古社の秘密を探る

9 福井県の鹿島神社
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  1 調査について
 
福井県は「鹿島」地名が全くなかったので、「鹿島神社」はあまりないだろうと思っていましたが、下の表にあるように44社もありました。意外にあったという感じです。しかも新しい神社ではなく、古いものと思われるものが多くありました。ただし、いずれも大きな神社ではなく、旧村社、無格社、境内社といったものが多く、今日では他の神社に合祀され、いずれその存在すら分らなくなりそうな神社ばかりといった感じです。
 
このうち「鹿島神社」を名のる神社が16社、「鹿島宮」が1社、「武甕槌神社」が1社です。その他は、祭神として「武甕槌命」(表中ではAと表記)・「武甕槌神」・「健御賀豆知命」「建御雷男命」「武甕雷神」を祀っている、あるいは祭神の中に含んでいる神社を拾いました。
 
春日神社は、常陸国鹿島神社の武甕槌命と下総国香取神社の経津主命に、藤原氏の氏神天児屋根命と比女大神の4神を併せ祀ったものです。しかし、実際には4神がそろっていないものが多くあり、ここでは15、16、36が武甕槌命1神のみの春日神社です。これは、本来鹿島神社というべきではないかと思われるものです。おそらく中世になって大和の春日神社あるいは興福寺の荘園などの波及によって、このような神社名を名のったものと思われますが、今は天児屋根命が祭神に入っているかどうかで春日か鹿島かを区別することにしています。この間の東北・北陸の調査においては、春日と鹿島がしばしば混交していることがわかってきました。
 
 今回の調査は、1936(昭和11)年10月20日発刊の福井県神職会『福井県神社誌』と、1994(平成6)年9月1日発刊の福井県神社庁『御大典記念 福井県神社誌』の調査が基本で、それに一部『勝山市史』から「福井県神社明細帳」より作製の史料と、『敦賀通史』によるものをつけ加えただけです。
 
新型コロナウイルスの感染拡大のため、国会図書館や東京の図書館などが利用できなくなりました。私は今北陸の田舎に籠ってこれを執筆していますが、県立、市立、大学の各図書館を利用してもなお所蔵されていない史料集・文献が多くて困りました。同じ北陸地方の史料も意外になくて、東京とのギャップに改めて驚いています。幸い、各図書館が10冊ずつ借用できるので、関係ありそうな文献をフルに借り出して調べることはできたと思います。
 
現地調査も何ヶ所か予定していましたが、これも現段階ではあきらめるほかはありません。福井県は、別な用事で何度か訪れましたが、今回の鹿島神社の関係地についてはまったく行けていません。今後の大きな課題です。
 
まだ多くの都府県の報告ができていませんので、福井県については不充分ながら、とりあえず今分かってきたことを報告することを優先することにしました。
 
なお、国立歴史民俗博物館の「全国香取鹿島神社一覧表」では、「鹿島」を名のる神社は11社だけです。「鹿島」を名のる神社の調査結果ですから、そうでない神社名については仕方がないわけですが、「鹿島」を名のる神社だけでも本調査とは6社の差があります。摂末社、境内社などは入っていますから、そういう意味の差ではありません。12、14、29、39、41、44の6社ですが、この重要な鹿島神社を外した理由、杜撰な調査の理由は不明です。
 
  2 分布について
 
 一覧表を分布地図にしてみました。
 
インターネット上の「地震まっちゃ」に「自由地図」というのがあり、神社の所在地を所定の欄に入力すると、自動的に検索してGoogleマップ上に分布図を描いてくれるものを利用しました。小字までは無理で、大字までの認識なので大雑把な分布図になります。しかも地図はややシャープさに欠けているような気がしますが、簡単に作れるので便利です。
 
地図は、赤い四角が「鹿島」地名、青丸は「鹿島神社」を名のっている神社、緑丸はその他の名前の神社を示します。
 
「鹿島」地名がないと言いながら赤い四角が一つ入っているのは、石川県加賀市塩屋町の「鹿島」です。ここは加賀国と越前国の国境にあり、中世に所属をめぐって両国の住民に争いがあったところでもあり、浄土真宗の蓮如が吉崎道場(福井県)を開いたことにも関わりますので、ついでに加賀市の7カ所もふくめて参考までに入れておきました。
 
 福井県は、地域としては木の芽山地を挟んで嶺北・嶺南にわけられ、旧国名では越前国と若狭国にわかれます。しかし敦賀は、嶺南に入りますが、越前国になりますので、地域の特徴としては嶺北と敦賀と若狭3地域に別れると言って良いだろうと思います。
 
そこで分布図を見ると、きわめて極端な分布を示しています。若狭は1カ所だけで、他はすべて越前です。また敦賀には4カ所ありますが、これも1地域に固まっていて、2カ所といっても良いほどです。つまり、ほとんどが嶺北にあるのが福井県の特徴です。
 
 
しかしながら、実は、この若狭と敦賀の3ヶ所については、調べてみるとかなり重要な鹿島信仰の痕跡を示すものと思われるものがありました。ここは、後に改めてふれます。
 
  3 毘沙門との関係について
 
一覧表の1は、大野郡細野村、現在の勝山市荒土町細野の毘沙門神社、祭神はAすなわち武甕槌命、現在は細野地区の氏神白山神社に合祀されています。一覧表2も、大野郡竜谷(りゅうだに)村、現在の勝山市野向町竜谷の毘沙門神社、祭神は同じ、竜谷の氏神神明社の境内社3社の一つです。
 
この毘沙門は、毘沙門天(多聞天とも)のことで、仏教の神であり、北方守護の武神とされています。したがって、本来はお寺の毘沙門堂ではなかったかと思いますが、無理矢理神社にしたものか、神社名が神仏混淆を示しています。
 
