古社の秘密を探る

全国「鹿島」地名の分類と二、三の特徴
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       全国「鹿島」地名の分類と二、三の特徴
 
 本稿では、「表1 全国『鹿島』地名一覧」の677地名の分類を示して、その二、三の特徴について報告します。
 
    1 全国「鹿島」地名の分類
 
表7 全国「鹿島」地名の分類
  1 鹿島、加島、カシマなど一語のもの           196
  2 前、後、脇などが付くもの               92
  3 上、下が付くもの                   40
  4 東、西、南、北が付くもの               25
  5 鹿島浦                        12
  6 鹿島山、カシマ山                   43
  7 鹿島台                        16
  8 鹿島森                        10
  9 鹿島館・城                      13
 10 鹿島田                        23
 11 鹿島久保・クボ                    17
 12 川・沼・堀が付くもの                 23
 13 鹿島道                        17
 14 国郡郷里邑が付くもの                 10
 
 この分類表は、「表1 全国『鹿島』地名一覧」の677地名をおおまかに分類したもののうち、比較的多いもののみを一覧表としたものです。通し番号、地名の種類、地名数の順です。計537地名で、「蚊島田邑」のように、
「10 鹿島田」と「14 国郡郷里邑が付くもの」の二つに数えたものも若干あります。
 
 したがって、この分類表に入っていない地名は、まだまだかなりあります。
 「鹿島入」「鹿島内」「向鹿島」「鹿島平」「鹿島原」「鹿島沢」「鹿島谷津」「鹿島坂」「鹿島戸」「鹿島越」「鹿島大神」「鹿島峯」「鹿島根」「男(女)鹿島」「小(大)鹿島」「初鹿島」「鹿島立」などなどです。
 「鹿島」地名の意味を考えるためには、どれも何かしらのヒントを含んでいるように思われ、捨てがたいものがありますが、この分類表には多くまとめられたものだけを示してみました。
 
 「1 鹿島、加島、カシマなど一語のもの」は、「鹿嶋」「鹿嶌」「神島」「賀島」「嘉島」「蚊嶋」「カ島」
「カジマ」「鹿島(かのしま)」「鹿島(しかしま)」を含みます。これらは、今のところ、「鹿島」のバリエイションだろうと思っていますが、ただ一語の地名です。
 
 「2」は、この「鹿島」に「鹿島前」「鹿島後」「鹿島脇」のように、「前、後、脇」が付いただけのものです。「東鹿島後」のように「4」と重なるものも若干あります。
 
 「3」は、同じように、「鹿島」に「上、下」が付いただけのものです。「鹿島下」が多いのですが、「上鹿島」のように前に付くものもあります。「中鹿島」「鹿島下ノ内」もこの中に入れました。
 
 「4」も同じように、「東、西、南、北」が、前か後ろについたものです。
 
 以上「2」「3」「4」は、「鹿島」という一つの地名がどこかの時点で分割され、それに「前、後、脇」「上、
下」「東、西、南、北」などが付いた地名と思われます。これらはすべて合わせると157地名あります。これらは
「1」と同類と言って良いものですから、「1」と合わせると353地名で、およそ半数を占めることになります。
 
 したがって、「鹿島」地名は、半分はただ「鹿島」だけの地名であるというのが一つの大きな特徴になります。
 
 「5 鹿島浦」は、海の地名もありますが、ここでは海は別にして内陸部の地名だけにしました。「鹿島浦(裏)」「鹿島裏」とあるのもありますので、「裏」を「浦」に宛てただけかもしれません。そうすると、これも「1」~
「4」の同類になります。
 
 「6 鹿島山、カシマ山」は、私は最も重要な地名になりそうだと考えています。43地名とあまり多くはないのですが、後に述べますように、茨城県の鹿島神宮が宮中という地域の字「鹿島山」にあることと、「鹿島山・・・寺」と山号に持つお寺がいくつか見つかっているのです。ということは、「鹿島山」が宗教的な聖なるお山であることを示していると思われるからです。
 
 「7 鹿島台」「8 鹿島森」「9 鹿島館・城」は、この「鹿島山」と同類のものではないかとと思われます。
「鹿島峯・峰」「鹿島崎」もここに入れても良いかもしれません。
 
 「鹿島山」は高い山もなくはないですが、おおむね平地に向って小高い丘のような地形が多そうです。この表の
「6」~「9」まで足すと82地名、さらに「鹿島峯」「鹿島峰」と「鹿島崎」は上の表にはありませんが、これを加えても91地名ですので、必ずしも多くはないと言えますが、神祭りの場(神社は別にしても)として見逃せない地形のような気がします。
 
 「10 鹿島田」23地名、「11 鹿島久保・クボ」17地名、「鹿島川」「鹿島沼」のように「川、沼、堀が付くもの」23地名、「13 鹿島道」17地名などは、「鹿島」「鹿島山」の地名とセットで考えられるところがいくつかあります。
 
 最も古い「鹿島」地名と思われる岡山県の「622蚊嶋田邑」は、「芥子山」が「鹿島山」ならば、「鹿島山」という宗教的な聖地のお山があって、その麓が広く「鹿島」と呼ばれていて、そこに「623鹿嶋田」があるという典型的な「鹿島」地名になりそうです。(1)
 
 千葉県佐倉市の「512鹿島山」は「鹿島台」とも言われ、その山すそを「514鹿島川」が流れています。この近くにはもう一つ「517鹿島台」もあり、広く「鹿島」地名が広がっていたと思われます。中世には「511鹿島郷」とよばれていたようです。しかし、ここには今は鹿島神社はありません。古くはあったと言うことですが、どこかに行ってしまっています。鹿島山勝全寺(曹洞宗)というお寺があります。(2)
 
 このように、いくつかの「鹿島」地名はセットで考えられるというのが、もう一つの特徴としてあげられます。
 
 「14 国郡郷里邑が付くもの」は、古代中世の行政地名を示しますが、10地名と決して多くありません。近世に確認できる鹿島村や鹿島町は別にしてあり、こちらは9地名です。
 全国の「鹿島」地名を調べていると行政地名が目立ちますが、大体は近代以降のものが多く、古く遡るものはあまり多くありません。これも、「鹿島」地名の特徴の一つと言って良いでしょう。 近代以降の鹿島・香取の信仰のイメージから人為的に付けられた地名も多いので、歴史的な研究では慎重にこれらを除いていく必要があります。(3)
 
    2 島の地名について
 
 前稿「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」において、白川静『字訓』などから「島」の意味を説明しまし
た。
 「島」は、意味としては、海や川などの水にまわりを囲まれた地のこと、特定の一区画をなしている地をさす語といいます。谷川などの多いわが国では水をめぐらして孤立するような土地が多かったので、日本語の「しま」は、海島に限らず、水がその周辺に迫っていて自然に一区画をなすところ、村里などをも示すといいます。
 つまり、一つは、海、湖、川などの水に四面を囲まれた狭義の「島」と、もう一つは、谷川などが流れ、水がその周辺に迫っていて自然に一区画をなすところ、村里なども含んだ「島」地名です。以下狭義の「島」、広義の「島」と称していきます。
 
 「鹿島」と言えば、単純に周りを海、湖、川などの水で囲まれた狭義の「島」地形を思い浮かべるのが一般的かもしれません。そこで、まずはこうした狭義の「島」の地名を、一覧表から取り出して検討してみます。
 
 狭義の「島」、或いは古い時代には狭義の「島」だったと判断しても良い場合も含めて、一覧表から拾い出してみると次のようになります。
 通し番号、表1の地名一覧の番号、地名、所在地、備考の順に記してあります。
 
1.( 91)小鹿島   秋田県男鹿市おがしま        男鹿島とも     
2.(399)鹿島根   千葉県銚子市            鹿島瀬とも
3.(564)鹿島の森  石川県加賀市塩屋町         加島・鹿島山とも 鹿島神社
4.(595)鹿島    愛知県海部郡蟹江町蟹江新田     鹿島神社         
5.(610)賀島    大阪府大阪市淀川区加島       加島などとも
6.(611)男鹿島   兵庫県姫路市家島町たんがしま
7.(612)加島    兵庫県姫路市家島町           
8.(614)賀島山   兵庫県豊岡市竹野町竹野       賀島山竜海寺   
9.(615)鹿島    和歌山県日高郡みなべ町埴田     鹿島神社  
10.(616)神島    和歌山県田辺市新庄町かしま     鹿島とも明神森       
11.(618)蚊島    島根県松江市嫁島町嫁ケ島      弁天祠          
12.(619)カ島    島根県出雲市大社町日御碕     
13.(620)カ島    島根県出雲市大社町日御碕
14.(621)鹿島    島根県浜田市三隅町湊浦      
15.(624)神島    広島県福山市神島町かしま      鹿島とも   
16.(625)賀島城   広島県福山市手城町内       
17.(626)加島    広島県尾道市向東町         賀島とも
18.(629)鹿島    広島県呉市倉橋町           630鹿島上631鹿島中632鹿島下
19.(633)鈴鹿島   広島県呉市倉橋町   
20.(634)男鹿島   山口県阿武郡阿武町奈古           
21.(635)女鹿島   山口県阿武郡阿武町奈古
22.(636)加島    徳島県海部郡海陽町浅川        637加島湊638加島山
23.(639)鹿島    香川県小豆郡土庄町         640鹿島奥
24.(641)嘉島    愛媛県宇和島市戸島         加島とも
25.(642)鹿嶋    愛媛県松山市北条辻         加島・鹿島山とも鹿島神社   
26.(643)小鹿島   愛媛県松山市北条辻こがしま     高小鹿島とも
27.(644)鹿島    愛媛県南宇和郡愛南町外泊       646鹿島穴
28.(655)鹿島    高知県幡多郡黒潮町佐賀       加島とも 
29.(660)鹿島    佐賀県鹿島市            659鹿嶋馬牧 鹿島神社
30.(666)鹿嶋    長崎県諫早市多良見町舟津       加島とも 弁天・恵比寿祠
31.(670)男鹿嶋   長崎県南松浦郡新上五島町桐古里郷おしかじま 大鹿島とも
32.(671)鹿島    長崎県対馬市美津島町しかじま
33.(672)鹿島    熊本県八代郡氷川町         673~675 鹿嶋神社
 
