1 神社と地名の分布 赤四角は地名
青丸は「鹿島」を名のる神社 緑丸はその他の名前の神社
2 調査について
富山県の鹿島神社は、下の「表 富山県の鹿島神社」に見られるように11社ありました。
国立歴史民俗博物館の「全国香取鹿島神社一覧表」(1)では4社でした。(ちなみに香取神社は0でしたが、私の調査でも見かけませんでした。)
今回の調査も、全県を統一的に見渡すものとして『富山縣神社誌』(以下『神社誌』とする)(2)と『富山県神社明細帳』(以下『神社明細帳』とする)(3)を基本としました。
『神社明細帳』は明治12年(1879)から作成され、昭和17年(1942)に完結したもので、第2次世界大戦後の訂正加筆もあるということですから、第2次世界大戦後の『神社誌』とあわせるとおよそ近代の神社合祀の経過などがわかります。
富山県では、それに加えて近世の史料をかなり見ましたが、加賀藩前田氏の支配地域と支藩富山藩の支配地域とがややこしく、史料がそろっていなかったことから、調査が偏っているかもしれません。
その中で、「正徳貳年九月射水郡堂営社人山伏持分并百姓持分相守り申候書上ケ申帳」(以下「正徳社号帳」とする)(4)と、「宝暦九年越中国砺波郡射水郡新川郡社家持宮神名村附拝命書上申扣」(以下「宝暦社号帳」とする)(4)と、『砺波市史資料編4』所収「正徳弐年九月砺波郡堂営社人山伏持分并百姓持分相守申品候書上ケ申帳」(以下「正徳社号帳」とする)「寛政八年五月 砺波郡村々之内寺院并山伏神主等相雇祭礼相勤申宮併村方自分ニ相守候宮数相しらへ書上申帳」(以下「寛政書上申帳」とする)などからは、今は見られない鹿島神社をいくつか見つけることができました。
また、宮永正運『越の下草』(5)、森田柿園『越中志徴』(6)、そして富山県でかなりタブー視されている文献、野崎雅明『肯搆泉達録』(文化12年1815完成)(7)と祖父野崎伝助『喚起泉達録』(享保14~15年ごろ)(8)からもかなり有益な情報を得ることができました。
3 地名について
『角川日本地名大辞典 16富山県』(角川書店)は、「鹿島」「加島」地名を「かのしま」まで含めて5項目あげています。『日本歴史地名大系 16富山県の地名』(平凡社)の索引も、地名は同じもの5項目をあげ、鹿島社・鹿島神社を4社あげています。この4社は歴博のあげた4社と全く同一です。あわせて9項目ですから、新潟県などと比べるとかなり鹿島信仰の比重が大きいという印象を持ちます。
『富山県大百科事典』(9)においても、鹿島神社は表の1朝日町宮崎と4富山市鹿島町の2社をあげ、朝日町宮崎の鹿島神社については祭礼の「鹿島神社稚児踊り」までとりあげています。地名は「鹿島槍ヶ岳」をあげ、神社と地名あわせて4項目となっていますから、鹿島神社が少ないわりには重視されているといえます。
しかし実は、地名について調べていくと確実なものがほとんどなくなってしまいました。
「鹿島槍ヶ岳」は、鹿島信仰にとって重要な地名と考えられますが、富山県では「後立山(うしろたてやま)」と呼び、長野県側に鹿島があり、鹿島大神が祀られていますので、長野県の地名と判断しました。
高岡市の「加島新村」は、天保10年3ヵ村から1字を取って1村にしたもの、滑川市の「加島町」は昭和27年2町の合併でつけた地名、富山市「鹿島町」は鹿島神社に因んだものですが、近世は「御用屋敷」と呼ばれ、明治になってから改称したもの。神社の位置も移動して本来の位置から移動しています。いずれも新しい地名です。
私は、朝日町宮崎の「鹿島樹叢」を地名としてあげましたが、近世は「明神林」と称したもので、やはり明治以降の地名と見るほかありませんでした。地名表からは、訂正して削除したいと思います。
残るのは南砺波市の「鹿島(かのしま)」だけです。しかし、ここの神社はもと神明社で、昭和3年に現在名の鹿島(かのしま)神社になったといいますから、鹿島信仰とは直接つながりません。ただ、地名伝承に鹿の伝承が深く関わっていますし、九州には「鹿島」を「しかしま」「しかのしま」とする地名が何ヶ所かありますので、今でも捨てがたい地名と考えています。後に、その伝承には触れます。
4 朝日町宮崎の1鹿島社について
富山県、越中国の鹿島神社11社を地図上に落としてみると、呉西の庄川筋に4箇所あるのを除くと、東から西へやや内陸部をほぼ一筋に連なり能登や加賀につながっていると見えます。古代の官道が海際を通っていますが、それよりも内陸側の別な道筋沿いになり、古代北陸道に全くつながらないというのも大きな特徴になるかもしれません。
しかし東端のここの道筋だけは一致せざるを得ないのが、宮崎の地です。
朝日町宮崎は、北アルプスの立山連峰などから続く山塊が日本海に落ちこみ、海と山が迫る急崖地域「親知らず」の西の端に当たっています。ここから、県境の境川を経て、青海までが海際を通る難所続きの地であり、その入り口に北限のシイやアカガシ等の暖帯林「鹿島樹叢」があります。したがって大変目立つ土地ですから、当然のように神祭りの地とるのは不思議ではありません。私は、この周辺から新潟県糸魚川まで、縄文時代から古墳時代まで続くヒスイなどの玉造遺跡も、宮崎の神の祭りに関係するものと思っています。
表1の1朝日町宮崎の鹿島社(現在は鹿島神社)は、その意味でも富山県において最も注目すべき鹿島神社といって良いものでしょう。
『宮崎村の歴史と生活』によると、
