古社の秘密を探る

10 岐阜県の鹿島神社
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1 神社と地名の分布  
    以下の地図中の 赤四角は「鹿島」地名
            青丸は「鹿島」を名のる神社(鹿島神社、鹿島宮)
             緑丸はその他の名前の神社(六社神社、春日神社など)


インターネット上の「地震まっちゃ」に「自由地図」というのがあり、神社の所在地を所定の欄に入力すると、自動的に検索してGoogle マップ上に分布図を描いてくれるものを利用しました。

 大字までの認識のようなので、大雑把な分布図で、地図もややシャープさに欠けていますが、一目で分かるものが簡単にできるのは重宝します。

 大字が近いと重なりますので、少し実際のところからずらして記号の重なりを避けたものもあります。

 「鹿島」地名は1カ所だけ、「鹿島」を名のる神社は8カ所、その他の名前では春日神社が多かったのですが、18カ所、神社は全部で26カ所の分布図です。元のデータは、一覧表としてうしろの方に示しました。(なお、国立歴史民俗博物館「全国香取鹿島神社一覧表」では、鹿島を名のる神社が5カ所だけでした。)
 
 岐阜県は、旧国名でいうと大きく飛騨(1)と美濃に分かれますが、分布図も明確に分かれました。
飛騨は、飛騨の北部に4カ所まとまり、3カ所は宮川と高原川に沿ったところでやがて合流し、神通川となり、富山湾にそそぐ川筋です。富山県との関係が深い地域です。もう1カ所の高山の近くは、飛騨川の上流になりますから、こちらは太平洋に注ぐ地域です。しかし、ここも飛騨北部でまとまりそうな所です。
 
 そのほかの22ヵ所は、飛騨とは離れた美濃になりますが、福井県とは継体天皇との関係もあり、その後は白山信仰が石川県、福井県と3県関係しますから、日本海との結びつきが強い地域であることは違いありません。
 
 一方、東から木曽川、真ん中は長良川、西の方は根尾川から揖斐川など太平洋に注ぐ川筋ですが、ここに沿った地域に分布しています。
 ここの古い時代は、河川交通が大変重要な役割をしていて、川の湊が各地に発達しています。海なし県ですが、江戸時代には海から大垣あたりまで船が入っていたといいますから、河川交通を大きく考慮しながら分布を見る必要があると思われます。

2 調査について
 昨年以来、新型コロナウィルスの感染拡大のため、岐阜県の調査は思うに任せられない状態が続いています。

 現地調査は欠かせない調査ですが、飛騨を少し調査しただけで、美濃へは全く行けていません。過去に岐阜市へは2、3度行っていますが、今回の研究に関係したところへ行ったわけではありません。福井県と同様現地調査がほとんどできていないままに、先を急ぐことにして報告を書くことにしました。

 文献調査も、この間は近世の伝承を重視しようと意識してきましたが、東京の図書館が利用できなくなり、現地の図書館も充分に調べられない状態です。

 したがって今回は、やむなくインターネット上の岐阜県神社庁の公式ページなどを基本にしています。そのほかは、若干の市町村史などを見ただけで、インターネットの情報を活用するしかありませんでした。国会図書館デジタルコレクションで『斐太後風土記』と『新撰美濃志』は見ることができましたが、隔靴掻痒の感があります。
 
 Googleマップのストリートビューは、こんな形で現地が見られることに恐ろしさを感じながら、今回はずいぶんお世話になりました。写真がかなりアップされていましたので、だいたいの神社は見ることができたと思います。しかし摂末社などはあまり写っていませんし、神社の由緒が分かる碑文なども必ずしも写っていません。神社の周囲の様子や遠くの山々など、行ってみなければ分からないこともかなりあると改めてわかってきました。
 
 ということで、かなり不充分な感じがしますが、それでも茨城県の鹿島神宮だけを見ていたのでは分からない、鹿島信仰の実際の姿が少しずつ明らかになってきたと思っています。

3 飛騨の鹿島神社

(A)
 飛騨は、北飛騨3社と高山の近くの1社です(現在では飛騨市に1社、あとは高山市3社になります)が、それぞれ大変おもしろいことがわかりました。

 1の塩竈金清(しおがまきんせい)神社は、神通川上流の宮川に沿った飛騨市宮川町塩屋にあり、もとは塩竃神社と境内社金清神社であったものが、明治になって合併したもののようです。(2)

