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全国「鹿島」地名の表記(用字)について
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     全国「鹿島」地名の表記(用字)について
 
 ここでは、表1「全国『鹿島』地名一覧」の677地名について、「かしま」の字の表記(用字)を分析し、特徴をまとめておきます。
 
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 そこで、まず、表記の前に「鹿島」「鹿嶋」などの読みを確認しておきます。
 
 地名は大体ルビがふられていますが、ふられていないものも多いので、どう読むか、どう発音するかを厳密には言えないことが多いものです。ルビがふられていても諸本によって違っている場合もあり、現地の人の慣用は訛っていたりして、もっと違っている場合もあるので、個別に慎重な検討が必要です。ここでは、そうしたことをふまえた上で、現在のところでわかっていることを確認しておきます。
 
 表1「全国『鹿島』地名一覧」をざっと見ただけでもわかりますが、全国のほとんどが「鹿島」「鹿嶋」の表記で、これを「か_しま」ないしは「か_じま」と、「しま」が濁るか濁らないかの違いで読んでいます。
 しかし、91「小鹿島」「男鹿島」のように「おがしま」と「鹿」が濁るところも少しあります。183「後瀬鹿島」(ごぜがしま)、611「男鹿島」(たんがしま)、643「小鹿島」(こがしま)などです。
 
 前にも述べましたが(1)、表1「全国『鹿島』地名一覧」のうち、富山県砺波市の551「鹿島」は「かのしま」と読んでいます。また、佐賀県杵島郡白石町深浦の664「鹿島」665「鹿島籠」は「しかしま」「しかしまこもり」と読んでいます。前者は、川中島であり、鹿の伝承から地名がついたとされていること、近くに「神島(かみじま)」もあったことから(「神島」は一覧表には入れていません)、何らか「鹿島(かしま)」に繋がってくるものではないかと考えて、後者は、佐賀県鹿島市の660「鹿島」と塩田川を挟んで隣り合っていることから関係のある地名ではないかと判断したので一覧表に入れたものです。
 
 山梨県には、南巨摩郡富士川町に565「羽鹿島(初鹿島)」、同早川町に566「初鹿島」があり、どちらも「はじかじま」とよんでいます。富士川町の方は、「波之架島」「端処島」にちなむかと由来を記し、現在では「鹿島」地区と称しています。早川町も「鹿島の美称とする説がある」としているので、「はじ(はつ)_かじま」のようですが、「はじ(はつ)_しかじま」からの転訛でもおかしくはありません。
 
 長崎県の地名は、新たに見つけた地名もあって、改めて『日本の島事典』『島嶼大事典』などで読みを確認しなおしましたが、「しかしま」と呼ぶものが多いようです。古代地名としてあげた669「鹿嶋」は、「しかしま」とルビがふられています。同様に、円仁『入唐求法巡礼行』にも円仁が中国から帰り着いた島として「肥前国松浦郡の北界鹿島に到って船を泊す」とあり、「しかしま」とルビがふられています。二つが同じ所か違うのかはまだわかっていません(2)。南松浦郡新五島町の670「男鹿島」は「おしかじま」、対馬市の671「鹿島」も「しかじま」「しかのしま」と呼ばれています。大村市松原にも「鹿島」(しかしま)がありました。しかし、諫早市多良見町の666「鹿島」平戸市獅子町の667「鹿島」668「鹿島川」は「かしま」でよさそうです。(3)
 
 全国の地名の読みは、こうした若干の例外「かのしま」「しかしま」を除いて、「か_しま(じま)」だと言って良いと思います。しかも、この若干の例外も、全く無関係な読み方とは考えられません。この例外的な読み方も視野に入れることによって、「鹿島」のとらえ方が変わってくるのではないかと思います。(4)
 
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 地名の表記(用字)は、ほとんどが「鹿島」「鹿嶋」と表記していて、「しま(じま)」の表記は「島」「嶋」がほとんどです。「嶌」字が68、470、471の三カ所あるだけです。

 「嶋」も「嶌」も、「島」の異体字なのでこの三つは同じものを指します。(5)

 また、「島」と「嶋」は同じ地域で両方とも使われていることもあります。群馬県藤岡市上日野の470471「鹿嶌」は現在は「鹿島」になっています。宮城県東松島市宮戸の68「鹿嶌」だけが今も「嶌」表記になっています。
 
 「島」は、意味としては、海や川などの水にまわりを囲まれた地のこと、特定の一区画をなしている地をさす語といいます。谷川などの多いわが国では水をめぐらして孤立するような土地が多かったので、日本語の「しま」は、海島に限らず、水がその周辺に迫っていて自然に一区画をなすところをいったものといわれています(6)。
 
 表1「全国『鹿島』地名一覧」を見ると直ちにわかることですが、海や川や湖の中の「島」地はさほど多くはありません。しかし、低地や湿地に望む岡や山地で、「水がその周辺に迫っていて自然に一区画をなすところ」(6)というのが多いのではないかという印象があります。とは言え、従来いわれているよりもはるかに海から離れた地域、山間部にも地名は広がっていますので、狭義の島地にあまりこだわらない方がよいと思っています。このことについては、別途検討するつもりです。
 
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 問題は、「か」の表記の問題です。
 
 全国的には、ほとんど「鹿島」「鹿嶋」ですので、「鹿」字の表記が圧倒的に多いといえます。数をあげますと、全677地名のうち638地名までが、単純に「鹿」字表記です。
 
 しかしながら、違う表記の「かしま」が39地名あります。

 そこで、この違う表記の「鹿島」地名を見てみたいと思います。

 まず、仮名表記のところがあります(7)。
  山形県東村山郡山辺町三河尻一本杉97「カシマ」
  茨城県土浦市三高津入会地293「カシマ」
  同県つくば市上ノ室309・315・316「カシマネ(根、子)」
            310・312・313・314「カシマクボ(窪、久保)」(8)
  愛知県北設楽郡設楽町田口592「カシマ」
  島根県大社町日御碕の二つの619・620「カ島」
  高知県宿毛市山奈町山田648「カジマ」
  同平田町黒川654「カシマ山」
の7カ所、14地名です。

 これらが、果たして「鹿島(嶋)」ではないのかどうか、「鹿島(嶋)」に関係のない「かしま」なのかどうか、今のところはっきりわかっていません。おそらく一般的にほとんど「鹿島(嶋)」表記の中で仮名表記をしていますので、あえて仮名にした背景がそれぞれあるはずと思っていますが、まだ充分確認できていません。
 
 関東以北の表記は、若干の仮名表記を除くとほぼ「鹿」字表記に統一されているようですが、岩手県北上市の9「鹿島館」が「加島館」とも表記されるとあります。何よりかんじんの茨城県鹿島神宮の地が今日では「鹿」字表記になっているものの、『常陸国風土記』においては「香島(嶋)」などと「香」字の表記になっています。一覧表では395「香島国」だけにしましたが、この問題はこの文章の後半で検討します。
 
 中部地方以西を見ると、「鹿」字以外の表記が比較的多く見られます。
 その場合、
①「鹿」字表記を主としていて、資料によっては別字の表記もあるところ、
② 別字表記を主としていて、資料によっては「鹿」字表記もあるところ、
③「鹿」字を全く使わず、別字の表記だけのところ、
の3種類に分けられます。
 
 まず①、「鹿」字表記を主としているもので、資料によっては別な字の表記もあるとしているものをあげますと、
  石川県七尾市554「鹿嶋津」555「鹿嶋郷」は、「香嶋津」「加嶋津」「加嶋郷」とも
  石川県白山市561「鹿島町」は、「加島」とも
  石川県加賀市塩屋町564「鹿島の森」は、「加島」とも
  静岡県浜松市天竜区二俣町584「鹿島」は、「加島」とも
  愛媛県県松山市北条辻637「鹿島」は、「賀嶋」とも
  香川県小豆郡土庄町639「鹿島」は、「賀島」「加島」とも
  高知県幡多郡黒潮町佐賀655「鹿島」は、「加島」とも
  長崎県諫早市多良見町舟津666「鹿島」は、「加島」とも
以上の9地名、554「鹿嶋津」555「鹿嶋郷」は大体同じ地域(同一ではないが)を指していますので地域としては8カ所です。

 これらは主に「鹿島(嶋)」であって、資料によっては「香嶋」「加島」「賀島」に表記されることもあるというものです。「鹿」も単に「香」「加」「賀」と同じ音を記す字ということなのでしょうか、それとも「鹿」字に重みが多少はあるのでしょうか、一つ一つの表記の事例を丹念に確認していく必要があります。
 
 次に②、逆に別字表記を主として、資料によっては「鹿」字表記もあるとしたところは、
  和歌山県田辺市新庄町616「神島」は、「鹿島」とも
  広島県福山市神島町624「神島」は、「鹿島」とも
の2地名、2カ所だけです。いずれも「神島」であり、普通「かみしま」「こうのしま」などと読んでいますが、ここは「かしま」としています。逆に考えますと、「かしま」という読みは、「鹿島」の「かしま」からきているものだと思われます。
 
 実は、検討中のため一覧表にはまだ入れていませんでしたが、同様な例で次のような事例もあります。
「筑波山記云、天津児屋根命金鷲ニ駕シテ、天照大神ヲ輔佐シテ常陸ニ下玉フ、常陸本ハ総シテ神島ト云、後ニハ山ノ名トス、彼山ノ頂ニ今ニ伊弉諾伊弉冊一女三男ノ遺跡アリ、諸神初ハ皆彼山ニ天降玉フ、是ヨリ諸國ニ散影マシマス、是ヲ神島起ト云、今旅起ノ名トス」(9)

 常陸国をもとは「神島(かしま)」と言い、後に筑波山を「神島」と呼んだというのです。この話はこの後「鹿島」に続き、「鹿島」の由来を説明していますから、このケースに良く似ています。
 