青森県では、近世の毘沙門堂が明治になって廃仏毀釈、神仏分離の結果ほとんど鹿島神社になったとされていました。北方守護の武神ということで、廃仏毀釈の際、そういう性格に近いということから鹿島神社に変えられたのだと説明されていました(1)。しかし、全国各地の神社やお寺を見ていくと、すべての毘沙門堂がそうなったわけでもありません。毘沙門堂や毘沙門天を祀る有名なお寺は各地に今も存在しています。
 
福井県にもいくつかあります。永平寺町松岡神明3丁目は、もと毘沙門堂にちなむ毘沙門町でしたが、毘沙門堂は移転したものの存在しているようです。越前市本多3丁目は、やはり旧毘沙門町で毘沙門天堂があります。福井市上・中・下毘沙門町も江戸期には毘沙門堂があり、ここはそれが神明神社になっています。
 
福井県のこの毘沙門神社二つは、青森県と同様に毘沙門堂を名称変更し、神様を毘沙門天では具合がわるいので、似た性格とされる武甕槌命にしたものと思われますが、その事情をよく示す神社が他にもいくつかありました
 
37の越前市高森町の武甕槌神社は祭神Aで、「元禄8年の村明細指上書」によると「社1(毘沙門)」とあるといいますから、毘沙門堂が神社に代わったケースのようです(2)。
 
しかし、次は少し違います。
31の越前町新保の鹿島神社は、地名辞典によると「鹿島神社(毘沙門社)」とあるので(3)、同じようなケースと思われますが、神社内の摂末社にも32鹿島宮があります。『神社誌』の由緒では、「応仁2年(1468)丹波国鹿島神社を移す」とありますから、中世以来の鹿島神社があったようです(4)。つまり、本社鹿島神社は毘沙門堂が後になったものでしょうが、その毘沙門堂に鹿島神社が移されてセットになっていたものと思われます。これは、新潟県で指摘した毘沙門堂と鹿島神社のセットが本来の姿のケースと思われます(5)。
 
33の越前市大谷町の鹿島神社も経過がややこしいところありますが、寛保3(1743)年の寺社由緒書上帳に元真言宗のお寺と毘沙門堂があったとあり、「毘沙門堂は明治期に入って鹿島神社となった」とあります。その後寺が焼け、隣村の神社に合併されたが、区民の願望により元の地に分離奉斎されたとあり、この摂末社にも34の鹿島神社があります(6)。これも本来セットであったケースと思われます。
 
以前は、近世に毘沙門堂であったことが明確な場合はこのリストから外していましたが、今回はセットが明確なので、あえてここに入れておきました。こういう祀り方があったのだという意味です。
 
7の勝山市鹿谷町矢戸口の水谷神社は、祭神はAと伊弉册尊。明治41年に白山神社を合祀したといいますから、伊弉册尊は白山神社の神と思われます。そうすると、本来はAだけの神社となりますから鹿島神社だったのではと思われますが、地名を名のっています(7)。ここは、境内に永禄11年の文書にある「矢戸口観音堂」があります(8)。そうすると、これは観音堂と鹿島神社のセットではなかったかと思われるものです。
 
前近代の神仏習合を考えると、お寺のお堂と神社のセットは不思議でも何でもありません。むしろこれがもともとのあり方を示すものと考えられます。新潟県で毘沙門堂とのセットを指摘しましたが、観音堂とのセットは青森県にもありました(1)。福井県では、いくつかその経過がうかがわれる形が残っていたといえます。今後はこの神仏の関係に気をつけながら、神社だけでなくお寺もふくめて鹿島神社を見ていく必要があります。そういえば、宮城県で鹿島堂という地名がいくつかありました(9)が、その名残を示すものと言えるかも知れません。全国的に見ていくと、いろいろはっきりしてくるものがあります。
 
  4 九頭竜川と渡し、渡船場について
 
 分布を見ると、嶺北に広がっていますが、特に九頭竜川と日野川に沿った地域の分布が目立ちます。
 
もちろんすべてがそうだとは言えないわけで、24の福井市西別所町と25の同畠中町の鹿島神社はかなりの山の中にあります。寛平7(895)年勧請という古い由緒がありますから(10)、こういう鹿島神社も視野に入れつつ、しかしここ福井県では、九頭竜川、日野川という大河の渡しに関係していそうな分布が認められることに注目すべきです。
 
まずは10永平寺町市荒川と11同藤巻の鹿島神社です。この両地域は一向一揆などの歴史的経過があり、「地籍が一筆ごとに混在していて、境界が不明瞭である。」といわれています(11)。どちらもそれぞれの鹿島神社を崇敬している地域で、中世志比荘の一地域と考えられますが、「地内の小舟渡は中世以降九頭竜川の渡し場」でありました(12)。対岸の北郷町東野の8大剱神社、北郷町檜曽谷の白山神社境内社の9白山神社も関係がありそうです。
 
大永4年10月3日「平泉寺臨時祭礼入用帳」に「三貫文 渡守〈大わたり・こふなと・なるか〉」とあり、この三箇所が九頭竜川の渡しとして重視されていたということです(12)。この「こふなと」が「小舟渡」であり、近世は福井城下と勝山城下を結ぶ勝山街道の渡河点で、現在は小舟渡橋が架かるとあります(13)。
 
「大わたり」は「箱の渡」「筥の渡」ともいい、「小舟渡」の上流、平泉寺町大渡と遅羽町下荒井との間にあった渡河点で、白山を開いた泰澄が白山禅定のとき、箱のふたに乗せられて渡ったという白山平泉寺への重要な渡しです。下荒井の隣に大袋があり、6住吉神社があります。こちらは一つ下の渡、「鵜島の渡(中島の渡)」に関係しているかも知れません(14)。
 