 塩竃金清神社は、神社庁の公式ページによると、祭神は「建甕槌神 経津主神 伊邪那美命 伊邪那岐命 菊理姫命 塩土老翁神」ですが、昭和になって白山神社を合併していますので「伊弉那美命 菊理姫命」は除いてよさそうです。そうすると、塩竃神社が「建甕槌神 経津主神 塩土老翁神」、金清神社が「伊邪那岐命」ということになります。

 しかし、「塩竃神社」については、『宮川村誌』によると「建御雷之男神 経津主神 塩土老翁神」としながらも、明治39年の「神社取調書」では「祭神不詳」とあり、『斐太後風土記』(明治6年)では、村人は「塩竃大明神と申せれば、古来しか有けむ。祭神はその村民も弁(わきまえ)ねば詳ならねど、仮初(かりそめ)に三才図会によって記し置きぬ」として、「味耜高彦根命」をあげる始末です。村の産土ですが、どうやら神社名のみ明らかであって、「祭神不詳」というのが正しそうです。

 ただ「たけみかずち」の表記だけについて、「建甕槌神」あるいは「建御雷之男神」で普通の「武甕槌神(命)」でない点、古い伝承の可能性があるかもしれないと思っています。ちなみに塩釜(竃)神社は、岐阜県には他に揖斐郡の1社しかありませんし、富山、石川にはありません。非常に珍しい神社になります。

 神社の由緒では、戦国時代の塩屋秋貞という領主が城を築き、陸前塩釜社より勧請したものを金清神社と合祀し、産土神としたといいます。塩屋秋貞は、「高山市塩屋の出身といい、戦国の世越中塩を飛騨に入れて多くの利潤を得、時代の風雲に乗じて武将となった人で、ともに地名や塩に関係をもった人である。」(3)ともあります。すべてをそうだと思えませんが、塩の流通に関わった話ということで、注目して良い話と思います。次の話と関連させると、もっと古い時代からの可能性がないでしょうか。

 境内社であった金清神社は、大変おもしろい神社でした。
 『角川日本地名大辞典』においても、「男茎形社」とあり、「俗にかなまらさま・金勢明神と称し、古来諸人の下腹部の病を治す神、また安産の神として信仰され、越中国新川・婦負(ねい)両郡の村々からも参詣者があった。」(4)としています。驚くのは性神であったということではなく、神社の前から、それこそ大量の縄文時代の石棒が発掘されたことにあります。
 
 神社の神体が縄文時代の石棒で、かっては40体もあったということですが、現在は3体だけになっていました。しかし、以前から神社の周辺で石棒などが良く出ていたということです。そこで神社前を発掘調査したところ、1,000点以上の石棒・未製品などが出土し、ここが縄文中期から晩期にかけての石棒・石冠の巨大な工房跡であったことがわかってきました。さらにその後の発掘調査では、近くから石棒などを製作する作業場などの竪穴住居跡も多数発見され、石棒の製作過程も明らかになってきました。石棒などは塩屋石という柱状剥離の石を使っていて、飛騨一円だけでなく富山の方面まで製品が広がっていました。縄文時代以来のかなり大きな信仰拠点であることが分かってきました。(5)
 
 飛騨では、縄文時代終わりごろに石冠・御物石器という独特の石製品も出土し、これも岐阜県内だけでなく北陸地方などに広がっていましたが、この石棒もその一つであることが分かって、「飛騨特有の石製品が精神文化とともに各地に広がっていたことを物語っている」(6)とされています。
  
(B)
  2と3は「鹿島」を名のる神社です。しかも同じ高山市上宝町にあり、高原川沿いの段丘の上と下の段丘にあるので、何らか関係していると思われるものです。

 2の大字見座は高原川を渡ってすぐの段丘ですが、その奧の谷川出口わきにある玉水神社に子安・鹿島・稲荷の3社が合祀されています。古老の口碑に、松の大木を祀っていたところ、かたわらに泉が湧き出し神社を創建したとあり、明治3年に鹿島社など区内の3社を合併したとあります。鹿島社の祭神は「武甕槌之神」となっています。(7)

 3は、一つ上の段丘の、やはり奥まった小高いところに古社桂本神社があり、この境内神社5社の中の1社が鹿島神社です。
 
 この段丘はかなり広い平地になっていて、神社の字名は在家ですが、隣に本郷の地名もあり、在家と本郷の産土神で、現在は近くに町の役場もあるこの段丘の中心的な一画にあるといえます。
 
 桂本神社は、中世のこの地高原郷の領主江馬氏がその祖一本葛原親王を祀ったといいます。祭神は他に火袁理命と豊玉姫を祀り、古くは高田神社といっていたといいます。式内社の高田神社ではなかったかと思われますが、高田神社は古川町の神社が比定されているようで、ここには栗原神社が式内社としてあります。地形的には、桂本神社の方が古社にふさわしいところに祀られていると思われます。
 なお、鹿島神社は祭神建御雷神、由緒などは残念ながら不明です。(8)

