古社の秘密を探る

6 新潟県の鹿島神社
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 青森県、岩手県、秋田県、山形県、宮城県ときて、次は福島県になるところですが、福島県は鹿島信仰に関しては大きな問題が数多くありますので、後回しにしました。そこで今回からは北陸に着手します。
 
  1  神社と地名の分布  赤四角は地名 
               青丸は「鹿島」を名のる神社 緑丸はその他の名前の神社
 
 
 
 
 
  2 調査について
 
 新潟県の鹿島神社は、下の「表 新潟県の鹿島神社」に見られるように47社ありました。
 
 国立歴史民俗博物館の「全国香取鹿島神社一覧表」(1)では9社だけです。(ちなみに香取神社は0になっています。私の調査でも2社だけです。) 「鹿島(嶋・嶌)神社」「鹿島(嶋・嶌)社」(以下、個別の神社を示すものでない限り、便宜的に鹿島神社と記す。)という名称に限ってみても今回23社ありましたから、歴博の一覧表が一体何を調査したのかわからないところです。
 
今回の調査では、佐渡については、『佐渡神社誌』(新潟県神職会佐渡支部 1926年5月)が国立国会図書館デジタルコレクションで見られたので、これを基本としました。6番のみは『佐渡叢書第三巻』所収「皇国地誌」で新たに見つけたものです。
 
またインターネット上に新潟県立文書館の『新潟県神社寺院仏堂明細帳検索』があり、1883(明治16)年に『新潟県神社明細帳』の再調整を行ったものが見られましたので、佐渡も含めて全県は出来る限りこれで統一しました。国文学資料館所蔵の『新潟県神社明細帳』も一部を除いてほぼ調査していましたので、内容はあまり変わりませんが、これも参考にしました。
 
 つまり、歴博の調査と同じものを見ているはずなのです。しかし、なぜか結果は大きく違っています。
 
 『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)では、鹿島神社に関連した項目は地名「かしまむら 鹿島村〈柏崎市〉」のみです。
 
『日本歴史地名大系 15新潟県の地名』(平凡社) の索引を見ると、「鹿島村(柏崎市)」があり、神社では柏崎市北条と南蒲原郡大面の2か所だけでした。
 
『新潟県史』の「原始・古代」「中世」「近世1」「近世2」の記述では、古代から新潟県を代表する神社は弥彦神社、居多神社があり、中世には妙高山関山権現、二田の物部神社など、さらに地域の神々が多くあがっています。「近世」では、『新潟県神社明細帳』を「近世越佐の大要の把握には差し支えない」(2)ものとして、神社10,344社の神社数を分析しています。この神社数は、境内社・合祀社まで含め確認できた神社数の集計と思われ、大変な数です。
 
ここでは、「越後に多い神社」のトップは諏訪神社で1,762社、その次が神明神社の1,564社、
10位まで名前がありますが、10位は石動神社の162社です。「佐渡に多い神社」は熊野神社が58社、白山神社が48社、10位は小田原神社11社です。
 
しかし、鹿島神社は全く出てきません。「資料編22 民俗・文化財一」に1ヵ所だけ鹿島神社が出ていただけです。ほとんど問題にならない神社のようです。「延喜式内社」などに鹿島神社と名乗ったものがないのは、太平洋側と比べた場合の日本海側の大きな特徴になるでしょう。
 
 インターネット上の新潟県神社庁のHPによると、新潟県の神社は4,710社(平成25年4月1日現在)で、全国一の神社数であるといいます。神社検索で「鹿島(嶋・嶌)神社」「鹿島(嶋・嶌)社」を検索しましたら、全13社がありました。これは今回の一覧表で、独立して鹿島神社を名乗っている神社と同じものでした。おそらく近世の後半以来今日までこの数は変わっていないもののようです。
 
 新潟県は長大な県域を持ち、明治時代の初めまでは人口も日本一であったところです。神社数が多いのもなるほどと思われます。しかし、この中にあって鹿島神社は問題にならないくらい少ないのですが、それでも丹念に調査していくと47社あったわけです。
 
 3 概要について
 
今回の表の全般的特徴は、神社名がいろいろであったことです。2つの式内社(論社)も、太平洋側の鹿島神社と違って表向き鹿島神社を名乗っていませんが、このように鹿島神社という名前を名乗っていない神社が多かったことです。28の武甕槌社も含めて24社、約半数ありました。
 