 以上33カ所、すなわち33島です。
 
 「表1 全国『鹿島』地名一覧」では、1島に1小字とは限らず、18の広島県呉市倉橋町「629鹿島」は、さらに小字「630鹿島上」「631鹿島中」「632鹿島下」と三つに分かれています。つまり、4地名になります。
 
 22の徳島県海部郡海陽町浅川「636加島」は、「637加島湊」と「638加島山」が重なり、3地名になります。
 
 23の香川県小豆郡土庄町「639鹿島」も「640鹿島奥」が重なり、2地名です。
 
 27の愛媛県南宇和郡愛南町外泊「644鹿島」は、「645鹿島瀬戸」は海そのものだから外したとしても、「646鹿島穴」とは地名が重なっていて2地名と考えられます。
 そうした地名も数えると44地名となりますが、それを1島1カ所として数えなおしてみますと、上に掲げた33カ所、33島となります。
 
 宮城県牡鹿郡女川町の出島という島に、「66鹿島山」「67鹿島林」の地名がありますが、島の名前ではなく、島の一部の地名です。同じように、鹿児島県薩摩川内市鹿島町藺牟田の「676鹿島」も、島名は下甑島で、地名はその一部に過ぎません。従って、この二つはここに入れませんでした。狭義の「島」がそのまま「鹿島」と呼ばれているケースだけにしました。
 
 1の秋田県男鹿市「小鹿島」は、現在は半島です。しかし、「島がその隆起や雄物・米代両河川の運ぶ土砂および北東季節風のもたらす飛砂などの影響によって八郎潟を包む形で本土と結びついたもの」(4)と言われています。かっては「島」でした。
 
 初見史料は、『吾妻鏡』文治6年1月6日条の「小鹿島大社山」、この後「小鹿島」氏が登場し、中近世は「小鹿島」「男鹿島」の表記です。『日本書紀』斉明4年4月条の阿倍比羅夫の遠征に際し「齶田蝦夷恩荷」が出てきますが、この「恩荷」は「男鹿」であり、「齶田浦」の神は男鹿真山、本山の神ではないかと言われています。(5)
 
 問題は、「鹿島」の字が同じだからと言って、これを同じ「鹿島」地名の範疇に入れてしまって良いかどうかでしょう。実際、茨城県立歴史館の『鹿島信仰の諸相』(3)の地名一覧表には、ここは入っていません。
 
 私は、男鹿の北浦地区に鹿島祭があること、秋田県の各地に大小の「鹿島人形」を作り、流したりする「鹿島祭」があることなどから、「小鹿島」も何らか「鹿島」に関係しているのではないかと考え一覧表に入れておきました。
 
 その後の調査で、赤神山の武帝が鹿の車に乗っていて、鹿を使いとしていること、男鹿の鹿が青森県深浦の椿を食い荒らしたことを菅江真澄が記し、それに柳田国男がふれて鹿が「直ちに男鹿半島からと断定したのは、何か隠れたる理由があるらしいのであります。」と述べたこと、その深浦・岩崎地域にはやはり鹿島祭があって、岩崎には「へたの鹿島」「澳のかしま」の2島があることなどから、男鹿と鹿島信仰のつながりがより深くありそうなことがわかってきました。(6)
 
 2の茨城県神栖市波崎の「556鹿島根」は、千葉県銚子市の「鹿島根」「加島瀬」の間違いとわかりましたので、ここで訂正しておきます。(7)
 
 9の兵庫県豊岡市竹野町竹野の「614鹿島山」は、猫崎半島の先端部で「もと離島で陸繋島となる」(8)とありましたが、『伊能図大全』(9)によりますと、「鹿島」と「鹿島ハ島」の2島であることがわかりました。
 
 29の長崎県諫早市多良見町船津の「666鹿嶋」も、『伊能図大全』など近世の記録は「大鹿嶋」「小鹿嶋」の2島になっています。(10)
 
 33の佐賀県鹿島市の「660鹿島」と、34の熊本県八代市氷川町「672鹿島」は古い時代には「島」地であったろうと思われますので、ここに入れました。
 
 佐賀県鹿島市の「鹿島」については、「鹿島馬牧」を『古代地名大辞典』は、
「現在の鹿島市に所在したと考えられており、多良岳山麓に広がる丘陵地が放牧地として利用されたとは推定できるが、具体的な位置比定は困難である。」
とし、『佐賀県の地名』もほぼ同様なことを書いています(11)。
 牧場は丘陵という思い込みがありそうですが、古代の牧は半島の先端、島、海浜、中州に置かれていたことが少なくないと言われています(12)。
『國史大辞典』の「現在の佐賀県佐賀市北端部、東は有明海に臨み、北は塩田川を界線とする州島に置かれたものであろうと考えられるが・・・」(13)の方が適当と思われます。
 実際に、近世の「鹿島」はこの位置になります(14)。したがって川に挟まれた州島と判断できます。
 
 熊本県八代郡氷川町の「鹿島」も、天文の記録に「野津かしまニ舟よせ候」とあるのが初見とのことです。実際現地はまわりを近世の干拓地が取り巻いているところで、中世以前は島地の可能性が大きいと判断できます(15)。
 
 鹿島市の「660鹿島」は、「659鹿嶋馬牧」と「662鹿島城」が、八代市の「672鹿島」は「673鹿島開」「674東鹿島村」「675鹿島尻新地」が重なりますので、これも足しますと、地名数は全部で49地名となります。
 
 全国の「鹿島」地名677地名の中で、地名としては49地名で、33島あったわけです。
 しかしながら、この狭義の「島」地名の数は、決して多くはありません。むしろ、きわめて少ないと感じられないでしょうか。
 
 しかも、これを見ると、中部地方以東の東日本がわずかに4地名4島しかありません。ほとんどが近畿以西の西日本です。西日本は45地名29島となります。「鹿島」という狭義の島は、ほとんどが西日本にあるといえます。
 西日本の地名は全部で81地名ですから、これはおよそ半数ちょつとの数となります。西日本で考えると比率の上でも少なくない数となります。
 
 ただ少なくないといいながら、地図上で多くの島々を見ていると、「鹿島」と呼ばれる島は決して多いとは思えません。きわめて少ないといった方が正しいでしょう。
 日本は、北海道、本州、四国、九州も島ですから、それも含めて6,852島あるといいます。『島嶼大事典』『日本の島事典』は、そのうち4,900余の島を収録しています(16)。 それを見、地図上にさまざまな島を見ていると、
「鹿島」と呼ばれて良い島はまだまだあるような気がしますが、そうは呼ばれていない島が数多くあります。日本列島の島は大変多く、西日本は特に多いのですが、「鹿島」という島はそれから言うならばほんのわずかなものです。
 
 西日本の「鹿島」地名の中で考えますと、狭義の「島」の地名の比率は一見高いのですが、「鹿島」地名の特徴としてあげるほど多いといえるかどうかです。地名の起源、由来といったものを考えるには、地名の多い少ないは本質的なことではありません。少なくても良いと思います。
 しかし、それにしても、「鹿島」地名においては、一見多そうに考えられる狭義の「島」地形がそんなに多くはないことを、踏まえておいた方が良いだろうと思います。「鹿島」と言う地名は、狭義の「島」に決まっていると思い込むのは、どの地域においても危険だと思われます。
 
   3 「カシシマ」説について
 
 「鹿島」地名の由来については、別稿で改めてふれるつもりでいますが、ここで狭義の「島」地形との関連で「カシシマ」説にふれておきます。
 「鹿島」地名の由来では、船を繋ぐ杭=「カシ」を打った「カシ」の島、「カシシマ」が「カシマ」に転訛したという説はかなり有力なものとしてあります。
 