(C) 
 4の鹿島宮は、飛騨代官の長谷川忠崇が将軍吉宗の命を受け調査した『飛州志』によるものです。益田郡阿多野郷見座村に「見座鹿島宮 接社子安宮」とあり、2と同じ地名で、「子安宮」まで一緒ですが、その関連は分かりません。「見座」の地名伝承が、どちらも水の神「罔象女(みずはのめ)」を祀り、「見座、罔象(みざの)大橋」があるということが共通しています。水の神と橋が鹿島に関わっているといえます。(9)

 問題は、なぜこれらの「鹿島」を名のる神社がここにあるのかということです。
 直接のつながりは今のところありませんが、大宝2年(702)飛騨から神馬を献上したとあるのは、桂本神社のある在家駒ヶ鼻と伝えられ、ここに名馬大黒の碑が建てられています。(10) 
 
 この一連の話は、大変興味深いものがあります。
 『日本書紀』の持統天皇即位前紀、朱鳥元年(686)天武天皇崩御後すぐに大津皇子の謀反事件が起こりますが、この謀反に深く関わった「新羅沙門行心」は、死罪にするに忍びないということで「飛騨国の伽藍」に流されます。(11) 
その後、大宝2年神馬が飛騨国から献上され、大瑞ということで大赦がなされます。この神馬を獲た僧隆観が、流僧行心の子で、罪を免じられて入京を許されます。そして翌年には、芸術にすぐれ、算暦も詳しいということで還俗させられ、新羅の本姓金氏にかえり、財となのることになります。子孫は陰陽寮天文博士などになっています。(12)
もともと新羅僧行心は、天文卜筮にくわしく、天武天皇に仕えていたのですが、天武の死後大津の皇子の骨相を見て謀反をすすめたといいます。(13)
 
 また、『万葉集』には、
「  黒き色を嗤咲(わら)ひし歌一首
 ぬばたまの斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも」
の歌があり、これは顔色の黒いことを嘲笑した歌ですが、黒馬にたとえたものといわれています。まさに「斐太の大黒」こそ、このころ評判の飛騨から献上された神馬のことを一方で指しているというわけです。(14)
 以上が一連の話になりますが、ここには注目すべき事がいくつもあります。
 
 まずは、いきなり7世紀後半の話に、「飛騨国の伽藍」が出て来ることに驚きます。山深い飛騨国に「伽藍」というただのお寺ではない寺院建築群があったということです。現在では考古学の発掘調査により、白鳳期の寺院は「古川盆地に11か寺、高山盆地に3か寺の14か寺を数える」といいます。この時代、このような寺院群があったのは飛鳥と斑鳩、あるいは河内ぐらいといわれていますから、とんでもない文化がありました。(15)
 
 この神馬献上事件により、飛騨は斐太とも表現されていましたが、飛ぶ馬の飛騨の用字になったといわれています。それは、一頭すぐれた馬をたまたま捕まえたというだけの話とも思われません。あまり言われていないことですが、おそらく飛騨にはいくつかの牧があり、すぐれた馬産の技術がすでにあったからではないかと思われます。飛騨の古墳からは、豪華なものから実用的なものまで馬具がかなり出土しているといいます。また後世、飛騨では木曽馬がさかんに育てられ、名馬の話もありますから、古くからの継続していた馬産の歴史を考えても良いはずです。

 飛騨国は、同じ頃大宝2年に施行された大宝律令の中で、
「凡そ斐陀国は庸調倶に免ぜよ。里ごとに匠丁十人を點ぜよ。・・・」
と飛騨国だけの例外的な規定をされて、「飛騨の匠」が動員されています。普通には租庸調が課税されるわけですが、飛騨国は租のみで庸調が免ぜられ、その代わりに匠丁100人が都に送られ、都や寺院の建築にあたらせられていました。重労働であり、負担としてはかなり重く、逃亡も多かったということです。(16)
 
 「飛騨の匠」といわれるような、優れた寺院建築などの技術があったというのは間違いありませんが、この律令の例外規定は、むしろ新たな支配地域になった飛騨に独自な税負担として重労働を課したいう性格がありそうに思えます。
 