神社の祭神が「武甕槌命」「鹿嶌神」を含むものは、すべて拾うようにしましたが、5二所神社は、「鹿島香取神」、8金刀比羅神社は「鹿嶌神」、25明神社・27赤城神社・37大宝社は「武甕槌命」1神ですが、何神かの中に「武甕槌命」が入っているものも入れています。「武甕槌命」をイコール「鹿島神社」と考えて良いかどうかはまだ疑問がありますが、とりあえず広く網を打って全国の状況を把握しようというわけで入れています。
 
18春日社は、「武甕槌命」1神だけでしたのでここに入れました。春日神社の場合は、春日4神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比女神)と「天児屋根命」他何神かの場合については一覧表には載せません。春日神社も鹿島信仰のバリエイションと思いますが、春日神社そのものはここに入れていません。「武甕槌命」が入っていることと「天児屋根命」が入っていないことの両方を満たすものは、春日神社を名乗っている鹿島神社の可能性もありますので入れることにしました。
 
また、今回の表では、「無格社」「境内社」「合祀社」がほとんどであるということです(後に村社になったものはあります)。32の御嶋石部神社と41の水島磯部神社にしても、明治初年は村社です。
 
では小祠・小社ばかりかというと、そうともいえません。32の御嶋石部神社と41の水島磯部神社は延喜式内社の論社ですからかなり大きな由緒のある神社ですが、20の南蒲原郡大面の鹿嶋神社も、延暦年間坂上田村麻呂勧請、中世大面荘、近世大面組の総鎮守と由緒も古い大きな神社だったものです。この神社は明治では無格社で、1919(大正8)年になって村社となっています。21同郡中浦の鹿嶌神社も天平宝字2年創立の伝承があります。他にも、中世以前は大きな神社であったのではと思われるものがいくつかあります。明治以降の格付けの低すぎるのが目立つということです。
 
分布をみると、特異なのは佐渡です。表の1から8までが佐渡ですが、1の鷲崎を除くと、他はすべて真野湾に面した地域に分布しています。そして、真野町真野には明治の初年に白山神社に合祀された二所神社が、真野新町には新町太神宮の末社4社の中にもあります。鹿島神社と真野地名の結びつきは、宮城県石巻市真野の鹿島御兒神社があり、福島県南相馬市鹿島区にも鹿島御子神社があり、真野川が流れ、どちらも真野の萱原に比定されていました。(3)
 
真野の地名は、対岸の越後の紫雲寺潟に面していたところにもあります(現新発田市真野原)。佐渡の真野町真野は、順徳天皇の火葬塚の所在地として知られ、「順徳天皇にまつわる話として、近江国の真野(現滋賀県大津市)の地名が移されたとの説があり」(4)と説明されています。しかし、以上の真野地名から、順徳天皇以前の地名ではないかと考えられます。
 
佐渡以外の鹿島神社の分布は、少ないながら北から東、さらに西の富山県の県境まで満遍なく分布しているように思われます。
 
もう一つの特徴は、祭神名がわりあい多様であったことです。「たけみかづちのみこと」にしても「武甕槌命」ばかりでなく、「健甕槌命」「武美加津知命」「武見加槌命」「武甕雷命」「建御雷男之命」「武美加槌命」「健雷命」「武甕槌尾命」「健御雷命」と9種類の異なる表記がありました。他には「鹿嶌神」「鹿島香取神」もあり、「鹿嶋社」でありながら「大山祗命」というものもありました。こうした多様な表記の存在は、中央に統制されない土着の姿を示しているように思われます。
 
4 毘沙門天とのセット
 
 11東蒲原郡向鹿瀬(むかいかのせ)(現阿賀町)の鹿島神社は、延長6年(928)4月創立の向鹿瀬の産土神で、「従前旧領主ヨリ毎7ヶ年ニ銀20匁2分5厘宛造営費トシテ下附」(5)されたほどの神社でありながら、1938(昭和13)年になってようやく村社になっています。
 
阿賀野川が大きく蛇行するところにあり、対岸の鹿瀬字荒井戸にも鹿島神社がありますが、これは1870(明治3)年に毘沙門天が改められたといい、青森県のケースに似ています。しかしながら、これは、むしろ向鹿瀬の鹿島神社と鹿瀬の毘沙門天とで阿賀野川の大蛇行点を挟むセットとして祀られていたと考えられないかと思います。
 
12の同郡行地(ゆくち)字堂ノ上の鹿嶋社は、大変な山の中の感じがしますが、1675(延宝3)年3月の創立で、「当村ノ産土神」(5)。同じ字に毘沙門堂があります。鹿嶋社と同年月の創立ですから、これは完全にセットになっています。
 