 この「カシシマ」説の大もとは、『肥前国風土記』杵嶋郡条の次のところです。
 「昔者、纏向の日代の宮に御宇しめしし天皇、巡り幸しし時に、御船、この郡の磐田杵の村に泊てたまふ。時に、船の?しの穴より、冷水自づから出でき。一ひと云へらく、船泊てし処、自づから一嶋と成りき。天皇御覧したまひ、群臣等に詔りたまひしく、『この郡は?し嶋の郡と謂ふべし』とのりたまふ。今、杵嶋の郡と謂ふは、訛れり。」
 景行天皇巡幸の折、船が盤田杵村に停泊した時、船のカシ(船をつなぐ杭)の穴から冷水が流れ出た。ある人の言うには、船が停泊したところが自然に島になった。そこで天皇がこの郡はカシシマの郡と言いなさいといった。今、杵島(キシマ)郡というのはこれが訛ったのであると。(17)
 
 「磐田杵村」は、佐賀県武雄市朝日町上滝(うわたき)などに比定されています(18)。
 この比定されている地であるならば、ここは有明海から六角川を大分遡った地点になり、山に近い、川の小さな船泊りに船をとめたことになります。この付近は「中世頃から武雄地方の内陸部における水陸交通の拠点であった。」(19)といわれていますので、古代にここに船を泊めたとしてもおかしくはないと思います。
 
 しかし、眼前の情景としては、「船のカシ(杭)」があって、船泊りに「島」ができたということですので、その情景が「カシシマ」になるのではないかと思います。それを、天皇はいきなり郡名にしたということになります。
 したがって、「カシシマ」というのは、「カシ」と「島」の組み合わせになります。つまり、「河岸あるいは港に小島がある」情景と考えて良いのではないでしょうか。
 
 「カシ」と「島」だから「カシシマ」だと天皇が言ったというのですが、天皇の命名ということに意味があるのでしょうか、地名としてはこじつけ以外の何物でもないような気がします。また、「カシ」と「島」が並列したまま一つの地名になることがありうるのかと、はなはだ疑問に思うところでもあります。
 
 現地の地名としては、「カシシマ」はありません。「キシマ」は「杵島山」と「杵島郡」「杵島郷」です。ただし、「杵島山」には特に「カシシマ」の伝承はなく、むしろ、
 「白石町大字馬洗(もうらい)にある妻山神社の社伝によれば、五十猛命が唐国(からくに)から樹木の種子を持ってきて杵島山に播種し、杉・樟などの発芽をみてから紀伊の熊野に行き、やがて全山が緑に覆われ木の島と呼ばれるようになったとあり、これが山名の由来ではないだろうか。」
と言われ、全く異なる地名伝承を持っています。(20)
 
 そして、『肥前国風土記』では「カシシマ」は「キシマ」に転訛しますが、なぜか「カシマ」への転訛も「カシマ」の存在についても記していません。
 「カシシマ」が普通に「訛った」ものならば、古代においてもまずは「カシマ」が考えられ、その後で「キシマ」になるか、「カシマ」「キシマ」へ一緒に転訛しないとおかしい感じがします。
 
 佐賀県「鹿島」は、杵島郡のすぐ隣の藤津郡になりますが、「杵島山」山麓を流れる塩田川沿いにあります。つまり、ほぼ同じ地域に塩田川を挟んで「カシマ」と「キシマ」は隣り合っているわけです。
 にもかかわらず、『肥前国風土記』では、「カシマ」は一切出てこない、「カシシマ」→「キシマ」転訛説であることが特徴です。
 
 『風土記』関係の中に、これに類似した話がほかにあるのかどうかを見てみました。
 
 『肥前国風土記』には、この「カシシマ」の話の先の彼杵郡周賀郷条に、
 「昔者、気長足姫の尊、新羅を征伐たむと欲ほして、行幸しし時に、御船この郷の東北の海に繋ぎしに、艫舳の?し、礒と化為りき。高さ廿丈余り、周り十丈余り、相去ること十町余りなり。充くして嵯峨しく、草木生ひず。」
 昔、気長足姫(おきながたらしひめ)が新羅を征伐しようとして、行幸された時に、船をこの郷の東北の海に繋いだところ、船首船尾をつないだ「カシ(杭)」が礒島に変化してしまった。その高さは・・・という話があります。(21)
 これは、「カシ」が礒島になったというものです。
 それなら、もっと「カシシマ」そのものではないかと思うのですが、この話は地名にもなっていません。そしてこの島を、註は、大村湾の黒島・二島かとしています(22)。
 実は大村湾には「鹿島」という島もありますが、島の様子も異なりますし、ここに「カシシマ」に似た伝承があるわけでもありません。
 
 『出雲国風土記』には、島根郡の条にそのものずばりの「加志嶋(かししま)」がありました。
 しかし、「加志嶋。周り五十六歩、高さ三丈なり。松あり。」とあるだけです。(23)
 『出雲国風土記』には他に多くの島が記載されていますが、「カシシマ」はここだけです。
 註などでは、千酌湾の笠浦湾口にある笠島、白カスカ島が比定されています(24)が、「カシシマ」にふさわしいかどうか。島根県には至る所に「カシシマ」にふさわしそうな島がありますので、なぜここだけがそういわれたのか。そもそもここが「カシ(杭)」に関係した島なのかどうかもわかりません。
 
 『出雲国風土記』では、意宇郡条八束水臣津野命の国引きのところに「カシ」が2カ所も出ています。
 「此くて、堅め立てし加志は、石見の国と出雲の国との堺なる、名は佐比売山、是なり。」
 「固堅め立てし加志は、伯耆の国なる火神岳、是なり。」(25)
と。なんとこの神話においては、島根県三瓶山と鳥取県大山が「加志」になぞらえられていて、国引きした後、動かないように堅め立てた「加志」、つまり杭になっているのです。
 
 しかし、残念なことに、こうした「加志」や「加志嶋」が「キシマ」や「カシマ」地名に転訛したり、それとつながる地名伝承があるわけでもありません。
 同じ『出雲国風土記』に出ている「蚊島」も「加志嶋」も、「加志」=杭の話につながってもいないのです。
 
 『常陸国風土記』の「香島」はどうでしょうか。
 ここは地名としては「鹿島」の「鹿」字の表記が正しいと思います(26)が、ここにも「カシシマ」に類した伝承はありません。「年別の七月に、舟を造りて津の宮に納め奉る。」として、中臣の臣狭山の命が舟を納める話があるだけです(27)。ここには「カシ」の話は出てきません。
 『常陸国風土記』も『肥前国風土記』も、共に藤原宇合が編纂したといわれています(28)が、「カシシマ」が「カシマ」に転訛して「鹿島」地名になったのならば、同じような伝承があってしかるべきと思うのですが。
 
 『肥前国風土記』の「カシシマ」からする「キシマ」転訛説は、『風土記』の他の「カシ」や「シマ」や「カシマ」の説話に類似したものは全くありません。
 
   4 現代の「カシシマ」説について
 
  そこで、この『肥前国風土記』の話を根拠に展開している、現代の「カシシマ」説を見てみます。
 
 『茨城県史 原始・古代編』(志田諄一)では、石川県七尾市「加嶋津」、静岡県富士市「賀島」、静岡県浜松市天竜区「鹿島」、和歌山県日高郡みなべ町「鹿島」、佐賀県鹿島市「鹿島牧」の例をあげて、「カシマの地名はいずれも海や河口に沿った港に関係のある地域に分布している。」として、地名の語源について次のように指摘しています。
 「鹿島の語源は、船をつなぐ杭を打った『?し島』からきているようである。・・・したがって、本来は船をつなぎとめる杭を打つ島(場所)を意味するカシシマが、一方はキシマ、他方はカシマに転訛したのである。常陸国鹿島郡の地も地理的環境からすれば、船をつなぐ杭を打つ島(場所)にふさわしいところである。」(29)
 
 久信田信一は「古代常陸国鹿嶋郡鹿嶋郷について」において、
「『カシマ』は、『シマ』地名のひとつと考えることができる」として、『和名抄』の「シマ」郷、「シマタ」郷の例を検討したうえで、
 「『カシマ』は『カシ・シマ』に由来し、『カシ』は、『肥前国風土記』杵嶋郡条にみえる『?し』すなわち船をつなぎとめる杭、『シマ』は・・周囲を流水で囲まれた地域を意味するとものと考えてよかろう。
 『カシマ』の地は、周囲を流水で囲まれた『シマ』地形をなし、しかもその地理的条件から舟運が発達して、船をつなぎ止める杭『カシ』が林立していたので、『カシシマ』とよばれ、『カシシマ』が『カシマ』に転訛して『カシマ』となったものと推定されるのである。」と述べています。(30)
 
 「カシシマ」説はこの二つだけではありませんが、とりあえずここでは代表してもらうことにします。
 
 この二つの「カシシマ」説は、「カシシマ」が「カシマ」に転訛したものとしていること、茨城県の「鹿島」を、「ふさわしいところ」「あてはまるもの」と言っていて、共に狭義の島をイメージしていることが共通しています。
 『茨城県史』はこの「鹿島」を、「杭を打つ島(場所)にふさわしいところ」と島にこだわらずにやや広い概念で「カシマ」を考えているようですが、執筆者の志田は別な論文では、同じ文章で「島にふさわしいところ」とはっきり述べています(31)。
 
