋大神社 |
上水内郡戸隠村栃原 (長野市戸隠栃原) |
A |
橡原御厨神明宮摂末 |
歴博 |
1241 |
2 |
鹿島社 |
上水内郡泉平村素桜 (長野市泉平) |
A |
泉平神社摂末 |
歴博 |
1240 |
3 |
鹿島宮 |
上水内郡塩生村新分市(長野市塩生乙) |
A |
八幡神社摂末 |
歴博 |
1243 |
4 |
鹿島大神宮 |
上水内郡(長野市七二会五十平) |
|
飛龍神社境内社 |
県史 |
|
5 |
鹿島神社 |
(上水内郡小川村瀬戸川 ) |
A |
古山神社摂末 |
村史 |
1242 |
6 |
鹿島社 |
(上水内郡小川村 高府) |
武甕槌神 |
無格社 m.41小川八幡神社へ合祀 |
町村誌 |
|
7 |
武菅鉾神社 |
(上水内郡小川村高府字菅沼) |
A |
無格社 m.41小川八幡神社へ合祀 |
調査報告 |
|
8 |
八幡社 |
(上水内郡小川村瀬戸川字芋の沢) |
武甕槌神 他2 |
m. 41小川神社(奥宮)へ合祀 |
調査 報告 |
|
9 |
馬曲神社 |
(上水内郡小川村瀬戸川) |
鹿嶋神他2 |
|
村史 |
|
10 |
鹿島社 |
(上水内郡小川村瀬戸川字女尾) |
A |
住吉神社境内社 m.41瀬戸川神社へ合祀 |
村史 |
|
11 |
稲丘神社 |
(上水内郡小川村 稲丘) |
A他 |
元は大姥社配祀 m.41合祀 |
村史 |
|
12 |
鹿島社 |
上水内郡越道村(長野市信州新町越道) |
A |
雑社 |
町村誌 |
|
13 |
鹿島社 |
同上 |
A |
雑社 |
町村誌 |
|
|
|
山穂刈萩野池~山上條~犀川 |
|
鹿島川(大田川とも) |
町村誌 |
|
14 |
鹿嶋社 |
上水内郡山上條村(長野市信州新町) |
武甕雷命 |
雑社 |
町村誌 |
|
15 |
鹿嶋社 |
同上 |
武甕雷命 |
雑社 |
町村誌 |
|
16 |
鹿島社 |
上水内郡信州新町上条(長野市) |
健御雷神 |
東宮宝鏡神社境内社 |
県史 |
|
17 |
鹿島社 |
上水内郡水内村字平 (長野市信州新町) |
A |
健御名方富命彦神別神社境内社 |
調査報告 |
|
18 |
鹿島社 |
上水内郡信岡村 (長野市信州新町) |
健雷神 |
雑社 |
町村誌 |
|
|
|
同上 |
|
鹿島 鹿島立 |
町村誌 |
|
19 |
高杜神社 |
(上高井郡高山村大字高井字大宮南) |
建御名方他13神の内A |
|
調査報告 |
|
20 |
鹿島社 |
上高井郡栃倉 (須坂市栃倉) |
甕槌命 |
村社 |
町村誌 |
|
21 |
鹿島社 |
更級郡(長野市信州新町竹房) |
|
武富佐神社境内社 |
町史 |
|
22 |
真喜神社 |
更級郡牧野島字宮田 (長野市信州新町) |
建甕槌命B他4 |
もと諏訪明神 郷社 |
町村誌 |
|
23 |
鹿島社 |
更級郡牧田中村 (長野市信州新町) |
A |
雑社 |
町村 誌 |
1238 |
24 |
真喜神社 |
同上 |
AB他2 |
村社 |
町村誌 |
|
25 |
鹿島社 |
更級郡(長野市信州新町弘崎) 字有林畔 |
|
字平岩和田石原神社に合併 |
町史 |
|
26 |
鹿島社 |
更級郡(長野市信更町灰原字大上) |
|
大上神社摂末 「鹿島さま」 |
県史 |
1237 |
27 |
鹿島社 |
更級郡大岡村佃見 (長野市大岡丙) |
A |
雑社 |
町村 誌 |
1239 |
28 |
鹿島之神 |
更級郡大岡村(長野市) 字池田 |
|
|
町村誌 |
|
29 |
かしま宮 |
更級郡東福寺村(長野市篠ノ井東福寺) |
武甕槌神 |
元禄十年無宮 村社 赤坂の渡し |
松代藩 |
|
30 |
鹿島神 |
更級郡(千曲市桑原大田原) |
|
田原神社境内社13社 寄宮の内 |
県史 |
|
31 |
かしま大明神 |