13の新潟市中央区北毘沙門町の鹿島神社は、その名も毘沙門町にあり、小さくない神社であったと思われますが、明治23年4月の火事で焼失し「再建ノ目途無之ニ付廃社」(5)となっています。町名は、もと1736(元文元)年勧請の毘沙門により「毘沙門島」と名付けられ、今日も毘沙門天王が祀られています。これもセットであった可能性があり、岩手県達谷の毘沙門堂前の廃社になった鹿島神社に似ています。明治以降毘沙門天はそのままで、鹿島神社が復興していません。
 
もう一つ指摘しておきます。上杉謙信で有名な春日山城は春日社にちなみます。そして、ここには毘沙門堂があり、上杉謙信の毘沙門信仰は有名です。「毘」の1字の旗印も有名です。春日社、すなわち鹿島社と毘沙門天のセットがここでも指摘できます。
 
まだ他にも、そう指摘できそうな所がいくつかありますが、調査が不充分なのでやめておきます。ただ、どうやら青森県における毘沙門天が明治以降すべて鹿島神社になったという説明には、大きな疑問がわいてきました。そうではなくて、もともとセットで祀られていたものもあったのではないかということです。全国的にこの関係はもっと気をつけて良いかもしれません。
 
 5 鍾馗様
 
東蒲原郡の阿賀野川流域、現阿賀町では、さらに興味深い民俗がありました。
 
「厄払いの目的で股間に大きな陽物をつけた鍾馗のワラ人形を作り、村はずれの樹木や神社に飾りつけて祭るところがある。このような鍾馗人形を屋外に祭ることは、秋田県に類似するものを見るが、そのほかどこにもあるというものでない。
 
今日この風習が見られるのは、三川村熊渡・津川町大牧・鹿瀬町平瀬・同夏渡戸の4か所だが、以前は鹿瀬町仙石・上川村東俣・同長坂・同武須沢入などにもあった。」(6)
といわれています。
 
ここでは「鍾馗様」と呼ばれていますが、秋田県の「鹿島様」といわれる鹿島人形とよく似た民俗です。名前こそ違え、鹿島信仰の残存の1つといえるものではないかと思われます。
 
また阿賀野川流域ということから、福島県会津との関係を考慮しておいた方が良いかもしれないと思っています。
 
  6 南蒲原郡大面の鹿嶋神社について
 
 20南蒲原郡大面村(現三条市)の鹿嶋神社は、小字名「鹿島山」ですが、『新潟県神社明細帳』はこれを朱で訂正し「新田」としています。地名辞典は2つとも「船戸」としています。しかし『新潟県神社明細帳』の由緒では、「鹿嶋下」「鹿嶋廻り」などの地名があるといい、『栄村誌』によると「カシマテン」の地名もあるといいます(7)から、ここは本来「鹿島山」で間違いないとみるべきでしょう。神社の他の伝承からも鹿島信仰の様々な伝承がうかがわれます。
 
 神社の始まりは、「社伝によると、延暦年間坂上田村麿が蝦夷征伐の時、常陸国(茨城県)の鹿島神社を勧請し、田村麿将軍の従者であった本学院の祖が、大面に移って神社に奉祀した。」とあります。本学院は明治以降神職の大乗氏を名乗ったということです。(8)
 
 祭神は「建御雷男之命」(『大面村誌』は「武御雷命」)1神でした。(9)
 
 江戸時代には、年頭に当たって1年の吉凶が示されたともいい、「この社に参篭した男女が名を書いた紙片を帯の端につけ、暗闇の中で帯を結びあい、つないだ者同志が結ばれるという篭堂も、兵火によって焼失したと伝えている。」(10)ともいいます。吉凶占いといい、帯占いといい、常陸の鹿島神社と同じようなと言って良いほどです。
 
 中世は大面荘の総鎮守、近世は大面組42ヵ村の総鎮守とかなり大きな神社であったもので、祭礼は関東まで有名であったといいます。(10)
 
 神輿渡御、御巡幸、御神行ともいう大行列の記録を見て驚きました。真ん中あたりに「鹿(二人)」が参列しています。二人が「竹で作った鹿の中に入り肩にてつるす」(11)とあります。
 
『大面村誌』では、「もと鹿が沢山いた。吉野屋山の鹿が信濃川を越えて遥かの海べまで塩水をなめに行ったと伝えられている。・・・大面村の鹿島様は鹿の多くいた場所だそうだ。小栗山(隣村新潟村大字)に『ししおどり』というのがある。角兵衛獅子ではなくて『鹿踊』だそうで、囃子は『山雀が・・・』と始まると言う。」(12)とあり、鹿の伝承が濃厚にあります。
 