 ③の全く「鹿」字を使わない、別字の表記の所だけをあげますと、
  静岡県富士市578「賀嶋」、「加島」とも
  愛知県北名古屋市596「加島新田」
  滋賀県滋賀県近江八幡市十王町607「加島」
  京都府京田辺市608「香嶋里」
  大阪府淀川区610「賀島」、「加島」「蟹島」「仮島」「歌島」「神島」とも
  兵庫県姫路市家島町612「加島」
  兵庫県豊岡市竹野町竹野614「賀島山」
  島根県松江市嫁島町618「蚊島」
  岡山県岡山市622「蚊島田邑」
  広島県福山市手城町内625「賀島城」
  広島県尾道市向東町626「加島」、「賀島」とも
  徳島県海部郡海陽町浅川636「加島」637「加島湊」638「加島山」
  愛媛県宇和島市641「嘉島」、「加島」改め
  高知県宿毛市平田町650「賀島村」
の16地名、地域で言いますと14カ所です。
 
 「鹿島(嶋)」以外の表記としては「加島(嶋)」「賀島(嶋)」が多いのですが、「香」「蟹」「仮」「歌」「蚊」「神」「嘉」と様々な漢字が当てられて表記されています。

 ①の、「鹿」字が主に表記されていて、別字の表記もあるとしたところ、②の、別な字を主として、「鹿」字表記もあるとしたところについては、これらは何らか「鹿島」地名との関連性を示しているものと判断して良いと思われます。もちろんどのような関連かはこれだけでは何とも言えない訳ですから、もっと深く個別に歴史的経過や伝承を確かめる必要はあります。
 
 それらを除いて、全く「鹿」字表記のないものだけを数えますと、仮名表記14地名と③の別字表記だけの16地名の計30地名となります。これは中部地方以西、あるいは近畿以西の西日本だけを考えても実はあまり多くはないのです。西日本だけでみますと、全体の地名数が少ないので目立つと言えば目立ちます。しかし、西日本の「鹿」字表記だけの「鹿島」地名をあげますと、全81地名の内61地名がそうなのですから、そうでないものは20地名ときわめて少ないのです。そして、この中で全く「鹿」字表記されないものは、18地名にすぎません。
 
 しかしながら、少ないとはいえ、「鹿」字以外の様々な字を宛てた地名には古代地名が多いとも言えそうです。中部地方以西では、静岡県富士市578「賀嶋」、大阪府610「賀島」、島根県松江市618「蚊島」、岡山県岡山市622「蚊島田邑」がそうであり、京都府京田辺市608「香嶋里」も古い地名です。少ないようですが、より古そうな地名に「鹿」字以外の表記があることは注意しておくべきことと思われます。茨城県の395「香島国」、石川県七尾市の554「鹿嶋津(香嶋津)」なども含めて考えますと、古い段階では様々な字が使われていたものが、次第に「鹿」字に統一されていったものと言えるかもしれません。また、西から東へと次第に「鹿島」に統一されていったとも言えそうです。
 
 ところが、古代地名にも、和歌山県みなべ町615「鹿島」、佐賀県659「鹿島馬牧」、長崎県669「鹿嶋(しかしま)」などの「鹿」字の地名がありますので、ことはそう単純ではないのです。
 
 そこで、古代地名などの歴史的な表記を、もう少し踏み込んで検討してみる必要があります。
 
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 古代「かしま」地名は、主として『古代地名大辞典』(角川書店)からとり、石川県七尾市の556「鹿嶋根」と長崎県の669「鹿嶋(しかしま)」をつけくわえました。ちなみに『古代地名大辞典』には、「しかしま」はなく、「志賀島(しかのしま)」があるだけでした。「志賀島」は「鹿島」との関係は深いのですが、別途検討するつもりでいますので、ここではとりあえずふれないでおきます。京都府608「香嶋里」は古代には入りませんが、条里制に基づく地名であり、「香」字を使っていますので、検討材料として載せました。全16地名ですが、関東から地域順に並べると以下のようになります。
 
  茨城県鹿嶋市   393鹿島郷(かしまのごう)
  茨城県      394鹿島郡(かしまぐん) 香島郡とも
  茨城県      395香島国(かしまのくに)
  茨城県神栖市   397鹿島の崎(かしまのさき)
  石川県七尾市   554鹿嶋津(かしまつ) 加嶋津・香嶋津とも
  石川県      555鹿嶋郷(かしまのごう) 加嶋郷とも
  石川県      556鹿嶋根(かしまね)  原文「所聞多祢」
  静岡県富士市   578賀嶋(かしま) 加島とも
  京都府京田辺市  608香嶋里
  大阪府大阪市   610賀島(かしま) 加島蟹島仮島歌島神島とも
  和歌山県みなべ町 615鹿島(かしま)
  島根県松江市   618蚊島(かしま) 嫁ヶ島
  岡山県岡山市   622蚊島田邑(かしまだのむら)
  広島県      624神島(かしま) 鹿島とも
  佐賀県鹿島市   659鹿島馬牧(かしまのうまのまき)
  長崎県      669鹿嶋(しかしま)
 
 この古代「かしま」地名の歴史的な表記と関連事項を、年代順に並べた一覧表を次に掲げます。
 
  表6. 古代「かしま」地名と関連事項の一覧
垂仁25年2月              「中臣連の遠祖大鹿嶋」(『日本書紀』)
雄略9年(5世紀後半)           岡山県622「蚊嶋田邑」(『日本書紀』)
大化5年(649)             茨城県394「香島(嶋)郡」395「香島国」(『常陸国風土記』)
大宝元年(701)10月持統文武紀伊国行幸  和歌山県615「鹿島」(『萬葉集』巻9)
養老2年以前か養老3~養老6、7年頃   『常陸国風土記』成立
養老4年(720)             『日本書紀』成立
養老6、7年              茨城県397「鹿嶋の埼」394「鹿嶋郡」(巻9)
養老7年(723)             茨城県394「鹿嶋郡」(『続日本紀』)
天平4年(732)4月           石川県555「鹿嶋郷」(平城宮木簡)
天平5年(733)『出雲国風土記』成立   島根県618「蚊嶋」
天平20年(748)大伴家持能登巡行    石川県554「香嶋津」(『萬葉集』巻17)
8世紀半ば 『萬葉集』成立      広島県624「神嶋」(巻13・15)
                   茨城県397「鹿嶋の埼」(巻7)
                   石川県556「所聞多祢」(鹿嶋根 巻16)
延暦24年(805)             長崎県669「鹿嶋」(『日本後紀』巻第12)
延長5年(927)『延喜式』完成      石川県554「加嶋津」
                    佐賀県659「鹿嶋馬牧」
承平年間(931~938)『和名類聚抄』成立 茨城県393「鹿嶋郷」
                    石川県555「加嶋郷」
12世紀初め『遊女記』         大阪府610「蟹島」
久安4年(1148)            大阪府610「賀島荘」
治承4年(1181)10月          静岡県578「賀嶋」(『吾妻鏡』)   
天福2年(1234)              京都府608「香嶋里」
 
 この一覧表では、「垂仁25年」「雄略9年」「大化5年」などはとりあえずそのまま載せ、事実問題としては本文でふれることにします。『常陸国風土記』の成立は、岩波古典文学大系の解説によりました。
 
 ここで示されているように、古代「かしま」地名の中で最も古い年代を示しているものは、岡山県岡山市622「蚊嶋田邑(かしまだのむら)」です。そして、「蚊」の字の「蚊嶋」表記になっています。
 
 『日本書紀』雄略天皇9年条の新羅遠征の話に関連して出てきますが、雄略天皇9年というのは5世紀後半の話と考えて良いだろうと思います。

 話はややこしいのですが、はじめは雄略自身が新羅遠征に行くはずのところ、神が戒めたため、行かないことになり、代わって大将軍紀小弓らを派遣します。ところが紀小弓も妻が亡くなったばかりなのでと嘆いたために、天皇は吉備上道采女大海を与えて新羅遠征に遣わすことになります。しかし戦闘は苦戦し、紀小弓は結局戦病死し、喪に従って采女大海も帰国します。采女大海は大伴大連を通じて墓地を天皇に請うと、大連を通じて墓地を与えられることになります。そこでそのことに喜んで、采女大海は韓奴6人を大伴大連に送ります。「吉備上道の蚊島田邑の家人部は是なり」というのが話の粗筋です。(10)
 
 この話の主筋の新羅遠征は、もう少し苦戦と内紛の経過がありますが、その話に622「蚊島田邑」はあまり関わっていなさそうです。ただ、帰国してから紀小弓の墓地のお礼に吉備国上道郡の622「蚊島田邑」から韓奴6人が送られたということで、622「蚊島田邑」が出てくるだけなのです。この話は、有名な吉備氏の反乱伝承が雄略7年のことですから、それと関係ないとは思えませんが、622「蚊島田邑」に直接何かあるわけではありません。雄略天皇9年のころ、吉備上道臣氏の支配下に622「蚊島田邑」があったということ、そこに韓奴がいたこと、「家人部はこれである」ということがわかるだけです。
 
 この622「蚊島田邑」という地名と表記も、雄略天皇9年のころのものであるかどうかは何とも言えませんが、それを疑う理由も特にありません。その後で出てくる「家人部」については、7世紀後半のものという見解もありますので、それと同じ頃の地名かもしれません(11)。しかし、622「蚊島田邑」と「家人部」を切り離して考えることもできます。『古代地名大辞典』(角川書店)は「奈良期に見える邑名」としていますが、そこまで時期を下ろす必要はないでしょう。しかし、地名「かしまだ」は5世紀後半の地名としても、その表記は、『日本書紀』編纂過程に手が加えられている可能性もないとはいえないでしょう。
 
 ところで、『日本書紀』に出てくる「かしま」地名はこれだけですが、人名の方を見ますと、「鹿嶋」が3人、「蚊島」が1人出てきます。(12)
 