 その点で飛騨国の初見記事、仁徳天皇65年条の「両面宿儺」の伝承が注目されます。
 飛騨国に宿儺というものがいた、身体一つで二つの顔が背け合ってあり、その頂は一つになっていた、それぞれ手足があり、力が強く敏捷で、左右に剣をはき、四つの手で弓矢を使った、天皇の命に随わず、人民を支配した、和珥臣の祖難波根子武振熊が誅殺した。
という話ですが、異様異形の英雄が飛騨にいて、大和の支配になかなか従わなかったということです。(17)
 
 異様異形の姿は、スネナガヒコもヤツカハギ、ツチクモも、エミシも同様ですから、あまりこのことにとらわれるのは得策ではありません。むしろ大変な異能の英雄として描かれていることに注目すべきです。なお、「両面宿儺」は北美濃の古刹日龍峯寺を開いた伝承もありますから、飛騨だけの英雄ではないようです。(18)
 
 このような飛騨の優れた文化には、日本海を通じた新羅などの文化の流入も考えられ、北陸の鹿島神社を見てきた問題とつながりそうな気がしています。
 
 また上宝町には、見座に牧河原、向牧、馬フミ平、牧の巾の小字があり、近隣には馬ノクラ、馬屋平の小字もあります。明らかに牧のあったことを示していると思われますが、これらが古代の話とどこかでつながらないかと思っていますが。

4 美濃の鹿島神社
 
(A) 「鹿島西」の17鹿島神社

 岐阜県ただ1カ所の鹿島地名が、岐阜市上西郷というところにありました。小字一覧で見つけたのですが、地図上では「犬塚」の地名があります。Googleマップのストリートビューを見ると、「上西郷犬塚」の交差点があり、そこから山へ階段を上ると、少し上ったところに古そうな小社鹿島神社があります。小字「鹿島西」は、鹿島神社の西側ということなので、この登り口一帯の小字名ではないかと思われます。
 
 この鹿島神社の祭神は、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四神で、いわゆる春日四神と同じです。他ではたいがい春日神社になっているはずですが、なぜかここではしっかり鹿島神社を名のっています。創祀由緒などは不明です。神社があり、地名も残っていますから、鹿島信仰の場であったことは間違いなく、春日四神の祭神に後世の思惑が何かあったのではと思われます。
 
 ここは、岐阜市の北西にあたり、御望山(ごもやま 鵜飼山とも 標高225.2m)の西の登り口にあるといえます。この「南麓に御望古墳3基、西麓に犬塚古墳2基、南東麓に洞古墳8基、洞北山古墳9基のいずれも円墳があった。」といいます(19)。
 
 また、古墳後期の集落遺跡などの「御望遺跡」も発掘されています。ここでは、「竪穴建物14軒及び掘立柱建物3棟と、特に多くの建物を検出した・・・遺跡に近接する御望山に立地する古墳群の造営時期と重なることから、古墳群を造営した集団の居住域の候補地の一つと想定できる」としています(20)。周囲にも古い遺跡がたくさんありますが、鹿島神社との直接関係があるかどうかは、史料がないだけに分からないというほかありません。

 近くには、さらに1000基以上の古墳があると言われる船来山もあります(21)。多くは後期古墳と言われますが、この古墳などの密集地帯に、霊亀元年(715)7月尾張国人席田(むしろだ)君と新羅人74家を美濃国に移し、席田郡を建郡したという話があります。面積一里四方あまりの小郡をわざわざ建郡したというのは、単に「河川の氾濫による荒廃しか考えられない」と地名辞典は言いますが(22)、はなはだ疑問に思われます。
 
 実際、『日本歴史地名大系21 岐阜県の地名』において「旧郡域・現郡市町村域対照図」を見ると、あまり大きくない郡がならぶ真ん中に、割り込むように小さい席田郡があるのを見ると、美濃国の地政学に何らか関係しているのではないかと思われます。さらに新羅人は、越前、飛騨にも関係があるので、もう少し広く深い問題ととらえるべきかも知れません。

(B) 9鹿嶋神社について
 
 この9鹿嶋神社は、美濃市前野431番地の尾崎神社内に合祀されています。
 
 尾崎神社は、明治3年(1870)に金剛童子社と称したのを尾崎神社と改称したとありますから、もとは仏教系のお堂と思われます。明治6年に村社、明治42年には大社神社、鹿嶋神社、稲荷神社を合祀したといいます。したがって鹿嶋神社は、このお堂の鎮守か何かであったようです。
 
 前野というところは、長良川に面し、「対岸の上有知(こうずち)湊からの渡船場があり、昔は厩野といった(濃陽志略)。」とあります(23)。この「上有知湊」は、明治には岐阜県下の四代河港の一つと言われるほど繁盛していました(24)。地図を見ると、「前野湊舟場跡」「上有知湊跡」があり、美濃橋を渡って400mほど直進すると尾崎神社です。