そして「鹿踊」までがあったとすると、これは東北の鹿島信仰と同じではないかと思われます。「吉野屋山」は大面からさほど遠くないところであり、「小栗山」はまさに隣の字です。
 
 ところで小字「船戸」は、神社の登り口にある「船戸地蔵」にちなむものですが、神社のある山すそをめぐって川が流れていて、この川の船着き場、船の戸から来る地名とする考えと、ふなど、くなどの神(岐の神)、道祖神(サイノカミ)から来ているとする考えがあるといわれています(13)。どちらというより、どちらもと言った方が良さそうな気がします。各地の鹿島信仰に良く見られる属性だからです。
 
 しかしこの「鹿島神社」は、明治以降はなぜか無格社であり、大正8年にようやく村社になっています。そして明治には神官も欠員になっていました。この明治政府の処遇は、「鹿島神社」を征夷の神とすると信じがたいものがありますが、今まで各地の「鹿島神社」を見てきた私は、むしろこれがほとんどの「鹿島神社」の本当の処遇であると思われるのです。
 
 「大面(おおも)」は変わった地名ですが、アイヌ語の深く静かな湖の意である「オオモナイボ」によるものともいわれています(14)。また近世にこの鹿島神社の「蝦夷神楽歌」が禁じられた話があります(15)。具体的にどのようなものだったかはわかりませんが、興味深い話です。明治政府の処遇に何か関係があるのではないかと考えられます。
 
  7 柏崎市北条の鹿島神社について
 
 32は「御嶋石部(みしまいそべ)神社」で、刈羽郡北條村大字北條字清水尻(柏崎市北条字鹿島)にあります。「清水尻」は『新潟県神社明細帳』の地名であり、神社の由緒書によると元あったとされる石部平の地名です。
 
「鹿島」の初見は、「天正13年閏8月7日付御島石部神社棟札銘」に「東刈羽郡佐橋荘北条郷則鹿島村」とあり、『越後地名考』には北条村本条の通称を「鹿島」といったとあるようです(16)。中世の北条郷を「鹿島村」と言ったとすると、かなり広い範囲になります。現在の小字「鹿島」と、もっと広く「鹿島」と通称したものの二通りがあるようです。
 
 神社の宮司五十嵐家を屋号で「大鹿島」、近くの石井神社(北条十日市)を「小鹿島」と呼ぶとも言いますから、この地域一帯を鹿島と呼んだのではないかと思われます。
 
 神社名は、神社の由緒書によると、1行目に「延喜式内 御嶋石部神社(旧村社)」とあり、それよりも大きな字で2行目に「鹿嶋宮大明神御鎮座由緒之事」とあり、文中には「当神社は初め鹿嶋宮大明神と称え来た、以来其の神号に因み此の里を鹿嶋と唱えるようにもなった。」とあり、「年譜」には「白雉元年4月 社殿改修鹿嶋宮大明神と称す」とありますので、「鹿嶋宮大明神」が本来のもののようで、そこから「鹿嶋」地名が起こったとありますから、この方が筋が通っているといえそうです。(17)
 
 『式内社調査報告 第17巻』には「遺跡」の項に「別図」が載っていますが、これには「字石部平」に「本宮」があり、山麓と思われる位置には「式内 御嶋石部神社」と「鹿嶋大明神」が並列して記され、1つの神殿が書かれています(18)。つまり1つの神殿で2つの神社を祀っているように描かれています。
 
 祭神は、神社の由緒書では、「久斯比肩多命(くしひかたのみこと)」と「武甕槌命」の2神です。「久斯比肩多命」は「石部公の祖、久斯比肩多命を祀る」とし、「事代主神と三島の祭神(柏崎市の県社三島神社)の女君との間に生させ給へるなり。」と説明しています。白雉年中から三輪氏が奉祀し、大永年中に五十嵐姓に改姓して現在に至ったとしています。
 
『新潟県神社明細帳』は、社名は「御嶋石部神社」ですが祭神は「鹿嶋大明神」1神で、これをを朱で訂正し「武甕槌命」としています。
 
 どうやらこれからすると、「鹿嶋」はこの土地の神であり、「御嶋石部神社」は神官家の祖神のようです。なお「御嶋石部神社」は刈羽郡西山町石地(柏崎市)に論社があります。
 
