古社の秘密を探る

2 岩手県の鹿島神社
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  神社名 所在地(現在の地名)   祭神 備考   出典 歴 
 1  武甕槌
神社
 (九戸郡軽米町山内) 
権現林
A  建久4年に祀り
慶長9年勧請 
 名鑑  
 2 鹿嶋大明神   伊保内村
(九戸郡九戸村伊保内)
    書上帳   
    同上    バス停「鹿島」     
 3 真部地
明神社 
 江苅村馬淵
(岩手郡葛巻町江苅)
鹿嶋大明神他1    書上帳  
駒形神社  (宮古市津軽石藤畑)  AB他1  馬を祀る  大系   
    (盛岡市下厨川)     「鹿島前」    
 5  鹿島
大明神社
 岩手郡栗谷川県土淵村
(盛岡市土淵)
   源頼義が祈願、勧請  郷村誌  
 6  鹿島
大明神宮
 岩手郡上田県新庄村
(盛岡市新庄)
 鹿島大明神  城内→後廃社  郷村誌  
    同上   「鹿島下・鹿島山」     
 7 鹿島
大明神宮
 (盛岡市内丸) 鹿島大明神  往古甲州より勧請   郷村誌  
 8 志賀理和気神社   (紫波郡紫波町桜町本町川原)  AB他5  田村麻呂が鹿島香取を勧請  神々
 
 9 鹿島神社   和賀郡東和町谷内
(花巻市)
 鹿島大明神 寛政7年の棟札   町史 11 
 10 鹿嶋社  胆沢郡上胆沢若柳村
(奥州市)猿山 
   於呂閉志神社内か
小祠
神々   
11  鹿島神社  (北上市鬼柳町上鬼柳満屋)    寛永18年建立  大系
 
     同上   「鹿島館」     
 12 鹿島
大明神宮 
 磐井達谷村堂ノ前
(平泉町平泉北沢)
   西光寺毘沙門堂宮跡 安永   
 13 鹿島社  磐井郡達谷村赤部
(平泉町平泉北沢) 
     安永  
 14 鹿嶋神社  東磐井郡黄海村字辻山
(藤沢町黄海)大明神 
A    安永
 
 
 15 鹿嶋社  磐井郡蝦島村鹿嶋
(一関市花泉町油島) 
   慶長6年勧請   安永  
     同上   「鹿嶋・鹿嶋御林」    
 16 鹿嶋社  磐井郡峠村藤田
(一関市花泉町老松) 
   運南社相殿 安永   
17 鹿嶋社  磐井郡鬼死骸村六本椚
(一関市真柴字佐野) 
 A他1 大同2年勧請 鬼石   安永 12 
 18 鹿嶋神社  気仙郡(陸前高田市
広田町根岬) 
 建御雷神    市史  
19  多賀神社  気仙郡矢作村(陸前高田市矢作町)神明前  A  天照御祖神社末社   市史  
20  塩釜神社 気仙郡矢作村(陸前高田市矢作町打越)  武美加槌命B他1  往昔は獅子稲荷大明神と称す   市史  
 21  鹿嶋社 気仙郡長部村(陸前高田市気仙町二日市)   A 建久年勧請 
 お鹿島さま 
 安永 13 
    同上    「鹿嶋屋敷」    
(表の説明) 
*「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。
 「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、「経津主命」をBとし、それ以外の鹿島の神の表記はそのままとし、その他の神名は「他1」のように記した。空白は「祭神」が確認できていないものである。
 「出典」は、1の「名鑑」は『岩手県神社名鑑』、2・3の「書上帳」は「八戸廻・軽米通の諸堂社書上帳」(『新編八戸市史 近世資料編Ⅲ』)、4・11の「大系」は『日本歴史地名大系3 岩手県の地名』(平凡社)、5・6・7の「郷村誌」は『邦内郷村誌』(『南部叢書』5)、8・10の「神々」は『日本の神々12』、12~17・21の「安永」は『安永風土記』(『宮城県史』)、9の「町史」は『東和町史』、18~20の「市史」は『陸前高田市第7巻』である。いずれも主として拠ったものという意味で掲げた。
 「歴」は、国立歴史民俗博物館による『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。これは香取神社と鹿島神社の一覧表であるので両社を含めた通し番号になっているが、番号はそのままのものである。
 
