古社の秘密を探る

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8 石川県の鹿島神社

(1)調査について

石川県の「鹿島神社」は、下の表に見られるように36社ありました。うち、能登が表の1~15までの15社、加賀が16~36までの21社です。

表を見ると、「鹿島」を名のっていない神社が多いのですが、それでも「鹿島」を名のっている神社は能登では7と10の2社、加賀では19、23、24、32、33、34、35、36、37、38の10社がありました。

「鹿島」を名のっていない神社は、祭神の中に「武甕槌命」(表中ではA)があるものです。「鹿島神社」の祭神は本来「鹿島大神」であると考えていますが、後に「武甕槌命」になっていきます。全国的にはいろいろあって、石川県でも8・9の「武美加津智命」や26の「武甕槌大神」があります。12の「大山祇神社」、19の「味知神社」、28の「石清水神社」、後に述べる「春日社」などは、祭神「武甕槌命」1神になっていて祭神と神社名が合っていません。これをどのように考えるべきか、今はまだ判断保留中ですが、とりあえず一覧表に加えています。

他に「武甕槌神社」を名のるものも2社ありました。26は、「社記によれば、往古春日島という所にあり、春日明神と称した」(1)と言いますが、祭神は「武甕槌大神」一神のみです。春日神社は、常陸国鹿島神社の武甕槌命と下総国香取神社の経津主命に藤原氏の氏神天児屋根命と比女大神の4神をあわせ祀ったものです。今までにも4神がそろっていないものがありましたが、藤原氏の氏神がない場合は鹿島神社なのではないかと判断して、この表に神社名をそのままに入れてきました。もう1社は、4神がそろっていて、明治13年に春日社を武甕槌神社と改称したとあります。「武甕槌」にこだわったのがなぜか、「春日社」で良かったのではと思うのですが、ともかく4神そろっているか、天児屋根命が入っていると「春日社」の範疇と考え、この表には入れていません。これまでもいくつかありましたが、春日神社と鹿島神社の関係は大きな問題の一つで、単に鹿島神社であることを蔽い隠すためかと思われるものがあります。

なお、国立歴史民俗博物館の「全国香取鹿島神社一覧表」では、驚くことに7と33の2社だけです。

今回の調査も、全県を統一的に見渡すものとして『石川県神社誌』(以下『神社誌』とする)と『石川県神社明細帳』(以下『神社明細帳』とする)を基本としました(2)。これに加えて、『金沢市史』『小松市史』などから近世の史料を見てつけ加えたものがあります。特に大きく加わったのは、弘化元年(1844)成立の『加賀江沼志稿』によるものです。

しかしそれにしても、国立歴史民俗博物館の研究なるものは一体何を調べたのか、何の意図が働いたのか、『神社誌』『神社明細帳』の二つは私の調査と一緒ですから、同じものを見てもこれほどの違いが出てくることに神社研究の難しさ、と言うよりもはっきりと意図的なものを感じます。ちなみに、『神社誌』でも「鹿島神社」5社、「武甕槌神社」2社が出ていますから、これだけでも拾わないのはおかしいわけです。

(2)「鹿島」地名について

『角川日本地名大辞典 17石川県』では、加賀市、穴水町、美川町、七尾市の「鹿島」と、「鹿島郡」、羽咋市の「鹿島路」、中島町「鹿島台」、「鹿島半郡」、鹿島郡「鹿島町」の9地名を項目として立てていますが、神社は1社もありません。なお中島町「鹿島台」と鹿島郡「鹿島町」は、いずれも第二次世界大戦後の地名ですので、本研究では地名の一覧表に入れていません。

『日本歴史地名大系 17石川県の地名』では、索引項目として地名は13項目あげています。

加賀市を「加島」「鹿島」「鹿島新道」「鹿島の森」の4項目、羽咋市「鹿島路町」と羽咋郡「鹿島路村」のように2項目にしていること、「鹿島郷(能登郡)」がつけ加わり、中島町「鹿島台」が入っていないことの違いがありますが、地名ばかりで神社がないことは共通しています。

『書府太郎 石川県大百科事典』(3)は、石川県の今日の意識を反映するものと見て良いと思いますが、やはり地名は6か所で、人名1人がちょっと違いますが、神社は1社もあげていません。

「鹿島」地名は鹿島神社によるものと言われていますが、石川県では、これだけ古い地名が明確に残っているにもかかわらず、対応する鹿島神社がはっきり残っていません。現在あっても新しい時代の神社です。そればかりか鹿島神社や鹿島信仰についての説明はあいまいになっています。なぜ地名がありながら、鹿島神社についてはっきり言及しないのか良く分からないところがあります。実は、これが石川県の最も大きな問題ではないかと思われます。

私なりにこれまで分かった地名を整理しておきます。(4)

能登〈1〉鹿島崎  珠洲市折戸町 (郡誌)

〈2〉鹿島村  鳳珠郡穴水町鹿島(能登志徴)

〈3〉鹿島津  七尾市 (萬葉集「香島津」、式「加島津」)

〈4〉鹿島根  中島町 (萬葉集「所聞多祢」)

〈5〉鹿島郷  七尾市等(平城宮木簡)

〈6〉鹿嶋浦  七尾市等(気多社御縁起)

〈7〉鹿島郡  七尾市等(承久3年田数注文)

〈8〉鹿嶋路  羽咋市鹿島路町(気多神社古縁起)

加賀〈9〉鹿島田  白山市中ノ郷町(皇国地誌)

〈10〉鹿島刈  白山市松任町(皇国地誌 しかしまがり)

〈11〉鹿島道  白山市石立(小字一覧)

〈12〉鹿島村  白山市鹿島町・鹿島平(皇国地誌)

〈13〉鹿島境  白山市蓮池町(小字一覧)

〈14〉鹿嶋   加賀市塩屋町(吉崎御坊絵図)

〈15〉鹿嶋山  同上(蓮如上人絵伝)

以上、15地名ありました。これは三つのまとまりに分けられます。

一つは能登の「鹿島」です。今回新たに能登半島の先に「鹿島崎」を見つけましたが、他は中世の「鹿島郡」の範囲に入っています。非常に広い「鹿島」が存在していたと考えられます。そして、特に「鹿島津」「鹿嶋郷」など全国的にも大変古い地名として注目すべきものです。

二つは、白山市の「鹿島」です。これは必ずしもまとまってあるとは言えませんが、手取川右岸に点々とあると言えます。

三つ目は加賀市の「鹿島の森」ですが、ここでは古い地名の方をあげました。

問題は、この地名と神社がどのように関係しているのか、関係していないのかであると思います。

(3)「鹿島津」について

a 「鹿島郷」の「鹿島津」

能登で最大の問題は、「鹿島津」の問題です。なぜ、ここにこれだけ古く明確な「鹿島」地名がありながら、鹿島神社がないのかという問題になりますが、まず地名を整理しておきます。

能登の「鹿島」地名の初見は、天平4年(732)4月17日平城宮跡出土木簡の「能登国能登郡鹿島郷望理里調熬海鼠六□」です。天平8年(736)、天平宝字3年(759)の木簡にも「鹿島郷」がありますので、地名としては「鹿島郷」、8世紀前半のものとなります。(5)

「香島津」は、『萬葉集』巻第17の、天平20年(748)越中国守大伴家持が春の出挙のために能登を巡行した際の、歌の題詞に出てきます。歌の中でも「香島より熊木をさして」といって、「香」の字の使用が特徴になります。(6)

「香」の字については、「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」で詳細に検討しましたが、家持の歌と『常陸国風土記』、『御堂関白日記』などの藤原摂関家関係者の日記に一部あるだけと言っても良いほどで、全国の地名や神社名にはほとんどありません(7)。『常陸国風土記』は養老年間(717~24)に藤原宇合が関わって作成されたといわれています。この宇合の子宿奈麻呂(良継)が家持と同じ時に越前守に就任していて、家持とは関係があったのですから、『常陸国風土記』の話は何らか伝わっていたとしても不思議ではありません。家持の何らかの意図による用字と考えられます。

その後『延喜式』(927年成立)では「加島津」(8)、『和名類聚抄』(931~938成立)では「加島郷」(9)となり、ここでは「加」の字の使用となっています。

この「加」の字の問題も、「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」で同様に検討しています。いずれも、何らかの事情で「鹿」字を避けたというべき用字ですが、地名は木簡が示すように「鹿島郷」ですから、「鹿島郷」の津、「鹿島津」が正しい表記になります。

『延喜式』の「加島津」は能登国の国津で、能登郡になりますが、「能登津」ではなく、また国府のあったという八田郷の「八田津」でもありません。国津としてこの段階までは「加島津」、正しくは「鹿島津」であったことを押さえておきたいと思います。

しかし、なぜか「鹿島津」の地名は、『延喜式』以降見当たらなくなります。そして中世後半になると、「府中」、「所口」の地名に変わっていくようです。

また、「鹿島郷」は中世には「鹿島郡」に継承され、「能登郡」がなくなっています。この「能登郡」との関係は興味深いものがありますが、近世には一時前田氏の命により「能登郡」が復活し、元禄期に再度「鹿島郡」に戻り、その後は「鹿島郡」が続きます。

なお、「桜井家文書」の元和5年(1619)「御尋随由来條々」と貞享2年(1685)「氣多社御縁起」には「鹿島浦」の地名が出て来ます(10)。神社伝承の中では「鹿島」へのこだわりが続いたようですが、享保16年(1731)の『氣多本宮縁起』では「府中の浦」「府中浦」になっています(11)。

中世からの長氏の「鹿島半郡」へのこだわりも含めて、この地域の「鹿島」地名へのこだわりにただならないものを感じさせますが、同時に執拗に「鹿島」をなくしていこうとする歴史の動きも注目すべきものです。

b 「鹿島津」はどこか

『角川日本地名大辞典』は、「鹿島」について「七尾湾南湾の南岸、いまの七尾市の中心市街区の、特に西半部の御祓(みそぎ)地区を郷域の中心とし、御祓川を挟んで東の八田(やた)郷と並行していたとする説(郷土辞彙)が妥当であり、加島津(香島津)も、当然現七尾港の一部に相当すると見なすべきである。」(12)としています。

ここでは「七尾南湾の南岸」とし、古代「鹿島郷」と「八田郷」とは、御祓川を挟んで並行していたとしています。しかしそうすると、「鹿島津」が「鹿島郷」「八田郷」に両属するか、「八田津」が存在するかしなければなりません。地名は「鹿島津」だけですから、無理な想定になります。確かに中世になると、「気多本宮 所口」「鹿嶋郡八田郷府中」となって「所口湊」「府中湊」になり、「鹿島郷」「鹿島津」がなくなっていきました(13)。これを古代に遡らせることが出来るかどうかでしょう。

『七尾市史』は、「国府の外港としての香島津の所在について、小島町(こじま=かしま)付近に求めようとする考えも古くからであるが、位置的にみればまず大谷川口、矢田新町か、ついで御祓川口とするのが穏当であろう。」としていました。(14)

しかしこれについては、『鹿島郡誌』が「七尾湾東南沿岸の地は砂浜沼沢にして船舟に便ならざるに、小島の地が小杉崎を北に控えて水深く波静かなる故、古代に於ける要津たりしや」(15)と述べていたことをどうふまえたかが問われます。

近年の『新修七尾市史』の見解は、驚きました。

「木簡に見える『望理里』は能登島曲町に比定でき、『鹿島郷』は能登島全域に比定できると考えた」と言うのです(16)。「望理」は『和名類聚抄』播磨国賀古郡望理郷の「マカリ」にもとづき、能登島曲町が江戸時代に海鼠(なまこ)を特産品としていたことなどによるもので、これはこれで妥当な見解であると思ったのですが、その結果能登島が「鹿島郷」であり、「鹿島」であるという話になっていき、現七尾港はすべて「八田郷」になるといいます。そして、「加島津は、半島と島を結ぶ渡であったと考える。そのような相互の往来の歴史の故に、『加島(鹿島)へ向かうための渡し』という意味で『加島(鹿島)渡』もしくは『加島(鹿島)津』と命名されたと考えておきたい」(17)とも言います。

「鹿島津」のこれまでの議論はなぜか混乱している印象がありましたが、これはさらに混乱させるものでしかありません。

まず、「鹿島」地名について海でまわりを囲まれた狭義の島地の地名と思い込んでいるのではないかと思いますが、すでに地名の所で明らかにしたように間違いです。東国ではほとんどがこの狭義の島地ではありません。能登の「鹿島」も狭義の島地を前提に考えるとわからなくなります。(18)

「鹿島津」は、従来から言われているように能登国の国津ですから、国府からさほど遠くない港津に求めるべきで、ややこしく考えるものではないでしょう。確かに「津」は「渡し場」の意味もありますが、地名は国府側の海岸から名づけられるはずです。そうすると「鹿島津」ではなくて、「八田津」となるのではないでしょうか。

なにより、能登島はずっと能登島以外の何ものでもありません。大伴家持は、「香島津」から「熊木村」へ船で向かう時、能登島を見て「とぶさたて船木刈るという能登の島山」と歌いました。大伴家持においては、「香島津」と「能登の島山」は同じ土地を示していません。

また能登島は平安中頃から地名が見え、中世は能登島荘、能登島御厨と一貫して能登島と呼ばれています。古代は「能登郡鹿島郷」、中世は「能登国鹿島郡」に属していますが、この島が「鹿島」と呼ばれた形跡はありません(19)。私も調べましたが、鹿島神社も鹿島信仰の痕跡もほとんど発見できませんでした。

能登島を「鹿島」、能登島だけを「鹿島郷」とするのが間違いです。

古代「能登郡鹿島郷」は中世「能登国鹿島郡」に継承されたといいますが、中世「鹿島郡」は、承久3年9月6日注進の「能登国田数注文」を見ると、北は「大屋庄穴水保」、南西は「金丸保」「酒井保」など現羽咋市まで及んでいて、大変広い地域を示しています(20)。能登島だけを「鹿嶋郷」とするならば、「能登島庄」の地名も不審となりますが、「鹿島郷」が大きな「鹿島郡」に継承されるのははるかに無理となるでしょう。

ここから『和名類聚抄』の上日・下日・越蘇・八田・加嶋・与木・熊木・長浜・神戸9郷の「加嶋(鹿島)」以外の郷比定地を仮に差し引いてみても、古代「鹿島郷」は能登島を含めかなり広い地域が想定できると思われるのです。そしてその中心の「七尾南湾の南岸」を「鹿島浦」と呼び、港津の部分を「鹿島津」と呼んだと考えるべきでしょう。その港津は、やはり「七尾港域に河口を開く主な河川に桜川・御祓川・大谷川がある」、そのどれかの河口付近とするのが問題の焦点と思われます。(21)

c 「鹿島神社」はどこか。

そこで問題は七尾港域の何処にあったかですが、そのためには「鹿島神社」がどこにあったのかを問う必要があります。「鹿島」の地名は、「鹿島神社」ないしは鹿島の神を祀る場があるから生じたものと言われていますから、どこかに「鹿島神社」がなくてはならないはずです。

従来の説の中では、穴水町の甲神社を「鹿島神社」とする説などがありましたが、「鹿島神社」を捜したのは正しいとしても、国津「鹿島津」の位置としては到底あり得ない位置です。

表では、7から13までが中世「鹿島郡」内の神社ですが、7も港津でもありません。位置としても同様に妥当ではありません。残念ながら、この中には「鹿島津」に対応する「鹿島神社」はありません。

私は、小丸山に鎮座していた気多本宮(能登生国玉比古神社)がそれにあたるだろうと考えています。

この気多本宮は、前田利家が小丸山に城を築いた時、村人共々明神野(めじの)に移され、今日に到っています。そして、前田氏は町の名を「所口」と変えています。

地形的に考えると、前面の港の背後の小山は、全国の「鹿島」地名では「鹿島山」にあたると考えられます。残念ながらここにその地名はありませんが、かってそう呼ばれたことがあってもおかしくない地形です。もともとは円山と呼ばれたものを、小丸山・愛宕山・屋敷山・西光寺山の四山に切り割りして城を築いたものといいます。この愛宕山に気多本宮がありました。気多本宮が鹿島神社ならば、その前面の港が「鹿島津」になります。

気多本宮社務所発行「気多本宮略縁起」は、祭神は「大己貴命 素戔嗚命 奇稲田姫命」で、「鹿島大神」も「武甕槌命」もありません。「上古より天正年間まで現在の小丸山(小丸山 愛宕山)一帯を境内地として鎮座」してきたとあります。ところがそこには、「上代には能登の国造 加島の国造が奉祀する能登の鎮護の大神と仰がれてきた」とあるのです。

ここで「能登の国造」と並んで「加島の国造」が出てくることに注目すべきです。「加島の国造」は「鹿島の国造」です。「くにのみやつこ」であり、律令制以前の在地首長、律令制下では祭祀を司ったとされています。能登の古代豪族といえば、能登臣氏と羽咋公氏が知られていますが、「鹿島の国造」もいたのだとすると地名と話が適合します。

羽咋には能登一宮気多神社(祭神 大己貴命)があり、これにたいする気多本宮を称するわけですが、3月の平国祭(オイデ祭)は本宮に神が行幸する一大行事になっています。これをさきの貞享2年「気多社御縁起」では、「毎年二月ニ鹿嶋ノ翁ノ社ニ御幸成ケリ」と述べています。なお、神(ここでは、神仏習合の関係で王子と表現している)は能登島から「鹿島浦」に着いて、その所を「所口」というともあり、羽咋の気多神社の伝承としては「鹿島浦」や「鹿嶋の翁の社」の伝承が近世初めにはしっかり伝わっていたことがわかります。さらに、宝暦10年の「気多大社由来」においても「気多太神宮」「気比大神」と並んで、「鹿島能登両太神」との表現まであります(22)。

考古学的には、これまでも小島町から「室町時代の臨海小運河とその附属施設」とされる土器や遺構が出土していましたが、新たに小島西遺跡から大量の祭具が出土しています。『新修七尾市史』では、ここ桜川河口付近の小さな入り江となっていた汀に、8世紀後半から9世紀中ごろを中心に斎串や人形など1,000点 を超える古代木製祭具が出てきたとし、「古墳時代の中期の5世紀後半頃水辺の祭場となっており」、「以後も水にかかわる儀礼が連綿と続けられ、奈良時代末期からはケガレや悪霊を流し去る大規模な『祓戸』へと変っていった」といいます。そして、「小島西遺跡の祓や祭祀を担った在地有力者もまた、指呼の間にあったと推定される香嶋津の管理に少なからず関わっていたのではなかろうか。」と述べています(23)。発掘報告書は、「祭祀の規模と継続性から判断して、能登国府あるいは香嶋津に付随する祭祀場であったと推定される」ともっとすっきり言っています(24)。

私も、小島西遺跡は端的に「鹿島津」の祭祀場と言うべきだと思います。そして、従来も小島町を含めた地域に「鹿島津」を比定する意見はありましたが、むしろ気多本宮の旧社地を中心とする港湾一帯を「鹿島津」とすべきであると考えます。小島西遺跡が「水辺の祭場」であり、奈良時代末期には「ケガレや悪霊を流し去る大規模な『祓戸』」になったというのは、「鹿島送り」など各地の鹿島信仰と共通しています。まさに、鹿島大神の神祭りであったろうと思われます。

d 「鹿島神社」は消されてきた。

それならば、なぜ鹿島神社ではないのかという問題が出て来ます。

気多本宮は、羽咋の神社がそうであるように祭神は大己貴命を中心とした出雲の神です。しかし近世には「気多本宮」につけて「能登生国玉比古神社」を名のっていました。つまり大己貴命とともに能登国の「生国玉比古神」、国魂神を祭っていることを示しています。

「気多神社古縁起」は「人王八代孝元天皇御宇、北国越中之北嶋魔王化鳥而害国土之人民不少、又到渡海之舟船亦為害止通路、又其時節、鹿嶋路湖水之大蛇出現而害人不可勝計、国中人民及悩愁、地裡昆蟲当致苦患、当此時大己貴尊引具三百余神末社之眷属而來降于当国、殺彼化鳥與大虵、故国中之民唱太平、海上之船謂能登、依之越中之国分四郡号能登国、尒已来此南陽之浦垂跡、天下国家君民之守護神也」

(25)といい、「北嶋魔王の化鳥」と「鹿嶋路湖水の大蛇」が人々を困らせていたので、大己貴が三百余神を引き連れて退治し、そのため天下が太平になり守護神となったと言っています。ここでいう「北嶋魔王の化鳥」と「鹿嶋路湖水の大蛇」は、邪悪なものにされていますが、土地の神々を表していると考えられます。