「なるか」は「鳴鹿」、永平寺町鳴鹿山鹿(なるかさんが)と東古市を結ぶ渡河点で、九頭竜川谷口の交通の要衝です。ここの地名伝承には、「往古河口荘の水を求めていたところ春日明神の夢告があり、川上を社家が尋ね探した。すると神鹿が山から現れて案内し、その鹿が3声鳴いた地から水を引くことになった。こうして用水ができたので、神鹿の出た地を山鹿、鳴いた地を鳴鹿というようになったと伝える。」とあります(15)。
 
ここは鹿島ではなく、春日明神ですが、鹿の伝承はどちらにも共通するものです。奈良の春日神社の鹿は有名ですが、もともと鹿島の鹿が行ったものとされています。関係する伝承とみて良いものですが、鳴鹿山鹿地区には春日神社があります。
 
九頭竜川に沿ってある神社、あるいは渡河集落の神社を挙げますと、12から19までが挙げられます。このうち明確に渡河集落、渡船場とされているのは、14鹿島神社のある灯明寺と19智原神社のある高屋町だけですが、近世の村明細帳などを見ていくと川との関わりの深い地域であることがいっそう明らかになるでしょう。
 
20同北四ツ居の鹿島神社は、九頭竜川からはなれますが、地域は「かって荒川舟運の河戸と市姫神社のにぎわいを思わす地名も残る(円山東村史)。」(16)とあり、荒川の渡し場として「四ツ井渡」(17)がありました。
 
日野川沿いでは、22と23が挙げられます。
 
以上、顕著なものだけを挙げておきました。ただし調査が今の段階では不充分ですから、川との関わりは推測できるものの、それがすべて渡しに関係しているとは必ずしも言えません。
 
福井県において九頭竜川沿いにこれだけあるのは、白山信仰と平泉寺との関係ではないかと思われます。勝山市平泉寺町の白山神社はもと越前馬場の拠点の平泉寺ですが、その境外末社に5剱ノ尾神社があり、これは現在境内神社の別山神社に合祀されています。越前町大谷寺は、泰澄が修行したという越智山の越智山神社の別当寺に基づく地名ですが、その26中宮神社も祭神Aとなっています。加賀の白山に関しても、味知郷・道氏と関係ありました。龍神、九頭竜神に関わったものかではないかとも思われます。
 
『泰澄和尚伝』によりますと、泰澄が白山に登り、緑碧池(翠ケ池)のほとりで一心不乱に祈ると池の中から九頭竜王が出現したが、泰澄は本当の姿を示すようさらに祈るとついに十一面観音が現れたとあります(18)。ここから川の名前となったものと思われ、近世の記録では八重巻村の白山社の項に、「寛平元年の六月平泉寺の権現衆徒の僧に示現おはしまして、尊像を此流水にうかめ奉る。時に一身九頭の竜出て是を頂き、黒竜の明神の向ひの岸に留る。されば此川を九頭竜川といへり。」などとあります(19)。なお八重巻村は、14の灯明寺の川の対岸になり、この周辺に12から18が分布しています。
 
この九頭竜川の地名については、角川、平凡社ともに地名辞典は、すっきりとした説明をしていません。『大乗院寺社雑事記』文明6年の略図の記載などから「崩川」「鳴鹿川」があり、『朝倉始末記』永正3年7月「九頭竜の河崖」が九頭竜の初見とありますが、各地でいろいろな呼び名があり、近世の地誌は「黒竜川」をとっていて、「九頭竜川」に統一したのは明治になってからだと言っています。九頭竜川とは必ずしも言えないのだと言わんばかりです(20)。
 
しかし、確かに川の名前は、川に沿って各地で「鳴鹿川」「舟橋川」「三国川」などとさまざまに呼び習わしてはいますが、それは地域ごとの名称というべきです。川全体の名前としては近世の「黒竜川」は「くずりゅう」とルビもふられていますから、中世以来「くずりゅうがわ」は一貫していると言えます。
 
『大乗院寺社雑事記』も「くずりゅう」を「崩川」と漢字表現したものと考えられますから、「崩川」そのままを地名としてあれこれ言うのは乱暴な話です。なお、『大乗院寺社雑事記』文明6年の略図は私も石川県の項でも検討しましたが、「かしま」を「かゞしま」と表記し、河口の島を海の中の島として表現し、東西南北もずれているなど、略図ですから大変大雑把な図です(21)。大差ない時代の『朝倉年代記』が「九頭竜」としていますから、問題ないはずと思われます。
 
なお、『白山信仰』所収の下出積與「龍形神の意味」において、白山の信仰において本来の龍形身が後世軽視されるようになったと指摘しています(22)が、何か関係するものがあるのかもしれません。
 
  5 敦賀における鹿島神社
 
敦賀の鹿島神社は、敦賀半島の先端近く、敦賀湾の入り口を扼する地にある浦底(うらそこ)、色浜(いろはま)の4社が重要な問題を示しています。
 
浦底には、40剱神社(祭神A)が氏神として祀られ、その境内神社に39鹿島神社があります。隣の色浜には、氏神として白山神社ほか蛭子社・鹿島神社があり、その境内神社にもやはり鹿島神社があります。鹿島神社が4社もかたまってあるというわけです。
 
敦賀半島の先端は立石岬ですが、そこから敦賀湾内に向かって南西にのびる小さい岬があります。ここは「明神山」「明神崎」といい、「岬を入会地とする敦賀市浦底・色浜が鹿島大明神を祀るので名がある」(23)と言われています。「鹿島大明神」を祀るので「明神山」「明神崎」の名となったと言いますが、全国の地名の例を見ると、「鹿島」なり、「鹿島山」「鹿島崎」と呼ばれるべきところと思われます。少なくとも「鹿島」地名が何らかあってしかるべきところですが、表向きは「鹿島」が出ていません。
 