 
  (1) 概要

 岩手県の鹿島神社は、「鹿島」「鹿嶋」を名乗る神社が15社、「武甕槌神社」が1社、その他は祭神から判断したものが5社、全部で21社になりました。

 3の「真部地明神社」の祭神は「鹿嶋・賀茂大明神」ですから問題ありませんが、4の「駒形神社」は武甕槌命・経津主命・大山祇命ですので、武甕槌命を祀る神社としてここに入れました。

 鹿島神社と祭神武甕槌命の関係は厳密には問題がありますが、この一覧表ではとりあえず入れています。この問題はいずれ全国を見渡した上で論ずるべき課題です。

 8の「志賀理和気神社」は、『延喜式神名帳』所載の最北の神社です。祭神は経津主命・武甕槌命他5神ということですが、社伝によると坂上田村麻呂が香取・鹿島を勧請したのが起こりとなっているようです。本来は土着の神と思われ、そのこともいずれ論ずる必要があるでしょうが、鹿島神社のバリエイションの一つと考えて良いと思います。

 19の「多賀神社」は武甕槌命、20の「塩釜神社」は武美加槌命と経津主他1神なので入れています。

 なお、春日神社は、祭神武甕槌命・経津主命・天津児屋根命・比売命の4神で鹿島のバリエイションには違いはありませんが、明らかに藤原氏の氏神化がはっきりしていますので、ここでは意識しつつも一線を画して載せませんでした。ただし地方によっては微妙なものがありますので、そのつど判断するつもりですが、岩手県にはありませんでした。

 岩手県はかなり広いので、21社というのは大変少ない感じですが、分布はその割に広くなっています。北上川流域を離れたところがかなりありました。1から4の九戸郡、岩手郡葛巻町、宮古市、18から21の気仙郡の8社です。

 「鹿島」地名は、以前は3ヵ所4地名でしたが、今回さらに5地名が加わりました。1ヵ所は盛岡市新庄に「鹿島山」が加わりました。他の4ヵ所は、九戸村1、一関市2、陸前高田市1と全く新しいところです。地名も多くはありませんが、神社と同様分布は興味深いものがあります。

 ところで、国立歴史民俗博物館「全国香取鹿島神社一覧表」(以下「歴博一覧表」と略す)では鹿島神社はわずかに3社だけです。いったい、この差は何でしょうか。

 「歴博一覧表」は、「全国神社明細帳」や「全国同祭神神社一覧表」(「春日の神がみ」編纂委員会編『春日の神がみ』 全国春日連合会 平成3年)や「各都府県宗教法人名簿」を適宜参照し、「現・旧社名に香取または鹿島を冠する神社を採録した。」(凡例)とあります。

 したがって「武甕槌神社」「志賀理和気神社」などが入っていませんが、それを除いても15社ですからこの差はいささか大きいものがあります。摂社末社は「歴博一覧表」も採録していますのでこの差ではありません。

 『岩手県神社名鑑』(昭和63年6月10日)によりますと、「鹿島(嶋)神社」が3社、「武甕槌神社」が1社でしたから、主にこれに基づいたものかもしれません。各県の「神社明細帳」は丁寧に見るとかなり出てきますので、「歴博一覧表」がこれを見たとは考えられないと思っています。むしろ、近代以降のものの中でも、整理統廃合された結果のものから採録したものではないかと思われます。

 本一覧表は、『封内郷村史』(寛政年間)や『安永風土記』など近世江戸時代の記録を基本にして採録しています。この差が一番大きいと思われます。つまり近世江戸時代までは存在した神社が、明治以降の近代化の過程で、まず廃仏毀釈でお寺が廃され、その後神社の統廃合がかなりなされていますから、その過程で消えて分からなくなってしまったということでしょう。各県の「神社明細帳」は、近代になってからの統廃合つまり合祀の経過がかなりよく分かりますので、丹念に見るとそれ以前の神社が分かってきます。