 1人は、垂仁天皇25年2月条「中臣連の遠祖大鹿嶋(おおかしま)」です。岩波書店古典文学大系の注では「常陸の鹿島に関係ある名か」とあります。(13)

 これは垂仁25年を真に受ければ、地名・人名を含めて一番古い年代を示しているものです。しかし、「中臣連の遠祖」の名前ですから、この伝承は、中臣連氏の活躍する時代以降のものと考えるべきでしょう。中臣連氏は、中臣鎌足以前は謎が多そうなので、ここではそれには深入りしませんが、そうすると鎌足以降の伝承と考えるのが無難です。鎌足には有名な常陸国鹿島出生説があります。これはずっと後の時代の『大鏡』に見えるものですが、まさに、そのことをほのめかして「大鹿嶋」と表記したかのように思われます。そうすると、鎌足ら中臣氏は、常陸国鹿島の地名から「大鹿嶋」と表記したことになり、この時点で「大香島」と表記しなかったことが大変重要になります。後にまた述べることになりますが、『常陸国風土記』は大化5年に「香島郡」が建郡(評)されたとし、あたかも大化年代から「香島」表記が存在したかのように書かれています。ところが、これを見ると、おそらくほぼ同じころ、鎌足らは常陸鹿島に関係のある名として「遠祖大鹿嶋」と表記していたということになります。
 
 2人目は、仁賢天皇4年5月条の「的臣蚊嶋(いくはのおみかしま)」で、ここでは「蚊嶋」です。「的臣蚊嶋と穂瓶(ほへ)君は、罪あって皆投獄されて死んだ」という記事ですが、この2人ともよくわからない人物のようです(14)。記事も唐突です。ずっと後の欽明天皇紀の「任那日本府」の話に、「日本府」の最高官として名前のない「的臣」は何度も出てきますが、時代は離れすぎています。しかし、「的臣蚊嶋」は「蚊島田邑」に近い時代の表記として「蚊島」が同じであり、後の「的臣」は「吉備臣」と共に「任那日本府」の責任者として活躍しています。朝鮮問題と吉備氏との関係が、同じ「蚊嶋」表記の事情につながりそうな気がします。
 
 3人目は、斉明天皇5年(659)3月条の阿倍比羅夫の蝦夷遠征の中に出てくる「問菟の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)」です(15)。これは「いかしま」という名前に「鹿嶋」という文字をあてただけかもしれませんが、蝦夷の首長に「鹿嶋」字をあてておかしいとは思わない感覚があったのではないかと思われ、興味深いものがあります。
 
 4人目は、持統天皇6年(692)7月2日条の「鹿嶋臣?樟(かしまのおみくす)」、相模国御浦(三浦)郡の住人で、赤烏を捕らえて献じたとして出てきます。岩波の注では「系不詳」になっています(16)。神奈川県横須賀市長坂に、地名の548「鹿島」がありますので、関係あるかもしれません。関東の人名「鹿嶋」ということで注目すべきものと考えます。

 これらの表記の人名を見ますと、一般的に人名は地名と関係あるものと思われますので、遅くも7世紀には地名の「鹿嶋」表記が存在したと考えられるのではないかと思います。しかし、それよりもやや古く「蚊嶋」表記があったかのように『日本書紀』は記しています。
 
 地名に戻りますと、622「蚊島田邑」の「蚊島」は、島根県松江市の618「蚊島」と同一の表記です。松江市の618「蚊島」は『出雲国風土記』意宇郡条に出ていますが、
「野代の海の中に蚊嶋あり。周り六十歩なり。中央はくろ土にして、四方は並びに礒なり。中央に手掬許りなる木一株あるのみなり。その礒に蚊あり。螺子・海松あり。」(17)
とあるだけです。
 
 「野代の海」が宍道湖のことで、湖中のただ一つの島が618「蚊嶋」です。そして「その礒に蚊あり」とあって、ここでは蚊がいるので618「蚊嶋」と呼んだかのように記されています。
 
 ところが、「蚊あり」の「有蚊」の2文字は、写本の系統によってはないのです(18)。実際に文脈から見て唐突な記載です。「有蚊」が『出雲国風土記』の本来の記述にないとしますと、これは「蚊」の字の理屈を後付けしたものと思われ、618「蚊嶋」は、本来は「蚊」字を宛てただけの「か島」の可能性が高くなります。
 
 『出雲国風土記』の成立は天平5年(733)ですから、この618「蚊島」は8世紀の前半の表記として考えられます。
 
 622「蚊島田邑」と618「蚊島」のこの二つの「蚊島」地名は、古い表記ですが、全国の「かしま」地名を見渡した時、地名では二つだけで他には全くありません。地名の表記として何らか特別な意味を持つものならば、もう少し各地に同じ表記の「蚊島」地名が残っていても良いはずですが、他には見当たりません。『日本書紀』と『出雲国風土記』だけの表記です。吉備国と出雲国は関係が深いので、何か共通の事情があったのかもしれません。
 
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 そこで問題は、この二つの「蚊嶋」を、果たして「鹿島」地名として考えて良いかどうかということになります。たまたま「かしま」「かしまだ」と同音に読んでいるだけのものかもしれません。
 
 『角川日本地名大辞典 33岡山県』は、622「蚊島田邑」について「現在地は不明だが、現在の岡山市のうち竜ノ口山付近に比定する説がある。」と述べています。そして「小字一覧」には岡山市の宿村に623「鹿嶋田」があり、「宿」の項には「蚊島田の蚊島綱留神社跡は、昔海であった時代に船人が纜を巻いた所であるという伝承がある。」と書かれています(19)。現在の岡山市東区古都宿のことです。なお平凡社『岡山県の地名』はなぜか622「蚊島田邑」の項目はありません。
 
 『岡山縣上道郡古都村史』『可知郷土史』『上道郡誌』など(20)によると、江戸後期の国学者・歌人である平賀元義の『備前国上道郡都紀郷金岡東荘金岡村考証』にもとづき、「蚊島田邑」は、古都村の「蚊島田」が遺称地であること、近くの「けし山」(現在は芥子山けしごやま)は「蚊島山」の転訛であり、大多羅の布施神社の鎮座地を「蚊島」といっていたことなどをあげ、『日本書紀』韓奴6人の名前のうち2人の名前がこの地の地名にあたるなどと述べています。さらに『岡山縣上道郡古都村史』は、これをふまえて「蚊島綱留神社跡」の項において、
 「大字宿に蚊島田といふ小字がある。こゝに蚊島綱留神社という小祠があった。毎年五月十七日には簡単な祭事を行い、余興としては村の少年たちの相撲などをとっていた。七、八年前にこの社は岡屋八幡宮の境内に移した。
 昔このあたりが海であった時代舟人が纜を巻いた所であるとの伝説がある。境内に二抱もある老松があったが、松食虫のため、おしくも枯死した。松の根元に自然石で扁平な石柱が斜に立つている。昔からこの石に触れると神罰があると恐れて手を触れるものもなく、今も尚草むらに埋れている。
 蚊島神も以前は霊験あらたかであるといって参詣人も多く、境内には参籠社のためにおこもりもできるような堂宇もあり、巫女も住んでいた。今は社域跡は開拓せられて果樹園と化し、昔の面影は知るよしもない。
 土地台帳には蚊島田を鹿島田と記されている、何れが正しきか。」(21)
と述べています。
 
 土地台帳では小字「鹿島田」表記であり、私が調べた限りでも岡山県には他に622「蚊島田邑」に当てはまる地名は見当たりません。
 
 その上この地には、「蚊島綱留神社」という歴史的に由緒のある、霊験あらたかな神社が近年まで存在したのです。岡山県は、近世に寄宮ということで、小社などを淫祀邪教として大幅に整理した歴史がありますが、それにもかかわらずこの神社は、昭和33年出版の『岡山縣上道郡古都村史』の7・8年前まで、つまり1950年代ごろまでここに存続していたということです。ちなみに祭神は、少童神(わだつみのかみ)と速秋津姫神の二神で、どちらも海神系の神であることが鹿島信仰に繋がるとも見られ、興味深いものと言えます。
 
 江戸時代後期の国学者平賀元義は、この地を何度も訪れ、622「蚊島田邑」の考証を行いました。平賀元義は国学者なので『日本書紀』の表記をひたすら尊重し、「蚊島」「蚊島田」「蚊島山」とすべて「蚊」字で表記しています。そのためこれに依拠した『岡山縣上道郡古都村史』は、土地台帳の表記と「何れが正しきか。」と悩んでしまっているのです。ここでは「蚊島田」の遺称地は「鹿島田」になっています。私はきわめて妥当な見解と思っていますが、地名辞典は微妙な表現になっています。なお大多羅の布施神社の鎮座地「蚊島」は、その周辺を含めて今日では「鹿島公園」となっています。これについては地元の研究者が「全く新しい字をはめたのは、改悪」と厳しく批判しています(22)。
 
 「蚊」は、虫の「蚊」、血を吸う「蚊」のことですので、あまり気持ちの良い字ではありません。しかし、『万葉集』では「訓借字として助詞の「か」に用いられることが多い」とされ、人名にも「吉備國の蚊屋采女を娶して、蚊屋皇子を生しませり。」(『日本書紀』舒明天皇二年正月)の例があり、「蚊屋はのち賀陽とかかれ、また鹿屋・賀野・賀夜という地名もあり、蚊屋はもとよりあて字である。」といいます。(23)
 
 地名としては他に滋賀県「蚊屋野」、鳥取県「蚊屋郷」の例もあります(24)。人名では「的臣蚊嶋」もありました。
 
 滋賀県の「蚊屋野」は、これも雄略天皇に関わりますが、即位前紀で市辺押磐皇子を狩りに誘って射殺し、「帳内(とねり)」も共に殺して一緒に埋めたところの地名です。後に市辺押磐皇子の子の顕宗天皇と「皇太子億計(後の仁賢天皇)」が掘り出して改葬した凄惨な話が『日本書紀』にはあります。現在は「小さい社のある蚊屋野森がある」ということです(24)。また、前に述べましたように、「的臣蚊嶋」は罪あって獄死しています。
 