 また「『濃陽志略』に見える厩野明神跡は、美濃国神名帳の武儀(むぎ)郡『正六位上厩野(まやの)明神』とされる。」とあります(25)。『新撰美濃志』では、里老の伝えに、臨済宗のお寺の境内に厩野明神があり、その摂社が鹿嶋明神社であった、大社神社が厩野明神社とある古社であるだろうといっています(26)。
 
 「美濃国神名帳」は「天慶-天徳年間に修撰されたものと推測されている」(27)といいますから10世紀半ばごろののものと思われますが、これには927年成立の延喜式にはない神社が多数でています。おもしろいことに、たとえば当武儀郡は延喜式内社がありません。

 この前野の長良川下流数キロのところに、武儀郡国造の牟義都君の拠点関市池尻の弥勒寺があります。
 これらを見ると興味深い問題がいろいろありそうですが、こと鹿嶋神社に関しては、厩野に馬牧が予想され、渡船場の渡しの神の要素もうかがわれるということ以上は今のところ手がかりがありません。中近世の史料をもう少し探してみる必要があります。
 
(C) 12五位神社について

 今までの話のつながりで、鹿の伝承のある神社を紹介しておきます。
 
 山県市円原928番地の12五位神社は、かなりの山中にある神社です。祭神は、天照大御神と武甕槌神。大正5年に神明神社、大神宮神社、秋葉神社を合併しているというので、天照大御神は合併後の神なのかも知れません。とすると、鹿島神社の可能性が濃厚な神社になります。 

 由緒では、養老元年(717)創設の古社です。郡上市美並町三戸の8鹿島神社も、養老年中越の泰澄創建を由緒としています。
 由緒にある古老の口碑によると、「往昔越前国大野郡篠倉の住人五位義門なる者遊猟して十二俣の角ある鹿を当村小坂と云ふ処にて射取り、此の角を当村神社奉納し、又当神社を再建せし事ありし故之を五位神社と公称し往昔は近村民特に崇敬せしと云ふ。」とあります。
 
 越前国の住人が十二俣の角ある大鹿を射取って神社に奉納、神社を再建したので五位神社と称したといいますが、元の神社は何といったのか分かりません。鹿の角を奉納したことと祭神が武甕槌神で変わっていなければ、鹿島神社の話になるのではと思われます。
 
 越前国大野郡(現大野市)には、式内社の篠座(しのくら)神社という古社があり、何らか関係していそうです。養老元年に泰澄が白山登拝の行き来に立ち寄り、お告げにより祭神大己貴命の像を刻んで安置したという伝承があります(28)。白山信仰のつながりがうかがえそうですが、長良川筋、根尾川筋にもいくつか鹿島神社がありますから、越前国との関係は注目しておくべきことでしょう。

(D) 春日神社について
 
 美濃では春日神社が10社もありました。
 
 春日神社は、ふつう春日四神、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四神を祀っています。第一神は鹿島神社の武甕槌命であり、第二は香取神社の経津主命、第三、四が本来の藤原氏の氏神になります。なぜ鹿島・香取が藤原氏の氏神として祀られたかは大問題で、春日神社そのものが鹿島神社のバリエイションに違いないわけですが、この問題は後回しにしています。とりあえず天児屋根命が入っていたら春日神社、入っていないで武甕槌命を祀っていたら鹿島神社と判断して一覧表に入れてきました。両方とも入っていなかったら、藤原氏以前の春日神社の可能性もあり、おもしろいなと思っています。

 ここでは、岐阜県で気づいたことだけを指摘しておきます。以下はここで一覧表に挙げた春日神社の祭神の一覧です。
関市神野(かみの)は、建御雷之男神(たけみかずちのおのかみ)一神。
 関市小瀬(おぜ)の八幡神社境内社は、武甕槌神一神、八幡が春日の地に遷座。
 本巣市曽井中島(そいなかじま)は、武甕槌命、経津主命、姫神。
 岐阜市西改田入会地の若江神社境内社は、武甕槌命一神。
 安八郡神戸(ごうど)町瀬古は、武甕槌神、姫大神。
 安八郡神戸町斉田は、武甕槌神一神。
 大垣市本今町は、武甕槌命一神。
 海津市海津町神桐は、武甕槌命一神。
 海津市海津町鹿野(かの)124番地は、建御賀豆智命一神。
 海津市海津町鹿野1203番地は、建御賀豆智命一神。
 