 しかし問題は、大もとの『肥前国風土記』が「カシマ」には一切ふれていないことですが、二つは何もこのことについて説明していません。
 
 次に、『肥前国風土記』の「カシシマ」は、「河岸あるいは港に小島がある」情景につけられ、郡名になったことです。
 このことから言って、茨城県の「鹿島」を果たして狭義の島と言ってしまって良いかどうかです。
 
 『茨城県史』の「鹿島」というのは、「常陸国鹿嶋郡」を指しています。
 久信田の方は、論文の主題は「鹿嶋郷」で、「シマ」郷・「シマダ」郷などを例にあげて、「鹿嶋の地も同様で」と言っていますから「鹿嶋郷」かと思うのですが、最後に『肥前国風土記』の杵島郡条をあげていますから、「鹿嶋郡」を示しているものと見ることも出来ます。いずれにせよ、郡と郷では「鹿島」でもその範囲は大きく異なります。
 
 「常陸国鹿嶋郡」の範囲については、『常陸国風土記』香島郡条に、
「東は大海、南は下総と常陸との堺なる安是の湖、西は流れ海、北は那賀と香島との堺なる阿多可奈の湖なり。」
とありますが、これは『風土記』編纂時の郡域です。
 北の「阿多可奈の湖」は註によると、「涸沼と涸沼川下流、那珂川の河口付近」としていて、南の「安是の湖」は「利根川の河口付近」としています。つまり現在の鹿島半島全体がここでの郡域になっています。(32)
 『和名類聚抄』では18郷もある領域です(33)。
 
 しかし、大化5年の建郡(評)の時の郡域は違います。
「下総の国海上の国の造の部内、軽野より以南の一里と、那賀の国の造の部内、寒田より以北の五里とを割きて、別に神の郡を置きき」
とありますように、わずか「香島郡」は6里とされています。
 「軽野」は「神栖町南部から波崎町にかけての地域」、「寒田」は「鹿嶋市佐田・猿田・根三田が遺称地。神栖町北部から鹿嶋市南部への地域」とされています。(34)
 
 この6里を、『和名類聚抄』の18郷で南からわかる限りで軽野郷、幡麻郷、中島郷、鹿嶋郷などと比定していくと、あと二郷ですから、せいぜい鹿島神宮の周辺までの領域にしかなりません。
 「鹿嶋郡」は明らかに郡域が変化しています(35)が、二つの説の郡域は、明らかに後の時代のものです。
 
 「鹿嶋郷」も、現在の宮中・大船津地区のあたりが比定されていますが、大船津は鎌倉時代以降といいますから、ここも古代と中世以降では範囲と地形が異なっています。しかし二説とも、港としてはこの中世以降の大船津を指しています。
 
 茨城県の「鹿島」は、少なくとも建郡(評)時とされている段階の「鹿嶋郡」か、古代の「鹿嶋郷」で考えるべきと思いますが、そうだとしても、狭義でも広義でも「島」地形とするのは無理があります。
 後の郡域は半島全体ですから、これを広義の「島」地形とすることは出来なくもないことです。しかし、もとの「鹿嶋郡」「鹿嶋郷」になりますと、その一部になりますので、長く北から南に垂れ下がった半島に「鹿島」地名があるというのが正しいのではないでしょうか。
 
 いずれにしてもこれらの「鹿島」は、「河岸あるいは港に小島がある」情景ではありません。
 二つの説は、『肥前国風土記』の大もとの話が「河岸あるいは港に小島がある」情景であったにもかかわらず、茨城県の「鹿島郡」「鹿島郷」に合わせるために「鹿島」地名の範囲も「カシシマ」概念もそれぞれ拡大しすぎてしまっています。
 茨城県の「鹿島」を、地名の示す範囲も確認せずに、「船をつなぐ杭を打つ島(場所)にふさわしいところ」としたり、「周囲を流水で囲まれた『シマ』地形」などというのはいいすぎでしょう。
 
 二つの説は、港としては「大船津」を考えていますが、「大船津」の古い段階について『鹿嶋市史 地誌編』は、
 「鹿島と水辺を結ぶのは、下生の州に始まると考えられ、古墳時代になると『鎌足神社』付近には、水辺に人が住み着き始めて、鹿島の津となって、『甕島』付近は良い舟着場となり、下生から鹿島神宮などへの集散地となったことだろう。
 やがて、『小船津(コフナツ)』や『古屋(コヤ)』が、水辺の集散地となる。古屋は居住地であり、小船津は舟着場・船だまりである。船で来た人は、小船津で下船し、『古屋』から『山崎(ヤマザキ)』を通って、鹿島神宮に詣でたのである。・・・
 鎌倉時代になると、津が更に前進する。舟着場の前進は、居住地区と距離が遠くなるから、居住地を前進させるためにとられたのか、埋立による居住地の造成が始まる。・・・埋立工事によって、今の大船津の基盤整備がされたのである。」(36)
 
 「鹿島の津」は「甕島」付近から始まり、「小船津」「古屋」を経て、鎌倉時代以降に「大船津」が形成されたとしています。
 
 そうしますと、改めて、『夫木和歌抄』『鹿島宮社例伝記』『鹿島神宮伝記』などの次の話に注目すべきと考えます。
 
 『夫木和歌抄』は、
「 かしま、常陸
                               光俊朝臣
神さぶるかしまみればたまだれのこがめばかりぞまだのこりける
   此歌は、鹿島といふ島は社頭より十町ばかりのきて今は陸地よりつづきたる島にな   ん侍り、その所につぼといふ物のまことにおほきなるが半すぎてうづもれて見えし   を先達の僧にたづねしかば、これは神代よりとどまれるつぼにて今にのこれるよし   申し侍りしこそ、身のけはよだちておぼえ侍りしか、こがめぞ事たがひてよめりけ   ると云云」(37)
 今は陸続きの「鹿島といふ島」に、神代よりの壺が残っていたという話です。重要なことは、「鹿島」という小島の存在をはっきり示していることです。
 
 『鹿島宮社例伝記』は、
 「鹿島トハ、御社之非御名ニモ。海辺田ノ中ニ、幾程モナキ在小島。是付テ郡ノ名ニモ神御名ニモ顕ケルニヤ。(中略) 此嶋ニ大キナル壺アリ。如何ナル故ニカ、鹿島ト云伝リケルニヤ。傍ニ甕山トテ在。是ノ小嶋壺アリトナン。」(38)
 「鹿島」は海辺の田の中の小島の名で、ここから郡の名も神の名もついた。この島に大きな壺があり、傍らの甕山にも壺があるといっています。「甕山」は、さきの「甕島」と同じではないかと思います。
 『鹿島神宮伝記』もほぼこれと同じ事が記されていますから、省略します。
 
 ここでは小島の「鹿島」と「甕山(甕島)」があり、どちらも壺(甕)を据えて神祭りを行っていたとあり、この「鹿島」から郡名や神名が起こったとしています。
 
 『新編常陸国誌』になると、
  「鹿島ハ、鹿島郡宮中下生村瑞甕山根本寺ト云寺ノ前ナル田中ニアリテ、イササカナル塚ニ椎木一株アリ、メグリハ田地ナレバ、年々田ニ切開カレナドシテ、自然ニカクノ如クナレリト見エタリ、俗ニ瑞甕森ト云、夫木抄ニ鹿島ト云ヘルハコレナリ、鹿島神宮伝記ニ、本社ノ去西十丁、海之辺田ノ中、有一之小島、・・・是ニモ有レ壺トアリ、コノ説夫木ニ合セリ、ココニ甕山ト云ハ、根本寺ノ後ノ山ヲ云ト見エタリ。」(39)
 ここでは「甕山」は根本寺の後ろの山といっていますが、前の田中の塚に椎木一株あるのが「鹿島」だと言っています。
 
 少なくともここまでは、「鹿島の津」に「鹿島」と言う小島があったことをはっきり述べています。
 
 ところが、なぜか、『新編常陸国誌』より前に成立した北条時鄰撰『鹿島志』から話がおかしくなっています。
 「甕山 俗に瑞甕森といふ。下生村瑞甕山根本寺といふ寺の前なる田中にありて、いささかなる塚に椎木一株しるべにたてり。(中略) 例伝記に、甕の有所ゆゑ甕嶋といへるを略て、鹿嶋とよべるにて、後に郡郷の名ともなれるなりといへり」(40)
 ここでは、根本寺の前の椎木一株ある塚は、「甕山(甕嶋)」といい、これを略して「鹿島」といって郡郷の名のもとになったというのです。「甕山(甕嶋)」と「鹿嶋」が入れ替わってしまっています。
 
 さらに、東実『鹿島神宮』によりますと、
 「このかっての鹿島神宮の『津の東西社』のあったかたわらに、田のなかに甕山(みかやま)という小塚があった。この甕山は大小二つあって、昭和42年に大きい方が埋立てられることになり、鹿島文化研究会によって緊急発掘したところ、高杯、杯、皿、甕、角土柱等が出土した。小さい方が津の東西社のあととして椎の木がたっている。」とあり、「また、昭和のはじめまでは、甕山のほかにそのすぐ北に大小二つの小島が田の中にあったと聞く。・・・ならされてしまった大小二つの島の下に・・・」などとあります。(41)
 