平凡社の『歴史地名大系』では、「明神崎」の鹿島明神は応永5年(1398)の勧請としています(24)。浦底・色浜の鹿島神社は不明ですが、この鹿島神社がすべて中世以降の起源のものであるなら、その前に祀られていた神、敦賀湾頭の神は何であったかが大きな問題になるはずです。しかし、そのような形跡はありません。やはりここは古くから鹿島の神が祀られていたと考えて良さそうです。
 
この「明神崎」の先には、水島という砂の小島が二つあり、上水島、下水島といい、ともに周囲約300m、標高は上水島が6mといいます(25)。「白沙を穿てハ水湧し故に土俗水嶋と云、松樹一本たてり、只種々の水鳥の栖処とせり」(『敦賀志』)とあります(26)。
 
また「明神崎」の付け根には「猪ヶ池(いのがいけ)」という池もあり、「池の名は禁漁の掟を破った猪之助が行方知れずとなった伝説によるという。・・・『敦賀志』は『大蛇住とて村民大ニ恐怖す、近時或人鉄砲にて鳥を取しか、俄に風雨大ニ起りて、殊の外迷惑せしとそ』と記している。」(27)とあり、龍蛇神の信仰と禁漁のタブーの存在を示しています。
 
 浦底は、「そこのうら」ともいわれ、「明神崎」と水島によって守られるので敦賀湾頭のすぐれた避難港であったようです。
 
色浜は、「いろがはま」「種の浜」ともいわれ、平安期以来歌に詠まれた地であり、「西行、芭蕉などもあそべる地にて、ますほ貝名高し」といわれています。「ますほ貝」は薄紅色をした小貝であり、そこから「色浜」の地名となったとあります。(28)
 
こうした記述を読んでいくと、ここは敦賀湾の入り口にあって、本当に風光明媚な聖地ともいうべき地であり、古来敦賀湾を出入りする船が祈りを捧げる重要な神の祀りがなされていなければならないところと思われます。
 
門脇禎二は『日本海域の古代史』の中で、「北九州でも全国どこへ行っても、古い神社のあるところは、舟が帰ってくるとき目に立つ岬や山を目標にして漕げばその近くの港に着くという、いわば灯台の地点です。ですから、出雲でも杵築(日)の御崎と三穂(美保)の御崎は日本海に突き出た触角であって、ここをどの勢力が押えるかということは決定的に重要でした。そこで、ここは非常に早くから人々の尊敬する神様が祀られたわけです。」(29)と言っています。これは出雲の神について述べていることですが、まさにこの敦賀半島にも当てはまることではないかと思います。
 
敦賀は、もとは角鹿(つぬが)といい、角鹿津は古代以来の日本海の交通(北の海の道)の要港として発展していました。一つは、越(北陸)から蝦夷へとつながる入り口であり、もう一つは高句麗、渤海、新羅、百済など朝鮮・中国との門戸でもありました。
 
そうした意味では、能登、あるいは能登の鹿島津との関わりは古くからあったものと考えられます。実際、若狭には能登郷があり、福井市の鷲塚の地名伝承は能登に通行する旅人を悩ませた荒鷲伝承にもとづき、足羽神社にも能登との関わりのある伝承があり、能登町の起こりとしています。
 
斉明天皇4年(658)からの越国守阿倍比羅夫による蝦夷・粛慎への遠征は、普通に考えれば角鹿津を経て、能登の鹿島津あたりで船隊を整えたものと想定されます。この遠征の中で能登臣馬見竜が戦死していますから、能登の豪族軍が参加していたことは疑いないところです。したがって、角鹿津や能登の鹿島津においては、「征夷の神」鹿島神社の存在が今に至るまではっきりしなかったり、あっても大きく祀られていないのが大きな謎となるはずです。
 
持統天皇の6年(692)には、越前国司が角鹿郡の浦上の浜で白蛾(白鳥か)をとり、祥瑞として献上したので笥飯(けひ)神に封戸を加増した記事があります。越前国の初見記事です。この時の越前国は加賀、能登も含んでいます。また史実としての笥飯神の初見記事ともされています(30)。そうした意味では、越の国の歴史にとっては画期的な記事になります。
 
白鳥を捕らえた角鹿郡の浦上の浜については、「未詳」(31)とされていますが、地元気比神社の社家であった石塚資元の『敦賀志』によると、「浦上と云処東西の海辺になし、思ふニ上下の写誤にて浦下之浜なるへし、下ハ底ともよむへき也」といい、浦底の浜をさすと解釈しています(32)。地元の土地勘というべきでしょうか、鳥の集まるところとして明神崎や水島などの浦底の地域がただちに浮かんだものと思われます。
 
しかし、二つある水島は、北を下水島と言い、南を上水島と言っていますので、敦賀湾の上、下は南を上と言い、北を下というのではないかと思われ、さらに明神崎や水島には、猪ヶ池と同様な禁猟のタブーがありそうです。そうすると、聖なる白鳥を捕らえた浦上の浜は、浦底の地域ではなく、湾の奥の気比神社に近い方をさし、気比神社を通じて献上されたので笥飯神に封戸の加増があったものと考えたほうが良さそうです。あるいはもっとひねって、明神崎・水島の白鳥を、タブーを破って気比神社の関係者がとらえて、ヤマト王権に献上したのかもしれません。
 
この話は、角鹿の服属を示し、土地神の笥飯神、気比神社の地位上昇をはかろうとしたものと見られます。気比神社が本当に地位を大きくするのは、もう少し後の8世紀の後半以降のことになりますが、律令国家がそこまで気比神社にてこ入れしていったのは、いったい何があったからだったのかが問題です。
 