「宮崎という地名は、元来沖ノ島まで突出した岬であって、その突端に鹿島神社を祀ってから宮の崎といい、後に村名としたと伝える。今も海岸から沖10町余りには沖ノ島・中ノ島辺ノ島の三島と附近には多くの岩礁が海中にも磯部にも点在している。年寄達の語るところによれば、この村の岬は年々波浪と沈降とによって汀線が急激に後退して島ができたという。」そしてこの三島の付近に「古泊」と呼ばれる所があり、「社も舟止めの明神」と呼ばれていたといいます。(10)
宮崎の地名の由来と宮崎湊の伝承です。ここでは、岬の突端に鹿島神社を祀っていたから、宮崎の地名となったと言いますが、現在は、鹿島樹叢を背に負って海に向かう北面の社殿であり、拝殿が麓に、本殿は明神林中腹にあります。海から山に向かって祈る形になっています。
森田柿園『越中志徴』は「郷村名義抄」を引いて、「此所昔年は宮数多有之由、依之宮崎村と申由申伝候と。」といい、鹿島神社だけではなく多くの宮、神々が祀られていたと言っています(11)。
そして「延宝六年由来書」には「昔沖之嶋に御座候て、色々不思議有之を、猟師共見付、御詑宣承候へば、吾は坂東茗嶋より来、衆生利益のため也。」とあり、「此神社昔は宮崎大明神とのみ称したる故に、延宝六年の由来記にも、宮崎大明神と載せたり。然るを宝永元年旧跡調書に、鹿嶋大明神と申伝ふと見え、浅香久敬の道程記には、春日神とす。是皆後世の俗称にて、今も宮崎の鹿嶋明神と云ふ。」と述べ、鹿島神社の称が古来のものではないとも言っています。
森田柿園は、「越中・越後の境に寒原という難所あり」という「寒原」は「神原」であり、『養老令』の「北陸道神済以北」、『令義解』の「神済は越中與越後之界河也」の「かうのわたり」と同地名であり、『延喜式神名帳』の「新川郡神度神社」も「かんわたり」と読むべきであると述べ、この鹿島神社を式内社神度神社であると言うのです(12)。
明治6年(1873)の鹿島神社宮司九里東太由『由緒書上申帳』では、
「私家者は宮崎村鎮座鹿嶋大神開闢已来、数十代神職ニ而相続仕来申候。」と述べ、同様の託宣は「我本坂東鹿嶋之分神也」となっています。そして、「方今、宮崎一村之産土神宮崎社、又之名祭神鹿嶋大神と称し候得共、往昔ハ前段申上候通り、三位郷惣社ニて、式内神度神社之由、申伝候。此旧記無御座候へ共、近辺越中越後ノ境川ノ古名ヲ神済川と称シ、神度・神済、同唱之由ニ御座候。」と、神社の主張としても式内社であると述べています(13)。
式内社神度神社の問題は後回しにしますが、まずは、鹿島神社がどこまで遡れるかでしょう。
『朝日町誌』は、「前田藩初期は『宮崎観音』と呼称され、中期には『春日明神』と俗称され、末期には「鹿島社」と絵図に記されている。」とずいぶん引いてしまっています(14)。
しかし、浅香久敬の「春日明神」は、春日神社の第一神が鹿島の武甕槌命ですからしばしば鹿島と春日は混乱していることを踏まえると、特に問題にするまでもない記述です。下の表にも9春日神社があり、ここは祭神武甕槌命・天照大神・建御名方命の三神であり、いわゆる春日四神の天児屋根命と比売神、香取神社の経津主命の三神を欠いていてもなお春日神社を名乗っています。私が今まで調べてきた中には、いくつかそうした事例がありました。本来の春日神社は藤原氏の祖神ですから、枚方神社の天児屋根命と比売神を欠かせないはずで、鹿島をあえて春日というのは別の意図を疑うべきでしょう。
森田柿園によれば、宝永元年(1704)の「旧跡調書」に「鹿島大明神と申伝ふ」とあるのですから、近世前期から鹿島神社といっても良いはずです。
前田藩初期の「宮崎観音」は、前田藩作成の「越中全図」に「宮崎観音」と記されているというものですが、宮崎の地に観音と鹿島神社などが同居していても特に差し支えはありません。これも青森県、宮城県に類例がありました。現在の鹿島神社の相殿神に、白鬚大神、三面観音、建御名方命、大山祀命があるということですから、この地に観音も祀られ、他の神々も同居していてもおかしくないことです(15)。ただ残念ながら、近世初頭を遡っての鹿島神社の記録がないということです。
私は、明治6年の『由緒書上申帳』に祭神「鹿嶋大神」と本来の祭神名が出ていることに注目します。武甕槌命になる前の祭神名ですから、宮崎に古い伝承がしっかり残っていると思われます。(16)
『喚起泉達録』にも興味深い話が出ていました。
「越中宮嶽ニ鎮座マシマシテ宮嶽明神トモ塩老明神トモ崇奉ルナリ:宮嶽、今ハ宮崎ト書、明神ノ社宮崎山ノ北ノ范林ノ中ニ有、麓ヨリモ見ユル、是塩を守タマフ神也」
奥州塩釜神社の神塩土老翁が宮嶽明神、すなわち宮崎明神であるというのです。(17)
『春日権現験記』は、鎌倉時代に藤原氏が春日明神の霊験を描いた絵巻物として有名ですが、その冒頭で、武甕槌命は初め塩釜に天降って、その後常陸国に移り、さらに大和国の御笠山に移ったのだと言っています。この伝承は従来、取るに足りないものとして無視されてきましたが、この宮崎においても、奥州塩釜の神と宮崎明神の関係が述べられています。北方とつながる宮崎明神、鹿島大神となるのでしょうか。(18)
鹿島神社には多くの神像や仏像が安置されているといいます。その一つの男神像には「享禄□年六月廿九日・・・宮崎村藤大夫・・」とあり、16世紀前半のものであることがわかります(19)。これらのご神体については、
「夜になると七八丁沖に光るものが見える。不思議に思っていたやさき、百姓太夫の網に神像がかかってきた。勿体ないので村の氏神として祀ったという。能登から来られたのだといっている。それ以来能登から神使の鹿が何百頭となく群をなして年々鹿島の境内に泳ぎ着いたそうだ。村では今も鹿の角細工は絶対使わぬものにしている。」(20)
という、能登の鹿島津や鹿島郷などとのつながりがうかがわれ、そしてそこから神使の鹿が群をなして泳ぎ着くようになったという、これも鹿島に深く関わる伝承といえます。