気多社の縁起、気多本宮の縁起など表現はいろいろ異なるところもありますが、大きくは化鳥(大鷲)と大蛇が在地の神を表し、これが制圧されて、出雲大神大己貴命が能登国の守護神となったという経過になっているのです。大鷲は「鷲蔵(へくら 舳倉)大明神」だというものもあります。そうすると「鹿嶋路湖水の大蛇」は龍蛇神の「鹿島大神」を示すものかもしれません。征服された神は、大己貴の陰に隠れて祀られることになるのです。

表向きから「鹿島神社」が隠され、やがて「鹿島津」も「鹿島郷」も消されていったのではないかと思われます。近世には一時「鹿島郡」もなくなりかけました。一体なぜかと思いますが、全国的に「鹿島」地名と「鹿島神社」には、こうした傾向があることが徐々に分かってきたのが実情です。

そこでもう一つの、大きな問題があります。

「加島津は、斉明朝には北方遠征の基地となり、能登立国以降は、能登国の国津として重要な役割を果たした。」(26)といわれてきました。この後半は良いとして、前半の「北方遠征の基地」が本当にそうなのかという問題です。

その具体的な根拠は、『日本書紀』斉明天皇6年(660)3月条において、阿倍比羅夫の蝦夷征討に能登臣馬見龍が従軍して、戦死したことなどわずかな事実だけです。能登臣馬見龍が能登の豪族として、能登の軍勢を引き連れて従軍したこと、出発に当たって「鹿島津」を拠点としであろうことは推測できますが、蝦夷征討の基地としてどれだけの役割を果たしたか。(27)

古代の戦争に神祭りは欠かせないものであり、霊戦、神々の戦いという面を持つものです。大和国家が「鹿島津」を征夷の基地とするのならば、「鹿島神社」武甕槌命はなくてはならない神社と神のはずです。「鹿島神社」を出さずに、それを制圧した出雲大神大己貴命をまつる「気多神社」「気多本宮」ではつじつまが合っていません。『古事記』『日本書紀』によれば武甕槌命が経津主命とともに出雲大神大己貴命を服属させているはずですが、ここでは話が逆になります。「鹿島津」に大己貴命を主神とする気多本宮を祀り、羽咋の気多神社が延喜式内の大社、能登国一宮にもなって重要視されていきますが、「鹿島津」は消されていきます。これは一体どういうことなのかということです。

私は、能登の「鹿島」地名と「鹿島神社」を調べて、ここに最大の問題があると思いました。能登には、「鹿島津」「鹿島郷」「鹿島郡」の地名がありながら、「鹿島神社」が8世紀以降地名に対応して祀られていないことです。むしろ「鹿島神社」は表面から消され、やがて地名も消されてきたのが能登の歴史の実情です。

では、この「鹿島」とはなにものなのでしょうか。まだ十分答えられない問題ですが、すくなくとも全国の「鹿島」地名と「鹿島神社」の実際の有り様からすると、「征夷の神」と言うのは大分怪しくなってきたとは言えそうです。

(4) 穴水町の「鹿島村」と「鹿島神社」

鳳珠郡(旧鳳至郡)穴水町鹿島は、初見は天文元年(1532)の史料に「かしま」とあり、近世には「鹿島村」の地名があり(28)、村の中を「鹿島川」が流れています。鹿島のはずれにのと鉄道七尾線の能登鹿島駅があり、桜のトンネルで知られています。

「鹿島川」の地名は、地名一覧の方では取り上げましたが、いつからの地名であるか明確でなかったので今回はあげていません。しかし全国の地名を見ると「鹿島川」はかなりあり、水の神として重要な地名かもしれないと思っています。

『角川日本地名大辞典』は、「地名の由来は、常陸国鹿島神社を勧請した鹿島神社の社号にちなむという(能登志徴)。同社付近には『つくねんさま』と呼ばれる大石があり、『万葉集』巻16に『かしまねの机の島・・・』と見える(鹿島神社縁起)。西部の山中にタタラ製鉄跡があり、穴水城主長氏の刀鍛冶がいたという伝承がある。」と説明しています(29)。同書の穴水町の箇所では、さらに「出先の森に『万葉集』記載の香島津縁起を伝える鹿島神社がある。」とも言います。(30)

『穴水の歴史』では、穴水付近を「香島津?」とする「家持順路想像図」まで描かれていて、海べの「つくねん様」と称されている大石、今では木が生い茂り小さな陸継島となっているところに鹿島神社があります。近くには要石(ようせき)という岩礁があり、丁寧なことに「しただみが50~60このせられています。」と同書写真の説明があります。(31)

この話の根拠は『鹿島神宮御縁起』(東四柳文書)が正式な名前のようですが(32)、長谷部神社の博物館でも「ない、表に出していない」ということで、現地に行っても確認できませんでした。『穴水の歴史』の引用史料などから推測すると、江戸時代の幕末以降に作成されたものではないかと思われますが、いずれにしても穴水付近に国津の「鹿島津」を持って行こうというのが無理な話です。

『神社明細帳』は、「当社ヨリ道程一里ヲ距テ、嶽ノ御前ト云フ所ニ本社ノ舊址アリテ、村民之ヲ大名持像石神社ナリト通称ス。其ノ今ノ社地ニ移転シタル年月不祥。」とあります。したがって現在の鹿島神社は古くからのものではなく、もと「嶽ノ御前」という所にあり、村民は大名持像石神社と呼んでいるといいます。

「鹿島」地名ですから「鹿島神社」が本来存在したと思われますが、ここでもまた「大名持」=大己貴命にどこかで変化してしまったものと思われます。材料がないため推測するしかありません。しかし穴水までは古代能登郡、中世鹿島郡の範囲に入っています。西南の羽咋郡との境には「鹿島路」があります。中枢部の古代「鹿島郷」を考えると、古い段階ではかなり広範囲な「鹿島」地域の意識があったのではと思われます。『常陸国風土記』では「香島国」つまり「鹿島国」がありましたから、ここでもそうした可能性があるのではないかと思うのです。

能登はまだまだ調べることがたくさんありそうです。ここでは古墳に触れませんでしたが、当然古墳時代との関連がいろいろ考えられます。しかしこれは今後の課題にしておきます。

(5) 北加賀の「鹿島神社」

a 「18 加嶋明神」について

加賀では金沢市内の神社が7社もあり、「鹿島」地名のないところですから驚きました。

鳴和町の鹿島神社は、正徳2年(1712)が初見で「加嶋明神 談議所村」とありますが、文政11年(1828)の史料では「鹿島社 祭神武甕槌命 談議所村鎮座産神」(33)、明治以降は鹿島神社、祭神は「武甕槌大神」としているものもあります(34)。

『角川日本地名大辞典』では、「鳴和」「鳴和滝」の項に「地名は地内の鹿島神社境内にある義経・弁慶ゆかりの鳴和の滝にちなむ」とあります。滝は、謡曲「安宅」で名高く、「源義経が山伏姿で奥羽落ちする時、勧進帳の舞台で知られる弁慶の忠謀の深さに感激した関守富樫がその後を追って来て酒宴をしたと伝え」、一行が休んだ場所といいます(35)。ちょっとした名所であり、大正時代には「茶店及び浴湯ありて休憩に便ず」などとあります(36)。しかし今では、細い水がわずかに流れている程度のさびしいところで、その脇に鹿島神社がありますが、神社は新しく、祀りごとがしっかり続いているように思われました。ただこれでは、滝のゆかりと鹿島神社はつながっていません。

旧地名の「談議所」は、「近所に春日の社有之。往古は七堂伽藍の神宮寺有之。境内にて毎日談議有之。夫故其地を談議所村と申由申伝候」とあり、近所にある春日神社の神宮寺がかっては七堂伽藍を備えた大寺であって、其の境内の談議所が村名となったというものです(37)。こちらは春日神社です。

地図を見ると、卯辰山の一山が春日山とよばれ、近くに春日町、神宮寺の地名もあります。春日神社は鳴和町の隣の山の上町にあり、明治になって小坂神社と改称したようです。小坂神社の祭神は、饒速日命と武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比咩大神の春日四神です。

この小坂神社(春日神社)の享保5年5月「小坂神社由緒」には、興味深い話が出ています。

そこでは、「元正天皇養老元年、越大徳神融法師(泰澄大師是也)白山山上の後に忽然として一老翁に遇奉る。老翁示して曰、自茲東北に当りて一の泉あり、是五穀豊饒を可得の霊泉也。」と霊泉の話から始まります。老翁は天児屋根命を名乗り、この教えで泰澄は「飛泉の湧出る所」を見出し、民を催して開墾し、民はために「神祠を建て神田御神と崇奉る」といいます。初めは「神田社」であったとあります。その後天児屋根命は、「神護景雲二年和州春日野に影向して春日大明神と申奉る。当社も御神体相同きが故に、後世通じて此社をも春日と称し来れるの名也。」といいます。(38)

神護景雲2年(768)は、鹿島大神武甕槌命が大和国春日に遷って春日神社が創設された年と言われています。ここでは御神体が同じなので春日を称したありますが、武甕槌命と天児屋根命を取り違えているようです。天児屋根は中臣(藤原)氏の氏神ですから、それならばもともと春日社なり、その本拠の平岡社を名のっていれば良かったのですが、そうではなかったのです。

『角川日本地名大辞典』によると、「創建年代は不明であるが、摂関家領(のち二条家領)小坂荘の総鎮守として大和の春日神を勧請したと伝えられ、通称を『春日さん』という。『延喜式』神名帳記載の神田神社は当社であるともいう。中世になって、たびたび兵火を受け社殿・縁起・記録などを焼失し、・・・寛永13年に現在地に再興された」(39)とあります。小坂荘と春日社は鎌倉期以降はっきりしていますが、古代が分からなくなっているのが実情です。

「小坂神社由緒」にもどると、後半で霊泉の名が「延年滝」とあり、これはまた義経弁慶にちなんで「鳴和賀滝」と名づけたともあります。「鳴和の滝」であり、「談議所離宮、奉号武雄社」ともあります(40)。ここでは「離宮」になっていますが、滝、「飛泉の湧出る所」が「神祠」のあるところとするのが大事です。また「武雄社」としたともありますが、「武雄社」は表の16に二俣村のものがありますように、祭神は武甕槌命です。つまり現在の鹿島神社を指しています。

小坂は古代においては小坂郷であり、小坂古墳群など遺跡が集中し、律令期に加賀郡の「郡領氏族となった道君(みちのきみ 道公)の本拠地と目される」とされています(41)。道氏はさらに石川平野に進出し、白山麓に味知郷を形成するとも考えられています。白山はこの味知郷にあり、神主は上道氏の一族が担っていきます。式内社の味知神社は、所在不明ですが、祭神は武甕槌命の説もあります。道氏が、白山と鹿島神社武甕槌命に関係していることは注目すべきことと思われますが、度重なる戦火によって大変分かりにくくなっていることも事実です。

b 「19 味知神社」「24 味知郷神社」について

「19 味知神社」は北安江町にあり、現在は安江八幡宮と称しています。祭神は住吉三神と武甕槌命ですが、延喜式内社味知神社の説明もありますので、隠しているわけではなさそうです。

しかし、文政11年11月「上安江郷八幡宮・下安江郷味知神社両社神主の書出」によると、「延喜式内味知神社 祭神武甕槌命」とあり、相殿に「底筒男命・中筒男命・表筒男命」の住吉三神が祀られています。表に出すものが逆転してしまったというわけです。やはり、式内社の主張にもかかわらず否定されてきたことが影響しているのでしょうか。

詳しいことが分かりませんが、ここでは式内社の主張よりは、小坂の近くにあって祭神武甕槌命の味知神社があることが重要だと思います。

同様に白山市福留の「24 味知郷神社」の問題も見ておきます。

『神社明細帳』によると、祭神は「白山姫神、天照皇大神、武甕槌命、春日四柱神」、明治40年5月神明社、春日社、白山社を合祀して味知郷神社と改称したといいます。これは古来の名称ではありませんが、武甕槌命がダブっていますので、一つは何処の武甕槌命か、となります。

『石川郡誌』は神明社について、「往古味知神社と称したりといへども・・・社記に依れば、この神明社は、加賀国石川郡味知郷山島組四十二ヶ村の総社にして、字味知の森と称する森林中に鎮座し、殿宇頗る宏大なりしが・・・」、その後廃社再興、流失遷座などして今日に到ったといいます。また別のか所で、「福留の北端を味智森と唱ふ。・・・石川郡旧村地髙帳に味智渡と見え、味智森は味智渡邑の旧地にして、此邑は明暦寛文の比猶存せりといへり。」といいます。(42)

「味智渡」が武甕槌命にふさわしいものと思われ、この伝承に信憑性を感じたのですが、これも古代の石川郡内ではないとされて式内社としては否定されています。しかしながら、これも上と同様、式内社かどうかよりは「味知神社」であるということが重要な気がします。

またこの近くには、源兵島町の「25 武甕槌神社」、内方新保町の武甕槌神社、さらに手取川扇状地の上流部に行くと地名の「〈9〉鹿島田」「〈10〉鹿島刈」もあり、逆に下流部海岸近くには「〈11〉鹿島村」「〈12〉鹿島境」もあり、「23 鹿嶋神社」があります。地名と神社が、やや集中しているところでもあります。

源兵島町の「25 武甕槌神社」は、『神社誌』『神社明細帳』によると「往古春日島と称する地に、武甕槌大神を奉祀して春日大明神と称え、神田神領も有したと伝える。」とあり、木曽義仲の軍勢が渡河する伝承を記載しています。祭神は武甕槌一神ですが春日大明神と称えたとあり、aの話に似ています。

内方新保町の神社は、祭神が春日四神ですが、明治13年に春日社を武甕槌神社と改称したといいます。ここは春日社の方がふさわしいと思いますが、何か地元に違う伝承があるのかもしれません。なお「26 春日神社」「27 春日社」も祭神は武甕槌命一神だけですから、鹿島神社あるいは武甕槌神社と称した方が良さそうですがそうなっていません。

今のところはこれ以上のことはわかりませんが、道氏と味知神社、春日神社と鹿島神社の問題は今後とも注意していく必要があります。

c 鹿島町の「23 鹿嶋神社」について

現在の地名は「鹿島町」「鹿島平」です。明治の初めまでは「鹿島村」、これに関連して「鹿島道」「鹿島境」の地名があり、ひとかたまりになっていると言えます。そして鹿島町にりっぱな「鹿嶋神社」があります。

「地名の由来は氏神の鹿島明神にちなむ」といいますが、『蝶屋の歴史 集落・資料編』は疑問を呈しています。というのは、主祭神は「伊弉那岐、伊弉那美、菊理媛命」、由緒沿革は「もとは白山社と称したが、明治11年に鹿島神社と改称し」たとあります。古くは「観音堂」「鹿島村十一面観音」とも記されていたといいます(43)。『神社明細帳』は祭神不詳、創立年月不祥としています。

しかし、『天文日記』天文15年5月24日に「加州加島宝殊房」が初見とあり、以下「鹿嶋」を名のる人物が登場するようです。近世には村名は鹿島村となります(44)。地名があり、それを名のる人物が居た、しかし神社と祭神などは混乱しているというわけです。

『加賀志徴』は、「今は社家・社僧もなく、祭礼の時は柏野の山伏青蓮寺来りて神楽をなすのみ。今は神号も失ひて、千手観音を安置す。」とあります(45)。これは明治の話です。

柏野の青蓮寺は、天台宗白林山青蓮寺。「境内広大樹木繁茂せる大寺なりしといふ。寛政年間類焼・・・規模衰退す。・・・明治維新の際廃寺・・・」とあり、「往時此の地は楢柏野と唱ふる曠原にして、膳臣の裔孫なる道の公の氏族住せる所たりしが」とあります(46)。ここでまた「道の公」が出て来ました。「山伏青蓮寺」はこの寺を継承した人物が居たものと思われますが、これ以上は分かりません。

直接のつながりも不明ですが、「道の公」(47)の伝承がある周辺に「鹿島」地名と鹿島神社や武甕槌神社が分布していることだけは分かりました。そして「鹿島」信仰の痕跡が歴史の過程でかなり徹底して壊されてきたことも分かりました。

(6) 南加賀の「鹿島神社」

地名は、加賀市塩屋町の2地名ですが、1ヵ所です。しかし神社が意外に多く出て来たという感じがします。能美市が2ヵ所、小松市が4ヵ所、加賀市が5ヵ所あります。特に『加賀江沼志稿』から江沼郡の6ヵ所もが出て来たのは驚きました。しかもいずれも「鹿島社」を名のっています。

これは一体どういうことかと思いながら、文献調査をし、現地も回ってみましたが、簡単に答えが見つかるわけがありません。

ここでは、「土俗毘沙門ト云」が3ヵ所もあります。青森県などでは明治になって毘沙門天を鹿島神社としたのだという説明がされていました。ここは弘化元年(1844)の史料ですから事情は異なるのではないかと思われます。むしろ毘沙門堂に鹿島神社が併設されていた可能性がありますが、今のところ確かめられていません。

加賀市塩屋町の「36 加嶋社」は、地名「〈14〉鹿嶋」「〈15〉鹿嶋山」に関係した神社ですが、当時の塩屋村イノ1番地の八幡社に明治40年2月合祀されています。

現在は地名は「鹿島の森」と称され、島の頂上には武甕槌命を祀る鹿島神社(堀切明神)があります。『塩屋町史』によると、昔は島の頂上に天台宗の霊場があったが、それを大聖寺藩6代藩主前田利治が万法院という日蓮宗の道場に改め、七面大明神を勧請、あわせて鹿島明神を祀っていた、しかし明治になり廃寺となった、その後鹿島の社殿も取り壊し、八幡に合祀した、それを昭和4年に大本教の出口日出麿が鹿島に参拝のおり神社の再建を村長に話し、翌年再建され、八幡に合祀されていた御神体と出口日出麿鎮めの霊石を祀ったということです。(48)

近世までは「加嶋寺」という呼称もあったようです(49)が、とにかく鹿島明神の祀りは続いています。

問題は地名ではないかと思われます。やはり『塩屋町史』によると、「古くは『加賀島』と書かれているが、それが『加島』から『鹿島』になった」とあります。(50)

「加賀島」の根拠は、『大乗院寺社雑事記』文明12年(1480)条にある興福寺の庄園「河口ノ庄・坪江ノ庄付近図」の「カゝシマ」と思われますが、雑な略図に「細呂木下方」があり、「海」の中に「カゝシマ」と書かれているものです。これは「鹿島」を示していると考えられますが、人名などはともかく他に「カゝシマ」の地名の史料は見当たりません。「鹿島」は「海」の中ではなく「湖」の中ですから、正確とはとても言えない地図です。(51)

『角川日本地名大辞典』は、「『反古裏書』に『加州加島』とあるのが初見」としています(52)。『反古裏書』は浄土真宗8世蓮如の孫の書いたもの、永禄11年(1568)成立のものです。

実は「鹿島」の目と鼻の先に、蓮如ゆかりの吉崎御坊があります。現代の地図で言うと、福井県に吉崎は属し、「鹿島」は石川県ですから、近くにあるとは承知していましたが、実際に行ってみると一体のものというべき位置にあります。そしてこの吉崎御坊に関する文献、絵図などに「鹿島」に関するものが豊富に出て来ます。

まずは「文明五年八月二日 蓮如書之」の賛がある「吉崎御坊絵図。文明5年(1473)に描かれた照西寺(滋賀県多賀町)蔵絵図の写本」、これには右上部に「鹿嶋」が描かれています(53)。『福井県史』にも同じ絵図からの写本を載せていて、原本と共に「戦国期の原像を今に伝える最古の地図」と評価していますが、この図には「鹿嶋社二ウアリ」とあります(54)。

「吉崎御坊蓮如上人記念館」には、近世後期の「蓮如上人絵伝」が展示されていました。その第二幅最初が「一六、月夜の晩、吉崎御山から 鹿島の森を眺む」蓮如が描かれています。そして蓮如の歌として、「鹿島山 とまり鴉の声きけば 今日も暮れぬと 告げわたるなり」が伝わっていると説明していました。(55)

吉崎御坊は、蓮如が比叡山延暦寺の迫害を避けて、文明3年(1471)から文明7年(1475)まで5年間布教の拠点とした地であり、この布教によって北陸に大きく教線が拡がり、やがて一向一揆につながっていきました。浄土真宗の歴史ばかりではなく、大きく戦国時代史を揺り動かすきっかけになった地ともいえます。