大宝2(702)年には、気比神社は、「勅命により社殿が修営され、同時に仲哀天皇・神功皇后、のち日本武尊(東殿宮)、応神天皇(総社宮)、玉妃命(平殿宮)、武内宿祢(西殿宮)が奉斎された(『気比宮社記』)」(33)といい、笥飯神だけの神社ではなくなります。そして、天平三年(731)には「日本海沿岸ではもちろん、全国的にもいちばん早く、従三位の神階をもらいましたし、以後、どんどん位が上り、九世紀末には正一位勲一等と畿外の神では最高位に達しました。」(34)といいます。『延喜式』神名帳では「気比神社七座 並名神大」、ついで越前国一ノ宮とされました。
 
『延喜式』の式内社は、越前国126座のうち敦賀郡に43座もあり、敦賀湾奥の気比神社、さらに摂社の常宮神社とその摂末社群を中心にして、敦賀湾周辺にも周到に配置されています。
 
その西浦の式内社を見ていくと、常宮神社の先は、手浦の和志神社、立石の三前神社、白木の白城神社と並びますが、不思議なことに浦底・色浜にはありません。
 
三前神社は所在地不明となっていて、『敦賀志』は「立石・白木両浦の海中に数丈の巌石二基有、浦人ミさき明神と称して是を敬ふ」とし、『気比宮社記』は「謂門ヶ崎之楯石也」としています(35)。どちらも地図上で判断するかぎり、西に寄りすぎで、敦賀湾頭の祭祀の対象にはなりにくい位置です。やはり明神崎が最も適当なところと考えられますが、ここには式内社がない、空白地帯になっています。
 
ちなみに越前・若狭の式内社には、鹿島神社はありません。敦賀には新羅からの渡来を示す白城神社、信露貴彦神社が式内社にありますから、律令国家は鹿島神社より渡来の神を重視していたことが分かります。加賀、能登、越中、越後、佐渡と見てきましたが、由緒の古い鹿島神社はいくつかありました。しかし鹿島神社の名前で式内社になっている神社は全くありませんでした。征夷の最前線の越国において、これは大変おかしなことです。しかも、鹿島神社は大変粗末なあつかいを受けてきたという印象がぬぐえないのです。
 
ところで敦賀の地名は、笥飯(けひ)浦→角鹿(つぬが)→敦賀(つるが)と変わりますが、いろいろ疑問が湧いてきます。
 
敦賀の地名起源の一つは、「額(ぬか)に角(つの)おひたる人」が船に乗って越国笥飯浦にやってきて角鹿(つぬが)と名づけたといいます。そこでどこの国の人かと尋ねると、オホカラの国の王子都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)だということで、以下ツヌガアラシトの話が続きます。(36)
 
この「額に角おひたる人」とツヌガアラシトの名前のイメージが重なって、ツヌガアラシトから「つぬが」の名前がついたかのように印象づけられてきたと思います。しかし、『日本書紀』の原文では、「額に角おひたる人」が笥飯浦にやってきて土地の名前を角鹿(つぬが)と命名した話と、オホカラの王子ツヌガアラシトの話はどうも別もののように読み取れ、後でくっつけた可能性があるともと考えられます。
 
それは、なぜ「つぬが」を「都怒我」としないで、「角鹿」と表記するようになったのか不明であることと、「つぬが」の名前を土地に名づけて領有を宣したツヌガアラシトは、その後オオカラ(ミマナ)に帰ってしまうにもかかわらず、「角鹿」の名前が継承されるからです。
 
「つぬが」は、もと笥飯神を祀る笥飯浦という地名でした。ここに新たな勢力が来て角鹿の地名にしたものです。地名のもとになったというツヌガアラシトを祀る角鹿神社は、気比神社の摂社の一つになり、角鹿氏が角鹿郡の郡司と神官を兼ねていきますが、神社は気比(笥飯)神社が大きくなっていく、角鹿と気比の関係がねじれたままなのが不思議な感じです。
 
もう一つの地名起源の話は、太子「品陀和気(ほんだわけ)命」が角鹿でその地の気比大神「いざさわけ」の大神と名を易えたところ、神がその幣に、鼻壊れたイルカを浦一面に寄せた、そのイルカの鼻の血が臭かったのでこの浦を名づけて血浦(ちうら)としたが、今はそれが「都奴賀(つぬが)」となったという話です。(37)
 
「ほんだわけ」と「いざさわけ」の名を交換した話もよく分からない話で、『日本書紀』応神即位前紀も「未詳」と記しています(38)が、結局「いざさわけ大神」を称えて御食津大神と名づけ、今は気比大神というとしています。これはヤマト王権が気比大神を御食津大神と名づけて、海の食物を供献する神に位置づけたということを示すものですが、もう一つの「血浦(ちうら)」が「つぬが」になったという地名起源の話はどう考えてもこじつけです。ここはおそらくこじつけで良く、ヤマト王権の王子によって命名されたことが大事な話ということでしょう。
 
地名起源の話としては、「額に角おひたる人」が船で笥飯浦にやってきて、その地を角鹿と名づけたことが基本で、ツヌガアラシトも「ほんだわけ」の説話もそこから派生した、あるいは派生させた説話とみるべきでしょう。
 
私は、笥飯(けひ)浦が「つぬが」と命名され、「角鹿」の字があてられたことが重要だと思います。鹿の角です。なぜこの字があてられたか、わかりませんが、その後「角鹿」の字は忌避され、好字として敦賀となって今日に至っているといいます。
 
角鹿国造は角鹿郡司、敦賀郡司に継承されたと考えられますが、その最初は『古事記』に「角鹿の済(わたり)の直(あたひ)」と出ています。ここでは「済」がなくなっていきます。「済」は、渡し、渡りのことであり、海上交通の支配者ではなかったかと思われますが、なくなることにより角鹿氏の性格に変化があったのかもしれません。「済」は、富山県の鹿島神社にも宮崎の「神済」の神があり、福井県でも渡し、渡船場との関係を指摘しました。鹿島の神との深いつながりがあります。
 
