地図作製にあたっては、インターネット上の「地震まっちゃ」の「自由地図」 を利用した。
*表の説明
「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。
「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、それ以外の鹿島の神の表記はそのままとし、その他の神名は「他1」のように記した。空白は「祭神」が確認できていないもの。
「出典」は、直接の出典のみ記し、他の参考文献はここには記さなかった。
「市史」「町史」はそれぞれの「市史」「町史」
『秋田風土記』は、淀川盛品著、文化12年、『新秋田叢書』より
「秋田郡神社調帳」は、年月不祥「秋田郡村々神社調帳」(『秋田県史 近世編下』)
『絹篩』は、鈴木重孝著、嘉永年間、『新秋田叢書』より
「秋田市百社は、明治25年「秋田市近傍百社参詣順道記」(『秋田市史 第16編 民俗編』)
「菅江真澄」は、『菅江真澄全集』より『月の出羽路』『雪の出羽路』
「角川」は、『角川日本地名大辞典 5 秋田県』(角川書店)
「歴」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)「全国香取鹿島神社一覧表」より
「男鹿半島」は、男鹿市教育委員会編『男鹿半島』(平成10年3月)
「報告書」は、『秋田県文化財調査報告書 第148集』
「道路地図」は、昭文社『県別マップル5 秋田県道路地図』2010年3版1刷
1番右の「歴」は、上記出典「歴」の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号で、6社しかない。
(3) 秋田県の鹿島神社の問題
秋田県の鹿島神社は、表に示したように47社ありました。
昨年3月にまとめた段階では、地名は「小鹿島(男鹿島)」1ヵ所のみ、神社は国立歴史民俗博物館の一覧表所載の6社のみでした。あまりない県という印象でした。
しかし一方で、秋田県には「鹿島祭」「鹿島舟」「鹿島人形」「鹿島流し」「鹿島さま」と称するお祭りがたくさんあって、鹿島信仰の痕跡はかなりあると思っていましたので、神社はもう少し出てくるだろうと思っていました。実際調べる毎に数が増えてきました。まだ出そうだという感じがあります。
ただ、全県を見渡せる資料、『秋田県神社明細帳』や『秋田県神社名鑑』などを東京で見ることが出来なかったため、地域によっては調べ尽していないところがあります。
国立歴史民俗博物館の一覧表では、『神社明細帳』と各都府県宗教法人名簿を適宜参照したと述べていますが、秋田県に6社しかなかったというのが不可解です。『神社明細帳』を調べていたら、かなりの数の神社が出てきたはずです。各県の『神社明細帳』は、明治の初年に作られ、昭和までの神社の合併、合祀が記されていますから、小社の動向がよく分かる史料です。私も何県か調べましたが、どの県でも国立歴史民俗博物館の一覧表とは大きなギャップが出ています。
私の調査は、今回秋田県については、「出典」が時代も性質もかなりまちまちでした。現代の地図帳からとったものさえあります。いろいろ町史のたぐいを調べましたが、近世以前のものとは確認しきれていないものもあります。神社の統廃合は江戸時代から明治大正とかなりありますので、時代の違いで異動しているものもあると思われ、重複している可能性もあります。しかし、とりあえず、今分かった限りを一覧表にしました。それにしても、47社と6社の差がどうして起こってくるのか理解し難いものがあります。
今まで私は、国立歴史民俗博物館の一覧表は明治以降の史料によるもので、近世以前との違いと漠然と考えていました。しかし、どうやらそうではなく、『神社明細帳』にしても宗教法人名簿にしても参照はしたものの、あまり小社や小祠を拾っていないことによるのではないかと疑うようになりました。
『秋田大百科事典』によると、「鹿嶋神社」の項は、茨城県の鹿島神宮を「総本社格」として、香取神宮の経津主命と「二神は同一視されて」「武神」として東北に広がったことをるる述べて、「鹿島流し」は「この鹿島が語源」といい、「鹿島神社との関連で香取神宮があり、経津主命をまつるが、秋田には少ない。」と述べています。香取神社が少ないというのは良いでしょうが、一般的な鹿島信仰の説明ばかりで、かんじんの秋田県の鹿島神社のものがほとんどありません。