 インターネット上に八石山の伝説が紹介されていました。標高518メートル「柏崎平野をとり囲む米山・黒姫山とともに刈羽三山と呼ばれる。」といいます。
「むかしむかし、長鳥川の上流には蝦夷と呼ばれる野蛮な人達が住んでいて、平和に暮らしている人々の食べ物をかすめとったり、理由もなく乱暴したり、人を殺したりしていました。鹿島の三島石部神社の神様は、これを心配されて蝦夷をなんとかしずめようと思われ大勢の神様を高見山に集められました。神様達がみんなお集まりになると、高見山という名前をハッセキ山と改められた。その後の長い年月の間に、いつのまにか間違えられてハチコク山と呼ぶようになったといわれています。」(19)
 
 「長鳥川」はここの鹿島を流れる川で、鯖石川に合流しています。ですから鹿島の近辺に蝦夷が住んでいたということでしょう。「鹿島の三島石部神社の神様」というのは鹿島大明神のことと思われますが、蝦夷の乱暴を鎮めるために多くの神様を集めた、そのため山の名前がハッセキ山になり、その後八石山に変わったということですが、蝦夷の話がどこかへ行ってしまいました。しかし、私は、ここの鹿島が蝦夷の住んでいた近辺にあったというのが注目されます。何時のことともはっきりしませんが、少なくともこの蝦夷の話には、坂上田村麻呂が登場しません。
 
 神社の由緒書にも、「現在八石山麓の山々にも次の由来から唱えられたる地名が残っている。祭神が残暴を御征伐の砌此の東の峯に陳鎌を置給われた峯を『鎌あけ』と云う、烏帽子を置かれた所を烏帽子と称し、御腰をかけ給える処を『腰かけ石』と申し今是『御石』と云う神馬の鞍を置き給える処を『神の鞍』(現在八石かめのくら)」と云い、大神山々に走り向せ給える処を『春日入』と云う、又社の山に大石一ケありこれを『要石』と云われ地震、山崩あらゆる災害を鎮める石と古来より伝えられ現在なお山の下段に安置されている。この他此の里に古跡数多くあるが今これを略す。」
とあります。鹿島の神の事跡に因んだもので、馬が出ている所、「鹿島入」でなく「春日入」というところ、「要石」の存在などいずれも注目すべきところです。ここにも坂上田村麻呂は登場しません。田村麻呂登場より遥かに古い時代の伝承のように思われます。
 
  8 上越市清里区の鹿島神社
 
 上越市の清里区というのは古墳群などもあり、古代からわりあい開けた地域とされています。この櫛池川沿いに山の方に入ったところに、3か所の鹿島神社があります。
 
1つは、42東戸野字岩山の「鹿嶋社」。無格社で、明治40年に諏訪社に合併されています。祭神は、『新潟県神社明細帳』によると「武甕槌命」とあり、その後に朱字で「槌尾」が加入されています。「武甕槌尾命」というのではないかと思われます。「諏訪社は青木氏、鹿島社は保坂氏の氏神という。」とあります。(20)
 
2つ目は、棚田の鹿嶋神社。小さな石祠であったようですが、村の鎮守として今では村内各社を合祀しています。「神社は鹿島社・諏訪社・荒神・大神宮・稲荷社・庚申など(後各社は鹿島社に合祀)。」とありますが、大神宮・稲荷社などは合祀というより同境内に集められたようです。やはり近くに毘沙門堂がありました。
 
鹿島神の神像は、「タケミカヅチノカミが足で大ムカデを押さえている図柄で」、寛永元年10月の年号があり、「台石には鹿が群れ遊ぶ彫刻が見える」としています。また、「この集落では鹿島さんのキライな胡麻は作らないという民俗がある。」としています。(21)
 
3つ目は、梨平字磯部山の41式内社水嶋磯部神社。祭神が、誉田別命で、配祀に武甕槌命と経津主命です。現在は3神を祭神としているとあります。『越後国式内神社案内』には「当号鹿島大明神、同殿香取、八幡、春日」とあるとあります。「誉田別命」は八幡ですから、鹿島が主神で他が同殿になっているだけです。明治初年の書上などでは「誉屋別尊」ともあり、「誉田別命」も問題になっています。(22)
 
『新潟県神社明細帳』は、「式内当社タル旨口碑ニ伝ル趣ハ、天智天皇御宇ノ末年吉野ノ乱ニ、官兵磯部臣ト云フモノ逃レテ当国ニ来リ、当村ヲ開墾シ、白鳳2年当社創立、往古当地ヲ水嶋ノ里ト称シ・・・」とあり、宮司綿貫家『綿貫家系図』の伝承によるものです。ここでも宮司家の伝承で式内社に擬せられ、鹿島・香取が背後に追いやられているのがわかります。
 