 どうやら話は、「鹿島」という小島は一切なくなり、「甕山」だけになり、昭和に入ると「鹿島」は忘れられてならされてしまったようです。「鹿島」地名の発祥の地とされていた「鹿島」という小島は、消滅させられてしまったというわけです。
 
 私は、この小島の「鹿島」と「鹿島の津」の組み合わせこそ、「河岸あるいは港に小島がある」情景にぴったりであり、「カシシマ」と言って良いのではないかと思うのですが、残念ながら誰もこのことに触れていないようです。もっとも、ここに「カシシマ」伝承のようなものがあるわけではありません。
 ただ、大船津より古い段階の「鹿島の津」には、「鹿嶋」と「甕山(甕嶋)」という二つないしは三つの小島があって、壺(甕)を据えて神祭りを行っていた形跡がうかがえるということです。
 
 佐賀県鹿島市の「鹿島」にも、「カシシマ」に適合しそうな話があります。
 ここは、平安時代の延喜式「鹿嶋馬牧」があって、その後は飛んで中世からの地名が続きます。そのことは先にふれました。
 
 この「鹿島」について、郷土史家の書いたものにはもっと興味深いものがあります。孫引きですが、
 「中原氏編鹿島村郷土誌」に、
 「鹿島ノ名称由緒を種々に伝フ、曰ク地形ヨリ称セリト、此ノ伝説ヤ今日ヨリ之ヲ解スルハ容易ナラザルトスルモ数千年ノ昔時ハ我村ハ五町田村ノ北半ト共ニ海底ナリキ、此時ニ於テ森岳ハ微小ナル一島ナリキ、之ニ塩田川ト鹿島川トハ昼夜ノ別ナク土砂ヲ流出沈堆シテ島ノ周囲ハ洲トナリ陸トナレリ、其全形ガ鹿ノ形ヲナシ森岳ハ其ノ頭角トナリ一頭ノ鹿ガ海中ニ臥スルガ如キ状アリシト称スルモノ、之レ穿チ得タルガ如シ。猶一説ニハ延喜式ニ当国鹿島牧アルハ我村ナリトス。著者ノ幼少ノ頃杵島山ニ鹿ノ蕃息セシコトハ知ル所ナリ、常広城ニ鹿ノ訪レ至ルアルヲ本誌に記スコトヨリ考エ、之レモ一説トナスベキカ」(42)
 この中原氏は、森岳という小島から塩田川と鹿島川によって州島ができて、その形が森岳を鹿の頭とし、鹿が臥している様な形になっていると言っています。
 
 森岳という小島がもとになって州島が出来たというのは、まさに森岳が「カシ」とすれば、「カシ」のまわりに州島ができて、それは「カシシマ」そのものと言えるのではないかと思います。現地の地形を考えますと、『肥前国風土記』はこれをみて「カシシマ」の話を作ったのかもしれないと思うほどです。
 しかし、ここでも「カシシマ」の話は全くなく、どちらかといえば鹿の伝承で説明しているのです。 
 
  茨城県「鹿島」と佐賀県「鹿島」が、少し検討してみると共に「カシシマ」に適合しそうな地形を示さなくもないことがわかりました。しかし、二つの「カシシマ」説はこのことについては何も語ってはいません。
 茨城県の「鹿島」という小島は消滅していましたし、佐賀県「鹿島」については、そもそも大もとの『肥前国風土記』が何も語っていません。
 
 『茨城県史』は、茨城県「鹿島」と佐賀県「鹿島」のほかに、石川県七尾市「加嶋津」、静岡県富士市「賀島」、静岡県浜松市天竜区「鹿島」、和歌山県みなべ町「鹿島」を例示していました。いずれの土地も「河口や海と関係が深い」ことは事実ですが、「カシシマ」にふさわしいかといいますと、少しずつずれているような気がします。
 
 石川県「加嶋津」は、「加嶋津」の前に大きな能登島があります。付近に小島がなくもないですが、能登島とのセットでも差し支えないかもしれません。能登島も含めて「鹿島郷」「鹿島郡」ですから、大もとの話に一番近そうです。
 
 和歌山県みなべ町の場合は、浜の近くに「鹿島」という小島があり、ここも「カシシマ」に含めても良いかもしれません。しかし、浜の方は「鹿島」地名はありません。小島が「鹿島」と呼ばれているだけです。
 
 浜松市の場合は、海からは大分遡上しますが、「天竜川と二股川が合流する地で、河口港として栄えた」いいます。ここに近世は渡しがあり、渡しを挟んで「鹿島」地名がありますから、ここも良いかもしれません。しかし、小島とみられる山は「鹿島」ではなく、二俣川とは逆の南側に「鹿島」地名が広がっています。
 
 富士市の「賀島」は、富士川と潤井川に挟まれた地域です。近世29か村を含む地域ですから大分広い地域で、「カシシマ」とは言いにくい所になります。確かに駿河湾に面してはいますが、これはどう説明するでしょうか。
 
 そして、これが何より大事な所と思うのですが、これらの土地には「カシシマ」に類した地名伝承はどこでも見つかっていません。
 実際に、ほかにこれに類した地名と地名伝承があるのかどうかが問題でしょう。
 
 それではほかの「鹿島」地名の中に、「カシシマ」にふさわしい「河岸や港に小島がある」という地名がどれくらいあるか、そこに「カシシマ」伝承がすこしでもあるかどうかを、見てみる必要があります。
 
 しかしながら、地形は歴史的に大きく変わります。海も川も特に変動が激しいので、古い時代に遡ってみることは難しいものがあります。一つ一つをていねいに検討しなければ何とも言えないものがあります。
 そこで、ここではとりあえず、狭義の「島」地形の「鹿島」地名の中で、どれほど当てはまるものがあるのかを見てみることにします。
 
 「鹿島」という島の中で、私が見るところ、「カシシマ」に当てはまると言って良いものは、
 1、2、3、4、5、8、9、10、11、15、16、20、21、22、25、26、28、29、31、32、33、
の21島あると言って良いではないでしょうか。
 当てはまらないなと思うのは、6、7、12、13、14、17、18、19、23、24、27、30の
12島です。
 
 「カシシマ」に当てはまるものは、全国677の地名の中では多いとはとてもいえませんが、地名の由来、語源としては少ないとも言えません。意外に多いという気がします。何より、ここには古代地名が4カ所入っています。5、9、15、29です。
 
 「3」の石川県加賀市塩屋町の「鹿島の森」は、「加島」とも「鹿島山」とも言われ、島の真ん中に鹿島神社があります。浄土真宗を大きく発展させた第8代蓮如が、北陸布教の拠点とした吉崎御坊の目と鼻の先にあり、北潟湖と大聖寺川に挟まれた河口にあるきれいな島です。私は、最初に見た時すぐ「カシシマ」にぴったりの情景ではないかと思ったほどです。
 しかし、ここには蓮如が鹿に案内されて吉崎を開いたという伝説はあるものの、「カシシマ」に関係しそうな話は今のところ見つかりません。(43)
 
  同じような景観の島はいくつかあります。
 「25」の愛媛県松山市北条辻の「鹿嶋」と「26」の「小鹿島」は、港の出入り口に浮かぶ島で古来「神の島」として崇敬され、鹿島神社が祀られています。ここには野生の鹿がおり、天然記念物になっています。(44)
 「28」の高知県幡多郡黒潮町佐賀の「鹿島」も佐賀湾口の小島です。やはり鹿島神社があります。ここも柳田国男によれば、鹿が棲息していた話があったということです。(45)
 
 これらは、「カシシマ」の「河岸あるいは港に小島がある」情景に当てはまる景観を示しているものと思われます。しかし、これらは「鹿島」という島であって、対岸の「河岸あるいは港」を含めて「鹿島」地名を示すものは一つもありません。そういう意味では、「カシシマ」そのものは一つもないと言っても良いと思います。
 
 次に、この「カシシマ」とは言えない島も、見ておきます。
 6、7は、兵庫県姫路市家島町の「男鹿島」「加島」です。播磨灘に浮かぶ家島諸島の島で、「港の小島」とは言えません。むしろ地名の由来に、鹿の傳承があることが注目されます。(46)
 
 14の島根県浜田市三隅町湊浦の「鹿島」は、三隅川の河口から約3キロ沖合の無人島です。 ここも「港の小島」にしては離れすぎています。しかも、三隅港には「カシシマ」にふさわしい島が他にいくつかあります。
 
 17の広島県尾道市向東町の「加島」は、向島や百島に囲まれていますが、やはり「港の小島」ではありません。
 
 18、19の同県呉市倉橋町の「鹿島」「鈴鹿島」も港からは離れすぎています。そして島名由来として鹿の伝承があります。(47)
 
 23の香川県小豆郡土庄町の「鹿島」は、小豆島の本島と狭い海溝で隔てられたところ。
ここは備前国神名帳に「賀島玉比咩明神」が出ている古い由緒を感じるところです。やはり、港の「カシ」と「島」のある情景とはいえません。
 
 24の愛媛県宇和島市戸島の「嘉島」、南宇和郡愛南町外泊の「鹿島」も、「カシシマ」とは言いにくいものがあります。そしてここも島の多いところで、もっとふさわしい島はたくさんあります。
 