 「賀」や「鹿」のかわりに、「蚊」の字が使われることもあったというのですが、私は用例がほとんど「蚊屋」の場合であること、「的臣蚊嶋」は「蚊屋」ではありませんが、後に出てくる「的臣」は「任那日本府」つまり伽耶に深く関係していたこと、しかも、不吉なエピソードが2例あるというのがいささか気になります。
 
 「蚊屋」は、朝鮮の伽耶地域、『日本書紀』では任那と呼ばれた地域からきているものと言われます。吉備国の上道氏と始祖を同じくするという香屋(賀夜、賀陽など)氏にかかわるものだけに、この「蚊」字表記は何か意図的なものがないかと思うのです。実際、吉備国では地名も人名も、この後は「賀夜」「賀陽」と表記されるようになっていきます。
 
 島根県の「蚊島」は、現在は「嫁(よめ)ケ島」と呼ばれています。「蚊島」が「嫁島(かしま)」となり、「嫁(よめ)ヶ島」となったといいます。経過は不明ですが、「蚊」の字が避けられたと見て良いのではないでしょうか。

 関和彦『出雲国風土記註論』においても、この「蚊島」について、「『蚊』といえば『枕草子』の清少納言が『いとにくけれ』とあげた害虫であり、何故風光明媚な観光スポットとして人気のある島を古代人は『蚊』の字を当てたのかという疑問が残る。」として検討しています。しかし結論は、「『蚊』が『か』の借字とするならば想定できるのは『鹿島』『香島』『加島』『茅島』等であるが、一番可能性が高いのは『茅島』ではなかろうか。」と述べて終わっています。他三つは「鹿島」地名と言っても良いと思いますが、この可能性はなぜないのか、「茅島」は普通「かやしま」であって、どうやって「嫁ケ島」になるのか、不明のまま、結論は一番可能性の低いものにしてしまっています。(25)
 
 私は、この島は近世に雨乞いをしたことも有り、「島には竹生島神社があり、市来島姫を祀る。江戸時代以降、竹生島神社は婦人病に霊験があるとして女性の参拝者が多かった。」とも言われていて(26)、宗教的な聖地であることに注目します。現在は観光スポットとしても、美しい夕日のスポットになっているということです。私は、ここに鹿島信仰に関連するものがないだろうかと考えていますが、残念ながら、今のところこれ以上の材料はありません。
 
 岡山県の「蚊島田」については、現在小字の「鹿島田」もあり、全国の地名で16カ所ある「鹿島田」と同類の地名とみて良いのではないかと思います。さらに芥子山が「蚊島山」ならば、全国で38カ所の地名と、10数カ所ほどのお寺の山号「鹿島山」(賀島山などを含む)と同類の地名になります。
 
 芥子山について、薬師寺慎一は備前国の中心の「聖なる山」であると述べ、その理由を「一つは『備前富士』と呼ばれるようにその山容が美しいことです。二つめは、この山から昇る冬至の朝日を拝むことのできる位置に備前総社宮が設けられていることです。・・・三つめは・・・芥子山は西大寺観音院の奥ノ院と考えられます。」と言っています。裸祭で名高い西大寺の奪い合いになる宝木は芥子山で採取され、「会陽に先立ち、観音院の使者が夜中に芥子山の中腹の如法寺に詣でて、宝木を受け取るのです。」と言い、如法寺の背後の巨岩と山頂の巨岩をイワクラだと見ています。そして「換言すれば、西大寺観音院が辺ツ宮、中腹の本堂(背後のイワクラ)が中ツ宮、芥子山山頂にあった本堂(イワクラ)が奥ツ宮という関係になっていたとみることもできます。」(27)というのです。 実際に、山頂は岩倉であって、今も祠が祀られています。まさしく宗教的な聖地です。したがって、「鹿島山」という地名が実にふさわしい所であるわけです。「鹿島山」については、別に論ずる予定でいますが、茨城県鹿島神宮の所在地の小字も「鹿島山」です。
 
 西大寺修正会で読み上げられる『備前国神名帳』では、「国内に祝ハレ給フ鎮守諸大明神百廿五社」の最後に「小豆嶋郡坐二社」があり、「従五位上 賀嶋玉比呼ノ明神」が出てきます(28)。今では小豆島は香川県ですが、古代では「はじめ吉備国、のち備前国」に入っていました。この小豆島の前島地域の土庄町に「鹿島」の集落があり、小字639「鹿島」・640「鹿島奥」もあります(29)。神社は、現社名「鹿島神社」で、おもしろいことに祭神は「玉依比売命」です。もう一坐も「正五位上玉比呼ノ明神」で、現社名は「玉依姫神社」、祭神は「玉依姫命」です。大事なことは、西大寺の『備前国神名帳』に、小豆島といささか遠いかもしれませんが、「賀嶋玉比呼ノ明神」が祀られ、祭神は男女が混乱していますが、海神だということでしょう。(28)
 
 「旧上道郡の総社に比定される」という福岡神社は、岡山市東区浅川にあり、「蚊島田邑」の近くにあります。ここの祭神は「武甕槌神 経津主神」などで、もと「大宮春日大明神」と言われていたということです。神社は三笠山という所にあり、そこは「上道氏の流れをくむ豪族の前方後円墳と伝える」と言います。(30)
 
 以上は断片的なものでしかありませんが、最初地名を集めた時、岡山県に孤立したようにあった622「蚊島田邑」の地名が、調べていくといくつか「鹿島」に繋がる材料が見つかってきました。こうした断片をていねいに集めていくことによって、従来見逃していたものが見つかってくるのではないかと思います。
 
 私は、全国の地名で考えると、『日本書紀』が「かしま」の「鹿」字を「蚊」字であてて表記したと考えられないだろうかと思います。そして島根県の618「蚊島」も、同様に「鹿島」地名として考えられるのではないか、と。
 
 しかし、622「蚊島田邑」と618「蚊島」は8世紀前半より前の表記ですから、近世以降の小字「鹿島田」等の地名と断片的な材料だけで、そこまで論ずるのはなお飛躍しすぎというべきでしょう。ここでは、とりあえず最も古い「かしま」地名が岡山県の622「蚊嶋田邑」であることを押さえ、622「蚊嶋田邑」や618「蚊島」が、「鹿島」地名に関係する可能性のあるものとしておくに止めておくことにします。
 
    6
 全国で最も古い「鹿島」表記の地名は、『萬葉集』巻第九に出てくる和歌山県の次の歌の「鹿嶋」です。
 「三名部の浦 潮な満ちそね 鹿嶋なる 釣する海人を 見て帰り来む」(1669)
 
 これは、大宝元年(701)冬十月に持統天皇と孫の文武天皇が紀伊国牟呂温泉へ行幸したときの歌十三首のうちにあります(31)。この「鹿嶋」は、和歌山県日高郡みなべ町埴田の沖合の615「鹿島」とされています。したがって大宝元年の頃の表記として「鹿嶋」があったと見て良いのではないかと思います。全国的に見た場合の、「鹿島(嶋)」表記の地名の初見ということになります。(32)
 
 ところで『萬葉集』では、地名・人名の「かしま」がどうなっているか、ここでまとめておきます。
 
 「鹿嶋」だけの地名は、先の「三名部の浦・・・」(1669)の和歌山県のものだけです。
 
 茨城県「鹿島」は、「鹿嶋の崎」が2カ所(1174 1780)と「鹿嶋郡」が1780の題詞に、そして「可志麻能可美」(4370 かしまのかみ)と、4地名(一つは神の名ですが)です。
 
 石川県の能登は、「香嶋」(4027)「香嶋津」(4026題詞)と、「所聞多祢」(3880 かしまね)の3地名です。
 
 そして「神島」は、「神嶋」(3599)「備後国神嶋浜」(3339題詞)を「かみしま」とよみ、「所聞海」(3336)を「かしま」とよみますが、3地名です。
 
 以上、4カ所、10地名あります。人名はありません。「鹿嶋」表記が一番多いのですが、4地名あります。
 
 「三名部の浦・・・」(1669)と同じ『萬葉集』巻第九には、高橋虫麻呂の「鹿嶋郡の刈野橋にして、大伴卿を別るる歌一首併せて短歌」として、
 「牡牛の 三宅の潟に さし向かふ 鹿嶋の崎に さ丹塗りの 小舟を設け 玉巻きの小梶しじ貫き 夕潮の ・・・」(1780)
があり、ここに茨城県の「鹿島」が、394「鹿嶋郡」397「鹿嶋の崎」と表記されています。検税使の大伴卿が常陸国にやって来て、別れるときの歌ということです。大伴卿は大伴旅人のことであり、この歌が作られたのは養老6、7年(722、3)の夏と推定されています(33)。
 
 作者高橋虫麻呂については、
「藤原不比等の第3子宇合は、養老3年(719)から数年間、常陸(茨城県)の国守の任にあり、その間、養老3年7月に設けられた按察使を兼任、常陸守として安房(千葉県南部)、上総(千葉県中部)、下総(千葉県北部・茨城県南部)を管した。高橋虫麻呂は、この宇合に供奉して東国で暮らす経験を持ったらしく、以下、宇合の足跡に対応して、東国に素材を取る歌が多数見られる。」(34)といわれ、この宇合のもとで『常陸国風土記』の編纂に関わったという説もあります。(35) 
 
 大事なことは、高橋虫麻呂が、数年間常陸国を中心にして東国で暮らしていたことがうかがわれることで、その上で、「鹿島」地名を394「鹿嶋郡」397「鹿嶋の崎」と表記していることです。『常陸国風土記』編纂に関わったとしたら、それとほぼ同じ時に、自分の歌では「鹿嶋」と表記していたわけです。関わっていなければ、純粋に当時の地名を表記しただけのことでしょう。したがって、茨城県の「鹿島」地名も、「鹿島(嶋)」表記が本来のものであったことがここからもいえます。
 