蓮如は、この地を「要害モヨク、スクレテオモシロキ」と表現しました(56)が、何が「スクレテオモシロキ」なのかが問題です。

「記念館」のチラシ「蓮如上人七不思議」の一つに、「七 白鹿の道案内」があります。「京から吉崎に向かわれた蓮如上人御一行が道に迷われました。その時一匹の大鹿が現れ、吉崎の御山へ導きました。そこには白髪の老人が座っていて『ここに御坊をお建てなさい』と告げて消えました。鹿島明神の化身であったといいます。」別な資料にも「民話 鹿の案内」があり、最後に「鹿島明神さまとはどんなおかたでござりますか。」と問われ、蓮如が答えています。「そうじゃ、親鸞聖人さまが関東稲田の御坊でご教化のおり、かみそりを受け、法名を信海と申されたと伝えきいているじゃがの」と(57)。伝説の話ですから、事実とは多少違います。しかし、親鸞が常陸国稲田に庵を結び、鹿島(神宮寺と社)に通って、『教行信証』を著し、初期の門徒に鹿島の神官らがいて鹿島門徒と呼ばれた事実はあります。この鹿島神社の神の使いが鹿であり、大和春日神社の鹿は鹿島から遷ったのだといわれています。

井上鋭夫『本願寺』では、「とくに重視すべきは鹿島明神の鹿に誘導されて吉崎にいたったという伝説で、吉崎入江の真ん中にある鹿島はその明神灯が灯台の役割を果たしていたと考えられるが、ここには蓮如の子光闡坊蓮誓が住しており、これも吉崎占定の要素と考えねばならない。」と言っています。(58)

私も、北陸から関東東北へと思いを馳せた蓮如が、この地で「鹿島」を眺めた時、宗祖親鸞に熱い想いを寄せないはずはないと思いました。その媒介となったのが、鹿と鹿島明神であったろうと思われ、そうした思いが伝説を生み出したのだと思います。

地名に戻ると、文明年間の明確な地名の記載はありませんが、近世に伝わったこれらの記録から蓮如の段階で、「かしま」は「カゝシマ」「加島」ではなく、鹿と鹿島明神の話からはっきり「鹿島」という地名の認識があったと考えられます。

なお、塩屋町には「シャシャムシャ踊り」(加賀市指定文化財)という盆踊りがあり、別名を「蓮如踊り」というとあります。蓮如が鹿の案内で吉崎御坊の地に入ろうとした時、「笹のムシャムシャのところをかき分けて御山へあがられたので、このような名がつけられた。その笹をかき分ける身ぶりが踊りの振り付けになったと伝承されている。」といいます。歌詞がいくつか載っていますので、鹿島に関したものを紹介します。(59)

鹿島山から水戸口見れば 出船 入船 ほかけ船

加賀の鹿島にとまらぬ鳥は ふくら雀か うぐいすか

鹿嶋向いの 弁財天見れば 余の木はないわの 松ばかり

あいに出られず くだりに曇る とかく鹿島の根につなぐ

塩屋も吉崎も天然の良港として栄えたはずです。港の繁栄がうかがわれると共に、歓楽街の存在がうかがわれます。『加賀江沼志稿』には、「鹿嶋 竹浦入江中ニ在、頗佳景也。男女随時集会、或愉楽帰、或耽楽忘帰。常燕楽之地、納涼最佳也。」(60)とあり、景色も良いが、男女が随時集まり、楽しみ極まり帰るを忘れるほどの地であり、「常に燕楽の地」であるとあります。ふと「歌垣」を連想しました。何か古い歴史を感じさせますが、残念ながらさらに遡る史料はありません。

(7) おわりに

インターネット上の「地震まっちゃ」「自由地図」を使って、石川県・富山県・新潟県「北陸3県分布図」を作ってみました。Googleマップに分布図が作れるソフトです。赤四角は地名、青丸は神社で、大字のレベルで表示していますから厳密性に欠けると言えば欠けるかもしませんが、おおよその分布状態が分かります。

地名と神社の重なっているところを表示しようと、四角と丸にしたのですが、保存してみたら赤四角しか表示されなくなっていました。新潟県の3地点と石川県の加賀市塩屋町の鹿島の森が重なっています。これは今後の改善点です。

これを見ると、石川県は地名がわりあい多く残っていることがはっきり分かります。そしてその地名に鹿島神社がほとんど残っていないことも良く分かります。

その代表の一つが、能登の「鹿島郷」「鹿島津」「鹿島郡」「鹿島根」などの古い鹿島地名の密集地です。ここでは気多本宮を鹿島神社であったとし、鹿島が蔽われてきた歴史があることを示しました。しかし、「能登郡」「能登臣氏」との関係がまだ充分示すことができていません。古墳との関係も大きな課題になっています。しかし少なくとも、従来の能登の歴史とは異なる見通しが出来てきたと思われます。

現在、地名に鹿島神社がしっかり残っているかのようなところもありましたが、調べてみると、神社が長い歴史経過の中であいまいになっているところもありました。

加賀では、道氏と味知神社が大きな問題になってきました。私は、吉備国上道氏との関係を疑っています。上道郡には最も古い鹿島地名の「蚊島田」があり、新羅・加羅などとの関係が深いところが似ています。白山信仰は新羅・高句麗などとのつながりがあります。出羽の俘囚道氏というのも、興味深い存在です。

南加賀の「鹿島神社」はまだ調査不足かもしれません。史料がなくて簡単には分からないのは当然のことですから、じっくりと今後断片を捜していくほかはないと思っています。

以 上

石川県の鹿島神社

神社名 所  在  地

()内は現在の地名

祭神 備考 出典 歴博
1 珠洲神社

高座宮

珠洲郡三崎村字寺家

(珠洲市三崎町寺家)

瓊々杵命・A・他4 県社 明細帳
2 本宮神社 同上 無格社 明治43年珠洲神社に合祀 明細帳
3 本内神社 鳳至郡本郷村字本内

(輪島市門前町本内)

石長姫命

A・B

村社

もとうち

明細帳
4 猿橋神社 鳳至郡櫛比村字猿橋

(輪島市門前町猿橋)

石長姫

A・B

村社 明細帳
5 三像神社 羽咋郡稗造村字阿川

(羽咋郡志賀町阿川)

少彦名命・A 村社

あこう

明細帳
6 大山祇

神社

羽咋郡稗造村字尊保

(羽咋郡志賀町尊保)

そんぽ 明細帳
7 鹿島神社 鳳至郡穴水町字鹿島

(鳳珠郡穴水町鹿島)

村社

「嶽の御前」に旧址

明細帳 1196
8 河崎社 鹿島郡豊川村字河崎

(七尾市中島町河崎)

武美加津智命 村社

古昔河崎将軍社

明細帳
9 嵜山社 鹿島郡豊川村

(七尾市中島町崎山)

武美加津智命 村社 明細帳
10 鹿  島

神社

鹿島郡北大呑村(七尾市庵町大神宮谷地) 経津主大神 無格社

旧家高橋家守護神

明細帳
11 上澤野

神社

鹿島郡東湊村

(七尾市沢野町松尾)

味鉏髙彦根命

BA他1

村社 鹿島郡誌は

武甕龍神

明細帳
12 伊須流岐

比古神社

鹿島郡越路村字石動山(鹿島郡中能登町) 伊弉諾尊・B・A

他85神

郷社 明細帳
13 能登神明

神社

鹿島郡越路村字徳前(鹿島郡中能登町) 彦狭島命・B・A

他7神

村社

もと能登河中明神

明細帳
14 菅原神社

相殿

羽咋郡南邑知村(羽咋郡宝達志水町菅原) 応神天皇・A 県社

往昔菅原寺

明細帳
15 二柱神社 羽咋郡釶打村字北免田(宝達志水町免田) AB天照大神

他1

村社

もと大将軍社

明細帳
16 武雄社 河北郡二俣村

(金沢市二俣町)

A・天手力雄命 産神

現医王山神社

神社録
17 多聞天 河北郡卯辰村

(金沢市卯辰町)

髙皇産霊尊・A

他2

産神

現宇多須神社

神社録
18 加  嶋

明神

河北郡談議所村

(金沢市鳴和町)

産神 鳴和滝

現鹿島神社

正徳

書上帳

19 味  知

神社

石川郡下安江村

(金沢市北安江町)

式内社 相殿住吉三神 現住吉神社 神社録
20 八幡宮 相殿 石川郡鍛冶町

(金沢市此花町)

A他3 現安江八幡宮 神社録
21 豊田白山

神社

金沢市三社町一番地 菊理姫・A・ 応神 村社

養老2年勧請

明細帳
22 鹿島之社 石川郡金沢野町

(金沢市千日町)

野町神明宮境内社

香取之社もある

神社録
23 鹿  嶋

神社

石川郡蝶屋村字鹿嶋

(白山市鹿島町)

祭神不詳 村社 明細帳
24 味知郷

神社

石川郡福留村字福留

(白山市福留町)

A・春日四神・他2 村社 明治40年春日社など合祀改称 明細帳
25 武甕槌

神社

石川郡比楽島村字源兵衛島(白山市源兵島町) 武甕槌大神 村社

義仲軍祈願

明細帳
26 春日神社 能美郡根上町道林町

(能美市道林町)

無格社 神社誌
27 春日社 (小松市新大工町) 鎮守兎橋神社

末社

文政書上
28 石清水社 能美郡在方 湯谷村

(能美市湯谷町)

文政書上
29 摩利子天 小松三日市領

(小松市三日市町)

AB他1 神社録
30 鹿島社 能美郡小松町上本折町(小松市上本折町) 県社多太神社摂末

春日もある

明細帳
31 鹿嶋社 江沼郡下村・縁其村

(小松市滝ヶ原)

しもむら・えんく両村鎮守 江沼志稿
32 鹿嶋社 江沼郡東谷口村字水田丸(加賀市水田丸町) A・他3 土俗毘沙門薬師

トモ云

江沼志稿 1195
33 鹿嶋社 江沼郡津波倉村

(加賀市津波倉町)

土俗毘沙門ト云 明治40桑原社合祀 江沼志稿
34 鹿嶋社 江沼郡日谷村

(加賀市日谷町)

土俗毘沙門ト云 江沼志稿
35 鹿嶋社 府城在山ノ下

(加賀市大聖寺神明町)

神明社末社6社の内 現在はない 江沼志稿
36 加嶋社 江沼郡塩屋村

(加賀市塩屋町)

加嶋寺  明治40村社八幡社に合祀 明細帳

*表の説明

1番左は、表の通し番号。

「神社名」は出典の神社名。

「所在地」も出典の所在地名を記し、( )内は現在の地名を記した。

「祭神」は、Aが「武甕槌命」、Bが「経津主命」。空欄は特に祭神が記されていなかったものである。

「備考」は、出典の他に『角川日本地名大辞典 17石川県』(角川書店)、『日本歴史地名大系 17石川県の地名』(平凡社)、吉田東伍『増補大日本地名辞書 第5巻 北国・東国』(冨山房)、『県別マップル道路地図 石川県』(昭文社)、『式内調査報告 第17巻』(皇學館大学出版部)、県史・ 市町村史などを参考にし、注目すべき点を記した。

「出典」は、「明細帳」は国立国語研究所所蔵『石川県神社明細帳』、今回はこれが基本になっている。

「神社録」は、「加賀国神社録」文政11年のもの(『金沢市史 資料編13寺社』所収)、

「正徳書上帳」は、「正徳弐年 村々社堂宮支配之義書上申帳」の河北郡(『金沢市史 資料編13寺社』所収)、

「文政書上」は、文政七年の社号書上帳(『新修小松市史 資料編9』所収)

「江沼志稿」は、『加賀江沼志稿』(弘化元年)(『加賀市史 資料編第一巻』)

1番右の欄「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号であるが、2か所しかない。

(1)『角川日本地名大辞典 17石川県』(角川書店 1981年7月)361頁「源兵島」の項

(2)『石川県神社誌』は(石川県神社庁 1976年10月)、『石川県神社明細帳』は国立国語研究所蔵の「明治13年進達控」のもの。

(3)『書府太郎 石川県大百科事典』上下巻(北国新聞社 2004年11月~2005年4月)

(4)「全国『鹿島』地名一覧」を若干訂正した。穴水町鹿島の「鹿島川」、白山市「鹿島平」、塩屋町「鹿島の森」を新しい地名とみて除き、新たに〈1〉〈6〉〈9〉〈14〉〈15〉を入れた。

(5)『新修七尾市史2 古代中世編』(2003年3月)19、21、33頁

(6)『萬葉集 四』(岩波書店 新日本古典文学大系4 2003年10月)174頁

(7)「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」7参照。神社は、現在の調査では山形県に1社あったが、事情は不明。

(8)『新修七尾市史2 古代中世編』(2003年3月)78~79頁

(9) 同上83~85頁

(10)『気多神社文献集』(石川県図書館協会 1930年10月)134、138頁

(11)『神道大系 神社編三十三 若狭・越前・加賀・能登国』(神道大系編纂会 1987年12月)360、362

(12)『角川日本地名大辞典 17石川県』(角川書店 1981年7月)246頁

(13)同上791頁、『図説 石川県の歴史』(河出書房新社 1988年12月)123頁など。

(14)『七尾市史』(1974年3月)74頁

(15)『石川県鹿島郡誌』(1929年6月)498頁

(16)『新修七尾市史14 通史編1』(2011年3月)142~3頁

(17)『新修七尾市史2 古代中世編』79頁「解説」

(18)「全国『鹿島』地名の分類と二、三の特徴」参照

(19)『角川日本地名大辞典 17石川県』692~4頁

(20)『鎌倉遺文』第五巻「二八二八 能登國田數注文」

(21)橋本澄夫「七、八世紀代における能登鹿嶋津の歴史的意義」(石川考古学研究会『北陸の考古学』第26号 1983年3月)636~7頁、なおここでは、「国衙推定値を流域におさめる大谷川の河口周辺だった可能性が強いと考えている」と述べている。

(22)『気多神社文献集』171頁

(23『新修七尾市史14 通史編1』73頁、129頁

(24『七尾市 小島西遺跡』(石川県教育委員会・(財)石川県埋蔵文化財センター 2008年3月)「報告書抄録」の「要約」

(25)『神道大系 神社編三十三 若狭・越前・加賀・能登国』351頁

(26) 『新修七尾市史14 通史編1』145頁、

(27) 橋本澄夫前掲論文、橋本は史料の乏しい中、古墳などの分析を通じて「七世紀中ごろの鹿嶋津は、東北遠征に向けての軍港の性格を強め、能登臣馬見竜が編成し自から指揮をとった能登水軍の根拠港ともなった」と述べている。しかし古墳や遺跡の情況がそれを裏付けているとはとうてい言えていないのではないか。

(28)『能登志徴 巻六』下編(石川県図書館協会 1938年9月)7頁

(29)『角川日本地名大辞典 17石川県』245頁

(30)同上1247頁

(31)『穴水の歴史』(穴水町社会科研究部 1963年7月)

(32)『穴水町の集落誌』(穴水町教育委員会 1992年12月)

(33)『金沢市史 資料編13寺社』568頁

(34)『石川県河北郡誌』160頁、『石川県神社誌』50頁

(35)『角川日本地名大辞典 17石川県』665頁

(36)『石川県河北郡誌』465頁

(37)『角川日本地名大辞典 17石川県』563頁

(38)「小坂庄春日神社縁起」(『神道大系 神社編三十三 若狭・越前・加賀・能登国』「加賀諸神社縁起」)121頁

(39)『角川日本地名大辞典 17石川県』376頁

(40)「小坂庄春日神社縁起」122頁

(41)『角川日本地名大辞典 17石川県』375頁

(42)『石川県石川郡誌』(1927年3月 1970年3月復刻)614~6頁

(43)(鹿島町 2002年9月)136~9頁

(44)『角川日本地名大辞典 17石川県』245頁

(45)『加賀志徴 下編 巻八』47頁

(46)『石川県石川郡誌』629から30頁

(47)「道の公」氏に関しては、浅香年木「道氏に関する一試考」(『古代地域史の研究』法政大学出版局 1978年)、米沢康「江沼臣氏道君氏」(『北陸古代の政治と社会』法政大学出版局 1989年12月)を参照した。

(48)(塩屋町 1997年1月)128~9頁

(49)『金津町 吉崎の郷土誌』(金津町教育委員会 1999年2月)118頁所引の「朝倉始末記」など。

(50)『塩屋町史』『金津町 吉崎の郷土誌』もともに「カガシマ」説を主張している。

(51)『増補 続史料大成 大乗院寺社雑事記七』(臨川書店 1933年12月)180~1頁に別紙付図があり、地名は活字で表記されていて、本文に「細呂木ヨリ北ハ則加賀国也」の説明がある。正確には北東が加賀国になる。なお『よみがえる中世6 実像の戦国城下町 越前一乗谷』(平凡社 1990年6月)36頁に原本地図の見やすい大きさの地図が載っている。

(52)『角川日本地名大辞典 17石川県』244頁

(53)朝倉喜祐『吉崎御坊の歴史』(国書刊行会 1995年9月)グラビア

(54)『福井県史 通史編2 中世』(1994年3月)742頁

(55)財団法人本願寺維持財団 吉崎御坊蓮如上人記念館「平成二十六年春季特別展 絵伝にみる蓮如上人」

(56)蓮如「御文」文明五年九月日()

(57)朝倉喜祐『吉崎御坊の歴史』56~7頁

(58)(講談社学術文庫 2008年10月)172~3頁

(59)『加賀市の文化財』(加賀市教育委員会 2007年4月)83頁、「塩屋町のシャムシャム踊り」(『えぬのくに』第47号 江沼地方史研究会 2002年4月)15~9頁、なお歌詞の4番目のものは鹿島の森の入り口近くのぼんぼりに書かれていたものである。

(60)「加賀江沼志稿」(『加賀市史 資料編第一巻』 1975年4月)261頁

7 富山県の鹿島神社

7 富山県の鹿島神社

    (1) 調査について

 富山県の鹿島神社は、下の「表 富山県の鹿島神社」に見られるように11社ありました。

 国立歴史民俗博物館の「全国香取鹿島神社一覧表」(1)では4社でした。(ちなみに香取神社は0でしたが、私の調査でも見かけませんでした。)

 今回の調査も、全県を統一的に見渡すものとして『富山縣神社誌』(以下『神社誌』とする)(2)と『富山県神社明細帳』(以下『神社明細帳』とする)(3)を基本としました。

 『神社明細帳』は明治12年(1879)から作成され、昭和17年(1942)に完結したもので、第2次世界大戦後の訂正加筆もあるということですから、第2次世界大戦後の『神社誌』とあわせるとおよそ近代の神社合祀の経過などがわかります。

 富山県では、それに加えて近世の史料をかなり見ましたが、加賀藩前田氏の支配地域と支藩富山藩の支配地域とがややこしく、史料がそろっていなかったことから、調査が偏っているかもしれません。

 その中で、「正徳貳年九月射水郡堂営社人山伏持分并百姓持分相守り申候書上ケ申帳」(以下「正徳社号帳」とする)(4)と、「宝暦九年越中国砺波郡射水郡新川郡社家持宮神名村附拝命書上申扣」(以下「宝暦社号帳」とする)(4)と、『砺波市史資料編4』所収「正徳弐年九月砺波郡堂営社人山伏持分并百姓持分相守申品候書上ケ申帳」(以下「正徳社号帳」とする)、「寛政八年五月 砺波郡村々之内寺院并山伏神主等相雇祭礼相勤申宮併村方自分ニ相守候宮数相しらへ書上申帳」(以下「寛政書上申帳」とする)などからは、今は見られない鹿島神社をいくつか見つけることができました。

 また、宮永正運『越の下草』(5)、森田柿園『越中志徴』(6)、そして富山県でかなりタブー視されている文献、野崎雅明『肯搆泉達録』(文化12年1815完成)(7)と祖父野崎伝助『喚起泉達録』(享保14~15年ごろ)(8)からも有益な情報を得ることができました。

 

    (2) 地名について

  『角川日本地名大辞典 16富山県』(角川書店)は、「鹿島」「加島」地名を「かのしま」まで含めて5項目あげています。『日本歴史地名大系 16富山県の地名』(平凡社)の索引も、地名は同じもの5項目をあげ、鹿島社・鹿島神社を4社あげています。この4社は歴博のあげた4社と全く同一です。あわせて9項目ですから、新潟県などと比べるとかなり鹿島信仰の比重が大きいという印象を持ちます。

 『富山県大百科事典』(9)においても、鹿島神社は表の1朝日町宮崎と4富山市鹿島町の2社をあげ、朝日町宮崎の鹿島神社については祭礼の「鹿島神社稚児踊り」までとりあげています。地名は「鹿島槍ヶ岳」をあげ、神社と地名あわせて4項目となっていますから、鹿島神社が少ないわりには重視されているといえます。