宮崎という地名は、初見は承久の乱における宮崎氏とのことですが(21)、源平の争乱に宮崎氏が越中を代表する武士として登場していますから、もう少し早くからあった地名として良いと思います。残念ながら、古代の文献で確認できないだけですが、地方の地名はほとんどがそうしたものです。古くから神の祭りが行われていたと思われる宮崎という地名が、神の祭りに関係ない地名であることは考えられません。
ところで、『養老令』『令義解』の「神済」について触れると、森田柿園は「かうのわたり」としていましたが、「かんのわたり」「かみのわたり」とも読み、「神霊の支配し給う畏敬すべき渡り」の意味であるといいます。これは「神原」とともにこの「親知らず」の難所一帯を指したものというべきですが、『令義解』は「越中と越後の界河なり」として、これを大方は富山県と新潟県境の川、境川としています。おそらく境川のほとりで安全を祈る何らかの儀式が行われたからで、この時点では境川で良いのだろうと思います。
米沢康は、これについて「神済は元来は親不知沖合の海路をさしていたが、後世陸上の境川をさすように変化した。」と述べ、重要な問題を指摘しました。そして、「海の渡り」の例を三つあげています。一つは「壱岐の渡り」、二つ目は「対馬の渡り」、三っつ目は、『万葉集』巻一三の3335番の歌。ここにも「神の渡り」が出て来ますが、米沢はこれをどこか不明と言っています(22)。
『万葉集』3335は、ここから3343番まで「右九首」とまとめられている歌群です。そして、その二番目の3336には「鳥が音のかしまの海に」と出て来ます。原文は「所聞多尓」ですが、能登の鹿島嶺(かしまね)を「所聞多袮」と表記した例から同様に読むとしています。「かしまの海」
が能登との関連で出ています。
さらに異伝歌とされる3339は、「備後国神島の浜」で歌ったとして同じ「恐きや神の渡り」が出てくるのです。『万葉集』では神島を「かみしま」と読んでいますが、地名は「かしま」です。広島県福山市の神島(かしま)が、「北の神辺(かんなべ)平野まで入り込んでいた小湾で、今日のJR福塩線沿いに潮汐が出入りし、開口部の神島辺は難所であったといわれる。」と註記されています。(23)
また、「鹿島」地名は「神島」からであるとする説の有力根拠地になっています(24)。
このように海路の「神済」は、「鹿島」と密接な関係があることがわかります。宮崎の鹿島神社はかって岬の先にあって、海に向かって祈る場であったと思われますから、ちょうど符合します。
境川のほとり、新潟県糸魚川市市振には、明治まで鹿島社という小社もありました。これを合祀した白鬚社では、祭の時に神輿とともに悪魔払いの獅子舞が出るということです。境の神として、鹿島が魔や邪気を払う獅子舞と思われます(25)。
海と陸と境の神、「神済」、「渡りの神」「渡しの神」が鹿島に関係していることがわかりますが、残念なことに、ここ宮崎では、古代中世まで鹿島の神祭りが遡れるという明証はありません。状況証拠があるだけです。私は全国的な鹿島の事例を積み重ねて示していくほかないだろうと思っています。
最後に式内社神度神社について触れておきます。
神度神社を「かんわたり」と読んで、この鹿島神社にあてようというのはアイディアとしては優れたものかも知れません。しかし、「かんわたり」の読みは本来なさそうです。しかも鹿島神社に式内社の伝承が明治までないというのは根拠の乏しさを示します(26)。
私は、式内社ではなかったと見るべきと思っています。大変重要な神社ですが、それ故に式内社にはならなかった事例はかなりあります。宮城県の?竃神社がそうでした。富山県の立山を祀る雄山神社も『延喜式神名帳』の中では小社です。大伴家持が重視した二上山の二上神も式内社としては射水神社と称されています。私は、宮崎の鹿島神社も、『延喜式神名帳』にすっきりと位置づけられない、越中の土地の神のひとつと考えるべきと思っています。
5 富山市鹿島町の4鹿嶋神社について
祭神は、『神社明細帳』では武甕槌命一神。
『神社誌』によると、「創立由緒は天保年中に焼失し詳らかならずと雖も、当地開拓の桃山期に勧請、富山鎮護の樫葉明神と称され、当初は布瀬に鎮座されていた。その後佐々成政の鎮守(泉達録)となり、更に前田利次公入城の頃は現地磯部の地に杵築社、稲荷社と共に遷宮され、特に二代藩主正甫は産土神、病門除祈願所とされ、一時境内周辺に広大な磯部のお庭を造られ、殖産興業、分けても売薬の振興を祈願されるなどして、明治に至まで前田藩公累世尊崇され」、また「雨降ってござった鹿嶋さんのまつり」と「往古より水の神としての信仰も厚い。」とあります。
天保年間に焼失、昭和20年にも戦災で焼けて、史料はないようですが、断片的な伝承は大変興味深いものがあります。(27)
まず、「樫葉明神」。
富山城下の絵図で最も古い「万治年間富山旧市街図」1663年(寛文3)年頃成立のものに、「樫葉明神」とはっきり書かれています。「雨降ってござった」のはやし言葉も「かしわはんのまつり」と言っていたようです。ただしその後の絵図には鹿嶋明神になっていますから、「かしわ」「かしま」と同じ神社を指しています。
地元の藤田さんという方が、「前から疑問に思っていた『カシワはん』について奥様に聞いてみた。」と、宮司の奥様に尋ねた話を書いています。「奥様は、『昔鹿島神社は神通川の近くにあり、むかしむかしこの神社の神様が神通川を《柏の葉》に乗って流されてきた』とゆう言い伝えがある。それがやがて《柏→カシワさん→カシワはん》と呼ばれるようになったのではないかと話して下さった」と書いています(28)。ここでは柏になっていますが、神通川と柏の葉がこの神様には深い関係があったようです。