このあと具体的に取り上げているのは、「河辺郡雄和町椿川袖沢」の「鹿嶋神社」1社のみで、上の表の28にあたります。現在は「秋田市雄和椿川」、秋田空港の近くです。「俗に森の山と呼ぶ所にある。1671年(寛文11)畑谷村と椿川村で境界論争のあったとき、平穏に収まるようにと勧請した神社。1873年(明治6)村社として椿川、鹿野戸、安養寺の3ヵ所で祭事を行ったが、1935年(昭和10)からは鹿野戸だけで行い、神社を修復した。」とあります。しかし、なぜここだけを具体例として取りあげたかは説明がありません(1)。
『雄和町史』によると、「森の山」は、「鹿島堂」とも通称されていて、「『秋田風土記』に記される真山権現は字袖ノ沢の旧村社鹿島神社をさし、真山大神・武甕槌神ほか7神を祀り、宝暦10年(1760)の創立という。」と別伝も伝えています(2)。
『秋田大百科事典』は、「鹿島堂」という通称地名もありながらそのことには触れず、神社の創立の経緯や祭神の話も別伝にはふれていません。
『秋田大百科事典』の次の「鹿島まつり」の項は、「わらや紙で作った鹿島人形を柴船に乗せて流す民間行事。」とし、「秋田市新屋の鹿島まつり・・・300年の伝統」「秋田市楢山登町の鹿島神社の鹿島まつり・・・130年間も続く」「大曲地方では・・・」「仙北郡協和町船岡・・・」と4ヵ所をあげています。(1)
しかし一方、『秋田県文化財調査報告書 第148集』は「かしま送り」と呼んでいますが、秋田県内54ヵ所の報告をしています(3)。『秋田大百科事典』が4ヵ所をあげたのは良いとして、なぜこれだけの「鹿島まつり」の全貌を指摘しないのかが不思議です。どうも鹿島信仰を、秋田県域全体で大きくとらえようとしないのが不可解な感じがします。
『秋田県史』は近世の鹿島信仰について、「菅江真澄は鹿島祭りを、常陸から移封の時にもたらしたものと見ているが、その拡がりと深さからすれば、鹿島の事触の教宣活動が、鹿島信仰を民衆の中に深く浸透させた結果と見るべきである。」(4)と言っています。菅江真澄は、秋田の佐竹氏が移封の時にもたらしたものとし、これに対して『秋田県史』は「鹿島の事触れの教宣活動」によるものとしているわけですが、いずれも近世に起こったものと見ています。しかし、まさに秋田県の鹿島信仰の「その拡がりと深さからすれば」、もっと古い伝統に基づくものではないかと思うのですが、そこには踏みこみません。
『秋田大百科事典』には、もう一つ、「ささら」という芸能が関係しそうな項目としてあります。ここでは、「全国的に見られる獅子舞をいう。シシにからむ道化役が持つ楽器のササラからこの名が起こった。」とし、「全体的に、佐竹氏の秋田入国随従説話が多いが、東北地方に伝承されているシシ舞と同系の中世の神楽から派生したものと位置づけられている。」と述べています(5)。岩手県などの鹿踊りとの関係が気になりますが、あまり明確な説明はありません。そしてここでも、近世の常陸国の佐竹氏が秋田に入国した時の伝承が多いとしています。
『仙北のささら』では、「秋田ではこれらのささらの大半が、明らかに様ざまな系統の獅子踊りなのに、いずれも400年余り前、佐竹公が水戸から秋田へ入部の際、行列の先頭で踊っていたものだという由来伝承を持っています。」とあり、( )の中で、「本荘や新関等は別です」と述べています(6)。どうやら明らかに別伝承のものもあるといっています。
そして、潟上市昭和大久保の「新関ササラ」の映像を見て驚きました。鹿の頭そのものをかぶって踊っています。説明によると、「男鹿に棲む鹿達の様子を見て始まった踊りだとの伝承を有し、県内他地域のささらと異なり、枝角のついた鹿の頭をかぶって舞う。」とあります(7)。これはまさに鹿踊りそのものです。しかも鹿の様子を見て始まった踊りとしていますが、ほかのささらにもある伝承のようです。最も興味深いのは、その鹿が「男鹿の鹿」となっていることです。「佐竹氏の秋田入国随従説話」以前の伝承がうかがわれるもので、特に岩手の鹿踊りとの関連がありそうですが、そのような説明は残念ながらありません。
上表の鹿島神社の分布を見ると、米代川流域4社、男鹿半島6社、男鹿・八郎潟周辺6社、秋田市14社、角館・大仙市4社、横手市7社、東由利・矢島町6社のかたまりが指摘できます。
私は、この中でも男鹿半島6社とその周辺6社が、最も注目すべきものと考えています。地名として「小鹿島(男鹿島)」一つを取り上げましたが、その時はいま一つ裏付けがないと思っていました。しかし、「かしま祭り」「鹿嶋ながし」があるのですから、鹿島神社もあるはずと思っていました。『絹篩』を見たとき、やっぱりあったと思ったものです。