 『新版岩手百科事典』(岩手放送株式会社 1988年10月15日)というのを見ますと、「鹿島」の項目は「鹿島卯女」「鹿島精一」「鹿島守之助」の(株)鹿島建設関係者のものばかりで、「鹿島神社」は11北上市鬼柳の「鹿島神社宮殿」が取り上げられているだけです。それも鹿島信仰ではなく、宮殿が県指定文化財になっていることの説明です。どうやら岩手県では、鹿島信仰は極めて希薄なものでしかないととらえられているようです。「歴博一覧表」は3社ですから、やはり同じ印象を与えています。

 本一覧表もたかだか21社ですから、これを覆すものとは到底言えません。しかし、今まで言われていなかったところに神社が見つかっていることは重要です。私は、どの神社にも興味深いものがあると思いますが、特に次の4点に注目しています。

 一つはすでに述べましたが、かなり広い分布です。

 二つ目は、6、7の「鹿島大明神宮」です。これは、往古南部氏が甲州より下向する際勧請したものといわれ、盛岡城内の台所に祀られてあったといいます。しかし、その後南部の殿様が娘の疱瘡のために新庄村の鹿島山に遷して盛大に祭ったのですが、その効なかったため、大変怒って神社に封印をしてしまったそうです。そのため神社は廃れ、ついに大正の初めには鹿島山も崩してしまったといいます。先祖が大事に甲州から勧請してきた神を台所に祀っていたとか、それをわざわざ外に遷して娘のために祀ったとか、功がないので封印して、やがて明治以降の話ではありますが大事な鹿島山まで崩してしまったとか、鹿島神社の祀り方、いやその祀り捨て方が大変興味深いものがあります。(盛岡の歴史を語る会『もりおか物語(六)』昭和51年9月10日など)

 三つ目は、青森県でも報告しましたが、達谷窟(岩屋)の毘沙門堂にかかわります。この堂ノ前に12の「鹿島大明神宮」跡があったことがわかりました。この達谷村には、赤部というところにも13「鹿島社」がありました。達谷窟は、蝦夷の悪路王と赤頭がとりでを構えていましたが、征夷大将軍坂上田村麻呂がこれを滅ぼした後、毘沙門天を祀ったものとされています。そこで鹿島神社も征夷の神として祀られたものというべきかもしれません。しかし、いつしか鹿島神社はなくなり、毘沙門堂は残っています。青森県では、明治初年の廃仏毀釈によって毘沙門堂は廃され、代わって鹿島神社が祀られたとされています。しかしこの達谷では、毘沙門堂が存続し、かってあった鹿島神社は再興もされていません。(『安永風土記』など)

 二つ目と三つ目は、近世に廃されていますが、征夷の神としてはいささか無残な廃され方をしていると思えないでしょうか。

 四つ目は、10の奥州市猿山の鹿嶋社です。

 安永5(1776)年7月の『安永風土記』では「猿山神社」として「右ハ延喜式神名帳ニ相載候・・・於呂閉志神社ニ可有之哉ト申伝候近年鹿嶋社ト御神名唱誤候間此度往古之猿山神社ト御書上仕候事」と述べています。「猿山神社は於呂閉志神社であろうと伝えられていますが、近年は神名を鹿嶋社と誤って唱えているので往古の猿山神社と書き上げました。」というのですが、何か「鹿嶋社」と唱えることを憚るような感じです。明和9(1772)年の『封内風土記』(『仙台叢書』)では「猿山鹿島神社」としています。

 ところで『日本の神々』(白水社 2000年7月5日)では、於呂閉志神社が「勧請神の鹿島との混同が見受けられる。」としながら、「また猿岩山の奥宮の境内には樽水大明神・山神・鹿島の小祠がある。」と述べています。そしてこの奥宮の例祭が、私祭と称され、「自生的な民俗行事」として「郡内はもちろん江刺、和賀、東西磐井郡や秋田県側からも参詣者が多数参集して賑わった。」とあります。誤って唱えられたにしても猿山の鹿嶋社は多くの土地の人々の信仰を集めていたようです。

 『水沢市史Ⅰ』では、「岩手県内に鹿島神社をひろってみると、いずれも北上川沿いであり、・・・(もっとも時代不詳であるが遠野市、宮古市にも存在している。) 胆沢郡以南に断然多く、北は厨川である。」とし、前九年役伝説地帯とのつながりを考えていますが、やはり未解決の課題の一つに「胆沢町颪江の於呂志閉神社に鹿島神を合祀していること」をあげています。ここは単純に逆転させ鹿島神社の実態から、鹿島神社の性格を考えるべきなのだと思います。果たしてこれが、常陸国の鹿島神社を勧請した神の姿なのでしょうか。