 しかし実は、地名について調べていくと確実なものがほとんどなくなってしまいました。

 「鹿島槍ヶ岳」は、鹿島信仰にとって重要な地名と考えられますが、富山県では「後立山(うしろたてやま)」と呼び、長野県側に鹿島があり、鹿島大神が祀られていますので、長野県の地名と判断しました。

 高岡市の「加島新村」は、天保10年3ヵ村から各1字を取って1村にしたもの、滑川市の「加島町」は昭和27年2町の合併でつけた地名、富山市「鹿島町」は鹿島神社に因んだものですが、近世は「御用屋敷」と呼ばれ、明治になってから改称したもの。神社の位置も移動して本来の位置から移動しています。いずれも新しい地名です。

 私は、朝日町宮崎の「鹿島樹叢」を地名としてあげましたが、近世は「明神林」と称したもので、やはり明治以降の地名と見るほかありませんでした。地名表からは、訂正して削除したいと思います。

 残るのは南砺波市の「鹿島(かのしま)」だけです。しかし、ここの神社はもと神明社で、昭和3年に現在名の鹿島(かのしま)神社になったといいますから、鹿島信仰とは直接つながりません。ただ、地名伝承に鹿の伝承が深く関わっていますし、九州には「鹿島」を「しかしま」「しかのしま」とする地名が何ヶ所かありますので、今でも捨てがたい地名と考えています。後に、その伝承には触れます。

 

       (3) 朝日町宮崎の1鹿島社について

 富山県、越中国の鹿島神社11社を地図上に落としてみると、呉西の庄川筋に4箇所あるのを除くと、東から西へやや内陸部をほぼ一筋に連なり能登や加賀につながっていると見えます。古代の官道が海際を通っていますが、それよりも内陸側の別な道筋沿いになり、古代北陸道に全くつながらないというのも大きな特徴になるかもしれません。

 しかし東端のここの道筋だけは一致せざるを得ないのが、宮崎の地です。

 朝日町宮崎は、北アルプスの立山連峰などから続く山塊が日本海に落ちこみ、海と山が迫る急崖地域「親知らず」の西の端に当たっています。ここから、県境の境川を経て、青海までが海際を通る難所続きの地であり、その入り口に北限のシイやアカガシ等の暖帯林「鹿島樹叢」があります。したがって大変目立つ土地ですから、当然のように神祭りの地となります。私は、この周辺から新潟県糸魚川まで、縄文時代から古墳時代まで続くヒスイなどの玉造遺跡も、宮崎の神の祭りに関係するものと思っています。

 表1の1朝日町宮崎の鹿島社(現在は鹿島神社)は、その意味でも富山県において最も注目すべき鹿島神社といって良いものでしょう。

『宮崎村の歴史と生活』によると、

「宮崎という地名は、元来沖ノ島まで突出した岬であって、その突端に鹿島神社を祀ってから宮の崎といい、後に村名としたと伝える。今も海岸から沖10町余りには沖ノ島・中ノ島・辺ノ島の三島と附近には多くの岩礁が海中にも磯部にも点在している。年寄達の語るところによれば、この村の岬は年々波浪と沈降とによって汀線が急激に後退して島ができたという。」そしてこの三島の付近に「古泊」と呼ばれる所があり、「社も舟止めの明神」と呼ばれていたといいます。(10)

 宮崎の地名の由来と宮崎湊の伝承です。ここでは、岬の突端に鹿島神社を祀っていたから、宮崎の地名となったと言いますが、現在は、鹿島樹叢を背に負って海に向かう北面の社殿であり、拝殿が麓に、本殿は明神林中腹にあります。海から山に向かって祈る形になっています。

 森田柿園『越中志徴』は「郷村名義抄」を引いて、「此所昔年は宮数多有之由、依之宮崎村と申由申伝候と。」といい、鹿島神社だけではなく多くの宮、神々が祀られていたと言っています(11)。

 そして「延宝六年由来書」には「昔沖之嶋に御座候て、色々不思議有之を、猟師共見付、御詑宣承候へば、吾は坂東茗嶋より来、衆生利益のため也。」とあり、「此神社昔は宮崎大明神とのみ称したる故に、延宝六年の由来記にも、宮崎大明神と載せたり。然るを宝永元年旧跡調書に、鹿嶋大明神と申伝ふと見え、浅香久敬の道程記には、春日神とす。是皆後世の俗称にて、今も宮崎の鹿嶋明神と云ふ。」と述べ、鹿島神社の称が古来のものではないかのように言っています。

 森田柿園は、「越中・越後の境に寒原という難所あり」という「寒原」は「神原」であり、『養老令』の「北陸道神済以北」、『令義解』の「神済は越中與越後之界河也」の「かうのわたり」と同地名であり、『延喜式神名帳』の「新川郡神度神社」も「かんわたり」と読むべきであると述べ、この鹿島神社を式内社神度神社であると言うのです(12)。

 明治6年(1873)の鹿島神社宮司九里東太由『由緒書上申帳』では、

「私家者は宮崎村鎮座鹿嶋大神開闢已来、数十代神職ニ而相続仕来申候。」と述べ、同様の託宣は「我本坂東鹿嶋之分神也」となっています。そして、「方今、宮崎一村之産土神宮崎社、又之名祭神鹿嶋大神と称し候得共、往昔ハ前段申上候通り、三位郷惣社ニて、式内神度神社之由、申伝候。此旧記無御座候へ共、近辺越中越後ノ境川ノ古名ヲ神済川と称シ、神度・神済、同唱之由ニ御座候。」と、神社の主張としても式内社であると述べています(13)。

式内社神度神社の問題は後回しにしますが、まずは、鹿島神社がどこまで遡れるかでしょう。

  『朝日町誌』は、「前田藩初期は『宮崎観音』と呼称され、中期には『春日明神』と俗称され、末期には『鹿島社』と絵図に記されている。」とずいぶん引いた表現にしています(14)。

 しかし、浅香久敬の「春日明神」は、春日神社の第一神が鹿島の武甕槌命ですからしばしば鹿島と春日は混乱していることを踏まえると、特に問題にするまでもない記述です。下の表にも9春日神社があり、ここは祭神武甕槌命・天照大神・建御名方命の三神であり、いわゆる春日四神の天児屋根命と比売神、香取神社の経津主命の三神を欠いていてもなお春日神社を名乗っています。私が今まで調べてきた中には、いくつかそうした事例がありました。本来の春日神社は藤原氏の祖神ですから、枚方神社の天児屋根命と比売神を欠かせないはずで、鹿島をあえて春日というのは別の意図を疑うべきでしょう。

 森田柿園によれば、宝永元年(1704)の「旧跡調書」に「鹿島大明神と申伝ふ」とあるのですから、近世前期から鹿島神社といっても良いはずです。

 前田藩初期の「宮崎観音」は、前田藩作成の「越中全図」に「宮崎観音」と記されているというものですが、宮崎の地に観音と鹿島神社などが同居していても特に差し支えはありません。これも青森県、宮城県に類例がありました。現在の鹿島神社の相殿神に、白鬚大神、三面観音、建御名方命、大山祀命があるということですから、この地に観音も祀られ、他の神々も同居していてもおかしくないことです(15)。ただ残念ながら、近世初頭を遡っての鹿島神社の記録がないということです。

 私は、明治6年の『由緒書上申帳』に祭神「鹿嶋大神」と本来の祭神名が出ていることに注目します。武甕槌命になる前の祭神名ですから、宮崎に古い伝承がしっかり残っていると思われます。(16)

 『喚起泉達録』にも興味深い話が出ていました。

「越中宮嶽ニ鎮座マシマシテ宮嶽明神トモ塩老明神トモ崇奉ルナリ:宮嶽、今ハ宮崎ト書、明神ノ社宮崎山ノ北ノ范林ノ中ニ有、麓ヨリモ見ユル、是塩を守タマフ神也」

奥州塩釜神社の神塩土老翁が宮嶽明神、すなわち宮崎明神であるというのです。(17)

 『春日権現験記』は、鎌倉時代に藤原氏が春日明神の霊験を描いた絵巻物として有名ですが、その冒頭で、武甕槌命は初め塩釜に天降って、その後常陸国に移り、さらに大和国の御笠山に移ったのだと言っています。この伝承は従来、取るに足りないものとして無視されてきましたが、この宮崎においても、奥州塩釜の神と宮崎明神の関係が述べられています。北方とつながる宮崎明神、鹿島大神となるのでしょうか。(18)

 鹿島神社には多くの神像や仏像が安置されているといいます。その一つの男神像には「享禄□年六月廿九日・・・宮崎村藤大夫・・」とあり、16世紀前半のものであることがわかります(19)。これらのご神体については、

「夜になると七八丁沖に光るものが見える。不思議に思っていたやさき、百姓太夫の網に神像がかかってきた。勿体ないので村の氏神として祀ったという。能登から来られたのだといっている。それ以来能登から神使の鹿が何百頭となく群をなして年々鹿島の境内に泳ぎ着いたそうだ。村では今も鹿の角細工は絶対使わぬものにしている。」(20)

という、能登の鹿島津や鹿島郷などとのつながりがうかがわれ、そしてそこから神使の鹿が群をなして泳ぎ着くようになったという、これも鹿島に深く関わる伝承といえます。

 宮崎という地名は、初見は承久の乱における宮崎氏とのことですが(21)、源平の争乱に宮崎氏が越中を代表する武士として登場していますから、もう少し早くからあった地名として良いと思います。残念ながら、古代の文献で確認できないだけですが、地方の地名はほとんどがそうしたものです。古くから神の祭りが行われていたと思われる宮崎という地名が、神の祭りに関係ない地名であることは考えられません。

 ところで、『養老令』『令義解』の「神済」について触れると、森田柿園は「かうのわたり」としていましたが、「かんのわたり」「かみのわたり」とも読み、「神霊の支配し給う畏敬すべき渡り」の意味であるといいます。これは「神原」とともにこの「親知らず」の難所一帯を指したものというべきですが、『令義解』は「越中と越後の界河なり」として、これを大方は富山県と新潟県境の川、境川としています。おそらく境川のほとりで安全を祈る何らかの儀式が行われたからで、この時点では境川で良いのだろうと思います。

 米沢康は、これについて「神済は元来は親不知沖合の海路をさしていたが、後世陸上の境川をさすように変化した。」と述べ、重要な問題を指摘しました。そして、「海の渡り」の例を三つあげています。一つは「壱岐の渡り」、二つ目は「対馬の渡り」、三っつ目は、『万葉集』巻一三の3335番の歌。ここにも「神の渡り」が出て来ますが、米沢はこれをどこか不明と言っています(22)。

 『万葉集』3335は、ここから3343番まで「右九首」とまとめられている歌群です。そして、その二番目の3336には「鳥が音のかしまの海に」と出て来ます。原文は「所聞多尓」ですが、能登の鹿島嶺(かしまね)を「所聞多袮」と表記した例から同様に読むとしています。「かしまの海」が能登との関連で出ています。

 さらに異伝歌とされる3339は、「備後国神島の浜」で歌ったとして同じ「恐きや神の渡り」が出てくるのです。『万葉集』では神島を「かみしま」と読んでいますが、地名は「かしま」です。広島県福山市の神島(かしま)が、「北の神辺(かんなべ)平野まで入り込んでいた小湾で、今日のJR福塩線沿いに潮汐が出入りし、開口部の神島辺は難所であったといわれる。」と註記されています。(23)

 また、「鹿島」地名は「神島」からであるとする説の有力根拠地になっています(24)。

 このように海路の「神済」は、「鹿島」と密接な関係があることがわかります。宮崎の鹿島神社はかって岬の先にあって、海に向かって祈る場であったと思われますから、ちょうど符合します。

 境川のほとり、新潟県糸魚川市市振には、明治まで鹿島社という小社もありました。これを合祀した白鬚社では、祭の時に神輿とともに悪魔払いの獅子舞が出るということです。境の神として、鹿島大神が魔や邪気を払う獅子舞と思われます(25)。

 海と陸と境の神、「神済」、「渡りの神」「渡しの神」が鹿島に関係していることがわかりますが、残念なことに、ここ宮崎では、古代中世まで鹿島の神祭りが遡れるという明証はありません。状況証拠があるだけです。私は全国的な鹿島の事例を積み重ねて示していくほかないだろうと思っています。

 最後に式内社神度神社について触れておきます。

 神度神社を「かんわたり」と読んで、この鹿島神社にあてようというのはアイディアとしては優れたものかも知れません。しかし、「かんわたり」の読みは本来なさそうです。しかも鹿島神社に式内社の伝承が明治までないというのは根拠の乏しさを示します(26)。

 私は、式内社ではなかったと見るべきと思っています。大変重要な神社ですが、それ故に式内社にはならなかった事例はかなりあります。宮城県の盬竃神社がそうでした。富山県の立山を祀る雄山神社も『延喜式神名帳』の中では小社です。大伴家持が重視した二上山の二上神も式内社としては射水神社と称されています。私は、宮崎の鹿島神社も、『延喜式神名帳』にすっきりと位置づけられない、越中の土地の神のひとつと考えるべきだろうと思っています。

 

   (4) 富山市鹿島町の4鹿嶋神社について

 祭神は、『神社明細帳』では武甕槌命一神。

 『神社誌』によると、「創立由緒は天保年中に焼失し詳らかならずと雖も、当地開拓の桃山期に勧請、富山鎮護の樫葉明神と称され、当初は布瀬に鎮座されていた。その後佐々成政の鎮守(泉達録)となり、更に前田利次公入城の頃は現地磯部の地に杵築社、稲荷社と共に遷宮され、特に二代藩主正甫は産土神、病門除祈願所とされ、一時境内周辺に広大な磯部のお庭を造られ、殖産興業、分けても売薬の振興を祈願されるなどして、明治に至まで前田藩公累世尊崇され・・・」、また「雨降ってござった鹿嶋さんのまつり」と「往古より水の神としての信仰も厚い。」とあります。

 天保年間に焼失、昭和20年にも戦災で焼けて、史料はないようですが、断片的な伝承は大変興味深いものがあります。(27)

 まず、「樫葉明神」。

 富山城下の絵図で最も古い「万治年間富山旧市街図」1663年(寛文3)年頃成立のものに、「樫葉明神」とはっきり書かれています。「雨降ってござった」のはやし言葉も「かしわはんのまつり」と言っていたようです。ただしその後の絵図には鹿嶋明神になっていますから、「かしわ」「かしま」と同じ神社を指しています。

 地元の藤田さんという方が、「前から疑問に思っていた『カシワはん』について奥様に聞いてみた。」と、宮司の奥様に尋ねた話を書いています。「奥様は、『昔鹿島神社は神通川の近くにあり、むかしむかしこの神社の神様が神通川を《柏の葉》に乗って流されてきた』とゆう言い伝えがある。それがやがて《柏→カシワさん→カシワはん》と呼ばれるようになったのではないかと話して下さった」と書いています(28)。ここでは柏になっていますが、神通川と柏の葉がこの神様には深い関係があったようです。

 実は、全国の鹿島神社を調べてきましたが、柏との特別な関係がうかがわれる神社がいくつかありました。今回の富山の一覧表にも、11に現在は「柏葉神社」という鹿島神社を載せています。『神社明細帳』『神社誌』などすべて「柏神社」「柏葉神社」ですが、『越の下草』だけが「一 鹿嶋大明神 下向田村産神 往古、天降ノ霊像也ト云々。」としています(29)。建久年間(1190~1198)北条時頼回国の際、神体を柏の葉の上に捧げて一宇を建立したといいます。建久年間に時頼ではつじつまが合いませんが、柏の葉は神体を乗せて祭ったもので、神が何であるかはここにはありません。

 数年前、兵庫県高砂市の大きな鹿島神社にいきましたが、その参道のいくつかの店で、端午の節句でもないのに柏餅を売っていました。店で尋ねたところ、鹿島神社のゆかりのものということでした。その時は、それだけの話でしたが、富山の鹿島神社の話を聞いた後、宮城県の真野の鹿島御兒神社の話にであった時、これはただ事ではないと思いました。葛西氏が関東から東北へ船で下ってきて、真野に居館を造った時、その館の丑寅に鹿島古社を再興したましたが、当社を参詣すると三葉柏を鳥がくわえてきて神前に落としたので、葛西家の家紋としたとされています。実際葛西氏の家紋になっています(30)。

 群馬県上日野では、平重盛の後裔が小柏村に蟄居し、小柏に改姓、鹿島神社を創建したといい、ここの神楽は「カサカッパ」といい、お祭りに奉納すると良く雨が降るといわれたといいます。ここでは柏と共に、雨を降らせる神まで似ています。(31)

 これらを見ると、「かしわ」と「かしま」はただの語呂合わせではなく、もう少し深い関係がありそうに思われます。雨の神、レイン・メーカーとしての面も含めて、もっと事例を集める必要がありそうです。

 また、布瀬から磯部に移ったと言われていますが、布瀬は対岸の婦負郡有沢村との間に神通川の船渡し場があったとあり、渡し場の神であったようです。

 中世の富山を良く表しているという『富山之記』によると、富山城の西の搦め手磯部口は「神通大河洪々漫々深不知涯際、逆浪遠漲、急流如矢・・・天下大将軍成此河水神、則是西門守護神也。名大将軍淵。」とあり、「西門の守護神として大将軍という道教の神を祭ってゐたので、その辺の川を大将軍淵と名づけたとある。」と解説されています。富山の城下町については「上者金屋渡、下者鼬河迄一里之間」とあり、「金屋の渡り」から「イタチ川」までの一里をいい、入り口が「金屋の渡り」であったようです。(32)

 この時鹿島神社が祀られていたかは不明ですが、後にはこの渡しに祭られていたわけです。「富山鎮護の樫葉明神」といわれていたことから、この渡しの神の可能性は高いと思っています。

 これもまた追々指摘していきますが、各地で渡し場の神鹿島神社がみられ、地名表には採用しませんでしたが、「鹿島橋」の地名もいくつかありました。水の神、川の神と言うべきですが、もっと限定すれば「渡しの神」「渡りの神」です。

 なお、前記藤田勇信さんの報告には、古風な鹿島のお祭り風景を記しています。

 「先頭は烏帽子に狩衣姿の天狗の面を後前に冠り、大きな薙刀もった人が露払い、その後に赤と黒の二組の獅子がそれぞれ二人の人で笛や太鼓に合わせて獅子舞をする。一軒一軒短い獅子舞だが舞踊るのである。

 そして少し遅れて御所車に神様を乗せた(神輿)が十人程のひとたちに引かれてやってきた。そして神主さんが数人手分けして一軒一軒祝詞(ノリト)あげて回られるのである。なんとご丁寧なお祭り風景である。」(33)

 神輿を引くのも、白衣に烏帽子の「与丁姿」、これも古風です。大変貴重な記録であり、この獅子舞も悪魔払いの獅子舞と思われます。

 

 

   (5) 舟橋村の3鹿嶋大明神について

 中新川郡舟橋村東芦原の3鹿嶋大明神は、富山県において明確に古代創建の伝承をもつただ一つの鹿島神社になります。

『神社誌』は、「創立は安和年間なりと伝承する。往古安和の頃当里の農家僅に数戸あって芦竹の荒野を開墾して田地を拓らき耕作する。追次人戸増加し茲に一村を結び、里人協議して鹿嶋大神、稲荷大神を産土神と斎祀らんと」し、本社を建立したとあります。(34)

 安和年間は968~970年頃、稲荷大神も古いわけですが、合祀したのは昭和初年になってからです。村は、10世紀後半頃開墾し、ようやく発展していったとあります。

 舟橋村周辺は、富山県の古代としては注目すべきことが二つあります。(35)

 一つは白岩川流域古墳群の存在です。その最初の巨大な墳墓は、舟橋村の竹内天神堂古墳で全長38.4m、4世紀中頃の前方後方墳です。この後方部に神明社の社殿があります。そして、その後若王子塚古墳(円墳46m)、稚児塚古墳(円墳46m)など相次いで成立しています。富山では古い古墳群ですが、被葬者などは全くわかっていません。新しい『舟橋村史』で藤田富士夫が、能登の雨の宮1号墳(全長64m)との関係を指摘し、この古墳群の重要性を説明しています。また、周辺から、弥生から古墳時代にかけての集落遺跡がかなり発掘されています。

 もう一つは、8世紀になってからの東大寺領庄園大藪庄の比定地になっていることです。やはり藤田が新『舟橋村史』において主張していますが、ほぼ舟橋村の中心部がそれに当てられています。藤田はこの地域の遺跡推移を通覧していて、「おおむね8世紀中頃~9世紀初頭にかけての資料が目立っている。・・・9世紀中頃には人々の足跡が薄れてしまっている。実際に大藪庄では開拓が低迷している。次に遺跡が復活するのは9世紀後半~10世紀前半の頃である。」と言っています。