 以上「カシシマ」説をさまざま検討してきました。「カシシマ」にふさわしい地名も割合多くあったと思います。中部以東の地名も、一つ一つ歴史的な地形を検討すると、「カシシマ」にふさわしいものがまだ見つかるかもしれません。
 しかし、私は、全国の「鹿島」地名を見て、やはり「カシシマ」説は妥当ではないと思っています。理由は大きく3点有ります。
 
 その一つは、全国に「カシシマ」にふさわしい島はたくさんありますが、「カシシマ」「カシマ」「キシマ」に類した地名の島はあまり多くはないことです。地図の上で港を探していくと大概小島がいくつかあります。しかし関係ない名前の島ばかりという感じがします。「カシシマ」が地名として普通に意味あるものならば、もう少し同じ地名が全国にあって良いと思いますが、ありません。
 
 いま一つは、「カシシマ」にふさわしい島であってもなくても、おしなべて「カシシマ」に関係する地名伝承を聞かないことです。何か類似した伝承があれば良いのですが、今のところは見つかりません。
 
 もう一つの理由は、そしてこれが私の最も大きな理由ですが、「カシシマ」説は鹿島信仰を説明できないからです。せいぜい海や水や舟との関わりを言うだけであって、それは特に鹿島信仰だけのものとはいえないものです。他の神々にも、こうした特徴があてはまる事が多いと思います。全国にこれだけ同じ「鹿島」地名で広がっていることから考えても、「鹿島」地名は何かしら鹿島信仰につながるものをもっているはずと思うのです。
 
    5 鹿島山について
 
 全国の鹿島地名を見ると、「鹿島山」とこれに類した地名が目につきます。「鹿島台」「鹿島森」「鹿島林」「鹿島舘」「鹿島城」「鹿島峰」などです。以下に掲げます。
 
 まずは「鹿島山」です。通し番号、表1の「全国『鹿島』地名一覧」の番号、地名、所在地、備考の順に記してあります。備考では、同一場所であろうと思われる地名と、鹿島神社があるところは鹿島神社を記しています。
 
1.( 7)鹿島    岩手県盛岡市新庄          鹿島山とも 8鹿島下 
2.( 62)鹿島山   宮城県石巻市桃生町樫崎       63鹿島前 鹿島神社
3.( 66)鹿島山       牡鹿郡女川町出島       67鹿嶋林 鹿嶋社
4.( 80)鹿島山       柴田郡大河原町大谷上谷   
5.( 88)鹿嶋後山      白石市白川犬卒塔婆      86鹿嶋入87鹿島  
6.( 90)鹿島山       白石市郡山          89鹿嶋  鹿島神社
7.( 93)鹿島山   山形県酒田市北俣          92鹿嶋94向鹿島 鹿島神社
8.(120)鹿島山   福島県伊達郡桑折町松原       鹿島神社
9.(122)鹿嶋山       福島市小田           123鹿島館124鹿島前 鹿島神社
10.(127)鹿島山       二本松市戸沢(北戸沢)       
11.(128)鹿島山       二本松市戸沢(南戸沢)       
12.(152)鹿島山      白河市東釜子         153鹿島 鹿島神社  
13.(156)鹿島崎山     喜多方市岩月町入田付     155 鹿島崎 
14.(180)鹿島山    茨城県日立市河原子町         179鹿島森 鹿島神社
15.(188)鹿島山       久慈郡大子町左貫       187鹿島前   
16.(225)鹿島山       東茨城郡大洗町成田町     226鹿島久保    
17.(231)鹿島山       笠間市随分附         鹿島神社
18.(241)鹿島山       鉾田市菅野谷         242鹿島大神 鹿島神社   
19.(250)鹿島山       石岡市柿岡          248鹿島下249鹿島台   
20.(253)鹿島山       石岡市加生野         251鹿島後252鹿島原254鹿島脇 
21.(263)鹿島山       石岡市小塙          261鹿島262鹿島前 鹿島神社 
22.(266)鹿島山       石岡市山崎          264鹿島265鹿島前     
23.(269)鹿島山       石岡市真家          267鹿島268鹿島下     
24.(285)鹿島山       かすみがうら市高倉      鹿島神社       
25.(292)鹿島山       土浦市虫掛             
26.(297)鹿島山       土浦市下坂田         297鹿島前   
27.(323)鹿島山       稲敷郡阿見町大形       鹿島神社       
28.(339)鹿島山      下妻市本城町多賀谷城跡公園       
29.(376)鹿島山       牛久市久野町         377鹿島久保 鹿島神社
30.(392)鹿島山       鹿嶋市宮中          鹿島山金蓮寺神宮寺・鹿島山仁太寺
31.(475)鹿島山   群馬県太田市吉沢          474鹿島前 鹿島宮
32.(  )鹿島山   千葉県香取市与倉          鹿嶋神社
33.(512)鹿島山      佐倉市城内町         513鹿島514鹿島川 鹿島山勝全寺
34.(537)鹿島山       南房総市増間字内田      538 鹿嶋  
35.(564)鹿島の森  石川県加賀市塩屋町         鹿島山とも
36.(569)鹿島山   長野県小諸市大手1~2丁目    
37.(573)鹿島槍ヶ岳     大町市            鹿島山とも 
38.(587)鹿島山    静岡県浜松市天竜区二俣町      584鹿島586鹿島川 椎が脇神社
39.(591)鹿島山   愛知県北設楽郡設楽町田口      592カシマ593鹿島川 
40.(614)賀島山    兵庫県豊岡市竹野町竹野       賀島山竜海寺
41.(638)加島山    徳島県海部郡海陽町浅川        636加島637加島湊 加島城とも      
42.(642)鹿嶋     愛媛県松山市北条辻         鹿島山とも 643小鹿島 鹿島神社
43.(654)カシマ山   高知県宿毛市平田町黒川
 
以上、43地名の「鹿島山」がありました。
 
 1の岩手県盛岡市の「鹿島山」は、小字一覧では「7鹿島」「8鹿島下」とあったのですが、『もりおか物語(六)』では「鹿島山」があり、その山下に「鹿島下」の地名が残ったとしています。このように、地元の人に通称されている地名はまだありそうですので、「鹿島山」がこれからも出てくる可能性があります。なお、大正時代にこの「鹿島山」は崩され、鹿島神社もかってはあったのですが、いつの頃か廃社になったようです。(48)
 
 32の千葉県香取市与倉の「鹿島山」は、インターネットを見ていて偶然見つけたものです。したがって一覧表にもまだ入っていませんから、一覧表の番号はありません。
 一覧表の補足訂正は、現在の所10数カ所出ていますが、まだ検討しているものもありますので、どこかの段階で一斉に行うつもりですが、本稿ではできる限り補足訂正のものも入れてあります。
 
 33の石川県加賀市の「564鹿島の森」は、前に述べた通り、浄土真宗第8代の蓮如が北陸布教の拠点とした有名な吉崎御坊から指呼の間に望むところにあります。湾内の小島でしたが、蓮如の歌と伝えられているものでは「鹿島山」とされています。(49)
 
 36の長野県小諸市の「569鹿島山」は、現在小諸駅前の繁華街に変貌しています。小諸城の曲輪の1つであり、鹿島神社もあったのですが、崩され、整地され、他へ移っています。(50)
 
 37の長野県大町市の「573鹿島槍ヶ岳」は、明治以降に麓の鹿島地区の名を取って名付けられたと言いますが、18世紀初めの『信府統記』には「鹿島山」と出ています(51)。標高2889mで、最も高い「鹿島山」です。南峰と北峰の双耳峰ということが、茨城県の筑波山と似ているのではないかと注目しています。
 
 これらの「鹿島山」という地名を重視するのは、一つは茨城県鹿嶋市の鹿島神宮のあるところが宮中字「392鹿島山」であったからです。奥宮、要石のあるところが「鹿島山」です。鹿島の神祭りの中心が「鹿島山」と呼ばれていたのです。鹿嶋市の他の小字名は、「鹿島坂」や「鹿島道」であって、鹿島に行く道を指しています。したがって「鹿島山」がそれらの中心になるのです。
 「カシシマ」説のところで、私は、『夫木和歌抄』『鹿島宮社例伝記』『鹿島神宮伝記』あるいは『新編常陸国誌』などで、小島「鹿島」が郡名や神の名の由来になっているという説を紹介しました。茨城県の「鹿島」では、小島「鹿島」から丘を登って「鹿島山」へと神祭りの場が展開したことが考えられると思います。
 
 そしてここには、「鹿島山金蓮寺神宮寺」と「鹿島山仁太寺」という山号を持つお寺も置かれていました。山号は、比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺のように、お寺を含む聖なるお山を示しています。
 鹿島神宮に行ってみても、山と言うほどの高さはなく、むしろ鹿島の杜といわれているように、森が圧倒するように存在しています。これが「鹿島山」です。
 明治の廃仏毀釈以前は、神仏習合で、鹿島の神祭りもお寺が管理していたと言います。したがって、この山号は神社と同じように聖地を示すものとして見ておかなければならないものです。
 