実は、全国の鹿島神社を調べてきましたが、柏との特別な関係がうかがわれる神社がいくつかありました。今回の富山の一覧表にも、11に現在は「柏葉神社」という鹿島神社を載せています。『神社明細帳』『神社誌』などすべて「柏神社」「柏葉神社」ですが、『越の下草』だけが「一 鹿嶋大明神 下向田村産神 往古、天降ノ霊像也ト云々。」としています(29)。建久年間(1190~1198)北条時頼回国の際、神体を柏の葉の上に捧げて一宇を建立したといいます。建久年間に時頼ではつじつまが合いませんが、柏の葉は神体を乗せて祭ったもので、神が何であるかはここにはありません。
数年前、兵庫県高砂市の大きな鹿島神社にいきましたが、その参道のいくつかの店で、端午の節句でも無いのに柏餅を売っていました。店で尋ねたところ、鹿島神社のゆかりのものということでした。その時は、それだけの話でしたが、富山の鹿島神社の話を聞いた後、宮城県の真野の鹿島御兒神社の話にであった時、これはただ事ではないと思いました。葛西氏が関東から東北へ船で下ってきて、真野に居館を造った時、その館の丑寅に鹿島古社を再興したましたが、当社を参詣すると三葉柏を鳥がくわえてきて神前に落としたので、葛西家の家紋としたとされています。実際葛西氏の家紋になっています(30)。
群馬県上日野では、平重盛の後裔が小柏村に蟄居し、小柏に改姓、鹿島神社を創建したといい、ここの神楽は「カサカッパ」といい、お祭りに奉納すると良く雨が降るといわれたといいます。ここでは柏と共に、雨を降らせる神まで似ています。(31)
これらを見ると、「かしわ」と「かしま」はただの語呂合わせではなく、もう少し深い関係がありそうに思われます。雨の神、レイン・メーカーとしての面も含めて、もっと事例を集める必要がありそうです。
また、布瀬から磯部に移ったと言われていますが、布瀬は対岸の婦負郡有沢村との間に神通川の船渡し場があったとあり、渡し場の神であったようです。
中世の富山を良く現しているという『富山之記』によると、富山城の西の搦め手磯部口は「神通大河洪々漫々深不知涯際、逆浪遠漲、急流如矢・・・天下大将軍成此河水神、則是西門守護神也。名大将軍淵。」とあり、「西門の守護神として大将軍という道教の神を祭ってゐたので、その辺の川を大将軍淵と名づけたとある。」と解説されています。富山の城下町については「上者金屋渡、下者鼬河迄一里之間」とあり、「金屋の渡り」から「イタチ川」までの一里をいい、入り口が「金屋の渡り」であったようです。(32)
この時鹿島神社が祀られていたかは不明ですが、後にはこの渡しに祭られていたわけです。「富山鎮護の樫葉明神」といわれていたことから、この渡しの神の可能性は高いと思っています。
これもまた追々指摘していきますが、各地で渡し場の神鹿島神社がみられ、地名表には採用しませんでしたが、「鹿島橋」の地名もいくつかありました。水の神、川の神と言うべきですが、もっと限定すれば「渡しの神」「渡りの神」です。
なお、前記藤田勇信さんの報告には、古風な鹿島のお祭り風景を記しています。
「先頭は烏帽子に狩衣姿の天狗の面を後前に冠り、大きな薙刀もった人が露払い、その後に赤と黒の二組の獅子がそれぞれ二人の人で笛や太鼓に合わせて獅子舞をする。一軒一軒短い獅子舞だが舞踊るのである。
そして少し遅れて御所車に神様を乗せた(神輿)が十人程のひとたちに引かれてやってきた。そして神主さんが数人手分けして一軒一軒祝詞(ノリト)あげて回られるのである。なんとご丁寧なお祭り風景である。」(33)
神輿を引くのも、白衣に烏帽子の「与丁姿」、これも古風です。大変貴重な記録であり、この獅子舞も悪魔払いの獅子舞と思われます。
6 舟橋村の3鹿嶋大明神について
中新川郡舟橋村東芦原の3鹿嶋大明神は、富山県において明確に古代創建の伝承をもつただ一つの鹿島神社になります。
『神社誌』は、「創立は安和年間なりと伝承する。往古安和の頃当里の農家僅に数戸あって芦竹の荒野を開墾して田地を拓らき耕作する。追次人戸増加し茲に一村を結び、里人協議して鹿嶋大神、稲荷大神を産土神と斎祀らんと」し、本社を建立したとあります。(34)
安和年間は968~970年頃、稲荷大神も古いわけですが、合祀したのは昭和初年になってからです。村は、10世紀後半頃開墾し、ようやく発展していったとあります。
舟橋村周辺は、富山県の古代としては注目すべきことが二つあります。(35)
一つは白岩川流域古墳群の存在です。その最初の巨大な墳墓は、舟橋村の竹内天神堂古墳で全長38.4m、4世紀中頃の前方後方墳です。この後方部に神明社の社殿があります。そして、その後若王子塚古墳(円墳46m)、稚児塚古墳(円墳46m)など相次いで成立しています。富山では古い古墳群ですが、被葬者などは全くわかっていません。新しい『舟橋村史』で藤田富士夫が、能登の雨の宮1号墳(全長64m)との関係を指摘し、この古墳群の重要性を指摘しています。また、周辺から、弥生から古墳時代にかけての集落遺跡がかなり発掘されています。
もう一つは、8世紀になってからの東大寺領庄園大藪庄の比定地になっていることです。やはり藤田が新『舟橋村史』において主張していますが、ほぼ舟橋村の中心部がそれに当てられています。藤田はこの地域の遺跡推移を通覧していて、「おおむね8世紀中頃~9世紀初頭にかけての資料が目立っている。・・・9世紀中頃には人々の足跡が薄れてしまっている。実際に大藪庄では開拓が低迷している。次に遺跡が復活するのは9世紀後半~10世紀前半の頃である。」と言っています。