13の「真山神社」は鹿島神社ではありませんが、男鹿半島の中心ともいうべき本山・真山の、その本山の赤神神社(五社堂)と並ぶ真山神社です。現在は真山大神を含め11神が祀られているということですが、社伝によると景行天皇の代に武内宿禰が「男鹿島」にきて、瓊々杵命・武甕槌命の2神を勧請したということです(8)。この「武甕槌命」を「鹿島大神」と今は見ておいて良いだろうと思います。真山神社のそもそもの神祀りの中心に「武甕槌命」=「鹿島大神」が存在することが大事な点です。そして、半島を巡って鹿島神社5社が確認でき、男鹿半島(男鹿島)を仰ぐ位置に6社確認できたということが重要でしょう。「鹿島祭り」も何ヵ所も行われています。「小鹿島(男鹿島)」は鹿島信仰と深い関わりのある地域であったことが判明しました。
赤神神社の赤神は漢の武帝といわれていますが、菅江真澄は本山日積寺永禅院の薬師堂でこの漢の武帝の寿像を見ています。(9) 「絵(カタ)のさま雲車を鹿にひかれ、いつくさに彩たる仙鼠(カハボリ)あり。」(『牡鹿の嶋風』)、
「日積寺の庫におさめつたふる宝物いと多かるが中に、漢武帝の、鹿の車に駕りて雲の中にとどろかし、ひだんの轅のもとより西王母、ひとつの桃をたなごころにのせてささげもてり。五色の仙鼠、みくるまの四方にたちむれり。御せる鹿の袋角てふものを霊芝のさまに画り。」(『恩荷奴金風』)
ここでは赤神・漢の武帝は「鹿の車」に乗っています。同じ菅江真澄が載せている「赤神山大権現縁起」では「武帝飛車にのり、白鳥に駕し赤旗に車をかざり、五色の蝙蝠御車の左右の前後を囲繞す。五鬼を伴ひて頂に御座す。」とあって、こちらは白鳥に牽かせています。異伝があるということで、どちらも興味深いものですが、今は鹿の方に注目しておきます。
柳田国男が「をがさべり―男鹿風景談―」の中で、特に「鹿盛衰記」として男鹿の鹿にふれた理由がわかります。柳田は、「爰では常陸鹿島や金華山の如き、信仰の保護は夙くから無かつたらしい。」と語り始め、「併し兎に角に鹿の居りさうな山である。」と男鹿の鹿へのこだわりを見せているのです。「椿は春の木」の方では、青森県深浦の椿山の椿が、男鹿半島からやって来た鹿の群れにすっかり食い荒らされたことにふれ、「秋田の男鹿は日本海岸では、最も鹿の沢山居る半島でありましたが、そこと深浦との間は二十里以上もあり、又その中間の山には野獣は幾らも居たのです。それをただ鹿が南の方から、又は海辺づたひに来たといふだけで、直ちに男鹿半島からと断定したのには、何か隠れたる理由があるらしいのであります。」と思わせぶりなことを書いています。柳田は何かはっきりしたことをいっている訳ではありませんが、「男鹿島」と鹿との関係に信仰の問題があると感じていることを言っているのです(10)。
ちなみに、青森県深浦町はやはり「鹿島祭り」が盛んなところで、深浦町岩崎には「へたの鹿島」「沖の加島」
の2島があり、菅江真澄が絵を残しています(11)。鹿島と鹿のつながりがここにもありそうです。少なくとも柳田は少なからずそのことを意識して、西国の方でも鹿島と鹿の関係にふれています。
次ぎに、秋田市の14社も注目すべきものです。
その中心は、やはり鹿島神社ではなく、古四王神社ではないかと思われます。祭神は、『秋田風土記』では甕速日神・熯速日命・武甕槌命・経津主命の4神で、「外に1社を神秘とす」としています。この4神は、伊弉諾尊が軻遇突智を切ったしたたる血から生まれた神として、同系の神で1神とも見なせます。神秘の1社が問題ですがこれは分かりません。社伝によると、四道将軍大彦命が蝦夷征伐の際に武甕槌命を祀った。それが「齶田浦神(あぎたのうらのかみ)」であるという。その後斉明天皇4年に阿倍比羅夫が北行して秋田浦に停泊したとき、土地の豪族恩荷(おが)がこの「齶田浦神」に盟いを立てたので、比羅夫がこの社に大彦を合祀して古四王神社が成立したといいます(12)。ここではまず武甕槌が祀られ、それが「齶田浦神」だといっています。斉明天皇4年の阿倍比羅夫の遠征の話は『日本書紀』にある有名な話ですが、それより遙か以前に武甕槌が祀られているとあるのです。
私は以前、鹿島神宮が北面している問題に関連し、北面する神社として各地の古四王神社を調べたことがありましたが、秋田の古四王社の祭神にあまり注意しませんでした。今回改めて、鹿島神社や鹿島祭りの関係から古四王社、「齶田浦神」、「恩荷」をとらえ返す必要が出てきました。