 そこで、次に山号を名乗るお寺を挙げておきます。通し番号、お寺の名前、所在地、備考の順になっています。
 
1. 鹿嶋山桜目寺    宮城県大崎市古川桜ノ目     20 鹿島   鹿島神社
2. 鹿島山観水寺       大崎市古川耳取      28 鹿島   鹿島神社
3. 鹿島山古川寺       大崎市古川七日町     37 本鹿島  鹿島神社
4. 鹿島山円寿寺    福島県相馬市石上        105鹿島前 鹿島神社
5. 鹿島山宝前寺       相馬市馬場野       108 鹿島前 鹿島神社  
6. 鹿島山称念寺    茨城県鉾田市鹿田上鹿田   
7. 鹿島山金蓮寺神宮寺    鹿嶋市宮中        392 鹿島山 鹿島神宮
8. 鹿島山仁太寺       鹿嶋市神向寺     
9. 鹿島山千手院神楽寺    つくば市筑波        筑波山(神島)
10. 鹿島山勝全寺    千葉県佐倉市           512 鹿島山
11. 鹿嶋山宝性寺    群馬県高崎市根小屋        467 鹿嶋  鹿島神社
12. 鹿島山常林寺    東京都品川区大井        539 鹿島谷 鹿島神社 
13. 賀島山竜海寺    兵庫県豊岡市竹野町竹野     614 賀島山 
14. 鹿島山光顔寺    和歌山県日高郡みなべ町山内   615鹿島  鹿島神社
 
 今のところ、以上14のお寺を見つけました。
 
  1、2、3のお寺があった宮城県大崎市は、「鹿島」地名の集中しているところであり、この地名とも関係して古い由緒に注目されるわけですが、3寺とも明治の初年に廃寺になっています。
 
 6の鹿嶋市の「神宮寺」も天平勝宝年間に創建され、祭頭祭や常陸帯神事を司っていましたが、幕末の文久3年(1863)に不審火によって焼失し、廃寺になったようです。
 
 7の「仁太寺」は、聖徳太子の命により用明天皇の勅願所として建てられ、後行基が再興したという由緒を伝えていますが、中世に時宗になって、寺号も神向寺と改めたとあります。
 
 8の筑波山の麓の「鹿島山千手院神楽寺」も廃寺になっています。
 
 鹿島信仰のカギを握ると思われる、宮城県大崎市の古い由緒のお寺が、皆廃寺になっていること、鹿島神宮のある本拠地とも言うべき鹿嶋市と筑波山の「鹿島山」を山号としたお寺が、やはりみな廃寺になってしまっていることは偶然ではないでしょう。「仁太寺」以外は廃仏毀釈の結果のようですが、宗教運動による文化の破壊の典型というべきです。
鹿島信仰を探るには、少なくともこの廃仏毀釈以前の姿から探らなければ、正しいものとは言えないでしょう。
 
 つぎに「鹿島台」などの地名を掲げます。
 
1.( 53) 鹿島台    宮城県大崎市           54鹿島 鹿島台神社   
2.( 65) 鹿島台       石巻市日和が丘       鹿島御児神社  
3.( 71) 男鹿島台      宮城郡利府町加瀬      69男鹿島70女鹿島   
4.(213) 鹿島台    茨城県那珂市           211鹿島212鹿島圷 鹿島神社 
5.(217) 鹿島台       ひたちなか市勝倉        
6.(271) 鹿島臺       石岡市東成井        270鹿島下 鹿島神社   
7.(350) 鹿島台       猿島郡境町志鳥       351鹿島 香取神社に鹿島大神  
8.(440) 鹿島台    栃木県小山市中久喜           
9.(494) 鹿島台    埼玉県さいたま市浦和区高砂    495鹿島後      
10.(512) 鹿島台    千葉県佐倉市城内町        鹿島山とも514鹿島川など            11.(517) 鹿島台       佐倉市将門町        512鹿島山514鹿島川など   
12.(522) 鹿島台       山武郡大網白里町長国       
13.(527) 鹿島台        市原市上高根           
14.(532) 鹿島台       君津市六手            
15.(540) 鹿島台    東京都東大和市芋窪1丁目     豊鹿島神社       
16.(547) 鹿島台    神奈川県相模原市南区上鶴間    546鹿島下 鹿島神社  
 
 以上16地名でした。
 
 つぎに「鹿島森」「鹿島林」の地名を掲げます。
 
 1.( 67)鹿嶋林    宮城県牡鹿郡女川町出島      66鹿島山 鹿嶋社
 2.( 83)鹿島林       亘理郡亘理町上吉田         
 3.(121)鹿島森    福島県福島市鳥谷野宮畑      鹿島神社   
 4.(129)鹿島森       二本松市平石町          
 5.(149)鹿島森       白河市大          150鹿島151鹿島前   
 6.(179)鹿島森    茨城県日立市河原子町        180鹿島森 鹿島神社
 7.(466)鹿島林    群馬県伊勢崎市鹿島町          
 8.(545)鹿島森    神奈川県相模原市南区鵜野森
 9.(550)鹿島樹叢   富山県下新川郡朝日町宮崎     鹿島神社
10.(564)鹿島の森   石川県加賀市塩屋町        鹿島山とも
   
 以上10地名でした。
 
 次に「鹿島館」「鹿島城」など中世に遡る「館」「城」の地名を掲げます。
 
 1.( 9)鹿島舘    岩手県北上市鬼柳町字上鬼柳    加島舘とも 鹿島神社
 2.( 16)鹿島舘    宮城県栗原市一迫真坂       真坂城   
 3.(111)鹿島館    福島県南相馬市小高町行津        
 4.(123)鹿島館       福島市小田          122鹿嶋山124鹿島前 小倉館
 5.(139)鹿島舘       郡山市富久山町八山田    鹿島神社      
 6.(146)鹿島舘       岩瀬郡鏡石町高久田     147鹿島148東鹿島 高久田館 
 7.(396)鹿島城    茨城県鹿嶋市           396鹿島郷など
 8.(310)鹿島城跡   千葉県柏市岩井向山
 9.(570)鹿島曲輪   長野県小諸市大手         569鹿島山 鹿島神社
10.(625)賀島城    広島県福山市手城町内
11.(638)加島城    徳島県海部郡海陽町浅川      638加島山など 浅川城
12.(642)鹿島城    愛媛県松山市北条辻        642鹿嶋・鹿島山 鹿島神社 
13.(662)鹿島城    佐賀県鹿島市           660鹿島など 常広城
 
 以上13地名でした。
 
 次に、「峯」「峰」「崎」の、「山」と同じような小高い地形を示していると思われる地名を掲げます。
 
 1.( 73)鹿島崎    宮城県仙台市青葉区青葉町     74鹿島堤 鹿島香取神社  
 2.(155)鹿島崎    福島県喜多方市岩月町入田付
 3.(156)鹿島崎山      喜多方市岩月町入田付    
 4.(232)鹿島峯    茨城県笠間市日沢          日沢神社(武甕槌など)    
 5.(235)鹿島峯       小美玉市鶴田かしまみね   233鹿島久保236鹿島など
 6.(288)鹿島峰       土浦市小山崎        
 7.(397)鹿島の崎   茨城県神栖市波崎         394鹿島郡など
 8.(525)上鹿島崎   千葉県市原市玉前
 9.(526)下鹿島崎      市原市玉前
 
 以上9地名でした。
 
 「鹿島山」「鹿島台」「鹿島森」「鹿島林」「鹿島館」「鹿島城」「鹿島峯」「鹿島崎」などいずれも「山」と同じように小高い地形を示し、しばしば宗教的な儀礼の場となっていると思われる土地の地名をあげてみました。全部で91地名ありました。これに山号の中で「鹿島山」の地名とは重ならないもの11を足すと、全部で102地名が数えられました。
 
 しかし、全国677地名から考えると、この102地名も多い地名とは言えないでしょう。しかもこちらは、中部以東の地名が圧倒的です。関西以西の地名は、「鹿島山」が4地名、山号は一つは地名と重なっているので1地名、「鹿島城」が4地名、計わずかに9地名にすぎません。「鹿島山(など)」の地名は、中部以東の地名と言って良いかもしれません。
 
 関西以西で狭義の島地形が比較的多かったことを考えると、西日本の「鹿島」という島地形から、中部以東の「鹿島山(など)」へ変化していったと言うと、全国の大きな動向を示すことができるかもしれません。
 それは、茨城県「鹿島」で見られた、「鹿島」という小島から「鹿島山」へと祭祀の場が変化したと考えられることが、全国的に見られるとすべきことかもしれません。
 
    6 まとめ
 
 本稿では、「表1 全国『鹿島』地名一覧」の677地名の分類を、「表7 全国『鹿島』地名の分類」として示しました。大まかな分類とは言え、分類できた地名は537地名で、なお様々な地名が残っています。
 
 地名は、「鹿島」だけの地名か、それを「前、後、脇」「上、下」などに分けた地名が最も多くおよそ半数を占めました。さらに、いくつかの地名がセットで考えられるという
特徴もありました。その中で、「鹿島山」「鹿島台」「鹿島館・城」などという地名に注目すべきものがありました。
 