鹿嶋大明神が祀られた安和年間は、ちょうどこの大藪庄が衰退した後のことになります。そして鹿嶋大明神は藤田の比定した大藪庄の西南端近くにあたります。しかし、古墳とは時代が離れすぎですし、大藪庄との関係も特にはありません。こうした経過だけでは、なぜここに鹿嶋神社が祀られたのかはわからないのが実情です。
私は、舟橋村草創の伝承にヒントがあるのではと思っています。
前の『舟橋村史』では、
景行天皇28年に武内宿祢がやってきて、ここ新川郡三辺(みなべ)に3男の藤津(ふじつ)を残した。藤津はここに家を作り人を集めて開拓した。「今でもこの地方において農夫の昼寝をする風習があるが、藤津が教えたものと伝えられている。やがて藤津が病にかかり世を去った。郷民は之を貴び神として祀り武弟(たけおと)神社と称した。三辺は後武内の郷と称したと言われている。現在の竹内の神明社は立派な前方後円墳(現在は前方後方墳―引用者)であるので、郷民に敬慕された藤津の古墳ではないかととも思われ、その神は元の武弟神社であろう。農民九郎左衛門は藤津の後裔として、此の地(竹内)にとどまるとあるが詳細は不明である。武内神明社前苑の石像仏は、この藤津神を仏像化したものと住民に信ぜられている。」
とあります。(36)
藤田富士夫はこれについては、「この伝承は江戸時代中頃に富山藩士の野崎伝助が書いた『喚起泉達録』に依っていて、舟橋村の地名などを基に創作されている可能性がある。」として全面否定をしています。(37)
しかし私は、そうではなく、野崎伝助『喚起泉達録』とその孫雅明『肯搆先達録』には近世の村や神社などの伝承がかなり集められていると考えています。
『肯搆先達録』には、「藤津の後、竹内村の農民九郎右衛門なりといへり。後ち大野左京と号す。また布市村社家山内美作もその類葉なりといふ。」とあります(38)。九郎左衛門と九郎右衛門の違いがありますが、何か伝承を伝えた家が残っていたようです。
もっと注目すべきことは、呉西の南砺市鹿島(かのしま)の地名伝承がこれと同じような伝承であることです。
砺波市老人クラブ連合会の『砺波市の地名』では、
「大昔に阿彦なる者あり。人々畏服する。後一族のイツ彦はトナミの地に残党多数導き、土地を耕すこと幾十年なりきという。その子伊夫岐、農を興し、ハタツモノ、タナツモノを作り、人々安住す。その後宿祢の子藤津(武弟)農を教う。宿祢去るとき、武弟をこの地に留まることとす。年19才なりしが108才で死す。後父のイツ彦を偲ぶため、父のヲスヒを埋めて墓とした。これを鹿塚と称し、今も存す。また御恩の藤津を敬慕して・・・鹿塚の近くに祠を建て、武弟神宮(フジツジングウ)と称してきた。・・・なお33代推古女帝の頃、伊夫岐のの末孫、次而子(ツギノイラツコ)なる人が藤津社の神鹿の大角を献上した。この角は17本の枝あり、この老神鹿の死後、先につくられた塚に埋めて、塔を立て鹿塚と呼び、この地一帯をカノシマと称した。
鹿島には往昔一の杜あり。其の付近に数多くの鹿群集し、村民深く之を愛す。当時未だ米作の道開けず、たまたま鹿が何処よりか稻苗を咥え来て、沼辺にて斃す。村民試みに之を沼に植えしに、秋に及び見事に豊熟せり。之本村に稲収穫の元始なり(他にも説あり)。」
とあります。(39)
なおこのもとの話には、宿祢の子藤津(武弟 フジツ)は、「新川の三辺(舟橋村竹内)で農を教う。宿祢去るとき武弟をこの地にとどまることとす・・・藤津、伊夫岐を三辺に召し稲作を教う。藤津は伊夫岐の精農を賞して美乃武の名を与えられる。美乃武(美乃部)その地に三年いたが郷里にもどり稲作につとむ。」この伊夫岐(美乃武)が鹿塚と藤津神宮を建てたといいます。(40)
名前がいろいろ出て来て、いささかわかりにくいのですが、鹿塚と藤津神宮などの鹿伝承が鹿島(かのしま)の地名の起源となっていることがわかります。そしてこの藤津が、舟橋村の藤津と同一であることもわかります。地名としては、鹿島(かのしま)の近辺には他に、「鹿島江(かのしまえ)」「鹿尾島(しかおじま)」「鹿島道(かのしまみち)」などもあります。
砺波市鹿島(かのしま)には、鹿の伝承がこれだけあるのですが、鹿島神社はありません。
一方、舟橋村には鹿島神社はありますが、時代が少し下ります。しかもこの鹿島神社は、藤津の話との接点もありません。竹内天神堂古墳と村の起こりに藤津が関係しているだけです。
しかし、東大寺領庄園大藪庄の「開田地図」を見ていて、驚きました。北辺近くに、「鹿墓社」というのが記されています(41)。これはいったいどのようなものかはわかりません。現在は八幡神社が建っているあたりと思われますが、それらしいものは何もありません。ただ砺波市鹿島(かのしま)の鹿塚に似ている名前が気になるところであり、藤津を祀ったといわれる竹内天神堂古墳と近いところにあるのも共通していると思われます。
古墳などの遺跡がこの地域一帯に豊富であり、古代においてかなり栄えていた地域と思われますし、富山県においては最も重要な立山信仰の足下の地域でありながら、歴史的に明確なものがあまりないような気がします。興味深い伝承もありながら、もう一つ話がつながっていかないもどかしさがあります。
7 その他の鹿島神社について
富山県の鹿島神社として、私は11社をあげましたが、そのほとんどが何故ここにあるのかわかるものがありません。古社であっても、さしたる由緒が伝わっていない神社が多く、由緒不明なまま消えていった神社もいくつかあります。