 まずは、「たけみかづち」一神の春日神社が8社もありました。「たけみかづち」一神ならば鹿島神社ではないかと思うのですが、ここでは春日神社になっているのが特徴です。鹿島神社であったものが、後世藤原氏の力が大きくなり、春日神社や興福寺の影響を受けたものとも思われますが、そういう伝承があるわけではありません。
 
 一方で、岐阜市上西郷の18鹿島神社のように、春日四神を祀りながら鹿島神社を名のっている神社があったことも忘れられません。この関係は一体何だろうかということです。

 また「たけみかづち」の表記が、ここで4種類ありました。武甕槌命と武甕槌神は、命と神の尊称の違いで、同一の神社でも良く混交していますのであまり本質的なものではないと思われますが、建御雷之男神、建御賀豆智命は同一神として良いかどうか迷うような
表記です。しかし今までもいくつかあり、私は今まで無視して来すぎたような気がします。

 岐阜県神社庁の祭神検索では、17種類ありました。武と建は美称ですが、健というのもあります。命を「かみ」と呼ぶのも別けています。各神社が昔からそう表記してきたものを尊重すれば、1字もおろそかにはできないのもわかりますが、ここではそのへんはとばして中心的な表記の違いだけ見ておきます。
 
 上と重ならないものは、武甕槌大神、武甕槌之男神、建御雷神、武甕槌之神、武甕雷神
の5種類です。『古事記』では建御雷神、『日本書紀』では武甕槌神、奈良の春日大社では建御賀豆智命ということですから、ここからも外れた表記が注目されます。(29)
 
 しかしこの神名の中心的な表象は、甕神と雷神の二つで、これもどういう関係か、はっきり分かれているかどうかも今の段階では分かりません。「たけみかづち」はどのような神なのか、こうした小社をたんねんに見ていく以外はないでしょう。少なくとも、『古事記』『日本書紀』などからの解釈だけで間に合うとは思えません。
 
 大垣市本今町の21春日神社は、「余安荘七郷のうち。奈良期に余安という豪族が在住していた」「鎮守の春日神社は、奈良期に余安という人が勧請したと伝える。」といいます。近世には、河岸場があり船が何艘もあったとあります。おもしろいのは「鹿一頭を飼育」とあり(30)、Googleマップの写真では、鹿2頭の銅像がありました。
 
 今では鹿は、春日神社の鹿ばかり有名になりましたが、大元は常陸国鹿島から行ったとされています。どちらにしても、ここでは河岸と鹿が特徴となっていることが、これまでのいくつかの鹿島神社に見られたものと共通することに注意すべきと思います。 
 
 鹿島神社も春日神社も、実際の神社の様子をたんねんに見ていくことで、信仰の実相が明らかになるはずと思われます。
 
5 まとめ

 岐阜県は、分布も美濃・飛騨二つに大きく分かれているように見えました。
 
 飛騨は、日本海との関係が深そうであり、塩竃金清神社は縄文時代からの信仰が続いている神社でした。しかし鹿島神社の3社は、古そうではあるものの、古い確かな伝承が見つかっていません。むしろその周辺の飛騨の古代に大きな数々の謎がありました。今のところは馬産、牧につながりがありそうな断片があるだけでした。
 
 美濃も同様、改めて古代史の謎に包まれた地域を感じました。
 ここでも鹿島神社は、厩野明神と渡船場に牧と渡しのつながりが見られただけでした。
 一方、五位神社や春日神社の中に鹿の伝承もありましたが、これもどこにでもあるわけではなく、いくつかの神社に点々とある感じです。
 
 美濃では木曽川、長良川、根尾川から揖斐川と河川に沿った分布はあるものの、渡船場や河岸と必ず関係していることがわかったわけではありません。逆に、渡船場や河岸に鹿島神社や春日神社が必ず祀られているとも言えませんから、慎重に見ていく必要があります。

 これらはおそらく中近世史料の調査が不充分なためにまだ見えていないものがありそうです。

 美濃・飛騨で、調べて分かったことの最も大きな事は、7世紀後半、天武天皇・持統天皇の段階、律令制形成期では、ここは畿内地域から見ると異国であったろうということです。
 
 天武天皇は、壬申の乱の挙兵にあたって、美濃国に向かうことを「東国」に入ると表現しています。「関国美濃」といいますから、その後の位置づけとしては「東国への前進基地」(31)というのが正しい位置づけであったろうと思われます。

 飛騨は、かなり髙度な文化をもつ特異な地域であったと思いました。両面宿難の伝説は飛騨だけではなく、北美濃までも含む地域の伝承だったとすると、非常に大きな地域が畿内とは異なる文化圏の可能性もありそうです。
 