式内社の論社は、糸魚川市筒石と清里区青柳があげられていますが、青柳が重要と思われます。
「青柳集落の西方、坊ヶ池の縁に石祠があり、水嶋磯部神社と刻まれた石が納められている。」といい、この坊ヶ池には「青柳社・弁才天社・青海社などが点在、山岳信仰の聖地といわれる。池畔の御祓石場では雨乞の祭が行われたという。」(23))といいます。ここにあるとしたら、それは本来の本宮と言って良いものではないかと思われますが、残念ながら『新潟県神社明細帳』では祭神不詳になっています。
 
以上のように、「鹿島神社」がこの地域に3社かたまっているのがなぜだろうと思いますが、今のところわかりません。表面上鹿島信仰はわからなくなってきていますから、もっといろいろな史料を見てみる必要がありそうです。今後の課題とするほかありません。
 
  9 まとめ
 
 新潟県の「鹿島神社」は、数として多くはありませんし、小社小祠が多く末社や境内社や合祀されてしまったものなどが大変多かったため、表面上わからなくなっています。「鹿島神社」を名乗らないものも多かったのも特徴でした。
 
32の御嶋石部神社や41の水島磯部神社も式内社と称していますが、鹿島を表に出しているわけではありません。
 
太平洋側と比べて、「鹿島神社」と称する大きな神社が少ないことも大きな特徴です。
 
古代の新潟県は、越国、越後国として、蝦夷対策の最前線にありました。そのわりには、征夷の神「鹿島神社」があまり見当たりません。20南蒲原郡大面の鹿島神社が坂上田村麻呂勧請をいい、33御嶋石部神社が蝦夷に関係ある伝承を伝えているだけです。渟足柵、磐舟柵がつくられ、蝦夷と雑居していて、征夷戦の緊張はずっと続いていたはずです。「鹿島神社」が征夷の神であるならば、征夷の軍事行動に密接なところに密接な形で祭られていなければならないところです。
 
しかし、実際は全く違うことが、新潟県の「鹿島神社」の実情を調べてみるとよくわかります。これが古代の佐渡・越後国の実情なのかどうかは、はっきりしません。ただ古代に由緒が遡る神社はいくつかありながら、渟足柵や磐舟柵との関係がありそうなものはまったくありません。坂上田村麻呂は延暦7年(678)6月と延暦9年(680)3月に越後国守を兼任していて、この後本格的に陸奥の征夷戦争に関わっていきます。したがって、坂上田村麻呂と関係した鹿島神社がもっとあって良いはずですが、そうなってはいません。
 
これが北陸の越国全体の傾向であるかどうか、これは今後の大問題として注意していくべきことでしょう。
 
 
  10 神社と地名の一覧
   神社名  所在地( )内は現在の地名  祭神 備考  歴博
 1 金刀比羅山   加茂郡内海府村大字鷲崎
(佐渡市鷲崎) 字箕山
 A他2 村社矢崎神社の境外神社   
 2 鹿嶋神社  雜太郡沢根町大字五十里
(佐渡市沢根五十里)字田中 
 A 村社白山神社の境内神社  1190
 3 五社神社   雜太郡河原田町大字河原田
本町(佐渡市河原田諏訪町)
 AB
他10神
郷社諏訪神社の境内神社  
 4 鹿島神社  雑太郡二宮村大字中原及び
石田(佐渡市中原)
 健甕槌命  村社中原神社の境内神社  
 5 二所神社   雑太郡真野村大字真野
(佐渡市真野)字真野
 鹿島
香取神
 明治初年村社白山神社
に合祀
 
 6 鹿嶋神社  雑太郡新町
(佐渡市真野新町)
 A  新町大神宮末社4社の内  
 7 鹿嶋神社   羽茂郡西三川村大字椿尾
(佐渡市椿尾)
 A他1  村社気比神社の境内神社  
 8 金刀比羅
神社 
羽茂郡小木町大字堂釜
(佐渡市小木堂釜)字宮ノ平 
 鹿嶌神  村社大平神社の境内神社
合殿
 
 9  鹿嶋神社 岩船郡堀之内村字上ノ山
(村上市堀ノ内) 
 武美加
津知命
 無格社 m.40稲荷神社
に合併
 
 10 鹿島神社   北蒲原郡伊徳寺村字山王
(胎内市横道) 
 A 無格社 m.40神明社に
合併 横道神社に 
 
 11 鹿島神社  東蒲原郡向鹿瀬字森ノ下
(阿賀町向鹿瀬) 
   無格社 巨巌の上  
 12 鹿嶋社  東蒲原行地村字堂ノ上
(阿賀町行地) 
 大山祇命  無格社 延宝3年創立
同字に毘沙門堂
 