魚津市吉島の2「建石勝(たていわかつ)神社」、祭神は武甕槌命、延喜式内社です。したがって、延喜式の完成した927年には存在していた神社です。約1キロ離れたところに旧社地があり、「立石(たていわ)林」と呼ばれて大きな石があり、その「石根が龍宮まで通ぜり」とあります。鹿島神社の要石に似ていますが、祭神が同じという以上のことはわかりません。(42)
氷見市白川の8「楯鉾神社」は、『富山県史』に「富山の式外社」として出ていたものです。祭神は、常陸の鹿島神宮・下総の香取神宮の祭神、武甕槌命と経津主命の2神となっています。
『三代実録』に神階昇叙が3回出ていますが、延喜式内社にはなぜかなっていません。
「貞観6年(864)3月己酉、越中国正六位上楯鉾神に従五位下を授ける。
貞観13年(871)11月壬午、越中国従五位下楯鉾神に従五位上を授ける。
元慶6年(882)10月戊申、越中国従五位上楯鉾神に正五位上を授ける。」
とあり、この楯鉾神が近世の記録では、「太刀鉾」、「立岡権現」と変化したものと考えられています。(43)
『神社誌』では、白川の神社は現在八幡社であり、この「由緒沿革」の中に「境外末社に楯鉾神社がある。」とあって、「楯鉾神社は『三代実録』に貞観6年3月23日越中国楯鉾神従五位下と記されている。」とあるだけです。正五位上まで昇ったことに触れていないのは不可解で、ずいぶん冷ややかな扱いをしています。(44)
貞観から元慶までの9世紀後半の扱い方と比べて、延喜式内社にならなかったことから始まり今日の位置付けの冷遇は、祭神を鹿島・香取としたのは新しいものでしょうから、楯鉾神の本来の性格によるものではと思われます。
貞観から元慶までの9世紀後半は、貞観5年の越中越後の大地震、6年の富士山大噴火、11年陸奥国大地震、元慶2年関東諸国大地震と天変地異が続く中、元慶2年には出羽の俘囚の反乱が起こります。楯鉾神だけでなく越中の神々の神階昇叙は貞観年間に「特に頻繁に行われた」といわれていますが、こうした天変地異と蝦夷・俘囚の動向に大きく関係しているのではないかと思われます。
射水郡島村(氷見市島尾)の7「鹿嶋」は、『正徳社号帳』には「八幡、諏訪、神明、鹿嶋」と出ていますが、『宝暦社号帳』や『文政社号帳』にはもう出ていません。ここでは島村産神は、「八幡、神明、神明、諏訪」とあって、「鹿嶋」は「神明」になってしまったようです。そして『神社明細帳』や『神社誌』では、氷見市島尾地区は「神明社」1社になっています。明治になって島地区と尾崎地区が合併して島尾となり、昭和2年に八幡と諏訪が神明に合祀されて現在の姿になったとのことです。7「鹿嶋」は18世紀の半ばには「神明」になったのか、消えてしまった神社です。(45)
庄川流域の4社もよくわからないままになっています。
東藤平蔵の5「鹿島神社」は現存の神社ですが、『神社誌』に「大永年間常陸国、鹿島神宮の分霊を勧請創建せり、・・・」などとあるだけです。(46)
『宝暦社号帳』には「鹿嶋大明神 上籐平蔵村産神」とありますが、『正徳社号帳』等には見えません。
石瀬(いしぜ)の6「鹿島宮」も、『正徳社号帳』に出ているだけです。
春日吉江村の10「鹿嶋明神」は『寛政書上帳』に「春日大明神、鹿嶋明神、諏訪」となっていますが、それより古い『正徳社号帳』には「春日大明神、神明、八幡」になっています、そして『戸出町史』の一覧表では「村社春日神社(春日大明神) 祭神天児屋根命・武甕槌命」「神明社 祭神天照皇大神」「八幡 諏訪社 祭神建御名方命」となっていて、「八幡」と「諏訪」が合祀されていますから、結局『寛政書上帳』の「鹿嶋明神」だけがどこかに消えてしまっているようです(47)。「春日神社」の「武甕槌命」に合体させられてしまった可能性もあります。もともとは「春日神社」とは別の「鹿嶋明神」がありながら、混交して整理されたものかも知れません。
また由緒としては、「貞観10年(868)秋、大和国奈良の住人吉江定明が鹿を伴って当地にやって来たところ、鹿が病死した。定明は神のお告げによってこの地に居を定め、禅衣中に守護してきた一尺二寸の阿弥陀如来と春日大明神を祠を建てて祀った。・・・鹿の因縁から、この社へ年々四方の山々より数頭の鹿が参詣したといわれ、大正初期まで実際に鹿を見かけた住民が多かったという。」とあり、鹿の由緒を伝えています(48)。
ここでは奈良から来たとしていますが、奈良の鹿ももともと鹿島から行ったことになっていますので、春日、鹿島は混交していると見た方が良いと思っています。
東宮森9「春日神社」は、『神社誌』によると祭神「武甕槌命、天照大神、建御名方命」の3神です(49)。「天照大神」は「神明社」、「建御名方命」は「諏訪社」ですから「春日神社」には直接かかわりません。「春日神社」は普通春日4神の「武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神」で、鹿島と香取を遷座して藤原氏の祖神「天児屋根命、比売神」と共に4座として祀ったのですから、鹿島神社のバリエイションとして私は考えています。したがってこの東宮森9「春日神社」は、「武甕槌命」だけで「春日」を名乗っているという不思議な神社になります。
「由緒不祥」ですから、やむを得ないものがありますが、「鹿島神社」を名乗る方が自然です。この混交は、なぜ「春日神社」が作られたのかに係わりますから、これからも注意する必要が大いにあります。
8 おわりに
富山県の鹿島神社はあまり多くなかったのですが、「渡りの神」「渡しの神」という性格がはっきりと出て来ました。水の神、祈雨の神という性格も、柏のつながりも指摘できました。まだ全国的な調査は不十分ですが、各地で同様な性格がうかがわれる鹿島神社を見出しています。