埴科郡西條村浅山口 (長野市松代町西条) |
建御雷神 |
元禄十年石宮 雑社 近くに香取社跡 |
松代藩 |
|
|
|
同上 |
|
鹿嶋 鹿嶋堰 |
町村誌 |
|
32 |
鹿島神 |
埴科郡西條村字中村 (長野市松代町西条) |
|
中村神社内祠 |
調査報告 |
|
33 |
鹿島社 |
埴科郡(千曲市倉科) |
A |
石井神社(倉科神社)末社 |
県史 |
|
34 |
鹿島社 |
埴科郡戸倉村 (千曲市戸倉) |
武甕槌神 |
柏王神社境内雑社 |
町村誌 |
|
35 |
鹿島社 |
同上 |
武甕槌神 |
水上布奈山神社境内雑社 |
町村誌 |
|
36 |
諏訪社鹿島社 |
小県郡芳田村字北沖 (上田市芳田) |
健御名方 A |
合社 のち吉田神社摂末 |
町村誌 |
1219 |
37 |
佐加神社 |
小県郡冨士山村字三門寺(上田市富士山) |
健雷命B 他1 |
もと白鬚社 弥勒仏塔富士岳の雨乞 |
町村誌 |
|
38 |
雷神社 |
小県郡野倉村字山ノ神峯(上田市野倉) |
健雷命 |
雑社 |
町村誌 |
|
39 |
鹿島宮 |
北佐久郡小諸町鹿島山(小諸市大手) |
武御雷命 |
郷社 小諸城築城の際勧請 S.24移転 |
市誌 |
1218 |
|
|
同上 |
|
鹿島山 鹿島曲輪 鹿島裏町・表町 |
市誌 |
|
40 |
鹿島大神宮 |
北佐久郡軽井沢村 (軽井沢町) |
|
|
角 |
|
41 |
鹿島 太神 |
北佐久郡協和村比田井(佐久市協和) |
|
現在 彦狭島王墓大宮社末社に |
穴喰邑考 |
|
|
|
同上 |
|
御鹿島田( 鹿島) |
町村誌 |
|
42 |
鹿島様 |
北安曇郡小谷村奉納 |
|
諏訪社境内社 諏訪社は白鳳2年創建の伝承 |
県史 |
|
43 |
鹿島様 |
北安曇郡小谷村千国 |
|
諏訪社境内社 |
県史 |
|
44 |
鹿島大明神 |
北安曇郡借馬村字鹿島(大町市平) |
A |
村社 昔シ鹿島明神出現アリシトテ祭シ |
信府統記 |
1236 |
|
|
同上 |
|
鹿島 鹿島川 鹿島山 |
信府統記 |
|
45 |
鹿島明神 |
北安曇郡宮本村 (大町市社宮本) |
A |
仁科神明宮摂末 |
信府統記 |
1235 |
46 |
鹿島社 |
北安曇郡池田町村 (池田町池田) |
A |
竈神社摂末 |
歴博 |
1234 |
47 |
鹿島社 |
南安曇郡(安曇野市穂高北穂高) |
A |
青嶋社摂末 |
村誌 |
1232 |
48 |
鹿島社 |
南安曇郡(安曇野市穂高) |
A |
穂高神社摂末 無格社 m.43境内へ移転 |
神社 |
1230 |
49 |
鹿島大明神 |
南安曇郡(安曇野市穂高等々力) |
|
穂高神社の鬼門守護 |
信府統記 |
|
50 |
鹿島社 |
南安曇郡梓川梓 (松本市) |
A |
諏訪神社摂末 |
歴博 |
1231 |
51 |
鹿島社 |
東筑摩郡(東筑摩郡筑北村坂北刈谷沢) |
A |
刈谷沢神明宮摂末 |
歴博 |
1222 |
52 |
鹿島社 |
(東筑摩郡麻績村日) |
A |
天白社摂末 |
歴博 |
1224 |
53 |
鹿島社 |
東筑摩郡麻績村本町 |
|
小祠 |
県史 |
|
54 |
鹿島社 |
(東筑摩郡生坂村) |
A |
八幡宮摂末 |
歴博 |
1223 |
55 |
鹿島社 |
東筑摩郡(安曇野市明科東川手字宮) |
A |
八幡宮摂末 |
歴博 |
1225 |
56 |
雷神社 |
東筑摩郡刈谷原村 (松本市刈谷原町) |
武雷神 |
無格社 |
町村誌 |
|
57 |
雷神社 |
東筑摩郡 (松本市取出) |
武御雷命 |
|
県史 |
|
58 |
鹿島神社 |
東筑摩郡 (松本市島内) |
|
|
マップ |
|
59 |
鹿島社 |
東筑摩郡(松本市旭1丁目4―8) |
A |
北深志総鎮守の岡宮神社摂末 |