  史料が乏しく、現地調査も十分できませんでしたから、わずかな伝承からの推測になります。しかし他の地域の例とも合わせ考え、かすかな断片をおろそかにせず、拾い集めてきたことによって、今までの歴史像とは異なる世界が大分見えてきたように思われます。

6 神社と地名の分布

   神社名 所在地   祭神 備考  出典   歴博
塩竈金清神社  吉城郡宮川村
(飛騨市宮川町塩屋293番地)
建御雷之男神B他1  多数の石棒・石冠など 村史  
 2 鹿島大明神宮  吉城郡上宝村見座岩垣内(高山市上宝町見座532番地)  武甕槌之神  m3年玉水神社に合祀  飛騨の神社   
 3 鹿島神社  吉城郡上宝村大字在家字宮
(高山市上宝町在家736番地)
建御雷神  桂本神社境内社  飛騨の神社  1249 
 4 鹿島宮  益田郡阿多野郷見座村
(高山市朝日町見座)
A   相殿天児屋根命 摂社子安宮 飛州志   
 5 武甕槌神社  (恵那市武並町藤757番地の1)  寛政4年創建  神社庁   
 6 六社神社  (可児市下恵土 116番地)  建御雷神他5 将門の後五社合祀  神社庁   
 7 鹿島神社  (可児市坂戸196)   B  大県神社摂末 歴博  1247 
 8 鹿島神社  (郡上市八幡町相生4054)  AB他2   白山神社摂末 歴博  1245 
 9 鹿島神社  (郡上市美並町三戸字山の中1503番地の1)   A 養老年中泰澄創建  神社庁  1246 
 10 鹿島
明神社 
(美濃市前野431番地 尾崎神社に合祀)     もと厩野明神摂社 新撰
美濃志
 
 11 春日神社  (関市神野1919番地の1)  建御雷之男神  文明以前  神社庁   
 12 春日神社  (関市小瀬1番地の1)  八幡神社境内社 神社庁   
 13 五位神社  (山県市円原928番地)  A他1  養老元年創設  神社庁   
 14 七社神社  (本巣市根尾大井715番地)   A他6 合祀は永禄5年  神社庁   
 15 九社神社  (本巣市根尾越卒宮ノ下204番地) A他8  文政年間  神社庁   
 16 七社神社  (揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬1094番地)  A他6    神社庁   
 17 春日神社  (本巣市曽井中島字宮前1006番地) AB他5  創立年月不祥  神社庁  
 18 鹿島神社  (岐阜市上西郷1125番地の1)  AB他2  旧村社  神社庁 1244 
    同上    鹿島西     
 19 春日神社  (岐阜市西改田入会地字海淵1番地)  若江神社境内社 神社庁   
 20 春日神社  (安八郡神戸町瀬古字高道235番地)  A他1  創祀不祥  神社庁   
 21 春日神社  (安八郡神戸町斉田字村間181番地)  創祀不祥  神社庁   
 22 春日神社  (大垣市本今町字村郭201番)  1千年の昔  神社庁   
 23 六社神社  (養老郡養老町大跡162番地2)  A他5  創祀不祥  神社庁   
 24 春日神社  (海津市海津町神桐552番地)  創建年月・縁由不祥  神社庁   
 25 春日神社  (海津市海津町鹿野124番地1)  建御賀豆智命  創建年月・縁由不祥  神社庁   
 26 春日神社  (海津市海津町鹿野1203番地1)  建御賀豆智命  創建年月・縁由不祥  神社庁   
*表の説明
1番左の番号は、表の通し番号。番号のないものは地名である。
「神社名」は、出典の神社名。
「所在地」は、他県では出典の所在地名と現在地名を併記したが、ここは出典が岐阜県神社庁のHP「神社一覧 」などによったので現在地名のみとしたものが多い。()内が現在地名。
「祭神」は、Aが「武甕槌命」「武甕槌神」、Bが「経津主命」。神社庁のHPは「たけみかづち」の表記がいろいろあったのでそのまま表記したが、「命」と「神」は同一と判断した。空欄は、祭神が記されていなかったもの。
「備考」は、出典の由緒の記述の他に、『角川日本地名大辞典 21岐阜県』(角川書店)、『日本歴史地名大系21 岐阜県の地名』(平凡社)、県史・市町村史などを参考にし、注目すべき点を記した。
「出典」は、岐阜県神社庁のHP「神社一覧」が基本になっている。『飛騨の神社』は飛騨神職会による昭和62年11月刊、昭和63年4月再刊のもの、『飛州志』は長谷川忠崇著(延享年間)、岐阜県郷土資料刊行会のもの、『新撰美濃志』は岡田啓著(江戸後期)、一信社刊のもの、「歴博」は国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」。
1番右の欄「歴博」は、「出典」の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号であるが、全部で5ヵ所しかない。