 鹿嶋大明神が祀られた安和年間は、ちょうどこの大藪庄が衰退した後のことになります。そして鹿嶋大明神は藤田の比定した大藪庄の西南端近くにあたります。しかし、古墳とは時代が離れすぎですし、大藪庄との関係も特にはなさそうです。こうした経過だけでは、なぜここに鹿嶋神社が祀られたのかはわからないのが実情です。

 私は、舟橋村草創の伝承にヒントがあるのではと思っています。

 前の『舟橋村史』では、

 景行天皇28年に武内宿祢がやってきて、ここ新川郡三辺(みなべ)に3男の藤津(ふじつ)を残した。藤津はここに家を作り人を集めて開拓した。「今でもこの地方において農夫の昼寝をする風習があるが、藤津が教えたものと伝えられている。やがて藤津が病にかかり世を去った。郷民は之を貴び神として祀り武弟(たけおと)神社と称した。三辺は後武内の郷と称したと言われている。現在の竹内の神明社は立派な前方後円墳(現在は前方後方墳―引用者)であるので、郷民に敬慕された藤津の古墳ではないかととも思われ、その神は元の武弟神社であろう。農民九郎左衛門は藤津の後裔として、此の地(竹内)にとどまるとあるが詳細は不明である。武内神明社前苑の石像仏は、この藤津神を仏像化したものと住民に信ぜられている。」

とあります。(36)

 藤田富士夫はこれについては、「この伝承は江戸時代中頃に富山藩士の野崎伝助が書いた『喚起泉達録』に依っていて、舟橋村の地名などを基に創作されている可能性がある。」として全面否定をしています。(37)

 しかし私は、そうではなく、野崎伝助『喚起泉達録』とその孫雅明『肯搆先達録』には近世の村や神社などの伝承がかなり集められていると考えています。

  『肯搆先達録』には、「藤津の後、竹内村の農民九郎右衛門なりといへり。後ち大野左京と号す。また布市村社家山内美作もその類葉なりといふ。」とあります(38)。九郎左衛門と九郎右衛門の違いがありますが、何か伝承を伝えた家が残っていたようです。

 もっと注目すべきことは、呉西の南砺市鹿島(かのしま)の地名伝承がこれと同じような伝承であることです。

 砺波市老人クラブ連合会の『砺波市の地名』では、

「大昔に阿彦なる者あり。人々畏服する。後一族のイツ彦はトナミの地に残党多数導き、土地を耕すこと幾十年なりきという。その子伊夫岐、農を興し、ハタツモノ、タナツモノを作り、人々安住す。その後宿祢の子藤津(武弟)農を教う。宿祢去るとき、武弟をこの地に留まることとす。年19才なりしが108才で死す。後父のイツ彦を偲ぶため、父のヲスヒを埋めて墓とした。これを鹿塚と称し、今も存す。また御恩の藤津を敬慕して・・・鹿塚の近くに祠を建て、武弟神宮(フジツジングウ)と称してきた。・・・なお33代推古女帝の頃、伊夫岐のの末孫、次而子(ツギノイラツコ)なる人が藤津社の神鹿の大角を献上した。この角は17本の枝あり、この老神鹿の死後、先につくられた塚に埋めて、塔を立て鹿塚と呼び、この地一帯をカノシマと称した。

 鹿島には往昔一の杜あり。其の付近に数多くの鹿群集し、村民深く之を愛す。当時未だ米作の道開けず、たまたま鹿が何処よりか稻苗を咥え来て、沼辺にて斃す。村民試みに之を沼に植えしに、秋に及び見事に豊熟せり。之本村に稲収穫の元始なり(他にも説あり)。」

とあります。(39)

 なおこのもとの話には、宿祢の子藤津(武弟 フジツ)は、「新川の三辺(舟橋村竹内)で農を教う。宿祢去るとき武弟をこの地にとどまることとす・・・藤津、伊夫岐を三辺に召し稲作を教う。藤津は伊夫岐の精農を賞して美乃武の名を与えられる。美乃武(美乃部)その地に三年いたが郷里にもどり稲作につとむ。」この伊夫岐(美乃武)が鹿塚と藤津神宮を建てたといいます。(40) 

  名前がいろいろ出て来て、いささかわかりにくいのですが、鹿塚と藤津神宮などの鹿伝承が鹿島(かのしま)の地名の起源となっていることがわかります。そしてこの藤津が、舟橋村の藤津と同一であることもわかります。地名としては、鹿島(かのしま)の近辺には他に、「鹿島江(かのしまえ)」「鹿尾島(しかおじま)」「鹿島道(かのしまみち)」などもあります。

 砺波市鹿島(かのしま)には、鹿の伝承がこれだけあるのですが、鹿島(かしま)神社はありません。

 一方、舟橋村には鹿島神社はありますが、時代が少し下ります。しかもこの鹿島神社は、藤津の話との接点もありません。竹内天神堂古墳と村の起こりに藤津が関係しているだけです。

 しかし、東大寺領庄園大藪庄の「開田地図」を見ていて、驚きました。北辺近くに、「鹿墓社」というのが記されています(41)。これはいったいどのようなものかはわかりません。現在は八幡神社が建っているあたりと思われますが、それらしいものは何もありません。ただ砺波市鹿島(かのしま)の鹿塚に似ている名前が気になるところであり、藤津を祀ったといわれる竹内天神堂古墳と近いところにあるのも共通していると思われます。

古墳などの遺跡がこの地域一帯に豊富であり、古代においてかなり栄えていた地域と思われますし、富山県においては最も重要な立山信仰の足下の地域でありながら、歴史的に明確なものがあまりないような気がします。興味深い伝承もありながら、もう一つつ話がながっていかないもどかしさがあります。

 

(6) その他の鹿島神社について

  富山県の鹿島神社として、私は11社をあげましたが、そのほとんどが何故ここにあるのかわかるものがありません。古社であっても、さしたる由緒が伝わっていない神社が多く、由緒不明なまま消えていった神社もいくつかあります。

 魚津市吉島の2「建石勝(たていわかつ)神社」、祭神は武甕槌命、延喜式内社です。したがって、延喜式の完成した927年には存在していた神社となります。約1キロ離れたところに旧社地があり、「立石(たていわ)林」と呼ばれて大きな石があり、その「石根が龍宮まで通ぜり」とあります。鹿島神社の要石に似ていますが、祭神が同じという以上のことはわかりません。(42)

 氷見市白川の8「楯鉾神社」は、『富山県史』に「富山の式外社」として出ていたものです。祭神は、常陸の鹿島神宮・下総の香取神宮の祭神、武甕槌命と経津主命の2神となっています。

 『三代実録』に神階昇叙が3回出ていますが、延喜式内社にはなぜかなっていません。

 「貞観6年(864)3月己酉、越中国正六位上楯鉾神に従五位下を授ける。

   貞観13年(871)11月壬午、越中国従五位下楯鉾神に従五位上を授ける。

  元慶6年(882)10月戊申、越中国従五位上楯鉾神に正五位上を授ける。」

とあり、この楯鉾神が近世の記録では、「太刀鉾」、「立岡権現」と変化したものと考えられています。(43)

 『神社誌』では、白川の神社は現在八幡社であり、この「由緒沿革」の中に「境外末社に楯鉾神社がある。」とあって、「楯鉾神社は『三代実録』に貞観6年3月23日越中国楯鉾神従五位下と記されている。」とあるだけです。正五位上まで昇ったことに触れていないのは不可解で、ずいぶん冷ややかな扱いをしています。(44)

 貞観から元慶までの9世紀後半の扱い方と比べて、延喜式内社にならなかったことから始まり今日の位置付けの冷遇は、祭神を鹿島・香取としたのは新しいものでしょうから、楯鉾神の本来の性格によるものではと思われます。

 貞観から元慶までの9世紀後半は、貞観5年の越中越後の大地震、6年の富士山大噴火、11年陸奥国大地震、元慶2年関東諸国大地震と天変地異が続く中、元慶2年には出羽の俘囚の反乱が起こります。楯鉾神だけでなく越中の神々の神階昇叙は貞観年間に「特に頻繁に行われた」といわれていますが、こうした天変地異と蝦夷・俘囚の動向に大きく関係しているのではないかと思われます。

 射水郡島村(氷見市島尾)の7「鹿嶋」は、『正徳社号帳』には「八幡、諏訪、神明、鹿嶋」と出ていますが、『宝暦社号帳』や『文政社号帳』にはもう出ていません。ここでは島村産神は、「八幡、神明、神明、諏訪」とあって、「鹿嶋」は「神明」になってしまったようです。そして『神社明細帳』や『神社誌』では、氷見市島尾地区は「神明社」1社になっています。明治になって島地区と尾崎地区が合併して島尾となり、昭和2年に八幡と諏訪が神明に合祀されて現在の姿になったとのことです。7「鹿嶋」は18世紀の半ばには「神明」になったのか、消えてしまった神社です。(45)

 庄川流域の4社もよくわからないままになっています。

 東藤平蔵の5「鹿島神社」は現存の神社ですが、『神社誌』に「大永年間常陸国、鹿島神宮の分霊を勧請創建せり、・・・」などとあるだけです。(46)

 『宝暦社号帳』には「鹿嶋大明神 上籐平蔵村産神」とありますが、『正徳社号帳』等には見えません。

 石瀬(いしぜ)の6「鹿島宮」も、『正徳社号帳』に出ているだけです。

 春日吉江村の10「鹿嶋明神」は『寛政書上帳』に「春日大明神、鹿嶋明神、諏訪」となっていますが、それより古い『正徳社号帳』には「春日大明神、神明、八幡」になっています、そして『戸出町史』の一覧表では「村社春日神社(春日大明神) 祭神天児屋根命・武甕槌命」「神明社 祭神天照皇大神」「八幡 諏訪社 祭神建御名方命」となっていて、「八幡」と「諏訪」が合祀されていますから、結局『寛政書上帳』の「鹿嶋明神」だけがどこかに消えてしまっているようです(47)。「春日神社」の「武甕槌命」に合体させられてしまった可能性もあります。もともとは「春日神社」とは別の「鹿嶋明神」がありながら、混交して整理されたものかも知れません。

 また由緒としては、「貞観10年(868)秋、大和国奈良の住人吉江定明が鹿を伴って当地にやって来たところ、鹿が病死した。定明は神のお告げによってこの地に居を定め、禅衣中に守護してきた一尺二寸の阿弥陀如来と春日大明神を祠を建てて祀った。・・・鹿の因縁から、この社へ年々四方の山々より数頭の鹿が参詣したといわれ、大正初期まで実際に鹿を見かけた住民が多かったという。」とあり、鹿の由緒を伝えています(48)。

 ここでは奈良から来たとしていますが、奈良の鹿ももともと鹿島から行ったことになっていますので、春日、鹿島は混交していると見た方が良いと思っています。

  東宮森9「春日神社」は、『神社誌』によると祭神「武甕槌命、天照大神、建御名方命」の3神です(49)。「天照大神」は「神明社」、「建御名方命」は「諏訪社」ですから「春日神社」には直接かかわりません。「春日神社」は普通春日4神の「武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神」で、鹿島と香取を遷座して藤原氏の祖神「天児屋根命、比売神」と共に4座として祀ったのですから、鹿島神社のバリエイションとして私は考えています。したがってこの東宮森9「春日神社」は、「武甕槌命」だけで「春日」を名乗っているという不思議な神社になります。

「由緒不祥」ですから、やむを得ないものがありますが、「鹿島神社」を名乗る方が自然です。この混交は、なぜ「春日神社」が作られたのかに係わりますから、これからも注意していく必要が大いにあります。

 

         (7) おわりに

 富山県の鹿島神社はあまり多くなかったのですが、「渡りの神」「渡しの神」という性格がはっきりと出て来ました。水の神、祈雨の神という性格も、柏のつながりも指摘できました。まだ全国的な調査は不十分ですが、各地で同様な性格がうかがわれる鹿島神社を見出しています。

  最後に私は、一覧表にない神、二上山(ふたがみやま)の二上神に触れておこうと思います。

 二上山は高岡市と氷見市の境にある山で、標高273m、東峰と西峯があります。この山が神体山で、山すそに今は二上射水神社があります。祭神は二上神。「貞観元年(859)1月27日に越中国の最高位である正三位になるまで(三代実録)、六国史などに6回登場する。だが以後二上神の名称は途絶え、「延喜式」神名帳には代わって射水神社が射水郡13座の筆頭に記されることになる。」その後明治に一時廃絶となり、射水神社が移転した後、地元住民の希望により、旧社地に二上射水神社が置かれたといいます。(50)

 二上神と射水神社は本来別な神ですが、どうやら摂社の「悪王子社」こそが二上神ではないかとされ、本地は毘沙門天、正体は大蛇で行基が封じたという話と大蜘蛛で俵の藤太が封じたという話があるとのことです。(51)

 言うまでもなく、奈良県にも二上山があり、香芝市二上山博物館が平成22年(2010)度に「越中と大和ふたつの二上山」という特別展を行って共通性を探っていました(52)。

 奈良の二上山は雄岳(標高517m)と雌岳(標高474.2m)に別れ、「古代の人々はこの2峰を男女2神に見立て、『二神山』と呼んだ」、信仰の山です。大津皇子の墓の伝承から後世間違ったイメージがあるような感がありますが、地元の人には雨乞いの山、あるいは4月の「岳のぼり」の行事の山として親しまれています。(53)

 この雄岳には葛城二上神社が鎮座し、祭神は豊布都霊神(武甕槌命)が祀られています。雌岳は神蛇大王(龍王)を祀る社があったといいます。これは富山県の二上山とかなり共通性があります。武甕槌命は本地毘沙門天とされることが多く、蛇神も共通しています。

 もともと『常陸国風土記』「香島郡」の条に、唐突な感じで、崇神天皇が鹿島大神に幣を奉納した話があり、それに関連して大坂山の頂で神の託宣があり、それが鹿島大神の託宣であったとありました。この大坂山の頂を註は「奈良県香芝市付近の二上山穴虫越あたりという。」としています。(54)

 『常陸国風土記』を読んだときには、何故ここに鹿島の大神が現れ託宣するのかわからなかったのですが、ようやく話がつながってきました。

 しかし、この話は奈良県の二上山で深めたいと思っています。今のところは富山県の二上山では、鹿島信仰につながるものがあまり見えませんので、これ以上の深入りは避けておきます。

 わかったことは、富山県の二上神が『延喜式』神名帳から抜けていることです。

 『万葉集』の編者といわれる大伴家持は8世紀の中頃越中守として、能登と越中を併せたこの時点での越中国に赴任して歌を多く残しました。この家持が、最も敬意を込めて越中を代表する神山として、特に「皇神(すめがみ)」と詠んだ山が、立山と二上山でした。しかし二上神は、『延喜式』以降射水神社になってしまいました。そういえば立山の雄山神社も、『延喜式』神名帳においてもあまり大きな扱いを受けていません。ここにも『延喜式』神名帳の政治的な性格がわかるような事例がありそうです。

 

表 富山県の鹿島神社

 

神社名

所在地  

()内は現在の地名

祭神

備考

出典

歴博

1

鹿島社

下新川郡宮崎村宮崎

字角地 (朝日町宮崎)

A

沖ノ島に降臨 

舟止の明神 

神社

明細帳

1193

2

建石勝

神社

下新川郡加積村吉島

(魚津市吉島)

A

式内社 

旧社地字立石

神社誌

 

3

鹿 嶋

大明神

上新川郡東芦原村等入会地

(中新川郡舟橋村東芦原)

A

安和年間968

~970創建 

宝暦

社号帳

1194

4

鹿 嶋

神社

上新川郡鹿島町

(富山市鹿島町)

A

かしわ明神 

舟渡し場          

神社

明細帳

1191

5

鹿 嶋

大明神

射水郡土塚村東藤平蔵

字中口(高岡市東藤平蔵)

A

大永年間勧請

宝暦

社号帳

1192

6

鹿島宮

射水郡石瀬村

(高岡市石瀬)

 

 

 

正徳

社号帳

 

7

鹿嶋

射水郡嶋村

(氷見市島尾)

 

宝暦には神明社になる

正徳

社号帳

 

8

楯 鉾

神社

(氷見市白川)

AB

『三代実録』の

楯鉾神

富山県史

 

9

春 日

神社

砺波市東宮森

(砺波市高波)

A他2 

天児屋根命等春日3神ない

神社誌

 

10

鹿 嶋

明神

砺波郡春日吉江村

(高岡市戸出春日)

 

春日大明神も

あり

寛政

書上帳

 

11

鹿 嶋

大明神

砺波郡下向田村

(高岡市福岡町下向田)

 

現柏葉神社

越の下草

 

 

*表の説明

 1番左は、表の通し番号。

 「神社名」は出典の神社名。

 「所在地」も出典の所在地名を記し、( )内は現在の地名を記した。

 「祭神」は、Aが「武甕槌命」、Bが「経津主命」。空欄は特に祭神が記されていなかったものである。

 「備考」は、主に参考になることがらを記した。

 「出典」は、「神社明細帳」は富山県立図書館所蔵の写本『富山県神社明細帳』、

「神社誌」は富山縣神社庁『富山縣神社誌』(1983年11月)、

「宝暦社号帳」は富山県立図書館所蔵の写本「宝暦九年越中国砺波郡射水郡新川郡社家持宮神名村附拝命書上申扣」で「宝暦社号帳」と通称しているもの、

「正徳社号帳」は同館所蔵写本「正徳貳年九月砺波郡・射水郡堂営社人山伏持分并百姓持分相守り申候書上ケ申帳」で「正徳社号帳」と通称しているもの、

「富山県史」は『富山県史 通史編Ⅰ 原始・古代』、

「寛政書上帳」は『砺波市史 資料編4』所収「寛政八年五月 砺波郡村々之内寺院并山伏神主等相雇祭礼相勤申宮併村方自分ニ相守候宮数相しらへ書上申帳」のこと、

「越の下草」は宮永正運『越の下草』(北国出版社 1980年8月)。

「備考」欄は、いつも通り『角川日本地名大辞典 16富山県』(角川書店)、『日本歴史地名大系 16富山県の地名』(平凡社)、吉田東伍『増補大日本地名辞書 第5巻 北国・東国』(冨山房)、『県別マップル道路地図 富山県』(昭文社)、『式内調査報告 第17巻』(皇學館大学出版部)、県史・市町村史等を出来る限り参考にし、注目すべきことを記した。

 1番右の欄「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。

 

 

(1) 国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)

(2) 富山県神社庁『富山縣神社誌』(1983年11月)

(3) 富山県立図書館所蔵『富山県神社明細帳』コピー写本(原本は、1879(明治12)年7月 ~1942(昭和17)年11月6日完結)

(4) 富山県立図書館蔵のコピー写本

(5) 復刻版 北国出版社 1980年8月

(6) 復刻版 富山新聞社 1973年5月

(7) 富山郷土史会校注 KNB興産株式会社出版 1974年11月

(8) 浅見和彦監修・棚元理一訳著・藤田富士夫編著『喚起泉達録の世界ーもう一つの越中旧事記ー』雄山閣 2014年2月

(9) 北日本新聞社 1994年8月

(10)宮崎村史編纂委員会編『宮崎村の歴史と生活―舟と石垣の村―』(1954年8月)324~5頁

(11)復刻版(富山新聞社 1973年5月)723頁

(12)同724~5頁

(13)「明治6年10月九里東太由 由緒書上帳」『朝日町誌 歴史編』(1984年8月)94頁

(14)『朝日町誌 歴史編』241頁

(15)『式内社調査報告 第17巻』(皇學館大学出版部 1985年2月)653頁

(16)『常陸国風土記』では「香島の天の大神」とあり、これを私は全国の地名とこれまでの神社名から本来は「鹿島の天の大神」すなわち「鹿島大神」と判断しています。「武甕槌命」の初見は『古語拾遺』ですから「9世紀以降からの祭神名」(大和岩雄「鹿島神宮」『日本の神々11』2000年7月)と考えられます。

(17)『喚起泉達録の世界ーもう一つの越中旧事記ー』80頁

(18)「5 宮城県の鹿島神社」の「2 ?竃神社」の項参照

(19)『式内社調査報告 第17巻』655頁

(20)『朝日町誌 歴史編』333頁

(21)『角川日本地名大辞典 16富山県』844頁

(22)米沢康「神済考」「神済をめぐる史的環境」(『北陸古代の政治と社会』法政大学出版会1989年12月)