 13 鹿島神社   新潟区新潟北毘沙門町
(新潟市中央区北毘沙門町)
 建甕槌命  無格社 
m.23焼失につき廃社
 
 14 三社神社   新潟市流作場新田字宮浦
(新潟市東区三和町)
 武見加槌
命他2
 村社
m.2沼垂町大字となる
 
 15 鹿嶌神社   中蒲原郡鷲ノ木新田字家付
(新潟市南区鷲ノ木新田)
 武甕雷命  無格社
信濃川中ノ口川合流点
 1182
 16 六所神社   西蒲原郡上曲通村字前畑
(新潟市南区上曲通)
 A他5  無格社
慶長16年勧請
 
 17 諏訪春日
合殿 
 西蒲原郡津雲田村字古屋敷
(新潟市西蒲区津雲田)
 A他1  無格社  
 18 春日社   西蒲原郡長池新村字前潟
(燕市長所)
 A 無格社
s.5八幡社へ合併
 
 19 諏訪神社   西蒲原郡灰方村字筒西
(燕市灰方)
 A他3  無格社  
 20  鹿嶋神社 南蒲原郡大面村字鹿島山
(三条市大面) 
 建御雷男
之命
 無格社 延暦田村麻呂勧請
近世総鎮守
 
     同上    鹿島山・鹿嶋下・鹿嶋廻り  
 21 鹿嶌神社   南蒲原郡中浦村字居平
(三条市中浦)
 A他2  無格社
天平宝字2年創立
 1183
 22 八雲社  南蒲原郡棚鱗村字居平
(三条市棚鱗) 
 A他4  無格社  
 23 鹿嶋社   三島郡郷本村字上太
(長岡市寺泊町)
 A 無格社  1185
 24 鹿嶌神社   三島郡小島谷村字上ノ東
(長岡市小島谷)
 A 無格社   1184
 25 明神社  三島郡北中村字堂ノ川内
(長岡市和島中沢)
 A 無格社   
26   鹿嶋社 古志郡広道村字八十苅
(長岡市村松町) 
武美加槌
 無格社  1186
 27 赤城神社   古志郡曲新町村字横田
(長岡市曲新町)
 A  無格社  
 28 川合神社   北魚沼郡川口町
(小千谷市東川口)
A他1  雄略31年鎮座 あおり明神  
 29 武甕槌社   南魚沼郡芹田村字鳥
(南魚沼市芹田)
 A  無格社赤城社の境内神社  
 30 神明社   南魚沼郡大沢村字地蔵堂
(南魚沼市大沢)
 A他3 無格社   
 31 健布都社   刈羽郡別山村字多岐ノ脇
(柏崎市西山町別山)
 A他1  無格社多岐神社の境内神社  
 32 道祖神社  刈羽郡刈羽村刈羽字雀森
(刈羽郡刈羽村刈羽) 
 AB  無格社見日神社の境内神社  
 33 御嶋石部
神社 
 刈羽郡北條村大字北條字
清水尻(柏崎市北条字鹿島)
 A  鹿嶋大明神 社家大鹿島
部落鹿島
 
     同上    鹿島  
34   鹿島神社 刈羽郡新道村字島崎
(柏崎市新道) 
 A  村社鵜川神社の境内社島崎神社に合併  
35  熊野神社   刈羽郡水上村字厩窪
(柏崎市水上)
 A他3  村社合殿  
 36 鹿嶋神社  刈羽郡千谷沢字子ノ新田(長岡市小国町千谷沢)  A 無格社  元和7年創立  
 37 鹿嶌社   東頸城郡小屋丸村
(十日町市池之畑)
 A  無格社 長和3年創立  
38   大宝社 東頸城郡下蝦池村字前田
(十日町市松之山下鰕池) 
 A  無格社  
 39 三社神社   中頸城郡小杉村字西谷
(柏崎市小杉)
 健雷命
他3
 無格社
m.42に小杉神社に改称
 
 40 鹿嶋社  中頸城郡大乗寺村
(上越市吉川区大乗寺) 
 A 無格社   1187
    同上    鹿嶋田  
 41 鹿嶋社   中頸城郡上源入村立ノ越
(上越市上源入)
 A 無格社  1189 
 42 水島磯部神社   中頸城郡櫛池村大字梨平
(上越市清里区梨平)
 AB
他1
 白鳳2年創立 式内社  
 43 鹿嶋社  中頸城郡東戸野村岩山
(上越市清里区東戸野) 
 武甕槌尾命  無格社
m.40諏訪社へ合併
 