 つぎに、狭義の「鹿島」という「島」を検討しました。49地名33島ありましたが、ほとんどが西日本の地名で、西日本の地名の中では半数以上の数になりました。しかし思いのほか少なく、「鹿島」を狭義の「島」で考えることは危険であることを指摘しました。
 
 つぎに、「鹿島」地名の由来としての「カシシマ」→「カシマ」転訛説を検討しました。大もとの『肥前国風土記』では、「河岸あるいは港に小島がある」情景から「キシマ」郡が名付けられたことを見ましたが、「カシマ」にふれないという特徴を指摘しました。しかし、現代の「カシシマ」説はここから「カシマ」に転訛したとしています。その上でいくつかの事例を挙げ、中でも茨城県の「鹿島」が狭義の「島」として当てはまるものとしていました。
 
 しかし、茨城県の「鹿島」は「鹿島郡」でも「鹿島郷」でも狭義の「島」とは言えず、
むしろ、大船津より古い段階の「鹿島の津」に「鹿嶋」などの小島があり、壺(甕)を据えて神祭りをしていた形跡のあることを示しました。
 また、佐賀県「鹿島」にも「カシシマ」にふさわしい話があり、他の「鹿島」地名にも類似したものがありました。
 にもかかわらず、これらの地名には「カシシマ」ないしはそれに類した地名伝承が見られず、むしろ鹿などの伝承がいくつかの地名伝承としてありました。
 
 全国の港などに「カシシマ」「カシマ」「キシマ」に類した地名があまり多くなく、「カシシマ」に関係する地名伝承もないこと、何より「カシシマ」説では鹿島信仰を説明できないことから地名の由来、起源説としては妥当でないことを指摘しました。
 
 代わりに、「鹿島山」「鹿島台」「鹿島森」「鹿島館」などの地名に注目しました。「鹿島山」は、茨城県の鹿島神宮のあるところの小字名であり、「鹿島山金蓮寺神宮寺」などの山号に持つ寺も14寺見つけました。これらをすべて含め足しても、102地名で多いとは言えませんが、ただの「鹿島」地名を良く調べると通称「鹿島山」といわれていたことなどもあり、なお増える可能性があります。
  
 「鹿島山」などの地名は、狭義の「島」地名とは逆に、ほとんど中部以東の地名でした。
茨城県「鹿島」が、「鹿島」という小島から「鹿島山」へと祭祀の場を変えていったと同じように、西日本の狭義の「島」の「鹿島」から、中部以東の「鹿島山」などへの変化が
鹿島信仰の場としてあったのかもしれないと考えられます。
 
 しかしそのことを確かめるには、「地名」ばかりでなく全国の鹿島神社とその伝承を見ていく必要があります。
 その意味では、今後の調査の重点は、今までの地名の調査から神社と神社伝承の調査へと展開させていかなければならないと思っています。
 
 
(1)「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」4、5
 
(2)『佐倉市史 巻一』(昭和46年3月25日)、『佐倉市史 民俗編』(昭和62年3月25日)、野村忠男「佐倉城の成り立ちと『根小屋』地名」(『佐倉の地名』第3号 平成25年3月10日)
 
(3)「全国『鹿島』地名の一覧について」註(3)。ここでは『【特別展】鹿島信仰 -常陸から発信された文化-』(茨城県立歴史館 平成16年2月)の地名一覧表について述べましたが、『学術調査報告書Ⅷ 鹿島信仰の諸相』(茨城県立歴史館 平成20年3月5日)においても同じ一覧表を載せています。
 
(4)『角川日本地名大辞典 5秋田県』(角川書店)745頁
 
(5)『角川日本地名大辞典 5秋田県』、『秋田県の地名』(平凡社 日本歴史地名大系5)、『男鹿市史 上巻』(平成7年3月31日)
 
(6)菅江真澄「おがのあきかぜ」(『菅江真澄全集』第4巻 未来社)、柳田国男「をがさべり-男鹿風景談-」「椿は春の木」(『定本柳田国男集』第2巻 筑摩書房)、『岩崎村史 下巻』(平成元年10月1日)
 
(7)『銚子市史』(昭和31年6月20日)
 
(8)『角川日本地名大辞典 28兵庫県』(角川書店)384頁
 
(9)『伊能図大全』第3・5巻(河出書房新社 2013年12月10日)
 
(10)『伊能図大全』第4巻、『大村郷村記』第4巻(国書刊行会 昭和57年2月28日)
 
(11)『古代地名大辞典』(角川書店)、『佐賀県の地名』(平凡社 日本歴史地名大系42) 
 
(12)『牧の考古学』(高志書院 2008年2月25日) 1頁、38頁
 
(13)『國史大辞典』280頁「鹿島牧(三好不二雄)」の項
 
(14)『角川日本地名大辞典 41佐賀県』(角川書店)『佐賀県の地名』(平凡社 日本歴史地名大系42)
 
(15)『角川日本地名大辞典 43熊本県』(角川書店)
 
(16)『島嶼大事典』(日外アソシエーツ株式会社)『日本の島事典』(三交社)
 
(17)『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集)。なお「カシ」の漢字は「?」は変換できましたが、「シ」ができません。やむなく「し」と表記しています。原語は偏「哥」につくり「戈」です。
 
(18)『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集)註四、『角川日本地名大辞典 41佐賀県』(角川書店)104頁
 
(19)『佐賀県の地名』(平凡社 日本歴史地名大系42)447頁
 
(20)『角川日本地名大辞典 41佐賀県』(角川書店)248頁
 
(21)『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集)345頁
 
(22)『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集)345頁註11
 
(23)『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集)179頁
 
(24)『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集)179頁註15、『角川日本地名大辞典 32島根県』(角川書店)205頁
 
(25)『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集)137頁、139頁
 
(26)「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」7
 
(27)『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集)392~3頁
 
(28)『風土記』(岩波書店 日本古典文学大系)解説、なお『常陸国風土記』については、「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」註(35)参照。
 
(29)『茨城県史 原始古代編』(1985年3月30日) 352~3頁
 
(30)「古代常陸国鹿嶋郡鹿嶋郷について」(『茨城県立歴史館報24』1997年3月25日)
 
(31)「鹿島の神と中臣氏」(『えとのす』28 1985年10月1日)
 
(32)『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集)389頁
 
(33)『茨城県の地名』(平凡社 日本歴史地名大系8)364頁
 
(34)『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集)390頁、註12、註14
 
(35) 柴田弘武『常陸国風土記をゆく』(崙書房 2000年6月20日)は、「寒田より以北五里とあるが、『風土記』に名の出る里は之万里・浜里・白鳥里で他は不明である。『和名抄』には鹿島郡には18郷が記録されているから、神郡を建ててから急速に発展したものと思われる。」とあります。
 
(36)『鹿嶋市史 地誌編』(平成17年2月18日)284頁
 
(37)『新編国歌大観 第二巻 私撰集編』(角川書店 昭和59年3月15日)828頁
 
(38)『神道大系 神社編二十二 香取・鹿嶋』(昭和59年3月31日)
 
(39)『新編常陸國誌』(宮崎報恩会 昭和44年11月3日)
 
(40)『神道大系 神社編二十二 香取・鹿嶋』(昭和59年3月31日)
 
(41)『鹿島神宮』(学生社 2000年8月25日改訂版) 133頁、135~6頁
 
(42) 山口良吾『祐徳稲荷神社史』(昭和16年8月20日)48~9頁
 
(43) 朝倉喜祐『吉崎御坊の歴史』(国書刊行会 1995年9月30日)56~7頁などに民話「鹿の案内」があります。
 
(44)『北条市誌』(昭和56年3月27日)、『北条市合併記念誌』(平成16年11月)など。
 
(45)「サンセバスチャン」(『孤猿随筆』 昭和2年2月)。ここで柳田は、「鹿島」の地名の由来を鹿の信仰に求めているようです。そして、今でも鹿の居る「鹿島」として、「阿波の勝浦郡」、「伊予の北海岸」、「土佐の西南端の海上に在る鹿島」をあげています。「阿波の勝浦郡」の「鹿島」は間違いではないかと思いますが、「伊予の北海岸」のものは北条辻の「鹿嶋」で、「土佐の西南端」は佐賀湾口の「鹿島」で間違いないと思われます。
 
(46)『角川日本地名大辞典 28兵庫県』(角川書店)937頁。『播磨鑑』の鹿の伝承を島名の由来としています。吉田東伍『増補大日本地名辞書 』149~50頁は「野鹿群栖す」指摘しています。
 
(47)『角川日本地名大辞典 34広島県』(角川書店)232頁
 
(48) 盛岡の歴史を語る会『もりおか物語(六)』(熊谷印刷出版部 昭和51年9月10日)
 
(49) 註40 の朝倉喜祐『吉崎御坊の歴史』61頁、「加賀江沼志稿 巻二十三」(『加賀市史 資料編第一巻』 昭和51年4月1日)261頁「鹿嶋」の項。
 
(50)『北佐久郡志』(千秋社 1997年9月15日)839頁、『小諸市誌 歴史篇3』(平成3年12月1日)942~3頁 
 
(51)『角川日本地名大辞典 20長野県』(角川書店)316頁、『新編信濃史料叢書』
 

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