秋田市内の鹿島神社と「鹿島祭り」はかなり密集していると思われますので、「齶田浦神」を意識しつつ、失われたか細い伝承を丹念に拾う必要がありそうです。
横手市も又、鹿島神社と「鹿島祭り」(かしま送り)が密集していると思われるところです。ここは、『秋田県文化財調査報告書 第148集 秋田県の年中行事Ⅰ ぼんでんとかしま送り』の「鹿島祭り」の報告の中から鹿島神社を見つけました。39などは「鹿島大神」の石碑とありましたが、ここで「かしま送り」(「鹿島祭り」)の祀りをした後で町内を一巡するとありますので、ここに入れました。山梨県で神社がつぶれた後、「鹿島大神」の石碑を建てたものを見ていましたので、おそらく同じようなケースと思いました。
横手市では、大森町十日町の剣花山に注目すべきでしょう。
『角川地名大辞典』によると、大森町は「式内社と伝える波宇志別神社(保呂羽山)への参道に位置し、長暦2年勧請の剣花山鹿島明神や寛治6年勧請の剣花山八幡神社など、数多くの古代伝承に富む。剣花山(剣箇山)は雄物川に突き出た山塊で、要害の地。」(13)とあります。
菅江真澄が『雪の出羽路』の中で、「剣箇岬之図」を記し、
「こは鹿嶋明神にして、長暦二年戊寅のとしに祀奉りていといと古きみやしろながら、行宮、頓宮のごと下居の社とまをし奉るはかしこき事也。まことに地主の御神にてこそ座しまさめ。」
と言っています。「剣箇岬之図」では上に八幡宮が描かれ、下にまさに「下居の社」として鹿嶋社が描かれています。そこにも「実は地主の御神也」と書かれています(14)。八幡よりも古く勧請された地主神が鹿嶋神社だというのです。
しかし、現在では大森神社に合祀されていて、先の『報告書』によるとこの大森神社の行事として「田楽灯籠とかしま流し」が報告されています。行事内容を読むと、「由来」のところに、合祀された神社のひとつに鹿島神社があり、「この鹿島流しはみことが地震をゆり起こす大鯰を退治するために船出をするものとされている。」と妙な説明になっています(15)。『報告書』の一覧表には鹿島社は出てきませんので、鹿島社の存在が次第に埋もれつつあるという感じになっています。
由利地方は近世に小さく別れて諸藩がありましたので、十分な調査が仕切れていません。その中で、『東由利町史』等から5社、『矢島町史』から1社が見つかっています。これも「鹿島送り」の記事から探し出したものです。「鹿島神社」「碑」とありますので、「石碑」だけになっているものの可能性があります。今では合祀されたりして、なくなっているかも知れません。
秋田県の鹿島神社は、やはり長い歴史過程の中で、徐々に埋もれていっています。表面的にはわからなくなってきています。それでも近世のものにはその痕跡が沢山残っていました。「鹿島祭」「鹿島舟」「鹿島人形」「鹿島流し」「鹿島さま」と称するお祭りがかなり盛んに行われていました。明治以降はさらに合祀されたりして、祭の起源も分からなくなっていて、次第に行われなくなってきているようです。
征夷の神として古代や近代の国家が大事にしてきた神社とは、とうてい思われないような過程をたどってきた
としか思えません。おそらく鹿島神社・鹿島信仰の本質は、そうしたものとは全く別なものではないかと思うのですが、秋田県の実態はそうしたことを色濃く示していると思われます。
註
1 『秋田大百科事典』(秋田魁新報社 昭和56年9月)184頁
2 『雄和町史』 昭和51年6月
3 『秋田県文化財調査報告書 第148集 秋田県の年中行事1 ぼんでんとかしま送り』 1986年
4 『秋田県史 第二巻 近世編上』357頁
5 『秋田大百科事典』(秋田魁新報社 昭和56年9月)367頁
6 小田島晴明「仙北のささら基調報告」(『仙北のささら 秋田県仙北地方ささら事業報告書』2012年3月)
7 『仙北のささら 秋田県仙北地方ささら事業報告書』129頁
8 『男鹿半島 その自然・歴史・民俗』(平成10年3月)192頁
9 『菅江真澄全集』第4巻 未来社 1973年2月
10 『定本柳田国男集』第2巻
11 「そとがはまきしょう」『菅江真澄全集』第3巻153頁
12 「古四王神社」(『日本の神々 神社と聖地 12 北海道・東北』白水社 2000年7月)
13 『角川日本地名大辞典 5 秋田県』(角川書店)164頁
14 『菅江真澄全集』第6巻(未来社 19年月)88頁、613頁
15 『秋田県文化財調査報告書 第148集』(1986年)8頁、39~40頁