しかし、こうした変化がありながら、地名を変えることができずに、律令国家は代わりに、それまでの土地神を祀る気比神社にてこ入れしていったのではないかと思われます。
 
敦賀には「明神山」がもう1カ所あります。明神山古墳群という大きな古墳群のあるところです。この「明神山」の西麓に式内社の志比前神社があります。ここは祭神が経津主神、近世には香取大明神とも称したといいます(39)。香取大明神がこんなところにもあると驚きましたが、鹿島神社と特にセットになっているわけでもありませんから、いったいなぜここにあるのかということです。ここは北陸道の道口(みちのくち)というところですから、私は鹿島神社の方がふさわしいと思い、そこから「明神山」と名づけられたと考えたいところです。しかし残念ながら、そのような都合の良い証拠は今のところありません。ただ道口の「明神山」は古墳群の存在とともに注目しておきたいと思います。
 
以上、敦賀の歴史をよくよくみていくと、長い時間の中で鹿島神社を徐々に隠蔽してきたのではないかと疑われます。そこから考えると、能登の鹿島津にも同じことを感じましたが、鹿島神社が征夷の神とはとうてい言えないことが、敦賀でもわかってきたと思われます。
 
  6 若狭の鹿島神社と能登郷
 
若狭ではただ1カ所、三方上中郡若狭町神谷(こうだに)にある宝鏡神社の境内社3社のうちの1社に鹿島神社がありました。Aを祀る神社も探しましたが、若狭にはありませんでした。鹿島神社の名前で1社だけがあったわけです。
 
宝鏡神社は霊亀元年(715)建立といいます。宝筐山という山の信仰のようであり、「宝筐山は牛馬の守り神として諸方から参詣があった。」「山腹に牛馬の守護神を祀る宝鏡神社がある。」などとあります(40)。「鏡」と「筺」は両方使われていますが、その関係は分かりません。
 
近世神谷には、「神社は宝鏡山大権現・大月四社大明神・鹿島大明神・八幡宮・山神。・・・近代に入り村社宝鏡神社は、明治42年大月神社(境内神に八幡宮・鹿島神社)を合祀(若狭国遠敷郡神社明細帳)。」(41)とあり、鹿島大明神は近世には独立していたが、どこかで大月神社の境内神社となり、さらに宝鏡神社に合祀されたということです。
 
神谷の地名が、宝鏡神社の神の谷から出たのではと言われています。隣の地区天徳寺は、宝筐山天徳寺によるものですが、天徳寺も養老年中(717~724)に越智の泰澄が観音仏を刻んで宝筐山窟に安置し、天徳元年(957)に寺が創建されたといいます(42)。
 
なおこの地域は、十善ノ森古墳、丸山塚古墳などの天徳寺古墳群があり、若狭における大きな古墳の集中している地域と言えます。また、若狭一ノ宮、若狭国府にも近く、近江国から若狭に入る街道の入り口にも近いと言えます。しかし、なぜここに鹿島神社がただ一つ祀られているかは、今のところ手がかりはなさそうです。
 
一つ手がかりになりそうなのは、近くに古代三方郡能登郷があったということです。この「能登郷」は『和名抄』の若狭国三方郡五郷の一、「乃止郷」(平城宮木簡)ともあり、同じ若狭町能登野付近に比定されています(43)。能登野は、大分海からは離れ、滋賀との県境の山際にあります。しかし一方、常神半島の西浦の最南端に中世までは能登浦、戦国期以降世久見浦となったところがあり、ここが中世には能登野、倉見、成願寺などの地区とともに常神浦、世久見浦の浦々も倉見荘として一体でありました。つまりずいぶん離れていますが、古代の能登郷の浦と考えられます。(44)
 
ここには式内社の能登神社もあります。祭神は、能登臣祖大入杵命と応神となっていますが、『神社明細帳』は「祭神不詳」としているようです。明治になってからの格付が、村社、無格社、村社と低いので、いろいろな疑問が起こってきます。能登野地区はやはり倉見荘の闇見神社(若狭町成願寺)との関係があったようなので、むしろ三十三間山(842m)の「八岐大蛇退治」に注目すべきと思われます。どうやら大元に龍蛇神信仰があったと思われ、石川県の能登との類似に気づきます。(45)
 
 福井県には能登地名が、能登野・能登浦・能登郷のほかに、三方郡美浜町新庄の耳川の上流、最奥部に能登又谷があり、福井市内には明治初年まで能登町がありました。能登町は、継体天皇が能登海岸で神像を得、後世足羽神社神官によって福井に移して社殿を造営したが、天正年間に兵火にあい足羽神社境内に移された、その跡地が町名の由来といいます。したがって古い由緒のある地名と思われます。(46)
 
 これらを見ると、鹿島神社といい、この能登地名といい、能登半島との古い関係がうかがえると言えます。
 
能登半島では、能登国の国津が鹿島郷の鹿島津でした。鹿島郷は能登郡に属しましたが、中世には鹿島郷はなくなり、能登郡が鹿島郡に変わります。私は、鹿島と能登の関係を対立的なものと考えていましたが、福井県の事例では何らか親縁がありそうな感じがしてきました。
 
全国の能登地名を見ますと、『万葉集』で詠われている奈良の「能登川」が最も興味深いものがあります。この「能登川」は、春日山の奥を源流とし、春日野を流れ、佐保川に合流していますが、聖なる水といいます。春日信仰とつながるようです。春日神社よりも古い春日山の信仰で、龍蛇神の信仰がうかがわれるといいます。ここに鹿島と香取が遷座してきて新しい春日神社となるわけです。
 