(23)『萬葉集③』(『新編日本古典文学全集8』小学館 1995年12月)447~8頁

(24)久信田喜一「古代常陸国鹿嶋郡鹿嶋郷について」(『茨城県立歴史館報24』1997年3月)18~9頁引用の『旧地考』の説。

(25)『新潟県神社明細帳』の市振村「鹿嶌社」「白鬚社」の項。『新潟県史 資料編22』764、828、928  頁

(26)『式内社調査報告 第17巻』652~3頁

(27)『富山県神社誌』22頁

(28)藤田勇信「鹿島神社(カシワはん) 鹿島町」(『私の小さな旅 富山市の寺社巡拝』2004年11月)

(29)宮永正運『越の下草』(北国出版社 1980年8月)238頁

(30)「5 宮城県の鹿島神社」の「4 三つの『鹿島御兒神社』」の項参照

(31)『日本歴史地名大系 10群馬県の地名』345頁、『藤岡市史 民俗編 下巻』544頁

(32)山田孝雄編『富山之記』6~7、9頁

(33)藤田勇信「鹿島神社(カシワはん) 鹿島町」176頁

(34)『富山県神社誌』238頁

(35)『舟橋村史』(2016年5月)「第一章先史・古代」

(36)『舟橋村史』(1963年10月)3頁

(37)『舟橋村史』(2016年5月)36頁、ただし藤田富士夫は『喚起泉達録の世界―もう一つの越中旧事記―』の編者の一人であるので、被葬者名について根拠がないと言っているだけです。

(38)『肯搆泉達録』31頁

(39) 砺波市老人クラブ連合会『砺波市の地名―郷土の字・由来調査事業報告書―』(1993年6月)51頁

(40) 水野哲郎『ふるさと誌』(1986年12月)227~8頁、(39)はこれを要約したものと思われます。

(41)『舟橋村史』(2016年5月)頁

(42)『式内社調査報告 第17巻』656~9頁

(43)『富山県史』「越中の式外社」1081頁

(44)『富山県神社誌』612頁

(45)『富山県神社誌』595頁

(46)『富山県神社誌』477頁

(47)『戸出町史』(1972年6月)1289頁

(48)『戸出町史』221、1300~1頁

(49)『富山県神社誌』

(50)『式内社調査報告 第17巻』515~26頁

(51) 二上山総合調査研究会『』

(52) 香芝市二上山博物館『越中と大和ふたつの二上山』

(53)『式内社調査報告 第巻』384~51頁

(54 『風土記』(小学館 新編日本古典文学全集5 2006年8月5刷)391頁

 

 

6 新潟県の鹿島神社

6 新潟県の鹿島神社

 青森県、岩手県、秋田県、山形県、宮城県ときて、次は福島県になるところですが、福島県は鹿島信仰に関しては大きな問題が数多くありますので、後回しにしました。そこで今回からは北陸に着手します。

  (1) 調査について

 新潟県の鹿島神社は、下の「表 新潟県の鹿島神社」に見られるように47社ありました。

 国立歴史民俗博物館の「全国香取鹿島神社一覧表」(1)では9社だけです。(ちなみに香取神社は0になっています。私の調査でも2社だけです。) 「鹿島(嶋・嶌)神社」「鹿島(嶋・嶌)社」(以下、個別の神社を示すものでない限り、便宜的に鹿島神社と記す。)という名称に限ってみても今回23社ありましたから、歴博の一覧表が一体何を調査したのかわからないところです。

今回の調査では、佐渡については、『佐渡神社誌』(新潟県神職会佐渡支部 1926年5月)が国立国会図書館デジタルコレクションで見られたので、これを基本としました。6番のみは『佐渡叢書第三巻』所収「皇国地誌」で新たに見つけたものです。

またインターネット上に新潟県立文書館の『新潟県神社寺院仏堂明細帳検索』があり、1883(明治16)年に『新潟県神社明細帳』の再調整を行ったものが見られましたので、佐渡も含めて全県は出来る限りこれで統一しました。国文学資料館所蔵の『新潟県神社明細帳』も一部を除いてほぼ調査していましたので、内容はあまり変わりませんが、これも参考にしました。

 つまり、歴博の調査と同じものを見ているはずなのです。しかし、なぜか結果は大きく違っています。

 『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)では、鹿島神社に関連した項目は地名「かしまむら 鹿島村〈柏崎市〉」のみです。

『日本歴史地名大系 15新潟県の地名』(平凡社) の索引を見ると、「鹿島村(柏崎市)」があり、神社では柏崎市北条と南蒲原郡大面の2か所だけでした。

『新潟県史』の「原始・古代」「中世」「近世1」「近世2」の記述では、古代から新潟県を代表する神社は弥彦神社、居多神社があり、中世には妙高山関山権現、二田の物部神社など、さらに地域の神々が多くあがっています。「近世」では、『新潟県神社明細帳』を「近世越佐の大要の把握には差し支えない」(2)ものとして、神社10,344社の神社数を分析しています。この神社数は、境内社・合祀社まで含め確認できた神社数の集計と思われ、大変な数です。

ここでは、「越後に多い神社」のトップは諏訪神社で1,762社、その次が神明神社の1,564社、

10位まで名前がありますが、10位は石動神社の162社です。「佐渡に多い神社」は熊野神社が58社、白山神社が48社、10位は小田原神社11社です。

しかし、鹿島神社は全く出てきません。「資料編22 民俗・文化財一」に1ヵ所だけ鹿島神社が出ていただけです。ほとんど問題にならない神社のようです。「延喜式内社」などに鹿島神社と名乗ったものがないのは、太平洋側と比べた場合の日本海側の大きな特徴になるでしょう。

 インターネット上の新潟県神社庁のHPによると、新潟県の神社は4,710社(平成25年4月1日現在)で、全国一の神社数であるといいます。神社検索で「鹿島(嶋・嶌)神社」「鹿島(嶋・嶌)社」を検索しましたら、全13社がありました。これは今回の一覧表で、独立して鹿島神社を名乗っている神社と同じものでした。おそらく近世の後半以来今日までこの数は変わっていないもののようです。

 新潟県は長大な県域を持ち、明治時代の初めまでは人口も日本一であったところです。神社数が多いのもなるほどと思われます。しかし、この中にあって鹿島神社は問題にならないくらい少ないのですが、それでも丹念に調査していくと47社あったわけです。

 

 (2) 概要について

今回の表の全般的特徴は、神社名がいろいろであったことです。2つの式内社(論社)も、太平洋側の鹿島神社と違って表向き鹿島神社を名乗っていませんが、このように鹿島神社という名前を名乗っていない神社が多かったことです。28の武甕槌社も含めて24社、約半数ありました。

神社の祭神が「武甕槌命」「鹿嶌神」を含むものは、すべて拾うようにしましたが、5二所神社は、「鹿島香取神」、8金刀比羅神社は「鹿嶌神」、25明神社・27赤城神社・37大宝社は「武甕槌命」1神ですが、何神かの中に「武甕槌命」が入っているものも入れています。「武甕槌命」をイコール「鹿島神社」と考えて良いかどうかはまだ疑問がありますが、とりあえず広く網を打って全国の状況を把握しようというわけで入れています。

18春日社は、「武甕槌命」1神だけでしたのでここに入れました。春日神社の場合は、春日4神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比女神)と「天児屋根命」他何神かの場合については一覧表には載せません。春日神社も鹿島信仰のバリエイションと思いますが、春日神社そのものはここに入れていません。「武甕槌命」が入っていることと「天児屋根命」が入っていないことの両方を満たすものは、春日神社を名乗っている鹿島神社の可能性もありますので入れることにしました。

また、今回の表では、「無格社」「境内社」「合祀社」がほとんどであるということです(後に村社になったものはあります)。32の御嶋石部神社と41の水島磯部神社にしても、明治初年は村社です。

では小祠・小社ばかりかというと、そうともいえません。32の御嶋石部神社と41の水島磯部神社は延喜式内社の論社ですからかなり大きな由緒のある神社ですが、20の南蒲原郡大面の鹿嶋神社も、延暦年間坂上田村麻呂勧請、中世大面荘、近世大面組の総鎮守と由緒も古い大きな神社だったものです。この神社は明治では無格社で、1919(大正8)年になって村社となっています。21同郡中浦の鹿嶌神社も天平宝字2年創立の伝承があります。他にも、中世以前は大きな神社であったのではと思われるものがいくつかあります。明治以降の格付けの低すぎるのが目立つということです。

分布をみると、特異なのは佐渡です。表の1から8までが佐渡ですが、1の鷲崎を除くと、他はすべて真野湾に面した地域に分布しています。そして、真野町真野には明治の初年に白山神社に合祀された二所神社が、真野新町には新町太神宮の末社4社の中にもあります。鹿島神社と真野地名の結びつきは、宮城県石巻市真野の鹿島御兒神社があり、福島県南相馬市鹿島区にも鹿島御子神社があり、真野川が流れ、どちらも真野の萱原に比定されていました。(3)

真野の地名は、対岸の越後の紫雲寺潟に面していたところにもあります(現新発田市真野原)。佐渡の真野町真野は、順徳天皇の火葬塚の所在地として知られ、「順徳天皇にまつわる話として、近江国の真野(現滋賀県大津市)の地名が移されたとの説があり」(4)と説明されています。しかし、以上の真野地名から、順徳天皇以前の地名ではないかと考えられます。

佐渡以外の鹿島神社の分布は、少ないながら北から東、さらに西の富山県の県境まで満遍なく分布しているように思われます。

もう一つの特徴は、祭神名がわりあい多様であったことです。「たけみかづちのみこと」にしても「武甕槌命」ばかりでなく、「健甕槌命」「武美加津知命」「武見加槌命」「武甕雷命」「建御雷男之命」「武美加槌命」「健雷命」「武甕槌尾命」「健御雷命」と9種類の異なる表記がありました。他には「鹿嶌神」「鹿島香取神」もあり、「鹿嶋社」でありながら「大山祗命」というものもありました。こうした多様な表記の存在は、中央に統制されない土着の姿を示しているように思われます。

 

(3) 毘沙門天とのセット

11東蒲原郡向鹿瀬(むかいかのせ)(現阿賀町)の鹿島神社は、延長6年(928)4月創立の向鹿瀬の産土神で、「従前旧領主ヨリ毎7ヶ年ニ銀20匁2分5厘宛造営費トシテ下附」(5)されたほどの神社でありながら、1938(昭和13)年になってようやく村社になっています。

阿賀野川が大きく蛇行するところにあり、対岸の鹿瀬字荒井戸にも鹿島神社がありますが、これは1870(明治3)年に毘沙門天が改められたといい、青森県のケースに似ています。しかしながら、これは、むしろ向鹿瀬の鹿島神社と鹿瀬の毘沙門天とで阿賀野川の大蛇行点を挟むセットとして祀られていたと考えられないかと思います。

12の同郡行地(ゆくち)字堂ノ上の鹿嶋社は、大変な山の中の感じがしますが、1675(延宝3)年3月の創立で、「当村ノ産土神」(5)。同じ字に毘沙門堂があります。鹿嶋社と同年月の創立ですから、これは完全にセットになっています。

13の新潟市中央区北毘沙門町の鹿島神社は、その名も毘沙門町にあり、小さくない神社であったと思われますが、明治23年4月の火事で焼失し「再建ノ目途無之ニ付廃社」(5)となっています。町名は、もと1736(元文元)年勧請の毘沙門により「毘沙門島」と名付けられ、今日も毘沙門天王が祀られています。これもセットであった可能性があり、岩手県達谷の毘沙門堂前の廃社になった鹿島神社に似ています。明治以降毘沙門天はそのままで、鹿島神社が復興していません。

もう一つ指摘しておきます。上杉謙信で有名な春日山城は春日社にちなみます。そして、ここには毘沙門堂があり、上杉謙信の毘沙門信仰は有名です。「毘」の1字の旗印も有名です。春日社、すなわち鹿島社と毘沙門天のセットがここでも指摘できます。

まだ他にも、そう指摘できそうな所がいくつかありますが、調査が不充分なのでやめておきます。ただ、どうやら青森県における毘沙門天が明治以降すべて鹿島神社になったという説明には、大きな疑問がわいてきました。そうではなくて、もともとセットで祀られていたものもあったのではないかということです。全国的にこの関係はもっと気をつけて良いかもしれません。

 

 (4) 鍾馗様

東蒲原郡の阿賀野川流域、現阿賀町では、さらに興味深い民俗がありました。

「厄払いの目的で股間に大きな陽物をつけた鍾馗のワラ人形を作り、村はずれの樹木や神社に飾りつけて祭るところがある。このような鍾馗人形を屋外に祭ることは、秋田県に類似するものを見るが、そのほかどこにもあるというものでない。

今日この風習が見られるのは、三川村熊渡・津川町大牧・鹿瀬町平瀬・同夏渡戸の4か所だが、以前は鹿瀬町仙石・上川村東俣・同長坂・同武須沢入などにもあった。」(6)

といわれています。

ここでは「鍾馗様」と呼ばれていますが、秋田県の「鹿島様」といわれる鹿島人形とよく似た民俗です。名前こそ違え、鹿島信仰の残存の1つといえるものではないかと思われます。

また阿賀野川流域ということから、福島県会津との関係を考慮しておいた方が良いかもしれないと思っています。

 

  (5) 南蒲原郡大面の鹿嶋神社について

 20南蒲原郡大面村(現三条市)の鹿嶋神社は、小字名「鹿島山」ですが、『新潟県神社明細帳』はこれを朱で訂正し「新田」としています。地名辞典は2つとも「船戸」としています。しかし『新潟県神社明細帳』の由緒では、「鹿嶋下」「鹿嶋廻り」などの地名があるといい、『栄村誌』によると「カシマテン」の地名もあるといいます(7)から、ここは本来「鹿島山」で間違いないとみるべきでしょう。神社の他の伝承からも鹿島信仰の様々な伝承がうかがわれます。

 神社の始まりは、「社伝によると、延暦年間坂上田村麿が蝦夷征伐の時、常陸国(茨城県)の鹿島神社を勧請し、田村麿将軍の従者であった本学院の祖が、大面に移って神社に奉祀した。」とあります。本学院は明治以降神職の大乗氏を名乗ったということです。(8)

 祭神は「建御雷男之命」(『大面村誌』は「武御雷命」)1神でした。(9)

 江戸時代には、年頭に当たって1年の吉凶が示されたともいい、「この社に参篭した男女が名を書いた紙片を帯の端につけ、暗闇の中で帯を結びあい、つないだ者同志が結ばれるという篭堂も、兵火によって焼失したと伝えている。」(10)ともいいます。吉凶占いといい、帯占いといい、常陸の鹿島神社と同じようなと言って良いほどです。

 中世は大面荘の総鎮守、近世は大面組42ヵ村の総鎮守とかなり大きな神社であったもので、祭礼は関東まで有名であったといいます。(10)

 神輿渡御、御巡幸、御神行ともいう大行列の記録を見て驚きました。真ん中あたりに「鹿(二人)」が参列しています。二人が「竹で作った鹿の中に入り肩にてつるす」(11)とあります。

『大面村誌』では、「もと鹿が沢山いた。吉野屋山の鹿が信濃川を越えて遥かの海べまで塩水をなめに行ったと伝えられている。・・・大面村の鹿島様は鹿の多くいた場所だそうだ。小栗山(隣村新潟村大字)に『ししおどり』というのがある。角兵衛獅子ではなくて『鹿踊』だそうで、囃子は『山雀が・・・』と始まると言う。」(12)とあり、鹿の伝承が濃厚にあります。

そして「鹿踊」までがあったとすると、これは東北の鹿島信仰と同じではないかと思われます。「吉野屋山」は大面からさほど遠くないところであり、「小栗山」はまさに隣の字です。

 ところで小字「船戸」は、神社の登り口にある「船戸地蔵」にちなむものですが、神社のある山すそをめぐって川が流れていて、この川の船着き場、船の戸から来る地名とする考えと、ふなど、くなどの神(岐の神)、道祖神(サイノカミ)から来ているとする考えがあるといわれています(13)。どちらというより、どちらもと言った方が良さそうな気がします。各地の鹿島信仰に良く見られる属性だからです。

 しかしこの「鹿島神社」は、明治以降はなぜか無格社であり、大正8年にようやく村社になっています。そして明治には神官も欠員になっていました。この明治政府の処遇は、「鹿島神社」を征夷の神とすると信じがたいものがありますが、今まで各地の「鹿島神社」を見てきた私は、むしろこれがほとんどの「鹿島神社」の本当の処遇であると思われるのです。

 「大面(おおも)」は変わった地名ですが、アイヌ語の深く静かな湖の意である「オオモナイボ」によるものともいわれています(14)。また近世にこの鹿島神社の「蝦夷神楽歌」が禁じられた話があります(15)。具体的にどのようなものだったかはわかりませんが、興味深い話です。明治政府の処遇に何か関係があるのではないかと考えられます。

 

  (6) 柏崎市北条の鹿島神社について

 32は「御嶋石部(みしまいそべ)神社」で、刈羽郡北條村大字北條字清水尻(柏崎市北条字鹿島)にあります。「清水尻」は『新潟県神社明細帳』の地名であり、神社の由緒書によると元あったとされる石部平の地名です。

「鹿島」の初見は、「天正13年閏8月7日付御島石部神社棟札銘」に「東刈羽郡佐橋荘北条郷則鹿島村」とあり、『越後地名考』には北条村本条の通称を「鹿島」といったとあるようです(16)。中世の北条郷を「鹿島村」と言ったとすると、かなり広い範囲になります。現在の小字「鹿島」と、もっと広く「鹿島」と通称したものの二通りがあるようです。

 神社の宮司五十嵐家を屋号で「大鹿島」、近くの石井神社(北条十日市)を「小鹿島」と呼ぶとも言いますから、この地域一帯を鹿島と呼んだのではないかと思われます。

 神社名は、神社の由緒書によると、1行目に「延喜式内 御嶋石部神社(旧村社)」とあり、それよりも大きな字で2行目に「鹿嶋宮大明神御鎮座由緒之事」とあり、文中には「当神社は初め鹿嶋宮大明神と称え来た、以来其の神号に因み此の里を鹿嶋と唱えるようにもなった。」とあり、「年譜」には「白雉元年4月 社殿改修鹿嶋宮大明神と称す」とありますので、「鹿嶋宮大明神」が本来のもののようで、そこから「鹿嶋」地名が起こったとありますから、この方が筋が通っているといえそうです。(17)

 『式内社調査報告 第17巻』には「遺跡」の項に「別図」が載っていますが、これには「字石部平」に「本宮」があり、山麓と思われる位置には「式内 御嶋石部神社」と「鹿嶋大明神」が並列して記され、1つの神殿が書かれています(18)。つまり1つの神殿で2つの神社を祀っているように描かれています。

 祭神は、神社の由緒書では、「久斯比肩多命(くしひかたのみこと)」と「武甕槌命」の2神です。「久斯比肩多命」は「石部公の祖、久斯比肩多命を祀る」とし、「事代主神と三島の祭神(柏崎市の県社三島神社)の女君との間に生させ給へるなり。」と説明しています。白雉年中から三輪氏が奉祀し、大永年中に五十嵐姓に改姓して現在に至ったとしています。

『新潟県神社明細帳』は、社名は「御嶋石部神社」ですが祭神は「鹿嶋大明神」1神で、これをを朱で訂正し「武甕槌命」としています。

 どうやらこれからすると、「鹿嶋」はこの土地の神であり、「御嶋石部神社」は神官家の祖神のようです。なお「御嶋石部神社」は刈羽郡西山町石地(柏崎市)に論社があります。

 インターネット上に八石山の伝説が紹介されていました。標高518メートル「柏崎平野をとり囲む米山・黒姫山とともに刈羽三山と呼ばれる。」といいます。

「むかしむかし、長鳥川の上流には蝦夷と呼ばれる野蛮な人達が住んでいて、平和に暮らしている人々の食べ物をかすめとったり、理由もなく乱暴したり、人を殺したりしていました。鹿島の三島石部神社の神様は、これを心配されて蝦夷をなんとかしずめようと思われ大勢の神様を高見山に集められました。神様達がみんなお集まりになると、高見山という名前をハッセキ山と改められた。その後の長い年月の間に、いつのまにか間違えられてハチコク山と呼ぶようになったといわれています。」(19)

 「長鳥川」はここの鹿島を流れる川で、鯖石川に合流しています。ですから鹿島の近辺に蝦夷が住んでいたということでしょう。「鹿島の三島石部神社の神様」というのは鹿島大明神のことと思われますが、蝦夷の乱暴を鎮めるために多くの神様を集めた、そのため山の名前がハッセキ山になり、その後八石山に変わったということですが、蝦夷の話がどこかへ行ってしまいました。しかし、私は、ここの鹿島が蝦夷の住んでいた近辺にあったというのが注目されます。何時のことともはっきりしませんが、少なくともこの蝦夷の話には、坂上田村麻呂が登場しません。