歴博 |
1214 |
60 |
鹿島社 |
東筑摩郡(松本市深志3丁目7―43) |
A |
深志神社摂末 摂末に香取も |
歴博 |
1215 |
61 |
鹿嶋香取社 |
東筑摩郡塩尻村 (塩尻市塩尻町6) |
AB |
阿禮神社摂末 |
歴博 |
1221 |
62 |
鹿嶋神社 |
東筑摩郡洗馬村小曽部字長崎(塩尻市) |
A |
村社 S.40八幡と合併 小曽部神社となる |
市誌 |
|
|
|
同上 |
|
鹿島ノ森 |
市誌 |
|
63 |
鹿島大明神 |
西筑摩郡(木曽郡木曽町福島土塩渕) |
|
|
町史 |
|
64 |
鹿島神社 |
西筑摩郡(木曽郡上松町荻原) |
AB |
文明元年の棟札 |
町村誌 |
1226 |
65 |
鹿島社 |
西筑摩郡(木曽郡大桑村須原字鹿島) |
A |
村社 神護景雲年間の創建 |
大桑村 |
1227 |
|
|
同上 |
|
鹿島 鹿島林 |
大桑村 |
|
66 |
鹿島神社 |
西筑摩郡(木曽郡大桑村野尻字鹿島平) |
A |
中世真壁氏の勧請か |
村史 |
1229 |
|
|
同上 |
|
鹿島平 |
神社庁 |
|
67 |
鹿嶌社 |
(諏訪郡下諏訪町 武居) |
|
諏訪大社(下社秋宮) 摂末 |
日本の神々 |
|
68 |
鹿島明神 |
諏訪郡落合村(富士見町落合上蔦木) |
|
|
町村誌 |
|
|
|
同上 |
|
鹿島平 鹿島山三光寺 |
町村 誌 |
|
69 |
鹿島社 |
上伊那郡(伊那市高遠町長藤黒沢) |
A |
村社 |
町村誌 |
1220 |
70 |
鹿島社 |
伊那郡上飯田村 (飯田市上飯田) |
A |
郊戸八幡宮外摂末 |
歴博 |
1217 |
|
|
(飯田市松尾) |
|
鹿島踊り |
県百科辞典 |
|
71 |
鹿島社 |
伊那郡大河原村字青木(下伊那郡大鹿村) |
A |
村社 |
町村誌 |
|
*表の説明
1番左の番号は、通し番号。番号のないところは地名である。
「神社名」は、出典の神社名。
「所在地」は、出典の所在地名を記し、( )内は現在の地名。
「祭神」は、「武甕槌命」はA、「経津主命」はBとし、「たけみかづち」の別表記はそのま
ま記した。空欄は不明なもの。その他の神名は「他1」のように記した。
「備考」は、出典の由緒などの記述、その他『角川日本地名大辞典 20 長野県』(角
書店)、『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(平凡社)、県史・市町村
史などを参考にし、注目すべきことを記した。
「出典」は、「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研
究』1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」。
「調査報告」は、『式内社調査報告 第13巻 東山道2』(1976)。
「町村誌」は、長野県国史編輯局編『長野県町村誌』(明治17年)の昭和11年長
野県町村誌刊行会による活字本。第2、3巻は国会図書館デジタル資
料による。
「松代藩」は、「松代藩堂営改帳」(元禄10年)
「角」は、『角川日本地名大辞典 20 長野県』(角川書店)。
「信府統記」は、『信府統記』(享保9年)(『新編信濃史料叢書第6巻』)。
「日本の神々」は、『日本の神々 神社と聖地9』(白水社 1987年7月)。
「市誌」は、30は『小諸市誌 歴史篇3』(平成3年12月)、47は『塩尻誌第4巻』(平
成5年6月)。
「神社庁」は、長野県神社庁のHP>
「県百科辞典」は、『長野県百科辞典 増補版』(昭和56年3月)
1番右の欄の「歴博」は、「出典」の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号。
註