 また巻第七には、古歌として、
 「霰降り 鹿嶋の崎を 波高み 過ぎてや行かむ 恋しきものを」(1174)
と、同じ「鹿嶋の崎」を歌い、表記も同じ歌があります。これはもう少し古い時代の歌のようです。以上が「鹿嶋」地名のものです。
 
 なお、巻第二十の防人歌の中には有名な、
 「霰降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍士に 我は来にしを」(4370)
の歌がありますが、この原文は「鹿島の神」を「可志麻能可美」と表記しています。これは表記の問題としては当面省いて考えて良いものです。
 
 『萬葉集』の巻第十六までは、8世紀の半ばには成立したとされていますが(36)、以上述べたように、8世紀初めには和歌山県615「鹿島」、前半には茨城県「鹿島」の地名の表記がすでにあったと言えるのではないでしょうか。
 
 石川県の能登の「鹿島(嶋)」は、巻第十七に、天平20年(748)に越中守大伴家持が春の出挙にあたって能登の諸郡を巡行した際、「能登郡にして香嶋の津より船発し、熊来村をさして往く時に作る歌二首」の一つに
「香嶋より 熊来をさして 漕ぐ舟の 梶取る間なく 都し思ほゆ」(4027)
と「香嶋の津」「香嶋」と「香」の字で表記されています。
 
 もう一つは、「能登国の歌三首」の内の一首に、
 「香島根の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て ・・・」(3880)
とあります。岩波書店の新日本古典文学大系では「香島嶺」としていますが、原文は「所聞多祢」です。「聞こえることが多い意で、形容詞カシマシの語幹と同音の地名にかけた
」と述べています。問題は原文の表記ですから、これも省いて考えて良いものですが、読みの「かしまね」は「神嶋」の読みに関係していきます。(37)
 
 この「香嶋」表記についてはすでに述べましたが、平城宮跡などの出土木簡の、天平4年(732)4月17日と天平8年4月10日および同8月4日のものなどに「能登国能登郡鹿嶋郷」とあることから、本来の地名は555「鹿嶋郷」であり、554「鹿嶋の津」であることが明らかになっています。(38) したがって、『萬葉集』の「香嶋」「香嶋津」の表記は、歌の作者であり、『萬葉集』編者とも言われる大伴家持の何らかの判断による表記であって、地名そのものではないと考えられます。国守の国誉めの歌でしょうから、文字一つの用い方に小さくない意図があると思われます。
 
 なおここは、『延喜式』では「加嶋津」、『和名類聚抄』では「加嶋郷」になりますが、中世には「能登郡」が「鹿島郡」となっています。『古代地名大辞典』(角川書店)は、「郷名は中世に郡名に継承されるが、荘・保名や村名に遺称地がない。」(39)としています。
 
 現在の地名では、鳳珠郡穴水町の552「鹿島」553「鹿島川」と羽咋市鹿島路町の557「鹿島路」の3地名があり、一覧表に載せました。穴水町と鹿島路町では随分離れていますが、どちらも中世は鹿島郡に属していると思われます。中心の「鹿嶋津」「鹿嶋郷」が諸説あって、いささかわからなくなってしまっていますが、これらは「鹿嶋」地名の遺称地にならないでしょうか。(40)
 
 広島県の624「神島」は、巻第十三の長歌(3339)の題詞に「備後国神嶋浜にして、調使首、屍を見て作る歌一首」と出ているものです。また巻第十五には
「月読の 光を清み 神嶋の 磯間の浦ゆ 舟出す我は」(3599)
の「神嶋」もあります。
 
 ここは、異説もありますが、現在の福山市神島町といわれています。どちらも「かみしま」と読まれています。和歌の語調から言って普通は「かみしま」と読むのかもしれませんが、地名は明確に「かしま」と言っています。「地名は、倭姫命が神鏡を奉じて神村(名方浜)へ入るとき、当地の磯間の浦を通過した故事に由来し、神跡が神島に転訛したという。一説によると神の済とも呼んだという。また鹿島と書いたものもあり、『かむしま』と呼ぶともいう。」(41)とあります。元和5年「知行帳」や元禄12年の備前検地には「鹿島村」と表記したものもあるというのが注目されます。(42)
 
 「調使首」の歌の前に一連のものとして、「かしまの海」を歌ったものがあります。
 「鳥が音の かしまの海に 高山を 隔てになして 沖つ藻を・・・・」(3336)
 ここは、原文は「所聞海」です。注によると、「能登の地名のカシマネを『所聞多祢』(3880)と書いた例があるのに準じてカシマノウミと読む説による。異伝歌3339の詠まれた備後の『神島かみしま』は現在カシマと呼ばれている。」(43)としています。ここはカシマシから「かしま」と読んだのですから、どうしても「かみしま」にはならないでしょう。
 
 「神島」を「かしま」と呼ぶ地名としては、他には和歌山県田辺市新庄町の616「神島」があります。南方熊楠による自然保護で有名な島ですが、みなべ町615「鹿島」の二つ隣の湾にあり、「南部町沖の鹿島と田辺の神島を、昔おおびとが担ってきて、天神崎で荷を下ろしたので同じような島がふたつできたのだといわれている」(44)と密接なつながりのあることを伝えています。ここも、近世の文献で「土人この島を鹿嶋といふ」とあり、地名辞典では祭神不詳となっていますが、やはり近世の別な文献では「賀島の明神」「鹿嶋明神」ともあるといいます。(45)
 
 また常陸国にも「神島」すなわち「鹿島」の例がありました(9)。ここでは、「神島」を「かしま」と読んでいることの背景に、「鹿島」があるということが大変重要なことではないでしょうか。
 
 以上、『萬葉集』の「かしま」地名は、8世紀初めから基本的に「鹿島(嶋)」でした。「神島」も地名としては、「鹿島」と関係していて、「かしま」と読むのが正しいと思われます。
 
    7
 そこで、最後に、茨城県の『常陸国風土記』の「かしま」地名の表記を検討してみます。
 
 『常陸国風土記』は、信太郡条に「香嶋之大神」、茨城郡条に「香嶋郡」、行方郡条に「香島神子之社」・「向香島陸之駅道」・「香島行方二郡」・「香島香取二神子之社」・「香島神子之社」、香島郡条に「香島郡」・「那賀香島之堺」・「香島天之大神」・「香島之国」・「香島天之大神」・「香島之宮」・「豊香嶋之宮」・「香島国」・「香島之神山」、那賀郡条に「香島茨城郡」とあります(46)。言うまでもなく、地名としては「香島(嶋)」と「香」の字の表記になっています。
 
 人名では、行方郡の条に「建借間(かしま)命」が出てきます。しかし、「香島」とも、「鹿島」とも名乗っていないことに意味がありそうです。(47)
 
 ちなみに、『風土記』全体の「かしま」の地名・人名を調べてみましたが、『五風土記』では、『出雲国風土記』の618「蚊島」だけでした。逸文では、伊勢国「安佐賀社(参考)」に倭姫命の関係で「中臣の大鹿嶋命」(『大神宮儀式解』)がありました(48)。これは『日本書紀』の垂仁25年2月条「中臣連の遠祖大鹿嶋」と同じ人物を指していると思われます。
 
 ところで『常陸国風土記』は、良く知られているところですが、
 「古老の曰へらく、難波の長柄の豊前の大朝に馭宇しめしし天皇のみ世、己酉の年に、大乙上中臣の□子、大乙下中臣部の兎子等、惣領高向の大夫に請ひて、下総の国海上の国の造の部内、軽野より以南の一里と、那賀の国の造の部内、寒田より以北の五里とを割きて、別に神の郡を置きき。その処に有ませる天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社の三処を合はせて、惣べてを香島の天の大神と称ふ。因りて郡に名づく。風俗の説に霰零る香島の国と云ふ。」
とあり、孝徳天皇の大化5年(649)、中臣氏等が惣領高向氏にお願いして、下総海上国造の支配下から1里、那賀国造の支配下から5里を分割して、「神郡」として「香島郡」を置いた。「香島の天の大神」によって「香島郡」の名前がついた。土地の言い習わしでは「霰零る香島の国」と言っている、と言っています。
 
 ここでは、土地の人々が「香島の国」と言っていた土地を、下総海上国造と那賀国造が分割支配していたらしく、この時改めて再編して「香島郡」としたのだというのです。
 
 この「建郡」については、『常陸国風土記』の「建郡」記事の問題として大化の改新論の中でさまざまな見解が出ています。「古老の曰へらく」と話全体をくくっていること、「評」を「郡」と表記していること、冠位が後の時代のものと思われること等、大化5年の事実としては考えにくいようです。今、この論争の内容にはにわかには立ち入れませんが、「かしま」地名の問題として『日本書紀』の人名表記と併せて考えるならば、おおまかに7世紀の後半には地名があったと考えても問題はないでしょう。(49)
 
 しかし、問題は、「香島」という表記が、その頃あったかどうかということです。少なくとも、「評」が「郡」に表記されていることなどを考えると、『常陸風土記』編纂過程において「香島」表記になった可能性は強いと思わざるをえません。
 
 したがって、当然検討されなければならないことは、『風土記』編纂については「畿内と七つ道との諸々の国・郡・郷、名は好き字を著けよ。」と、わざわざ「国名・郡名・郷名に好い字をつけよ」と命じていることです。ですから、どの「国名・郡名・郷名」も、『風土記』編纂にあたって「好い字」に変えられていないかどうかの検討が、一旦は必要なことになります。「香島」はまさにその例になるでしょう。「鹿」字が「香」字に変更されなかったかどうかです。
 