(1)「飛騨」の表記は、正式には「飛彈」になっているが、ここでは引用文献を除いて「飛騨」で統一した。
(2)『宮川村誌 通史編上』(1981年11月)558~9頁によると、金清神社については「神社はいま塩竃金清神社に統一したが、以前には『金精明神社』又は『金勢明神』などとも書いたこともある。」とあり、『斐太後風土記』では「男茎形(おはせがた)社」ともあり、「方言かなまらさまと云ふ」とある。通称「かなまらさま」で、あとは改まった時の書き方になるのではないか。読みも、平凡社の地名大系では「こんせい」と読んでいるが、神社庁は「きんせい」にしている。なお、「いま塩竃神社の摂社であった金清神社が、むしろ本社の観があり、富山県側よりの参拝者は引きもきらない盛況振りである。」とある。
(3)『宮川村誌 通史編上』36頁
(4)『角川日本地名大辞典 21岐阜県』370頁
(5)『宮川村誌 通史編上』239~49頁、『飛驒市文化財調査報告書 第四集 島遺跡2・塩屋金清神社遺跡3』(飛驒市教育委員会 2012年3月)。神社わきに「飛騨みやがわ考古民俗館」があり、膨大な石棒が見られると期待すると肩すかしを食うが、かなり充実した展示を行っている。宮川村の大型合併後休館していたようで、展示が新しくなっていないのが残念な、大変もったない博物館である。
(6)『岐阜県の歴史』(山川出版社 2000年10月)22頁
(7)『飛驒の神社』(飛驒神職会 1987年11月 再刊1988年4月)1059~61頁
(8) 同 1026~29頁
(9)長谷川忠崇『飛州志』(岐阜県郷土資料刊行会 1969年10月)64頁
(10)『上宝村の文化財』(上宝村教育委員会 2004年3月)58頁
(11)『日本書紀』持統天皇(称制前紀)朱鳥元年冬十月己巳条(小学館③ 475~7頁)
(12)『続日本紀』大宝二年夏四月乙巳条(岩波新日本古典文学大系 一 55頁)、大宝三  年冬十月甲戌条(同上 一 73頁)、神護景雲元年八月癸巳条(同上 四 177頁)
(13)『懐風藻』大津皇子(岩波古典文学大系 73頁)、関晃「新羅沙門行心」(初出『続日  本紀研究』1-9 1954年、『関晃著作集第3巻』吉川弘文館 1996年12月) 
(14)『萬葉集』3844~5(岩波新日本古典文学大系 四)、伊藤博『萬葉集 釋注八』(集英社文庫 2005年12月)502~6頁
(15)森浩一・八賀晋編『飛驒国府シンポジウム飛驒よみがえる山国の歴史』(大巧社 1997  年8月)、『飛騨古川 歴史をみつめて』(古川町史編纂室 2015年3月)50頁 
(16)『岐阜県の歴史』(山川出版社 2000年10月)41~9頁
(17)『日本書紀』仁徳天皇六十五年条(小学館② 69~70頁)
(18)『岐阜県の歴史散歩』(山川出版社 2006年8月)145頁
(19)『角川日本地名大辞典 21岐阜県』(角川書店 1991年9月)348頁
(20)『岐阜県文化財保護センター調査報告書第144集 御望A遺跡』(2020年2月) 
(21)『岐阜県の歴史散歩』61頁
(22)『角川日本地名大辞典 21岐阜県』727、1161頁。『日本歴史地名大系21 岐阜県の  地名』80頁も同様な把握をしている。
(23)『日本歴史地名大系21 岐阜県の地名』609頁
(24)『角川日本地名大辞典 21岐阜県』931頁
(25) (23) 609頁
(26)『新撰美濃志』(国会図書館デジタルコレクション 一信社版439頁)
(27) (23) 1054頁
(28)福井県神社庁の篠座神社由緒。
(29)上田正昭編『春日明神』(筑摩書店 1987年12月) 上田正昭「春日大神の創始と東  アジア」『(秘儀開封)春日大社 生きている正倉院』(角川書店 1995年10月)
(30) (24) 118頁
(31) 中野効四郎『岐阜県の歴史』(山川出版社 1970年10月)7頁