 今の段階で、私が考えている課題は二つです。

 一つは、上の『水沢市史Ⅰ』が指摘している鹿島神社の内3社ほどがまだ確認できないことです。岩手県に行かないと見られない文献がありますので、調査は不充分なところが多く残っています。まだまだ鹿島神社が見つかりそうな気がしています。

 二つは、これが大きな発見だと思っていますが、シシ踊りとの関係です。

 シシ踊りは、鹿子踊・鹿踊と書き、シカおどりともいわれるように、鹿を模した頭や衣装をつけ、鹿の動きを表現した踊りです。岩手・宮城県の代表的な民俗芸能とされますが、青森・福島、そして愛媛県宇和島周辺にもあるということです。

 起源の伝説は、「殺された鹿のために始まるとする供養説・山のシカの踊るのをまねたのに始まるとする遊戯模倣説・春日大明神と結び付けた奉納起源説などさまざまあるが、要するに山から里に降りてきて祖霊と豊作のために踊る精霊であろう。」(『新版岩手百科事典』)とされています。

 起源の一つに、「春日大明神と結び付けた奉納起源説」があるとしていますが、インターネットの「鹿踊りのルーツと独特の装束の謎に迫る」では、「さらには、春日明神に起因する説もあり、水沢市のある地区では、香取鹿島の神の使いとして崇敬されていた鹿に扮し、春日大社に奉納した踊りだという説もあります。」と説明しています。

 なるほど奈良の春日大社の鹿は大変有名です。しかしここでは「香取鹿島の神の使い」としていますが、そうではなく「鹿島の神の使い」が鹿で、春日へは鹿島から遷ったのだとされていますから、大もとは鹿島のはずです。
実際『胆沢町史Ⅹ 民俗編3』(平成3年10月)の「鹿踊」には、「鹿踊碑文」が写真と共にたくさん載っています。享保20年のものから昭和57年までの碑ですが、その2、3を紹介します。

 「鹿嶋大明神塔 寛政三亥年 八月廿一日」(若柳字下松原3八雲神社境内)
「伊勢宮獅子躑供養 鹿嶋宮 塩釜宮 寛政七甲巳天 九月十六日」(小山字八幡堂八幡神社境内)
「富士麓行山躍供養 鹿嶌大神 嘉永二年」(水沢市佐倉河字荒谷地内)

 胆沢郡内の碑は全部で40ありますが、そのうち13が鹿島大明神(大神)を記しています。他には「富士麓行山躍」などとある富士のものが17あり、富士山麓の鹿とのつながりを由緒としていますが、あわせて「鹿嶌大神」などと鹿島を記したものもあります。「春日大明神」は明治のものに一つ出ているだけです。

 鹿踊の伝書『仰参秘集巻』というのが注に引用されていますが、ここには、
「鹿嶋大明神 日本第一武芸之御神奉称富士神之祖神申」
と、大変面白いことが書かれています。「鹿嶋大明神」は「富士神」の「祖神」だというのです。ここからはいろいろな連想が湧いてきますが、今は禁欲しておきます。

 鹿踊についてはまだ多くの資料を読み込んでいません。しかし今は、鹿島信仰と鹿踊の関係がきわめて深いことが分かってきました。これによって、「鹿島」は鹿に関わる信仰であり、地名や神社名の由来もそこにあることがはっきりしたと思います。そして、「富士山麓」と「鹿島」と「胆沢」の地理的なつながりもここから浮かんできました。これはまだ近世以降の資料によるものですが、この伝承は中世さらには古代にまで遡及することができないかと思うのです。鹿踊について、さらに各地の伝承を調べる必要があるでしょう。各地の断片的な伝承などをもっと丹念に拾っていくことによって、新しい鹿島信仰の姿が明らかになる可能性があると考えています。


  (2) 神社と地名の分布  赤四角は「鹿島」地名 
               青丸は「鹿島」を名のる名の神社 緑丸はその他の名前の神社
               作製にあたっては、インターネット上の「地震まっちゃ」の「自由地図」を利用
               した。