この関係は、まだ充分にわかってはいませんが、徐々に見えはじめたようです。
 
  7 まとめ
 
福井県は、鹿島地名がなかったので、鹿島神社も少ないだろうし、さほど書くこともないだろう、簡単にまとめようと思っていました。あにはからんや、難しい問題に次々とみまわられたようです。いまだ消化しきれない問題がいくつもあります。
 
今回は、福井県の分布図を掲載しました。記号で前回の北陸3県の地図と違うのは、鹿島神社を名乗る神社を青の丸で示したことです。何かがわかった訳でもありませんが、試行の一つです。
 
3では、毘沙門天あるいは観音堂とのセットで祀られていることが多いとわかってきました。4では、九頭竜川などに分布し、渡し・渡船場の神の性格が色濃くあるものを指摘しました。5では、敦賀湾頭の鹿島神社から、能登国の鹿島津と同様な不遇な扱いを指摘し、角鹿が鹿島信仰に関係しないか、探ってみました。6では、若狭のただ1社の鹿島神社と能登郷との関係を、これも探っただけの報告でした。5・6ともまだまだ材料不足です。しかし、今後の課題が見えてきたと言えそうです。
 
最後に、どうしても触れておかなければならないことがあります。敦賀半島の先、聖地と思われる明神崎の付け根に、とんでもないことに敦賀原子力発電所がありました。半島を西に回ると、白木には高速増殖炉もんじゅ発電所があり、さらに丹生には美浜原子力発電所があります。地図を見ていて原発銀座のただ中に問題があることが分かってきました。これらの原発の開発によって、地域の歴史が封じ込められ、抹殺されていることが目に見えるようです。福島では、海岸に沿って鹿島神社が並んでいましたが、もはや調べに行くこともできなくなりました。敦賀もそうなりかねないものがあります。
 
私の調査も急がなければならないと思っています。いよいよ中部地方から関東地方の報告に着手すべきと考えています。
 
  8 神社の一覧
 
   神社名  所在地 ()内は現在の地名  祭神 備考   出典  歴
 1 毘沙門
神社 
 大野郡細野村
(勝山市荒土町細野)
 A  白山神社へ合祀 神社誌   
 2  毘沙門
神社
 大野郡竜谷村
(勝山市野向町竜谷)
 A 神明社境内社
3社の1 
 神社誌  
3   梅本
神社
 大野郡深谷村
(勝山市野向町深谷)
 A    明細台帳  
 4 白山
神社 
 大野郡大矢谷村
(勝山市平泉寺町大矢谷)
 A白山
大神
   神社誌  
 5  剱ノ尾
神社
 大野郡平泉寺村剱ノ尾
(勝山市平泉寺町)
 武甕槌
 白山神社
形外末社
 明細帳  
 6 住吉
神社 
 大野郡大袋村
(勝山市遅羽町大袋)
 A    明細台帳  
 7 水谷
神社 
 大野郡矢戸口村
(勝山市鹿谷町矢戸口)
A伊弉
册尊
 境内に
矢戸口観音堂
 明細台帳  
 8 大剱
神社 
 大野郡東野村
(勝山市北郷町東野)
 A    明細台帳  
 9 白山
神社 
 大野郡北郷村檜曽谷
字洞山(勝山市北郷町)
 A 境内神社 
創立養老3年 
 明細台帳  
10  鹿島
神社
 吉田郡荒川村
(永平寺町市荒川)
 A  藤巻村と
地籍混在
 神社誌 1200
 11  鹿島
神社
 吉田郡藤巻村
(永平寺町藤巻)
 A  小舟渡  神社誌 1199 
 12 鹿島
神社
 吉田郡泉田村
(福井市泉田町)
 A  無格社  神社誌  
 13 大将軍
神社 
 吉田郡藤島村
(福井市藤島町)
 A  中世藤島庄  神社誌  
 14 鹿島
神社 
 吉田郡灯明寺村
(福井市灯明寺町)
 A  元明天皇の
御宇勧請
 神社誌  
 15 春日
神社 
 吉田郡漆原村
(福井市東森田1丁目)
 A    神社誌  
 16 春日
神社 
 吉田郡上野村
(福井市上野本町)
 A  戦後合祀 上野神社  神社誌  
 17 鹿島
神社 
 吉田郡定正村
(福井市定正1丁目)
 A  八坂神社境内神社  神社誌  
 18 矢発
神社 
 吉田郡河合村字河合鷲塚
(福井市川合鷲塚町)
 A 八幡→神明に合祀   神社誌  
 19 智原
神社 
 吉田郡河合村字高屋
(福井市高屋町)
 A伊弉冊尊  坂井郡高屋郷か  神社誌  
 20  鹿島
神社
 足羽郡北四ツ居村
(福井市北四ツ居町)
 A  八幡神社摂末  神社誌  1198
 21 山奥
神社 
足羽郡山奥村
(福井市山奥町) 
 健御賀豆知他11  養老元年(717) 
泰澄ら創立
 神社誌  
 22 八幡
神社 
 丹生郡片粕村
(福井市片粕町)
 誉田別尊A
他2
 貞観2年(860)勧請  神社誌  
 23 白山
神社 
 丹生郡片山村
(福井市片山町)
 伊弉那美尊A
他1
 貞観4年勧請  神社誌  
 24 鹿島
神社 
 丹生郡別所村
(福井市西別所町)
 A  寛平7年(895)勧請  神社誌 1204 
 25 鹿島
神社 
 丹生郡畠中村
(福井市畠中町)
 A  寛平7年勧請  神社誌 1203 
 26 中宮
神社 
 丹生郡大谷寺村
(丹生郡越前町大谷寺)
 A  越智神社 大谷寺  神社誌  
 27 刀那
神社 
 今立郡上戸口村
(鯖江市上戸口)
 建御雷男命
他1
 式内社比定  神社誌  
 28 向出
神社
 丹生郡下石田村
(鯖江市石田下町)
 A 下石田神社に改称   神社誌  
 29 鹿島
神社 
 丹生郡上戸村
(丹生郡越前町上戸)
 A  日吉神社境内社  神社誌  
 30 剱神社   丹生郡平等(たいら)村
(丹生郡越前町平等)
 A もと鐘ヶ宮   神社誌  
 31 鹿島
神社 
 丹生郡新保村
(丹生郡越前町新保)
 武甕雷神  毘沙門社とも  神社誌 1201 
 32 鹿島宮   同上  A  鹿島神社摂末  神社誌 1202 
 33 鹿島
神社 
 今立郡大谷村
(越前市大谷町)
 A  もと毘沙門堂  神社誌 1205 
 34 鹿島
神社 
 同上  A  鹿島神社摂末  神社誌 1206 
35   小山田神社  今立郡南小山村
(越前市南小山町)
 BA事代主命  式内社比定  神社誌  
 36 春日
神社 
 今立郡蓑脇村
(越前市蓑脇町)
 A 鞍谷神社へ合祀   神社誌  
 37 武甕槌
神社 
 丹生郡高森町
(越前市高森町)
 A  毘沙門か  神社誌  
 38 鹿蒜
神社 
 南条郡帰村
(南越前町南今庄)
 誉田別命A
他1
 式内社比定  神社誌  
 39 鹿島
神社 
 敦賀郡浦底浦
(敦賀市浦底上城)
   剱神社境内神社  神社誌  
 40 剱神社   同上  A  往昔は天王社  神社誌  
 41 鹿島
神社 
 敦賀郡色浜浦
(敦賀市色浜)
 A  無格社  神社誌  
 42 鹿島
神社 
 同上  A  白山神社境内神社  神社誌 1207 
 43 五社
神社 
 敦賀市長谷字御堂山
(敦賀市長谷)
 A他4    敦賀通史  
 44 鹿島
神社 
 遠敷郡神谷村(三方上中郡若狭町神谷こうだに)    宝鏡神社に合祀 神社誌   
*表の説明
 1番左は、表の通し番号。
 「神社名」は出典の神社名。
 「所在地」も出典の所在地名を記し、( )内は現在の地名を記した。
 「祭神」は、Aが「武甕槌命」、Bが「経津主命」。空欄は特に祭神が記されていなかったものである。
 「備考」は、出典の他に『角川日本地名大辞典 18福井県』(角川書店)、『日本歴史地名大系 18福井県の地名』(平凡社)、『式内調査報告 第15巻』(皇學館大学出版部)、県史・市町村史などを参考にし、注目すべき点を記した。
 「出典」は、今回は昭和11年10月20日福井県神職会『福井県神社誌』と平成6年9月1日福井県神社庁『御大典記念 福井県神社誌』が基本で、一部『勝山市史』から神社明細帳より作製の史料、および『敦賀通史』によるものをつけ加えた。
 1番右の欄「歴」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号であるが、11か所である。
 