(1)矢崎孟伯「諏訪大社」(『日本の神々 神社と聖地 9』白水社 1987年7月)148頁
(2)『古事記』は主に岩波文庫本による。「建御名方神」の註に「長野県諏訪神社の祭神。」とある。「建御雷神」は「武甕槌命」とも書かれ「タケミカヅチ」のこと、ウィキペディア「タケミカヅチ」参照。ただし、本質的にはどうかという問題は別にある。大和岩雄「鹿島神宮」(『日本の神々 神社と聖地11』)参照。
(3)以下『日本書紀』は、主に小学館『新編日本古典文学全集』(1998年6月)を参照している
(4)『長野県の歴史』(山川出版社 2010年12月)43頁、佐藤雄一『古代信濃の氏族と信仰』(吉川弘文館 2021年8月)8頁など。
(5)前掲『古代信濃の氏族と信仰』を大いに参考にした。ただし、「健御名方神」にしても「建御雷神」にしても把握は異なる。特に「建御雷神」と藤原氏の関係で藤原不比等とつなげるのは無理があると思われる。
(6)前掲『長野県の歴史』29~33頁
(7)『大日本地誌大系 3』108頁
(8)『長野県町村誌』第3巻105、109~111頁、 諏訪史談会『諏訪史蹟要項十八 富士見町落合篇』(1954年)40~41頁
(9)『角川日本地名大辞典』、平凡社『日本歴史地名大辞典』ともに長野県と富山県を参照している。他に『富山大百科事典』(1994年8月)、『日本山岳ルーツ大辞典』(竹書房 1997年12月)、ウィキペディアなども参照した。
(10)前掲『日本歴史地名大辞典』の「文献解題」1038頁
(11)『新編信濃史料叢書』第6巻(1973年11月)121頁
(12)同上 358頁
(13)同上 359頁
(14)同上 529頁
(15)同上 550頁
(16)同上 426頁
(17)同上 359頁
(18)同上 425頁
(19)前掲『角川日本地名大辞典 20 長野県』375頁「借馬遺跡」の項
(20)『新編信濃史料叢書』第1巻 57頁
(21)『大日本地名辞書 五』739頁
(22)『大町町史』668~671頁。『新撰仁科記』は降幡?著、伊藤書店刊、132頁。国会図書館デジタルで見ることができた。
(23)「鹿島川」は大町市や千葉県佐倉市、佐賀県鹿島市など11カ所確認できている。なお「鹿島立」は地名としてはここだけである。
(24)『信州新町史 下巻』(1979年3月)1399頁
(25)前掲『日本の神々 神社と聖地9』「健御名方富命彦神別神社」(長野市長野字本城東)の解説付記298頁
(26)前掲(24)1410頁
(27)『小川村史』(1975年10月)1241頁
(28)前掲『角川日本地名大辞典』271頁・1406~7頁、前掲『日本歴史地名大辞典』546頁・548頁
(29)433~4頁
(30)『真壁氏と真壁城 中世武家の拠点』(河出書房新社 1996年6月)33頁
(31)長野県木曽郡大桑村教育委員会『大桑村文化財報告No.3』(1981年8月)
(32)同上 10頁
(33)同上 3頁
(34)同上 1頁・3頁、笹本正治『蛇抜(じゃぬけ)・異人・木霊―歴史災害と伝承―』(岩田書院 1994年12月)ただし大桑村の蛇抜から始めているが、鹿島神社の話はほとんどない。
(35)前掲(31)20頁
(36)同上 21~22頁
(37)前掲『日本歴史地名大辞典』548頁
(38)同上 44~45頁
(39)同上 47~48頁
(40)『町村誌』第2巻225~8頁、『小諸市誌 歴史篇3』(1991年12月)942~3頁、「寛文3年(1663)小諸御城内御絵図 (全体図)」、前掲『角川日本地名大辞典 20 長野県』315、1279頁
(41)前掲『町村誌』第2巻381~2頁、前掲『日本歴史地名大辞典』282~3頁
(42)前掲『町村誌』第2巻434頁
(43)前掲『町村誌』第2巻324頁、前掲『日本歴史地名大辞典』164頁、信州デジタルコモンズ「彦狭島王陵并春日穴喰邑之考 土屋直右門書上 写」(1872年)
(44)(1981年3月)157頁