 神社の由緒書にも、「現在八石山麓の山々にも次の由来から唱えられたる地名が残っている。祭神が残暴を御征伐の砌此の東の峯に陳鎌を置給われた峯を『鎌あけ』と云う、烏帽子を置かれた所を烏帽子と称し、御腰をかけ給える処を『腰かけ石』と申し今是『御石』と云う神馬の鞍を置き給える処を『神の鞍』(現在八石かめのくら)」と云い、大神山々に走り向せ給える処を『春日入』と云う、又社の山に大石一ケありこれを『要石』と云われ地震、山崩あらゆる災害を鎮める石と古来より伝えられ現在なお山の下段に安置されている。この他此の里に古跡数多くあるが今これを略す。」

とあります。鹿島の神の事跡に因んだもので、馬が出ている所、「鹿島入」でなく「春日入」というところ、「要石」の存在などいずれも注目すべきところです。ここにも坂上田村麻呂は登場しません。田村麻呂登場より遥かに古い時代の伝承のように思われます。

 

  (7)上越市清里区の鹿島神社

 上越市の清里区というのは古墳群などもあり、古代からわりあい開けた地域とされています。この櫛池川沿いに山の方に入ったところに、3か所の鹿島神社があります。

1つは、42東戸野字岩山の「鹿嶋社」。無格社で、明治40年に諏訪社に合併されています。祭神は、『新潟県神社明細帳』によると「武甕槌命」とあり、その後に朱字で「槌尾」が加入されています。「武甕槌尾命」というのではないかと思われます。「諏訪社は青木氏、鹿島社は保坂氏の氏神という。」とあります。(20)

2つ目は、棚田の鹿嶋神社。小さな石祠であったようですが、村の鎮守として今では村内各社を合祀しています。「神社は鹿島社・諏訪社・荒神・大神宮・稲荷社・庚申など(後各社は鹿島社に合祀)。」とありますが、大神宮・稲荷社などは合祀というより同境内に集められたようです。やはり近くに毘沙門堂がありました。

鹿島神の神像は、「タケミカヅチノカミが足で大ムカデを押さえている図柄で」、寛永元年10月の年号があり、「台石には鹿が群れ遊ぶ彫刻が見える」としています。また、「この集落では鹿島さんのキライな胡麻は作らないという民俗がある。」としています。(21)

3つ目は、梨平字磯部山の41式内社水嶋磯部神社。祭神が、誉田別命で、配祀に武甕槌命と経津主命です。現在は3神を祭神としているとあります。『越後国式内神社案内』には「当号鹿島大明神、同殿香取、八幡、春日」とあるとあります。「誉田別命」は八幡ですから、鹿島が主神で他が同殿になっているだけです。明治初年の書上などでは「誉屋別尊」ともあり、「誉田別命」も問題になっています。(22)

『新潟県神社明細帳』は、「式内当社タル旨口碑ニ伝ル趣ハ、天智天皇御宇ノ末年吉野ノ乱ニ、官兵磯部臣ト云フモノ逃レテ当国ニ来リ、当村ヲ開墾シ、白鳳2年当社創立、往古当地ヲ水嶋ノ里ト称シ・・・」とあり、宮司綿貫家『綿貫家系図』の伝承によるものです。ここでも宮司家の伝承で式内社に擬せられ、鹿島・香取が背後に追いやられているのがわかります。

式内社の論社は、糸魚川市筒石と清里区青柳があげられていますが、青柳が重要と思われます。

「青柳集落の西方、坊ヶ池の縁に石祠があり、水嶋磯部神社と刻まれた石が納められている。」といい、この坊ヶ池には「青柳社・弁才天社・青海社などが点在、山岳信仰の聖地といわれる。池畔の御祓石場では雨乞の祭が行われたという。」(23))といいます。ここにあるとしたら、それは本来の本宮と言って良いものではないかと思われますが、残念ながら『新潟県神社明細帳』では祭神不詳になっています。

以上のように、「鹿島神社」がこの地域に3社かたまっているのがなぜだろうと思いますが、今のところわかりません。表面上鹿島信仰はわからなくなってきていますから、もっといろいろな史料を見てみる必要がありそうです。今後の課題とするほかありません。

 

  (8)まとめ

 新潟県の「鹿島神社」は、数として多くはありませんし、小社小祠が多く末社や境内社や合祀されてしまったものなどが大変多かったため、表面上わからなくなっています。「鹿島神社」を名乗らないものも多かったのも特徴でした。

32の御嶋石部神社や41の水島磯部神社も式内社と称していますが、鹿島を表に出しているわけではありません。

太平洋側と比べて、「鹿島神社」と称する大きな神社が少ないことも大きな特徴です。

古代の新潟県は、越国、越後国として、蝦夷対策の最前線にありました。そのわりには、征夷の神「鹿島神社」があまり見当たりません。20南蒲原郡大面の鹿島神社が坂上田村麻呂勧請をいい、33御嶋石部神社が蝦夷に関係ある伝承を伝えているだけです。渟足柵、磐舟柵がつくられ、蝦夷と雑居していて、征夷戦の緊張はずっと続いていたはずです。「鹿島神社」が征夷の神であるならば、征夷の軍事行動に密接なところに密接な形で祭られていなければならないところです。

しかし、実際は全く違うことが、新潟県の「鹿島神社」の実情を調べてみるとよくわかります。これが古代の佐渡・越後国の実情なのかどうかは、はっきりしません。ただ古代に由緒が遡る神社はいくつかありながら、渟足柵や磐舟柵との関係がありそうなものはまったくありません。坂上田村麻呂は延暦7年(678)6月と延暦9年(680)3月に越後国守を兼任していて、この後本格的に陸奥の征夷戦争に関わっていきます。したがって、坂上田村麻呂と関係した鹿島神社がもっとあって良いはずですが、そうなってはいません。

これが北陸の越国全体の傾向であるかどうか、これは今後の大問題として注意していくべきことでしょう。

 

 

表 新潟県の鹿島神社

 

神社名

所在地 ( )内は現在の地名

祭神

備考

歴博

1

金刀比

羅山

加茂郡内海府村大字鷲崎

字箕山(佐渡市鷲崎) 

A他2

村社矢崎神社の

境外神社

 

2

鹿 嶋

神社

雑太郡沢根町大字五十里

字田中(佐渡市沢根五十里)

A

村社白山社の

境内神社

1190

3

五 社

神社

雑太郡河原田町大字河原田

本町(佐渡市河原田諏訪町)

AB

他10神

郷社諏訪神社の

境内神社

 

4

鹿 島

神社

雑太郡二宮村大字中原

及大字石田(佐渡市中原)

健甕槌命

村社中原神社の

境内神社

 

5

二 所

神社

雑太郡真野村大字真野

字真野(佐渡市真野)

鹿島

香取神

明治初年村社白山神社に合祀

 

6

鹿 嶋

神社

雑太郡新町(佐渡市真野新町)

新町大神宮末社4社の内(皇国地誌による)

 

7

鹿 嶋

神社

羽茂郡西三川村

大字椿尾(佐渡市椿尾)

A他1

村社気比神社の

境内神社

 

8

金刀比

羅神社

羽茂郡小木町大字堂釜

字宮ノ平(佐渡市小木堂釜)

鹿嶌神

村社大平神社の

境内神社合殿

 

9

鹿 嶋

神社

岩船郡堀之内村字上ノ山

(村上市堀ノ内)

武美加津知命

無格社 

M40稲荷神社に合併

 

10

鹿 島

神社

北蒲原郡伊徳寺村字山王

(胎内市横道)

A

無格社 M40神明社に合併・横道神社に

 

11

鹿 島

神社

東蒲原郡向鹿瀬字森ノ下

(阿賀町向鹿瀬)

 

無格社 巨巌の上

 

12

鹿嶋社

東蒲原郡行地村字堂ノ上

(阿賀町行地)

大山祗命

無格社 延宝3年創立 同字に毘沙門堂

 

13

鹿 島

神社

新潟区新潟北毘沙門町

(新潟市中央区北毘沙門町)

建甕槌命

無格社

M23焼失につき廃社

 

14

三 社

神社

新潟市流作場新田字宮浦

(新潟市東区三和町)

武見加槌命他2

村社 

M22沼垂町大字となる

 

15

鹿 嶌

神社

中蒲原郡鷲ノ木新田字家付

(新潟市南区鷲木新田)

武甕雷命

無格社 

信濃川中ノ口川合流点

1182

16

六 所

神社

西蒲原郡上曲通村字前畑

(新潟市南区上曲通)

A他5

無格社 

慶長16年勧請

 

17

諏訪春日合殿

西蒲原郡津雲田村字古屋敷

(新潟市西蒲区津雲田)

A他1

無格社

 

18

春日社

西蒲原郡長池新村字前潟 

(燕市長所)

A

無格社 

S5八幡社へ合併

 

19

諏 訪

神社

西蒲原郡灰方村字筒西

(燕市灰方)

A他3

無格社

 

20

鹿 嶋

神社

南蒲原郡大面村字鹿島山

(三条市大面)

建御雷男之命

無格社 延暦田村麻呂勧請 近世総鎮守

 

21

鹿 嶌

神社

南蒲原郡中浦村字居平

(三条市中浦)

A他2

無格社 

天平宝字2年創立

1183

22

八雲社

南蒲原郡棚鱗村字居平

(三条市棚鱗)

A他4

無格社

 

23

鹿嶋社

三島郡郷本村字上太

(長岡市寺泊町郷本)

A

無格社

1185

24

鹿 嶌

神社

三島郡小島谷村字上ノ東

(長岡市小島谷)

A

無格社 

1184

25

明神社

三島郡北中村字堂ノ川内

(長岡市和島中沢)

A

無格社

 

26

鹿嶋社

古志郡広道村字八十苅

(長岡市村松町)

武美加槌命

無格社

1186

27

赤 城

神社

古志郡曲新町村字横田

(長岡市曲新町)

A

無格社 

 

28

川 合

神社

北魚沼郡川口町

(小千谷市東川口)

A他1

雄略31鎮座

あおり明神

 

29

武甕槌社

南魚沼郡芹田村字鳥

(南魚沼市芹田)

A

無格社赤城社の

境内神社

 

30

神明社

南魚沼郡大沢村字地蔵堂

 (南魚沼市大沢)

A他3

無格社

 

31

健布都社

刈羽郡別山村字多岐ノ脇

(柏崎市西山町別山)

A他1

無格社多岐神社の

境内神社

 

32

道 祖

神社

刈羽郡刈羽村刈羽字雀森

(刈羽郡刈羽村刈羽)

AB

無格社見日神社の

境内神社

 

33

御嶋石部神社

刈羽郡北條村大字北條

字清水尻(柏崎市北条字鹿島)

A

鹿嶋大明神 

社家大鹿島 部落鹿島

 

34

鹿 島

神社

刈羽郡新道村字島崎

(柏崎市新道)

A

村社鵜川神社の

境内社島崎神社に合併

 

35

熊 野

神社

刈羽郡水上村字厩窪

(柏崎市水上)

A他3

村社合殿

 

36

鹿 嶋

神社

刈羽郡千谷沢字子ノ新田

(長岡市小国町千谷沢)

A

無格社 元和7年創立

 

37

鹿嶌社

東頸城郡小屋丸村

(十日町市池之畑)

A

無格社 長和3年創立

 

38

大宝社

東頸城郡下鰕池村字前田

(十日町市松之山下鰕池)

A

無格社

 

39

三 社

神社

中頸城郡小杉村字西谷

(柏崎市小杉)

健雷命他3

無格社 

M42に小杉神社に改称

 

40

鹿嶋社

中頸城郡大乗寺村

(上越市吉川区大乗寺)

A

無格社 鹿嶋田

1187

41

鹿嶋社 

中頸城郡上源入村立ノ越

(上越市上源入)

A

無格社 

1189

42

水島磯部神社

中頸城郡櫛池村大字梨平

(上越市清里区梨平)

AB他1

白鳳2年創立 式内

 

43

鹿嶋社

中頸城郡東戸野村岩山

(上越市清里区東戸野)

武甕槌尾命

無格社 

M40諏訪社へ合併

 

44

鹿 嶋

神社

中頸城郡棚田村字中ノ坪

(上越市清里区棚田)

A

無格社 

村内各社鹿島社に合祀

1188

45

八幡社

西頸城郡大野村字八幡山

(糸魚川市大野)

A他5

無格社 M40熊野社に

合併・大野神社に

 

46

若 宮

白山社

西頸城郡蒲池村字三ツ倉

(糸魚川市蒲池)

A他2

無格社 

M42白山社に合併

 

47

鹿嶌社

西頸城郡市振村字西ノ平

(糸魚川市市振)

健御雷命

無格社 

T3白鬚社に合併

 

 

*表の説明

 1番左は、本調査の通し番号である。 

 「神社名」は出典の神社名。

 「所在地」も出典の所在地名を記し、( )内は現在の地名を記した。

 「祭神」は「武甕槌命」はA、「経津主命」はBとし、「たけみかづち」の別表記はそのまま記した。

その他の神名は「他1」のように記した。

 「備考」は、今回は明治初年の神社の格付けを参考に記した。それは出典が同一のものであったので、

同じ時点のものがすべて明らかになったからである。後の格付けの変化は省略している。

 「出典」は、佐渡については、『佐渡神社誌』(新潟県神職会佐渡支部 大正15年5月)が国立国会図書館デジタルコレクションで見られたので、これを基本とした。ただし6番のみは『佐渡叢書第三巻』所収「皇国地誌」による。

またインターネット上で新潟県立文書館の『新潟県神社寺院仏堂明細帳検索』があり、明治16年に『新潟県神社明細帳』の再調整を行ったものが見られたので、佐渡も含めて全県はこれで統一した。国文学資料館所蔵の『新潟県神社明細帳』も一部を除いてほぼ調査していたので、内容はあまり変わらないが、これも参考にしている。

したがって、今回は「出典」の項を省略した。

 なお、『新編会津風土記』『白河風土記』、県史・市町村史もすべては見切れていないが、かなり参考にしている。

  またいつも通り、『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)、『日本歴史地名大系15 新潟県の地名』(平凡社)、吉田東伍『増補大日本地名辞書 第5巻 北国・東国』(富山房)、『県別マップル道路地図 新潟県』(昭文社)、『式内社調査報告 第17巻』(皇學館大学出版部)も参考にしている。

 1番右の欄「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。

 

 

(1)  国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」

(2) 『新潟県史 通史編3 近世1』825頁

(3) 『角川日本地名大辞典 4宮城県』(角川書店)488~489頁、『角川日本地名大辞典 7福島県』(角川書店)758~759頁

(4) 『日本歴史地名大系15 新潟県の地名』(平凡社)1234頁、真野・真野原の説明は『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)1232~1234頁

(5)  新潟県立文書館『新潟県神社寺院仏堂明細帳検索』の該当神社項目

(6) 『新潟県史 資料編22 民俗・文化財一 民俗編1』820頁

(7) 『栄村誌 上』(1981年8月)929頁

(8) 『栄村誌 上』295頁

(9) 新潟県立文書館『新潟県神社寺院仏堂明細帳検索』の項目。なお、『三南地方の歴史 大面村誌』(1966年9月)は他4神としている。

(10) 『栄村誌 上』929頁

(11) 『栄村誌 上』265頁

(12) 『三南地方の歴史 大面村誌』650頁

(13) 『栄村誌 上』296頁

(14) 『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)292頁

(15) 新潟県立文書館『新潟県神社寺院仏堂明細帳検索』の当該神社由緒

(16) 『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)292頁

(17) 宮司五十嵐弘氏作成「延喜式内 御嶋石部神社(旧村社) 鹿嶋宮大明神御鎮座由緒之事」

(18) 「19 御嶋石部神社」『式内社調査報告 第17巻』817頁

(19) インターネット「環境への取り組み 八石山整備活動」(株式会社伊平板金工業所)

(20) 『日本歴史地名大系15 新潟県の地名』117頁

(21) 『角川日本地名大辞典 15新潟県』(角川書店)847頁、『清里村史 上巻』(1983年11月)341、345頁

(22) 「7 水嶋礒部神社」『式内社調査報告 第17巻』750頁

(23) 『日本歴史地名大系15 新潟県の地名』116頁

5 宮城県の鹿島神社

 

 

神社名

所在地

祭神

備考

出典

   

栗原郡藤渡戸村

(栗原市金成藤渡戸)

 

鹿島前

   
   

栗原郡栗原村

(栗原市栗駒菱沼) 

 

鹿嶋 

   

1

御嶽神社

栗原郡栗原村

(栗原市栗駒栗原)

A他1

栗原八鹿踊

明細帳

 

2

鹿嶋社

栗原郡二迫富村端郷黒瀬

(栗原市築館黒瀬) 白鹿山

A

村鎮守 景行の時勧請

 相殿香取御児神社 

風土記 

45

3

鹿嶋社

栗原郡一迫真坂村(栗原市

一迫真坂)真坂館(鹿島館)

 

鹿嶋堰 

風土記

 

4

鹿嶋社

栗原郡一迫堀口村(栗原市

志波姫堀口) 林

A

村鎮守 

風土記

44

5

鹿嶋社

栗原郡三迫石越村(登米市

石越町北郷) かしま

 

地主鹿嶋屋敷三拾蔵

風土記

 

6

鹿嶋神社

栗原郡石越町北郷中沢

(登米市)

A 

佐々木家の氏神 

町史

 

7

鹿嶋社

栗原郡高清水村

(栗原市高清水) 

 

現在牟良佐喜神社摂末

旧小山田村に鹿島

風土記 

43

8

鹿嶋社

栗原郡宮沢村(大崎市

古川宮沢) 本丸之内

 

別当鹿嶋山本覚院 

弘安2年勧請

風土記 

 

9

表刀神社

栗原郡小野村

(大崎市古川小野) 大崎沼

A

他2

式内 天平神護元年勧請

「小野弁天様」 

明細帳

 

10

鹿島神社

栗原荘荒谷邑

(大崎市古川荒谷) 神守

A

大同年中田村麻呂勧請 

のち斗瑩神社

封内 

 

11

鹿島神社

栗原荘長岡邑

(大崎市古川長岡) 茂木

 

大同年中田村麻呂勧請

鹿嶋田

封内 

 

12

鹿島神社

栗原荘桜目邑(大崎市

古川桜ノ目) 鹿島伝

A

式内志波姫神社に合祀

別当鹿嶋山桜目寺 

封内 

 

13

鹿島神社

栗原荘沢田邑

(大崎市古川沢田) 神守

A

大同年中田村麻呂創建 

応長の碑など

封内

21

14

荒雄河

神社

玉造郡岩出山町池月(大崎市

岩出山) 字上宮宮下

 

祭神大物忌神

配祀9神のうちAB

名鑑

 

15

鹿嶋宮

玉造郡新田村

(大崎市古川新田) 夜烏

A他5

現在式内小松神社 

鹿島西 鹿島前 鹿島浦

風土記 

 
   

志田郡(大崎市古川斎下上斎下)

 

鹿島堂 

   

16

鹿島神社

志田郡(大崎市古川柏崎

安国寺前・畑中前)

 

鹿島上 鹿島田 鹿島下

マップル

 

17

鹿嶋社

志田郡北方耳取村(大崎市

古川耳取鹿島) 西畑

A

貞観4年慈覚大師勧請 

別当鹿嶋山観水寺 鹿島

風土記 

18

18

鹿嶋社

志田郡北方保柳村

(大崎市古川保柳) 冠木

 

慶安2年勧請 別当薬師寺

(大同年中開山) 

風土記 

 
   

志田郡(大崎市古川保柳) 大下

 

鹿島 鹿島西 鹿島前

   

19

鹿嶋社

志田郡荒田目村

(大崎市古川荒田目) 葛生

村鎮守 元和2年勧請 

別当鹿嶋山正福寺

風土記

 

20

鹿嶋社

志田郡北方上中目村

(大崎市) 荒屋敷

 

村鎮守 

寛永18年9月勧請 

風土記 

19

21

鹿嶋社

志田郡北方宮袋村(大崎市

古川宮袋) 鳥井原の西

A

村鎮守 

鹿島前 鹿嶋浦

風土記 

17

22

鹿島社

志田郡古川村(大崎市古川)

 有池ヶ嶋(内鹿島)

A

村鎮守 現古川神社  大同

2勧請  別当鹿島山古川寺

風土記

 
   