(1) 「1 青森県の鹿島神社」参照
(2) 『角川日本地名大辞典 18福井県』(角川書店 1989年12月)710頁
(3) (2)654頁
(4) 『福井県神社誌』(福井県神職会 1936年10月)290頁
(5) 「6 新潟県の鹿島神社」の「(3)毘沙門天とのセット」参照
(6) (2)242頁
(7) (4)248頁
(8) (2)1305頁、『日本歴史地名大系 18福井県の地名』(平凡社 1981年9月)125頁
(9) 「全国『鹿島』地名一覧」の宮城県三本木に3カ所ある。
(10) (4)190、192頁
(11) (2)1509頁
(12) (2)996頁
(13) (2)500頁
(14) (2)267頁 、『日本歴史地名大系 18福井県の地名』100、98頁
(15) (2)861頁
(16) (2)419頁
(17)(2)1184 頁
(18) 勝山市編『白山平泉寺』(吉川弘文館 2017年3月)、下出積與編『白山信仰』(雄山閣 1986年5月)、本郷真紹『白山信仰の源流』(法蔵館 2001年12月)、堀大介『泰澄和尚と古代越智山・白山信仰』(雄山閣 2018年11月)など。
(19) (2)437頁
(20) (2)436~7頁、『日本歴史地名大系 18福井県の地名』30~1頁
(21) 「石川県の鹿島神社」の「(6)南加賀の『鹿島神社』」および註(51)参照
(22) (18)下出積與編『白山信仰』所収論文
(23) (2)1118頁
(24) 『日本歴史地名大系 18福井県の地名』527頁
(25) (2)1086頁
(26) 石塚資元『敦賀志』(福井県郷土誌懇談会『小浜・敦賀・三国湊史料』1959年3月)288頁
(27) (2)164頁
(28) (2)206~7頁、同181頁
(29) (東京大学出版会 1986年9月)316頁
(30) 『福井県史 通史編1 原始・古代』(1993年3月)306~7頁
(31) 『日本書紀 下』(岩波書店 1965年7月)518頁註7など
(32) (26)288頁
(33) 『式内社調査報告 第15巻』(皇學館大學出版部 1986年10月)150頁
(34) 門脇禎二(29)169頁、245頁
(35) (33)224頁
(36)『日本書紀 上』(岩波書店 1967年3月)258頁
(37) 『古事記 上代歌謡』(小学館 1973年11月)242~3頁
(38) (36)362頁
(39) (33)177~8頁
(40) (2)475、1394頁
(41) (2)475頁
(42) 「若狭国神名帳私考」(『神道体系 神社編33』 1987年12月)92頁
(43) (2)909頁
(44) (2)681~2頁
(45) (33)132~141頁
(46) (24)261頁、(33)389頁