 『茨城県の地名』(平凡社)は、
 「郡名は神宮が天の大神・坂戸・沼尾の三社を総称して『香島の大神』(常陸国風土記)と称えたところから『香島郡』と称したが、『続日本紀』養老7年11月16日条に『鹿嶋郡』とみえるので、8世紀初頭までに現名に改称されたと思われる。」(50)
と解釈しています。7世紀は「香島」、8世紀になって「鹿嶋」と代わったというのです。このような見解は結構流布していますが(51)、本当にそういえるでしょうか。

 すでに述べたように、『日本書紀』の垂仁25年2月条「中臣連の遠祖大鹿嶋」は、中臣氏の系図などにもあり、地名にもとづく人名であろうと思います。これは他ならぬ「鹿嶋」表記です。そして、少なくとも中臣連氏の活躍が明確になる中臣鎌足の時代、およそ大化のころには「遠祖大鹿島」の伝承をはっきりもっていたと思われます。上の『常陸国風土記』の引用にある「中臣の□子」は「鎌子」(鎌足)説もあるということで、先にも述べたように、中臣(藤原)鎌足の鹿島出生説もあるということですし、何より「香島郡」建郡(評)に中臣・中臣部氏が関わっているわけですから、「香島」地名が正しい地名ならばいっそう「遠祖大香島」にならなければつじつまはあいません。
 
 『日本書紀』の「かしま」は、地名では「蚊島田」だけで他は人名でしたが、7世紀後半には「鹿島」地名が存在することをうかがわせるものでした。大化5年に「香島」表記が仮りにあったとしても、「蚊島」「鹿島」の表記はそれより先行するか、併行するかしていたことは確かです。
 
 それでは、確実な地名資料になる木簡や墨書土器では「香島」「鹿島」が出ているのでしょうか。
 
 残念ながら7世紀のものはないようですが、8~9世紀のものはいくつもでています。『木簡地名集成』には、年次は不明ですが、3点平城宮木簡が出ています。いずれも「鹿島郡」「鹿島」と書かれたものです。『墨書土器地名集成』の方は、鹿島市の遺跡から何百点もの墨書土器が出ていて、その中に「鹿厨」「鹿島郡厨」と書かれたものが多数出ているようです。いずれも「香島」に関したものは出ていません。この客観的な地名の史料には、「鹿」字しか出土していないということです。(52)
 
 地名については、他に「香島(嶋)」はないのかどうかと私も探しましたが、全国の地名としては、石川県の「香嶋」「香嶋津」と、京都府の「香嶋里」の2カ所だけです。
 
 そして、これも既に述べましたように、石川県の「香嶋」「香嶋津」は大伴家持の歌と題詞の表記のみで、地名としては「鹿嶋」表記が本来のものでした。
 
 京都府の「香島里」は古代の条里制に基づく地名ですが、天福2年(1234)「僧円定田地寄進状」(53)という文書にだけ見られる地名で、現在の京田辺市大住付近に比定されています。この寄進状の「僧円定」の寄進先は東大寺ですが、大住郷は鎌倉時代にはほとんどが興福寺領大住荘であり、一部が石清水八幡宮領・東大寺領であったといいます。春日社の神人が居住していたといいますから(54)、藤原氏の関係は大変深かったらしく、そこからこの地名がついたものと推測できます。しかし、これ以上のことはよくわかりません。この「香島里」は、現在の地名としてはありませんし、この天福2年の寄進状だけの地名です。『常陸風土記』の「香島」が残った地名としては、時間も距離もありすぎるので、後にふれる藤原氏の関係として考えるのが妥当なものと思います。
 
 「香島」地名について、やはり不思議だと思うことは、全国の鹿島神社や苗裔神とされる神社の表記にも今のところ見つかっていないことです。何の影響もなさそうです。『常陸国風土記』の「香嶋」「香嶋津」が、普通に地名として存在していたのなら、現在の地名としてもいくらかは残存しているはずであり、神社名などにはいくつも残っていなければならないと思うのですが、それがありません。それが全国の「かしま」地名を調べ、関連して神社も調べてきたことからの率直な感想です。
 
 久信田喜一「古代常陸国鹿嶋郡鹿嶋郷について」(55)は、「鹿嶋郷」の検討に際して、「『カシマ』の表記の変遷」として奈良・平安時代の、地名だけではいない「カシマ」の事例を詳細にあげて考察しています。それによると、
「『カシマ』の表記は、『常陸国風土記』には、『香島』もしくは『香嶋』という表記が用いられており、その他の奈良時代の史料はすべて『鹿嶋』という表記で、その初見は養老七年であり、平安時代に入ると、九世紀はもっぱら『鹿嶋』という表記が使われ、十世紀になると、『鹿嶋』が主流ではあるが、『鹿島』という表記も散見されるようになり、十一世紀以降は、『鹿嶋』・『鹿島』が混用され、『香嶋』もまれに使われた、ということになる。」
とまとめています。
 
 「鹿嶋」表記の初見が養老7年というのは正しくないと思いますが、久信田も、『常陸国風土記』以外の古代史料の表記は、ほとんどすべて「鹿島(嶋)」と「鹿」字の表記で、11世紀以降「『香嶋』もまれに使われた」というのです。
 
 そこで、11世紀以降の「まれに使われた」という「香嶋」の事例を、念のために見てみましょう。
 
 それは、『御堂関白記』寛弘4年(1007)2月9日条に「香嶋使」、同寛仁元年(1017)10月1日条に「香嶋社」、『後二條師通記』康和元年(1099)正月27日条に「香嶋社」、同同年4月17日条に「香嶋使」、『兵範記』保元2年(1157)3月25日条に「香島社司」の5例だといいます。
 
 久信田喜一は11世紀は52、12世紀は35、あわせて87の事例を挙げていますが、「香島(嶋)」事例はこの5例だけです。
 
 『御堂関白記』は言うまでもありませんが、摂関政治の全盛期の藤原道長の日記です。その初めの『御堂関白記抄』の長徳元年(995)7月14日条では、「鹿嶋」と記していますので、道長自身「かしま」の表記はまったく一貫していません。この長徳元年に道長は30歳、内覧氏長者となり、ライバル藤原伊周を追い落として、朝廷第一の座に立っています。寛弘4年(1007)2月9日条の「香嶋使」は、彰子懐妊を祈って2月春日社参詣を行い、8月には金峰山に登って埋経を行っています。その春日社参詣にあわせた「香嶋使」です。寛仁元年(1017)10月1日条は別の話の中で「香嶋社・香取社」にふれたものです。この年道長は、3月に摂政氏長者を長男賴通に譲り、12月には太政大臣になり、翌年は3人の后が皆娘となり、有名な「此の世をば我世とぞ思ふ」の歌が詠まれます。道長の絶頂期のものです。いずれも重要な節目といえますが、膨大な『御堂関白記』の中のわずか2カ所の記載です。ですから、「鹿嶋」「香嶋」はさほど重視された記載になっていないという印象です。しかしながら、それにしてもわずか2カ所の「香嶋」には、重要な節目として道長の特別な意識の働きがあったものでしょうか。(56)
 
 『後二條師通記』は藤原師通の日記で、師通は道長の曾孫にあたります。この日記からは10事例あげられていますが、ほとんどが「鹿嶋使」などの用例で、やはり師通自身も表記は一貫していません。そのなかで「香嶋」表記は、師通が嘉保元年(1094)父の譲りを受けて関白氏長者になってからであり、死の直前のこの年、康和元年(1099)正月27日条と4月17日条だけの表記です。白河上皇の院政に批判的だったといい、康和元年6月に関白のまま38歳で病死しています。この「香嶋」表記には、関白氏長者として摂関家勢力維持の願いが込められていたのかもしれません。(57)
 
 『兵範記』は、兵部卿平信範の日記です。平信範という人は、藤原摂関家の家司を勤め、摂関家に関する記載が多いといわれています。保元2年(1157)3月25日条は、保元の乱直後の表記です。これも藤原摂関家にとって重要な情況の中での事例といえますが、長い日記の中のわずか1カ所にすぎません。(58)
 
 なんと言っても、5例ともに、藤原摂関家の当事者の日記中の事例であるのが特徴です。しかも、代々の藤原摂関家の当事者が、一般的には「鹿嶋」を使い、「香嶋」を使っているわけではありません。ここだけ、特にこだわって使ったもののように思われるのですが、なぜかは、原文からうかがえるような記載は残念ながらありません。しかし、あまりない例のすべてが藤原摂関家の当事者の日記であったというのが、重要な点だろうと思います。
 
 『常陸国風土記』編纂に藤原宇合が最終的に関わったとする説がありますが、藤原摂関家だけの時代を超えた「香島」表記のこの特別なこだわり方は、宇合の強い関与を逆にうかがわせるものではないかと思います。
 
 それはともかくとして、久志田喜一の詳細な調査からさらにはっきりしたことは、「香島(嶋)」表記は、編纂物である『常陸国風土記』と藤原道長らの日記にしか登場しないと言っても過言ではないということです。
 
 鈴木健は、『常陸の国の風土記と古代地名』において、久志田があげなかった事例を一つ付け加えています。それが、『日本書紀』垂仁天皇25年2月条「中臣連の遠祖大鹿嶋」の事例です。何度も述べましたように、地名ではありませんが、「鹿島」の用例の最も古い年代を示すものです。鈴木は、他は『萬葉集』、『続日本紀』、木簡など奈良時代の久志田も挙げた同じ事例をあげて、
「後にも先にも『風土記』以外はすべて『鹿嶋』なのに、『風土記』だけがすべて『香島』となっているのだ。これは、例の風土記撰上令の地名好字化条項によるものなのだろう。しかし、『香』が『風土記』の中の記載だけに限定され、他ではすべて鹿であった。ということは、『鹿』に特別なこだわりがあり、『香』という好字の定着を阻むほどの強い流れが、以前から続いていた証左ではなかろうか。
 とにかく、地元では『香』ではなく『鹿』でなければならなかったのだ。なぜか。」(59)
と言っています。
 