最後に私は、一覧表にない神、二上山(ふたがみやま)の二上神に触れておこうと思います。
二上山は高岡市と氷見市の境にある山で、標高273m、東峰と西峯があります。この山が神体山で、山すそに今は二上射水神社があります。祭神は二上神。「貞観元年(859)1月27日に越中国の最高位である正三位になるまで(三代実録)、六国史などに6回登場する。だが以後二上神の名称は途絶え、「延喜式」神名帳には代わって射水神社が射水郡13座の筆頭に記されることになる。」その後明治に一時廃絶となり、射水神社が移転した後、地元住民の希望により、旧社地に二上射水神社が置かれたといいます。(50)
二上神と射水神社は本来別な神ですが、どうやら摂社の「悪王子社」こそが二上神ではないかとされ、本地は毘沙門天、正体は大蛇で行基が封じたという話と大蜘蛛で俵の藤太が封じたという話があるとのことです。(51)
言うまでもなく、奈良県にも二上山があり、香芝市二上山博物館が平成22年(2010)度に「越中と大和ふたつの二上山」という特別展を行って共通性を探っていました(52)。
奈良の二上山は雄岳(標高517m)と雌岳(標高474.2m)に別れ、「古代の人々はこの2峰を男女2神に見立て、『二神山』と呼んだ」、信仰の山です。大津皇子の墓の伝承から後世間違ったイメージがあるような感がありますが、地元の人には雨乞いの山、あるいは4月の「岳のぼり」の行事の山として親しまれています。(53)
この雄岳には葛城二上神社が鎮座し、祭神は豊布都霊神(武甕槌命)が祀られています。雌岳は神蛇大王(龍王)を祀る社があったといいます。これは富山県の二上山とかなり共通性があります。武甕槌命は本地毘沙門天とされることが多く、蛇神も共通しています。
もともと『常陸国風土記』「香島郡」の条に、唐突な感じで、崇神天皇が鹿島大神に幣を奉納した話があり、それに関連して大坂山の頂で神の託宣があり、それが鹿島大神の託宣であったとありました。この大坂山の頂を註は「奈良県香芝市付近の二上山穴虫越あたりという。」としています。(54)
『常陸国風土記』を読んだときには、何故ここに鹿島の大神が現れ託宣するのかわからなかったのですが、ようやく話がつながってきました。
しかし、この話は奈良県の二上山で深めたいと思っています。今のところは富山県の二上山では、鹿島信仰につながるものがあまり見えませんので、これ以上の深入りは避けておきます。
わかったことは、富山県の二上神が『延喜式』神名帳から抜けていることです。
『万葉集』の編者といわれる大伴家持は8世紀の中頃越中守として、能登と越中を併せたこの時点での越中国に赴任して歌を多く残しました。この家持が、最も敬意を込めて越中を代表する神山として、特に「皇神(すめがみ)」と詠んだ山が、立山と二上山でした。しかし二上神は、『延喜式』以降射水神社になってしまいました。そういえば立山の雄山神社も、『延喜式』神名帳においてもあまり大きな扱いを受けていません。ここにも『延喜式』神名帳の政治的な性格がわかるような事例がありそうです。
9 鹿島神社の一覧
|
神社名 |
所在地 ( )内は現在の地名 |
祭神 |
備考 |
出典 |
歴 |
1 |
鹿島社 |
下新川郡宮崎村宮崎字角地
(朝日町宮崎) |
A |
沖ノ島に降臨
舟止の明神 |
明細帳 |
1193 |
2 |
立石勝
神社 |
下新川郡加積村吉島
(魚津市吉島) |
A |
式内社
旧社地字立石 |
神社誌 |
|
3 |
鹿嶋
大明神 |
上新川郡東芦原村等入会地
(中新川郡舟橋村東芦原) |
A |
安和年間968~
970創建 |
宝暦
社号帳 |
1194 |
4 |
鹿嶋神社 |
上新川郡鹿島町
(富山市鹿島町) |
A |
かしわ明神
舟渡し場 |
明細帳 |
1191 |
5 |
鹿嶋
大明神 |
射水郡土塚村東藤平蔵字中口
(高岡市東藤平蔵) |
A |
大永年間1521
~1528勧請 |
宝暦
社号帳 |
1192 |
6 |
鹿島宮 |
射水郡石瀬村
(高岡市石瀬) |
|
|
正徳
社号帳 |
|
7 |
鹿嶋 |
射水郡嶋村
(氷見市島尾) |
|
宝暦1751~64には
神明社になる |
正徳
社号帳 |
|
8 |
楯鉾神社 |
(氷見市白川) |
AB |
『三代実録』の
楯鉾神 |
県史 |
|
9 |
春日神社 |
砺波市東宮森
(砺波市高波) |
A他2 |
天児屋根命等春日3神ない |
神社誌 |
|
10 |
鹿嶋明神 |
砺波郡春日吉江村
(高岡市戸出春日) |
|
春日大明神もあり |
寛政
書上帳 |
|
11 |
鹿嶋
大明神 |
砺波郡下向田村
(高岡市福岡町下向田) |
|
現柏葉神社 |
越の
下草 |
|
*表の説明
1番左は、表の通し番号。
「神社名」は出典の神社名。
「所在地」も出典の所在地名を記し、( )内は現在の地名を記した。
「祭神」は、Aが「武甕槌命」、Bが「経津主命」。空欄は特に祭神が記されていなかったものである。
「備考」は、主に参考になることがらを記した。
「出典」は、「明細帳」は富山県立図書館所蔵の写本『富山県神社明細帳』、
「神社誌」は富山縣神社庁『富山縣神社誌』(1983年11月)、
「宝暦社号帳」は富山県立図書館所蔵のコピー写本「宝暦九年越中国砺波郡射水郡新川郡社家持宮神名村附拝命書上申扣」で「宝暦社号帳」と通称しているもの、
「正徳社号帳」は同館所蔵コピー写本「正徳貳年砺波郡射水郡堂営社人山伏持分并百姓持分相守り申候書上ケ申帳」で「正徳社号帳」と通称しているもの、砺波郡のものは『砺波市史 資料編4』所収、