44 鹿嶋神社  中頸城郡棚田村字中ノ坪
(上越市清里区棚田) 
 A 無格社
村内各社鹿嶋社に合祀 
 1188
 45 八幡社  西頸城郡大野村字八幡山
(糸魚川市大野) 
 A他5  無格社 m.40熊野社に合併 大野神社に改称  
 46 若宮白山社   西頸城郡蒲池村字三ツ倉
(糸魚川市蒲池)
 A他2  無格社
m.42白山社に合併
 
 47 鹿嶌社  西頸城郡市振村字西ノ平
(糸魚川市市振) 
 健御雷命  無格社
t.3白鬚社に合併
 
 
*表の説明
 1番左は、表の通し番号である。
 「神社名」は出典の神社名。
 「所在地」も出典の所在地名を記し、( )内は現在の地名を記した。
 「祭神」は「武甕槌命」はA、「経津主命」はBとし、「たけみかづち」の別表記はそのまま記した。
その他の神名は「他1」のように記した。
 「備考」は、今回は明治初年の神社の格付けを参考に記した。それは出典が同一のものであったので、
同じ時点のものがすべて明らかになったからである。後の格付けの変化は省略している。
 「出典」は、佐渡については、『佐渡神社誌』(新潟県神職会佐渡支部 大正15年5月)が国立国会図書館デジタルコレクションで見られたので、これを基本とした。ただし6番のみは『佐渡叢書第三巻』所収「皇国地誌」による。
またインターネット上で新潟県立文書館の『新潟県神社寺院仏堂明細帳検索』があり、明治16年に『新潟県神社明細帳』の再調整を行ったものが見られたので、佐渡も含めて全県はこれで統一した。国文学資料館所蔵の『新潟県神社明細帳』も一部を除いてほぼ調査していたので、内容はあまり変わらないが、これも参考にしている。
したがって、今回は「出典」の項を省略した。
 なお、『新編会津風土記』『白河風土記』、県史・市町村史もすべては見切れていないが、かなり参考にしている。
 またいつも通り、『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)、『日本歴史地名大系15 新潟県の地名』(平凡社)、吉田東伍『増補大日本地名辞書 第5巻 北国・東国』(富山房)、『県別マップル道路地図 新潟県』(昭文社)、『式内社調査報告 第17巻』(皇學館大学出版部)も参考にしている。
 1番右の欄「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。
 
 
(1)  国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」
(2) 『新潟県史 通史編3 近世1』825頁
(3) 『角川日本地名大辞典 4宮城県』(角川書店)488~489頁、『角川日本地名大辞典 7福島県』(角川書店)758~759頁
(4) 『日本歴史地名大系15 新潟県の地名』(平凡社)1234頁、真野・真野原の説明は『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)1232~1234頁
(5)  新潟県立文書館『新潟県神社寺院仏堂明細帳検索』の該当神社項目
(6) 『新潟県史 資料編22 民俗・文化財一 民俗編1』820頁
(7) 『栄村誌 上』(1981年8月)929頁
(8) 『栄村誌 上』295頁
(9) 新潟県立文書館『新潟県神社寺院仏堂明細帳検索』の項目。なお、『三南地方の歴史 大面村誌』(1966年9月)は他4神としている。
(10) 『栄村誌 上』929頁
(11) 『栄村誌 上』265頁
(12) 『三南地方の歴史 大面村誌』650頁
(13) 『栄村誌 上』296頁
(14) 『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)292頁
(15) 新潟県立文書館『新潟県神社寺院仏堂明細帳検索』の当該神社由緒
(16) 『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)292頁
(17) 宮司五十嵐弘氏作成「延喜式内 御嶋石部神社(旧村社) 鹿嶋宮大明神御鎮座由緒之事」
(18) 「19 御嶋石部神社」『式内社調査報告 第17巻』817頁
(19) インターネット「環境への取り組み 八石山整備活動」(株式会社伊平板金工業所)
(20) 『日本歴史地名大系15 新潟県の地名』117頁
(21) 『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)847頁、『清里村史 上巻』(1983年11月)341、345頁
(22) 「7 水嶋礒部神社」『式内社調査報告 第17巻』750頁
(23) 『日本歴史地名大系15 新潟県の地名』116頁

(今回ブログ投稿から移すにあたり、インターネット上の「地図まっちゃ」の「自由地図」を利用して分布図を作成した。本文等の変更はない。)