 確かに、以上述べてきたことからすると、『常陸国風土記』が好字化を口実にして、「鹿」字をさけて「香」字にした可能性は高いと言えます。そういう意味では、きわめて妥当な指摘であると思います。しかも、「鹿島」地名は、地元茨城県だけでなく、全国的に「鹿」字へのこだわりが見られるといえます。
 
    7
 古代地名としては、なお大阪府淀川区「賀島」と静岡県富士市「賀嶋」などがありますが、これらの検討は別稿に委ねたいと思います。
 
 ここでは、「かしま」地名表記の特徴の分析と、不充分ながらも一応の歴史的検討を行ってみました。
 
 その結果、「かしま」「かじま」は、全国の地名として圧倒的に「鹿島(嶋)」表記であることが改めて明らかになりました。

 そして、かな表記のところは14カ所、全く違う「加島」「賀島」「蚊島」などの表記の地名は16カ所しかないこと、違う表記の地名は西日本に多いが、西日本だけでも「鹿」字表記の「鹿島」地名がはるかに多いこともわかってきました。

 古代地名などの歴史的地名も、7世紀後半から「鹿島」表記がいくつも見られること、「香島」表記の「香」字は、『常陸国風土記』と『萬葉集』の大伴家持の歌、『御堂関白記』などの藤原摂関家関係者の日記の表記にあるだけといっても良いほどで、地名としてはほとんど「鹿島(嶋)」であること、「蚊島」「神島」も「鹿島」地名と関連ある地名と考えられることが明らかになってきたと思います。

 つまり、「鹿島(嶋)」地名は、「鹿」字の表記に大変こだわりを持っていることが否応もなくはっきりしてきました。その意味では、「香島」表記は逆に「鹿」字をなくす、あるいは隠すことにこだわりを持っているかのように思われ、「蚊」字表記もその類ではないかと疑われるものです。
 
 そして、これだけの「鹿」字へのこだわりを見ると、「鹿島」地名については、もっと漢字表記の「鹿島」にこだわって検討すべきではないかと思うのです。
 
 この「鹿」字へのこだわりは、動物の「鹿」、「鹿」の聖性へのこだわりを示し、鹿島信仰と「鹿」との関わりを示すものではないでしょうか。「鹿島」地名の由来については諸説あるので別に検討していくつもりですが、北条時鄰『鹿嶋志』が「鹿嶋の名義 文字の如く、鹿の栖嶋ゆゑ名づけたるべし」と言っていることが今一度見直されて良いのではないかと思います。非常に単純な、常識的な結論と言えば、そうなのですが、従来この当たり前の問題を鹿島信仰の研究が少なからず避けていたように思うのは、間違いでしょうか。
 
 鹿島信仰の「鹿」にかかわる話は数多くありますが、次の伝承は多くの研究者も目にしてきたもののはずです。私は、宮田登『ミロク信仰の研究』で読み、『新編常陸国誌』の該当カ所をあたってみたものです。宮田は、筑波山が元は「神島山(かしま)」と呼ばれていたということだけにふれています。
 
 「筑波山記云、天津児屋根命金鷲ニ駕シテ、天照大神ヲ輔佐シテ常陸ニ下玉フ、常陸本ハ総シテ神島ト云、後ニハ山ノ名トス、彼山ノ頂ニ今ニ伊弉諾伊弉冊一女三男ノ遺跡アリ、諸神初ハ皆彼山ニ天降玉フ、是ヨリ諸國ニ散影マシマス、是ヲ神島起ト云、今旅起ノ名トス、・・・・本ハ此筑波山ニ鹿多シ、中ニ金毛ノ鹿王アリ、悪人有テ生剥ニス、金毛山ヲ恨テ、去テ州ノ伏見ノ里ニ行テ死ス、諸鹿皆随テ去ル、是ヨリ伏見ヲ鹿島ト名ヅク云々」
(60) 
 
 常陸をもと「神島」といい、後に筑波山を「神島」と呼んだ。筑波には鹿が多く、金毛の鹿王がいた。悪人が生剥ぎにしたので鹿王は伏見に逃れて死んだ。鹿たちも従ってのがれた。そこで伏見を鹿島と名付けた、というのです。
 
 鹿島神宮の近くには「伏見」という地名もあり、この鹿王の伝承は注目すべき地名伝承と思われます。しかしながら、この「鹿」問題については、別に稿を改めて論ずるべきことと思います。
 
 
(1) 「全国『鹿島』地名一覧について」およびその註(6)参照。なお、以下の文中の地名の前の数字は、表1「全国『鹿島』地名一覧」の整理番号です。
 
(2)『日本後紀』桓武天皇延暦24年6月17日甲寅条、森田悌訳(講談社学術文庫)の註によると「長崎県五島列島か。あるいは長崎県北松浦郡鹿町町のあたりか」とし、『入唐求法巡礼行』(平凡社東洋文庫)の補注では、「現訳者は肥前平戸島と松浦半島の間なる小島、今の大鹿島と傍注するが、値嘉島、色都島、小値嘉島、平戸島等諸説がある。」としています。五島列島には新上五島町桐古里郷の670「男鹿島(大鹿島)」があり、佐世保市鹿町町にも、一覧表にはありませんが、「大鹿島」があります。
 
(3)『日本の島事典』(三交社)『島嶼大事典』(日外アソシェーツ株式会社)によると、対馬市美津島町の「鹿島」は「しかじま」(面積0.008㎢)と「しかのしま」(面積0.003㎢)の二つあるようですが、25000分1地図の地図上では一つしか確認できていません。「男鹿島」については、新上五島町は「おしかじま」ですが、山口県阿武町は「おとこかしま」、兵庫県家島町は「たんがしま」となっています。また「かのしま」が、京都府久美浜町「カノ島」と山口県長門市「鹿の島」の二つありました。
 なお、大村市松原の「しかしま」は『長崎県の地名』(平凡社)のルビによるものです。
 
(4)表1「全国『鹿島』地名一覧」の作成に当たっては、 辞典類を探すときに、どうしても「鹿島」「鹿嶋」の字を探し、「かしま」「かじま」の読みで探すことになります。しかし、なぜ「鹿島」「鹿嶋」「かしま」「かじま」かを探るための一次作業なのですから、当然周辺の類似したものにはある程度注意したつもりです。たとえば「志賀島」「しかしま」「かのしま」「加志島」「梶島」「鍛冶島」「おがしま」「○○かしま」の類いです。何度も断っていますが、今はとりあえず検討の必要なものも含めて一覧表にしてあります。一覧表には入れていませんが、福岡県の「志賀島」や、「御賀嶋」とも称されたという広島県厳島など、「鹿島」信仰との関連が考えられるものもいくつか候補として検討しています。
 
(5)諸橋轍次『大漢和辞典』巻四によると、「島」は「水中に在る陸地。もと嶌に作る。」とあり、「嶋」は「嶌」に同じとし、「嶌」は俗字としています。つまり同じことですから、この違いは問題にはならないと思います。
 
(6) 白川静『新訂字訓』(平凡社)
 
(7) 茨城県石岡市旧八郷町の地名は、『角川日本地名大辞典 8茨城県』の小字一覧ではすべてカタカナ表記でしたが、八郷町教育委員会『八郷町の地名』(2003年12月15日)に基づき漢字表記に改めましたので、ここに入れてありません。
 
(8) 前稿でも断っていますが、同じ地名が多すぎるので重複がないか確認中です。
 
(9)『新編常陸国誌』(宮崎報恩会 覆刻 昭和44年)「巻十二風俗」の「鹿島起」の項。原文『筑波山記』にはまだあたれていません。宮田登『ミロク信仰の研究』(みすず書房)198頁もこのカ所にふれていますが、実はここには続きがあり、宮田がふれなかった大変興味深い部分があります。後に触れます。
 
(10)『日本書紀 上』(岩波書店 日本古典文学大系)・『日本書紀 2』(小学館 新版日本古典文学全集)雄略天皇9年3月条
 
(11) 門脇禎二『吉備の古代史』(日本放送出版協会 1992年8月20日)134頁
 
(12) 『古事記』も確認しましたが、人名・地名ともにありません。
 
(13)『日本書紀 上』(岩波書店 日本古典文学大系)269頁、註17。ここにはさらに、『皇太神宮儀式帳』に「国摩大鹿島命」があることも指摘されています。これは「中臣氏系図」(『尊卑分脈』第一編)にも「国摩大鹿島命」(くにすりおほかしまのみこと)とあり、いずれも「鹿島」の表記です。
 
(14)『日本書紀 上』(岩波書店 日本古典文学大系)529頁
 
(15)『日本書紀 下』(岩波書店 日本古典文学大系)338頁
 
(16)『日本書紀 下』(岩波書店 日本古典文学大系)517頁
 
(17)『風土記』(小学館 新版日本古典文学全集)157頁
 
(18)『風土記』(岩波書店 日本古典文学大系)122頁 脚注5。加藤義成『修訂出雲国風土記参究』は細川家本を底本にしていますので、「その礒に蚊あり」の「有蚊」はありません。
 
(19)『角川日本地名大辞典 33岡山県』286、591、1606頁
 
(20)『岡山縣上道郡古都村史』(1958年5月30日)、『可知郷土史』(1973年4月1日)、『上道郡誌』(1922年3月3日)、青江文次「平賀元義の和歌に現れた地名」(『西大寺』第8号 1983年2月10日)、正務弘「平賀元義自筆『備前国上道郡都紀郷金岡東荘金岡村考証 全』について」(『西大寺』第15号 1990年2月10日)   
 