「県史」は『富山県史 通史編Ⅰ 原始・古代』、
「寛政書上帳」は『砺波市史 資料編4』所収「寛政八年五月 砺波郡村々之内寺院并山伏神主等相雇祭礼相勤申宮併村方自分ニ相守候宮数相しらへ書上申帳」のこと、
「越の下草」は宮永正運『越の下草』(北国出版社 1980年8月)。
「備考」欄は、いつも通り『角川日本地名大辞典 16富山県』(角川書店)、『日本歴史地名大系 16富山県の地名』(平凡社)、吉田東伍『増補大日本地名辞書 第5巻 北国・東国』(冨山房)、『県別マップル道路地図 富山県』(昭文社)、『式内調査報告 第17巻』(皇學館大学出版部)、県史・市町村史等を出来る限り参考にし、注目すべきことを記した。
1番右の欄「歴」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。
註
(1) 国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)
(2) 富山県神社庁『富山縣神社誌』(1983年11月)
(3) 富山県立図書館所蔵『富山県神社明細帳』コピー写本(原本は、1879(明治12)年7月~1942(昭和17)年11月6日完結)
(4) 富山県立図書館蔵のコピー写本
(5) 復刻版 北国出版社 1980年8月
(6) 復刻版 富山新聞社 1973年5月
(7) 富山郷土史会校注 KNB興産株式会社出版 1974年11月
(8) 浅見和彦監修・棚元理一訳著・藤田富士夫編著『喚起泉達録の世界ーもう一つの越中旧事記ー』雄山閣 2014年2月
(9) 北日本新聞社 1994年8月
(10)宮崎村史編纂委員会編『宮崎村の歴史と生活―舟と石垣の村―』(1954年8月)324~5頁
(11)復刻版(富山新聞社 1973年5月)723頁
(12)同724~5頁
(13)「明治6年10月九里東太由 由緒書上帳」『朝日町誌 歴史編』(1984年8月)94頁
(14)『朝日町誌 歴史編』241頁
(15)『式内社調査報告 第17巻』(皇學館大学出版部 1985年2月)653頁
(16)『常陸国風土記』では「香島の天の大神」とあり、これを私は全国の地名とこれまでの神社名から本来は「鹿島の天の大神」すなわち「鹿島大神」と判断しています。「武甕槌命」の初見は『古語拾遺』ですから「9世紀以降からの祭神名」(大和岩雄「鹿島神宮」『日本の神々11』2000年7月)と考えられます。
(17)『喚起泉達録の世界ーもう一つの越中旧事記ー』80頁
(18)「5 宮城県の鹿島神社」の「2 盬竃神社」の項参照
(19)『式内社調査報告 第17巻』655頁
(20)『朝日町誌 歴史編』333頁
(21)『角川日本地名大辞典 16富山県』844頁
(22)米沢康「神済考」「神済をめぐる史的環境」(『北陸古代の政治と社会』法政大学出版会1989年12月)
(23)『萬葉集③』(『新編日本古典文学全集8』小学館 1995年12月)447~8頁
(24)久信田喜一「古代常陸国鹿嶋郡鹿嶋郷について」(『茨城県立歴史館報24』1997年3月)18~9頁引用の『旧地考』の説。
(25)『新潟県神社明細帳』の市振村「鹿嶌社」「白鬚社」の項。『新潟県史 資料編22』764、828、928頁
(26)『式内社調査報告 第17巻』652~3頁
(27)『富山県神社誌』22頁
(28)藤田勇信「鹿島神社(カシワはん) 鹿島町」(『私の小さな旅 富山市の寺社巡拝』私家版 2004年11月)
(29)宮永正運『越の下草』(北国出版社 1980年8月)238頁
(30)「5 宮城県の鹿島神社」の「4 三つの『鹿島御兒神社』」の項参照
(31)『日本歴史地名大系 10群馬県の地名』345頁、『藤岡市史 民俗編 下巻』544頁
(32)山田孝雄編『富山之記』6~7、9頁
(33)藤田勇信「鹿島神社(カシワはん) 鹿島町」176頁
(34)『富山県神社誌』238頁
(35)『舟橋村史』(2016年5月)「第一章先史・古代」
(36)『舟橋村史』(1963年10月)3頁
(37)『舟橋村史』(2016年5月)36頁、ただし藤田富士夫は『喚起泉達録の世界―もう一つの越中旧事記―』の編者の一人であるので、被葬者名について根拠がないと言っているだけです。
(38)『肯搆泉達録』31頁
(39) 砺波市老人クラブ連合会『砺波市の地名―郷土の字・由来調査事業報告書―』(1993年6月)51頁
(40)水野哲郎『ふるさと誌』(1986年12月)227~8頁、(39)はこれを要約したものと思われます。
(41)『舟橋村史』(2016年5月)頁
(42)『式内社調査報告 第17巻』656~9頁
(43)『富山県史』「越中の式外社」1081頁
(44)『富山県神社誌』612頁
(45)『富山県神社誌』595頁
(46)『富山県神社誌』477頁
(47)『戸出町史』(1972年6月)1289頁
(48)『戸出町史』221、1300~1頁
(49)『富山県神社誌』
(50)『式内社調査報告 第17巻』515~26頁
(51) 二上山総合調査研究会『』
(52) 香芝市二上山博物館『越中と大和ふたつの二上山』
(53)『式内社調査報告 第巻』384~51頁
(54 『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集5 2006年8月5刷)391頁
(今回ブログ投稿から移すにあたり、インターネット上の「地震まっちゃ」の「自由地図」を利用して分布図を作成した。若干の字句修正はしたが、内容の変更はない。)