(21)『岡山縣上道郡古都村史』364~5頁
 
(22) 青江文次、前掲論文18頁
 
(23) 白川静『新訂字訓』160頁
 
(24)『古代地名大辞典』(角川書店)516頁
 
(25) (明石書店 2006年8月25日)291~2頁
 
(26)『島根県の地名』(平凡社 日本歴史地名大系)187頁
 
(27) 薬師寺慎一『祭祀から見た古代吉備』(株式会社吉備人出版 2003年11月21日)173~178頁
 
(28)『西大寺会陽記録保存報告書』(昭和55年3月)34~35頁 インターネット上で愛知県西尾市立図書館所蔵の嘉永4年の写本と「備前国總社宮合祀百二十八神社神名帳(島村壽男氏編)」が見られ、国立国会図書館所蔵の稲原稔の昭和10年謄写版においても確認しました。
 
(29)『角川日本地名大辞典 37香川県』419、1134頁
 
(30)『角川日本地名大辞典 33岡山県』72、1215頁
 
(31)『萬葉集』②(小学館 新編日本古典文学全集)、以下『萬葉集』の引用は小学館版によりました。「鹿島」は、『萬葉集』の表記では原文の表記「鹿嶋」としましたが、現地名は「鹿島」にしてあります。なお歌の後の括弧内番号は、歌番号。
 
(32)紀南地名と風土研究会『紀南の地名』(株式会社紀伊民報 平成18年10月15日)には、「鹿嶋」の地名の由来について、
「南部の鹿島神社に祭られた『タケミカヅチノ神(命)』も茨城県の鹿島神宮から勧請されたことから宗教由来説が信じられているが、疑問も残る。みなべ町の郷土史家、山本賢氏は茨城県の鹿島神宮はもともと香島と呼ばれ、鹿島になったのは養老7年(723)年のことで、南部の鹿島はそれ以前の大宝元(701)年の『万葉集』の歌に見えると指摘している。」(37頁)と述べています。
 茨城県の鹿島がもと「香島」で後に「鹿島」になったというのは賛成できませんが、茨城県の鹿島神宮から勧請したから「鹿島」となったのではないとして、「厄除開運・安産・大漁祈願として広く庶民に崇拝された」(37頁)ことに注目して「鹿嶋」を考えているのは正しいと思います。ちなみに「タケミカヅチは、文献でみるかぎり、九世紀以降からの祭神名である。」(大和岩雄「鹿島神宮」『日本の神々』白水社)といわれていますから、この点でもつじつまは合いません。茨城県の「鹿島」と祭神の勧請などの直接関係なしに、それ以前から存在した「鹿島」地名と考えた方が良いと思います。
 
(33)『萬葉集』②(小学館 新編日本古典文学全集)422頁注
 
(34) 伊藤博『萬葉集 釈注五』118頁
 
(35)『常陸国風土記』の編述者については、小学館の新版日本古典文学全集解説(603頁)によりますと「このごろは(石川)難波麻呂・(春日)老説が有力のようである。」と述べていますが、後述するように後世の藤原摂関家当事者の「香島」字へのこだわりなども考えますと、やはり「養老以前の筆録を基とし、藤原宇合の在住時代に至って編述が完了した」という岩波古典文学大系解説の考えの方が妥当だと思われます。
 なお、宇合説に関しては、中村英重「中臣氏の出自と形成」(佐伯有清編『古代中世史論考』吉川弘文館 1987年3月20日)、志田諄一『『常陸国風土記』と説話の研究』(雄山閣 1998年9月5日)参照。
 
(36) 『國史大辞典』「万葉集」の項(稲岡耕二)、伊藤博『萬葉集 釈注八』605頁
 
(37) 『萬葉集』④(小学館 新編日本古典文学全集)136頁注。表1「全国『鹿島』地名一覧」では「鹿嶋根」としています。岩波書店『新日本古典文学大系』は「香島嶺」とし、「石川県七尾市近辺の山であろう。特定は困難。」としています。全国の地名では、「ね」は「嶺(峯)」も「根」「子」もありますが、現地を見ると『七尾市史』などの「机島」説が良いと考えられ、岩礁の「根」の方が妥当ではないかと思います。
 
(38)「木簡地名集成」(角川書店 『古代地名大辞典 索引・資料編』)153~4頁、『新修七尾市史 通史編1』『同 2古代中世編』、『新修七尾市史』の方には、天平4年のものが加わっています。今まで見逃していました。なお、いずれも「島」表記になっていますが、原文に従って「嶋」に直しています。
 
(39)『古代地名大辞典』(角川書店)447頁
 
(40) 承久3年9月6日「能登国田数注文」(『鎌倉遺文 第五巻』)では、能登郡がなくなり鹿島郡になっていますが、この鹿島郡には41カ所の庄郷保院が含まれていて、他の郡と比べて大変広い地域になっています。大屋庄内穴水保も、熊来院も、西では金丸保も入っています。『石川県の地名』(平凡社)によりますと、穴水町552「鹿島」は、中世の熊来院に入るものとされます。557「鹿島路」は、金丸の西ですが、長氏の鹿島半郡に入っていて、近世は鹿島郡です。どちらも中世の鹿島郡内と見て良いのではないでしょうか。
 なお『新修七尾市史』は、木簡の「能登郡鹿嶋郷望理里」から「望理里」を「まがりのさと」と読んで能登島町曲町に比定しています。ここまでは良いと思いますが、その結果能登島を「鹿嶋郷」と比定しているのは疑問です。中近世の鹿島郡域が広く「鹿嶋」とよばれたと思われ、その中で八田郷などを差し引いて「鹿嶋郷」を考えるべきでしょう。
 
(41)『古代地名大辞典』(角川書店)446頁
 
(42)『角川日本地名大辞典 34広島県』231頁
 
(43)『萬葉集』③(小学館 新編日本古典文学全集)447頁注
 
(44)後藤伸他著『熊楠の森-神島』(農山漁村文化協会 2011年2月25日)、松居竜五他編『南方熊楠大事典』(勉誠出版 2012年1月30日)
 
(45) 紀南地名と風土研究会『紀南の地名』19~20頁、みなべ町の「鹿島」は37~8頁。ただし、この著者は、「土地でいくら神島を『かしま』と言いならわしているからといって、その特殊な読みを一般名詞としての『かみしま』に及ぼすのはいかがか」と言っていて、話が転倒しています。地名は、全国的な視野をもつことは大切ですが、土地の言いならわしを尊重することが基本になります。どちらが正しいかは、よくよく吟味する必要があります。
 
(46)『風土記』(小学館 新版日本古典文学全集)、「島」「嶋」は原文が両方あります。以下、特に断りがない限り、小学館版を使いました。
 
(47) 柴田弘武『産鉄族オオ氏 新編東国の古代』(崙書房出版 2008年8月10日)などは、「かしま」がこの「建借間命」に由来すると言っています(83頁)。しかし、「建借間命」は潮来付近での原住民大量殺戮の後、鹿島を征服しています。『常陸国風土記』では「那賀国造の初祖」といい、水戸市飯富町の式内社大井神社の祭神となっています。「オオ氏」の問題は別にふれる必要がありますが、この「建借間命」は鹿島を征服しながら「鹿島」「香島」を名乗れなかったものとみるべきで、似て非なるものと思われます。
 
(48)『風土記』(岩波書店 日本古典文学大系)437~8頁
 
(49) 熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』(講談社学術文庫)は、「改新以降の評の設置に関しては、改新後ほどない孝徳朝に全国いっせいに建置されたとする全面立評説と、孝徳朝ー天智朝ー天武朝と段階をふんで国造のクニがしだいに解体され、評がおかれていったとみる段階的立評説とが対立している。筆者は、鎌田氏らの全面立評説に賛成である。それは、一国規模で大化後の立評の状況がわかる唯一の例である『常陸国風土記』によると、常陸国では孝徳朝に国造のクニが全廃されて評に再編されているからである。」とし、『常陸国風土記』の記述をそのまま事実とする見解のようです。しかし、「この風土記の建郡伝承に史実としての資料価値はあるのだろうか。」と厳しく検討を加え、「『常陸国風土記』編纂当時の郡は総て孝徳時代に揃っていたというのは、その時々の事実の記録に基づく歴史認識ではない。」後の時代の「縁起伝承である」とし、「実年代は天武朝末葉と考えられる。」とする山尾幸久『「大化の改新」の史料批判』(塙書房 2006年10月1日)のような見解もあります。『常陸国風土記』を普通に読む限りは、山尾の見解の方が理解しやすいと思います。
 
(50)『茨城県の地名』(平凡社)364頁
 
(51) 後出の久信田喜一論文、東実『鹿島神宮』(学生社 2000年8月25日改訂版)、『図説 鹿嶋の歴史 原始・古代編』(財団法人鹿嶋市文化スポーツ振興事業団発行 2006年3月31日)。後者は「一口メモ」と題したコラムにおいて「香島から鹿島へ」とし、「『香島』がなぜ『鹿島』に表記が変化したかは謎である。」とわざわざ書いています。
 
(52) 『古代地名大辞典 索引・資料編』(角川書店)『図説 鹿嶋の歴史 原始・古代編』
 
(53)『鎌倉遺文 古文書編第七巻』4690(東京堂出版)
 
(54)『角川日本地名大辞典 26京都府上巻』(角川書店)357頁、西田直二郎『京都府綴喜郡大住村史』(1951年4月30日)、小泉芳孝『京田辺の史跡探訪 歴史散歩コース』(大筒木出版 2012年1月20日)、『薪誌』(1991年3月31日)
 
(55)『茨城県立歴史館報24』(1997年3月25日)
 
(56) 山中裕編『御堂関白記全註釈』(思文閣出版)、倉本一宏全現代語訳『御堂関白記』上中下(講談社学術文庫)
 
(57)『後二條師通記』(『大日本古記録』第7上中下 岩波書店)
 
(58)『増補史料大成第19巻 兵範記二』(臨川書店)
 
(59) 鈴木健『常陸国風土記と古代地名』81頁
 
(60) 註(9)参照。 なお、念のために、「鹿」は「神使の獣」であって、神そのものと考えているわけではありません。