志田郡(大崎市古川・古川本鹿島)

 

本鹿島 本鹿島袋 

   

23

鹿島社

志田郡中里村(大崎市

古川中里) 中野在家

 

別当古川寺

風土記 

 

24

鹿嶋社

志田郡北方米倉村

(大崎市古川米倉) 沢目

A

村鎮守 

天文年中大崎義直勧請 

風土記 

16

25

鹿島社

志田郡稲葉村(大崎市

古川金五輪) 天神之東

A

村鎮守 祇園社

(現在八坂神社)末社 

風土記

20

26

鹿嶋社

志田郡北方西荒井村(大崎市

古川西荒井) 中荒井

A

村鎮守 慶長2年常陸

から分霊 当初は元鹿島

風土記 

22

27

鹿嶋社

志田郡矢ノ目村

(大崎市古川矢ノ目)

A

延文2年1357勧請  

風土記 

37

28

鹿嶋社

志田郡南方引田村(大崎市

古川引田) 堀込(鹿島とも)

A

天文2年大崎家臣笠原氏

勧請 弘安元年古碑 

風土記 

38

29

鹿嶋社

志田郡堤根村

(大崎市古川堤根) 

A

延文2年1357勧請  

風土記 

39

30

鹿嶋社

志田郡南方中沢村

(大崎市古川中沢) 鹿嶋

A

他1

明暦元年勧請 古社遺址

あり   弘安2年の板碑 

風土記 

40

31

鹿嶋社

志田郡北方石森村

(大崎市古川石森) 宮在家

AB

鎮守 大同年中建立 

別当鹿嶋山光明院

風土記

41

32

鹿嶋社

志田郡北方師山村

(大崎市古川師山) 荒屋敷

   

風土記 

 

33

鹿嶋社

志田郡北方下中目村

(大崎市古川下中目) 下原

 

風土記 

 

34

鹿嶋社

志田郡南方高柳村

(大崎市三本木高柳)  鹿嶋

 

村鎮守 中世の板碑 

鹿島堂

風土記 

 

 

35

八坂神社

志田郡三本木町三本木

(大崎市三本木) 天王山

 

鹿島浦 祭神素戔嗚命他23神のうち鹿島7社合祀

明細帳

 

36

鹿島神社

志田郡南方南谷地邑

(大崎市三本木南谷地)

 

千刈田鹿島堂

熊ノ越鹿島堂

封内

 

37

鹿嶋社

志田郡南方蒜袋村(大崎市

三本木蒜袋) 安藤後

 

村鎮守  室木に古鹿島

風土記 

 

38

鹿嶋社

志田郡南方桑折村(大崎市

三本木桑折) 鹿嶋屋敷

 

村鎮守 鹿島下 

風土記 

 

39

鹿嶋社

志田郡南方伊賀村

(大崎市三本木伊賀) 

 

村鎮守 鹿島 鹿島前

伊賀神楽

風土記 

 

40

鹿島神社

志田郡南方坂本邑

(大崎市三本木坂本) 跡水

 

村鎮守 永正8年勧請 

坪ヶ山鹿島

封内 

 

41

鹿島神社

志田郡南方斎田邑

(大崎市三本木斉田) 小原

 

永正7年勧請 

大西(大錦)鹿島

封内 

 
   

(大崎市三本木音無)

 

鹿島前

   

42

鹿島神社

志田郡南方下伊場野村

(大崎市松山下伊場野)程沢

 

花ヶ崎鹿島浦

封内

 

43

鹿嶋社

志田郡南方松山郷深谷村

(大崎市鹿島台深谷) 要害

 

村鎮守 

地主別当要害屋敷與六

風土記 

 

44

鹿嶋社

志田郡南方松山郷広長村

(大崎市鹿島台広長)鹿嶋台

 

現鹿島台神社 苗裔神小

田郡の1  鹿島 元鹿島台

風土記 

36

45

鹿島神社

遠田郡中埣村

(美里町中埣) 堰場

 

明細帳

 

46

 

鹿嶋神社

 

遠田郡関根邑

(美里町関根)

AB

 

封内

42

47

北鹿嶌

神社

遠田郡北浦村関根

(美里町関根) 道明

AA

嘉吉2年勧請

明細帳

 

48

都々古

和気神社

遠田郡北浦村

(美里町北浦) 横埣

A

 

明細帳

 

49

鹿嶋社

遠田郡桑針村

(大崎市古川桑針) 谷地中

A

 

風土記

 

50

熊野神社

遠田郡田尻町蕪栗

(大崎市田尻蕪栗) 中沢目

 

伊弉諾他3のうちにA

明細帳

 

51

鹿嶋社

加美郡下多田川村

(加美町下多田川) 宮田

 

村鎮守 鹿嶋浦 

鹿嶋前 鹿嶋前中

風土記

 

52

鹿島社

加美郡鳥嶋村

(加美町鳥嶋) 鹿嶋

 

村鎮守 

風土記

 

53

八幡神社

加美郡賀美石村鳥屋ヶ崎

(加美町鳥屋ヶ崎) 八幡浦

 

誉田別命A大山祇命

明細帳

 

54

鹿嶋社

加美郡平柳村(加美町平柳)

 高川

A 

村鎮守 鹿嶋古社地あり

鹿島越 鹿嶋 鹿嶋浦 

風土記

35

55

鹿嶋神社

加美郡鳴瀬村平柳

(加美町平柳) 石堰

A

 

明細帳

 

56

鹿嶋社

加美郡中新田村(加美町四日市場) 鹿島(宮ノ越とも)

 

8か村鎮守 延暦年中

塩釜左宮勧請 

風土記

34

57

鹿島神社

加美郡中新田町(加美町) 土塚

 

 

鹿島神社の境内社

明細帳

 

58

廣原神社

加美郡廣原村菜切谷

(加美町菜切谷) 出羽道

 

熊野他10神のうち

鹿島2合祀

明細帳

 

59

伊達神社

加美郡色麻村四竃

(色麻町四竃) 香取

 

五十猛神BA近世香取社

延暦年中田村麻呂勧請

明細帳

 

60

鹿嶋社

加美郡大村(色麻町大)

 鹿嶋堂

 

地主別当本町屋敷

清左右衞門

風土記

 

61

武甕槌社

加美郡小栗山(色麻町小栗

山)  船形十二社権現社末社

 

正観音堂

(奉称武甕槌命候事) 

風土記

 

62

鹿 嶋

明神社

黒川郡大松沢村

(大郷町大松沢) 宮下

AB

他8

天文4年宮沢実家が再興 

地主別当胎蔵院

風土記

33

63

鹿島神社

黒川郡大谷荘川内邑

(大郷町川内) 上堰場

 

岡氏氏神 近世観音堂に

合祀 明治年5鹿島神社

封内 

32

64

鹿島社

(黒川郡大衡村)

 亀岡

 

明治41八幡神社に合祀

大系

 

65

鹿島明神

黒川郡奥田村

(大衡村奥田) 大蛸屋敷

 

地主大たこ屋敷

御百姓喜助・甚兵衛

風土記

 

66

八幡神社

黒川郡吉岡町

(大和町吉岡) 町裏

 

応神他13のうちにA

明細帳

 

67

鹿 嶋

天足別神社

黒川郡大亀村

(富谷町大亀) 和合田

AB

大亀明神 式内 苗裔神

黒川郡1  明治初め現社号

風土記 

31

68

八幡神社

本吉郡小泉村

(本吉町) 外尾

 

誉田別命他11神のうちA

明細帳

 

69

久須師

神社

本吉郡志津川町清水浜

(南三陸町) 松井田

BA他1

もと大天場十二神

または薬師

明細帳

 

70

鹿島神社

登米郡米谷邑

(登米市東和町米谷)

 

900年前の古社  別当

鹿島山神宮寺常善院 要石

封内

 

71

鹿嶋社

本吉郡南方水戸辺村(南三陸

町戸倉水戸辺)     鹿嶋山

   

風土記

 

72

鹿嶋社

本吉郡南方折立村

(南三陸町戸倉折立)権現山

 

行基勧請 

風土記

 

73

鹿嶋社

本吉郡南方十三浜

(石巻市北上町十三浜) 大平

A

白浜鎮守 

風土記 

56

74

鹿 島

明神社

桃生郡橋浦村(石巻市

北上町橋浦) 西山崎

A

村鎮守 

風土記 

52

75

鹿嶋社

桃生郡福地村(石巻市福地) 鹿嶋

 

地主別当町屋敷吉兵衛

風土記

 

76

鹿嶋社

桃生郡名振浜

(石巻市雄勝町名振) 鹿嶋

   

風土記 

 

77

鹿島神社

桃生郡十五浜村大字雄勝

(石巻市雄勝町) 呉壺

A 

 

明細帳

46

78

鹿島神社

(石巻市雄勝町立浜)

   

マップル

 

79

鹿嶋社

牡鹿郡出島(女川町出島)

 鹿嶋林

 

村鎮守 鹿島山

風土記

 

80

鹿島神社

牡鹿郡竹ノ浜

(石巻市竹浜) 

   

封内

 

81

鹿島神社

牡鹿郡田代浜(石巻市

田代浜) 大泊 

   

封内 

55

82

鹿嶋社

牡鹿郡陸方沢田村

(石巻市沢田) 宮前

A

村鎮守 白鳥明神とも 

風土記 

53 

83

鹿 島

御兒神社

牡鹿郡陸方真野村

(石巻市真野) 鹿島山

 

葛西家御下りの節鹿嶋

古社再興 鹿島腰掛石

風土記 

 

84

鹿 嶋

御兒神社

牡鹿郡陸方門脇村(石巻市

日和が丘2丁目) 好日山

A他1

村鎮守 式内 苗裔牡鹿郡1  

風土記 

15

   

石巻町大字湊(石巻市湊) 字鹿妻

 

鹿島山とも 菅原神社社地

   

85

鹿島神社

牡鹿郡湊邑

(石巻市湊)

   

封内

 

86

鹿嶋神社

桃生郡樫崎村(石巻市

桃生町樫崎) 鹿島山

AB

村鎮守 鹿島前

封内 

51

87

鹿嶋社

桃生郡中津山村端郷神取

(石巻市桃生町神取)神取山

神取鎮守 寛永7年再興 

風土記

50

88

和渕神社

桃生郡河南町和渕町

(石巻市和渕) 

BA

他6

北村3郷の鎮守 式内

船中之守護神

明細帳

 

89

鹿島社

桃生郡太田村(石巻市

桃生町太田) 北平山

寛永20年大槻五郎助勧請 

風土記

 
   

桃生郡深谷北村(石巻市北村)

 

鹿島沢堤 

   

90

鹿嶋三社

桃生郡深谷広渕村

(石巻市広渕) 鹿嶋

左宮塩釜岐神右宮経津主 

天正2葛西家臣夷内勧請

風土記 

48 

91

鹿嶋明神

桃生郡深谷大窪村

(東松島市大塩) 鹿嶋

   

風土記

 

92

鹿石神社

桃生郡鷹来村矢本

(東松島市矢本) 鹿妻

田村麻呂勧請

町史

 

93

鹿嶋神社

桃生郡小野村川下

(東松島市川下) 宿浦

 

明細帳

 

94

鹿島神社

桃生郡室浜(東松島市

宮戸室浜) 鹿島(嶌)

A

 

封内

47

95

多賀神社

宮城郡多賀城市高崎

(多賀城市) 上野

BA他3

中古塩竃神社ニ合祀ス

今左宮右宮ト称スルモノ

明細帳 

 

96

盬竃神社

宮城郡塩釜村

(塩竃市一森山)

AB

他1

式外社 弘仁式「祭塩竃

神料一万束」 奥州一宮

封内 

 
   

宮城郡(利府町加瀬)

 

男鹿島 女鹿島 男鹿島台

   

97

鹿島社

宮城郡国分松森村

(仙台市泉区松森) 鹿島

 

鹿島屋敷御百姓卯平治

風土記 

 

98

二柱神社

宮城郡和泉市市名坂

(仙台市泉区) 西裏

AB他2

もと仁和多利大権現

名鑑

 

99

鹿島神社

宮城郡和泉市福岡村

(仙台市泉区福岡) 中在家

 

福岡鹿踊

市誌

 

100

鹿島香取

神社

府城城北光明寺中(仙台市

青葉区青葉町3丁目)

 

鹿島崎 鹿島堤

封内

14

101

鹿島神社

(仙台市宮城野区銀杏町)

 鹿島下

 

現在青葉区の

大崎八幡神社境内社か

 

102

鹿島神社

仙台市八幡町

(仙台市青葉区八幡)

大崎八幡神社境内神社

6社の一つ

明細帳

 

103

鹿嶋明神社

名取郡下余田村

(名取市下余田) 鹿島

 

村鎮守 天正年中建立

阿昼屋敷に名取老女の墓

風土記 

 

104

増田神社

名取郡増田町大字増田

(名取市増田) 町浦

A

土祖命他9神のうち

旧荒神社

明細帳

 

105

鹿島神社

名取郡飯野坂村

(名取市飯野坂)

 

鹿島田(かしまでん)

大系

 

106

館腰神社

名取郡館腰村植松

(名取市植松) 山 

A

天照皇大神他13神のうち

明細帳

 

107

鹿嶋明神社

名取郡南方小豆嶋村

(名取市愛島小豆島)

   

風土記

 

108

愛宕神社

名取郡玉浦村下野郷

(岩沼市下野郷) 上中筋

A

伊邪那美命他7神のうち

明細帳

 

109

鹿嶋神社

名取郡(岩沼市下野郷館外)

A

他1

寛和年中の勧請

境内神社に香取神社

明細帳 

29

110

鹿島社

柴田郡北方支倉村

(川崎町支倉)音無

 

地主・別当

音無屋敷六右衛門

風土記

 

111

菅生神社

柴田郡冨岡村

(村田町菅生) 宮脇

A

もと六社権現 

延暦年中田村麻呂勧請

明細帳 

 

112

白鳥神社

柴田郡村田町

(村田町村田) 七小路

A

日本武尊他6神のうち

明細帳

 

113

鹿島社

柴田郡沼辺村

(村田町沼辺) 寄門

   

風土記

 

114

鹿嶋社

柴田郡入間田村

(柴田町入間田) 鹿嶋山

 

鹿島前

風土記

 

115

鹿島神社

柴田郡上川名邑

(柴田町上川名) 舘山

A

旧村社

封内 

23

116

鹿島神社

柴田郡下名生邑

(柴田町下名生)

   

封内

 
   

柴田郡(大河原町大谷上谷)

 

鹿島山

   

117

鹿 嶋

天足別神社

亘理郡鹿島邑(亘理町

逢隈鹿島字宮前)

A他2

式内・苗裔神 

鹿島 北鹿島

封内 

27

118

鹿嶋伊都乃比気神社

   

称する神社なし 社家

三品家は3神逢隈鹿島に

封内 

 

119

鹿 嶋

緒名太神社

亘理郡小山邑(亘理町

逢隈小山)   西山

A 

式内・苗裔神 社地鹿島山

封内 

28

120

鷺屋神社

亘理郡鷺屋村鷺屋

(亘理町逢隈鷺屋) 宮前

 

天之御中主神他5神の

うちAB塩土翁神

明細帳

 

121

鹿島社

亘理郡吉田村(亘理町吉田)

 鹿島林

 

無格社 伊都乃比気社か

調査報告

 

122

鹿嶋社

苅田郡郡山村(白石市郡山) 

 

烏帽子石の上に鹿嶋社跡 

田村丸立願 鹿嶋鹿島山

風土記

 
   

苅田郡(白石市白川犬卒塔婆)

 

鹿島 鹿嶋入 鹿嶋後山

   

123

鹿島神社

伊具郡藤田邑

(角田市藤田) 

 

鹿島

封内

 

124

鹿島社

伊具郡西根小田村

(角田市小田) 坊ケ入

A

村鎮守 苗裔神とも

神主石本越前守 鹿島

風土記 

24

125

鹿嶋社

伊具郡東根尾山村

(角田市尾山) 月崎

 

小名神取に香取社

風土記

 

126

鹿嶋宮

伊具郡東根小斎村

(角田市小斎) 鹿嶋山

 

別当鹿嶋山金剛寺宝成院

苗裔神伊具郡1の説も

風土記

25

 

*表の説明

 「神社名」は基本的に出典の神社名とした。

「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。

「祭神」は「武甕槌命」をAとし、「経津主命」をBとし、その他の神名は「他1」の様に記した。

空白は「祭神」が確認できていないもの。なお、いくつかの祭神の中にABが祭られている場合は、その旨備考に記した。

「出典」は、「神社名」と「所在地」の出典のみとしたが、式内社や貞観8年の苗裔神については諸論があるので代表的なものと思われるものにした。

「風土記」は、『風土記御用書出』などの通称『安永風土記』のことであり、今回はこれを基本的な出典としている。『宮城県史』4、23~28、32、『古川市史』第8巻など。

「封内」は、田辺希文編『封内風土記』(仙台叢書)で、『安永風土記』にないものを補った。

「明細帳」は、国文学資料館所蔵の『宮城県神社明細帳』20冊である。

「名鑑」は、『宮城県神社名鑑』(宮城県神社庁編 昭和51年) 

「大系」は、『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』(平凡社)

「角」は、『角川日本地名大辞典4 宮城県』(角川書店)

「マップル」は、『県別マップル道路地図 宮城県』(昭文社 2007年2版10冊)

「調査報告」は、『式内社調査報告書』第14巻(皇學館大学出版部 昭和61年2月)

一番右の「歴」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。

 

 5 宮城県の鹿島神社

  1 調査について

 宮城県の鹿島神社は、上表のとおり全126社です。

 「鹿島地名」は51か所81地名。茨城県についで2番目に多かったので、鹿島神社が多くなることは予想していましたが、調べれば調べるほど鹿島神社が新たに出てくるので困りました。

 一覧表の一番右に、例によって国立歴史民俗博物館(以下、歴博と略称)の特定研究の成果「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号をつけましたが、歴博の鹿島神社は全部で39社だけです。(1) 

 歴博の研究は『神社明細帳』を見ているというのですが、それにしては神社数があまりに少なすぎます。私は現在8県の『神社明細帳』の調査をしましたが、このすべてから歴博の一覧表をはるかに超える数の鹿島神社を見出しています。歴博の調査は、一体何を調査したのかが大きな疑問になっています。

 私の今回の宮城県調査の特徴は、何と言っても、近世の史料の通称『安永風土記』を基本にしたことで、これで足りないところは『封内風土記』で補足しました。

 近世の仙台藩の地誌編纂は、まず4代藩主伊達綱村の命で佐久間洞巌が『奥羽観蹟聞老志』(享保4年 1719)を編纂し、5代藩主吉村の寛保元年(1741)には佐藤信要が『封内名跡志』を編纂しました。それを引き継ぎ、7代重村の明和9年(1772)に田辺希文によって編纂されたものが『封内風土記』で、村の戸口、小地名、社寺、伝説などの村の実情が記述されています。そして、さらにより内容を細かく藩が指定して村々から書き上げさせていったものが、安永年間(1772~1781)のものが多いので通称『安永風土記』と称される『風土記御用書出』などの一連の書き出し文書になります。この『安永風土記』は、『宮城県史』23~28巻と補遺(4、32巻)にまとめられていましたので、わりあい簡単に見ることができました。

 すでに岩手県などのところでも述べましたように、鹿島神社の調査をすっかりやり直させられたのが、この『安永風土記』との出会いでした。それまでは歴博の一覧表に、私が「鹿島地名」の調査で見つけた鹿島神社を補充すれば十分と思っていたのですが、『安永風土記』を見ると今まで知らなかった地域からも鹿島神社が次々に出てきました。それこそ近現代の史料では表面上分からなくなってしまっている鹿島神社が、これらの近世史料からかなりはっきりと出てきたのです。 

 今回は、これに加えて国文学資料館所蔵『宮城県神社明細帳』(以下『神社明細帳』と記す。)も調べました。念のため、1976(昭和51)年の『宮城県神社名鑑』(以下『神社名鑑』と記す。)も見ました。市町村史のたぐいもかなり見ました。宮城県の鹿島神社の問題はなかなか難しい問題がありますので、ある程度見通しを立てたいと思っていたからです。

 『神社明細帳』と『神社名鑑』にあたった時、これで神社合祀の経緯が分かると思ったのですが、またまた判断つかないものがかなり出てきてしまって、一覧表にはそのまま出すことにしました。したがってダブっているものもいくつかありそうな気がしています。しかし一方失われた神社がさらにありそうな記述も出てきました。

 たとえば、一番極端なのは、35の大崎市三本木の「八坂神社」です。祭神は素戔嗚命、他23神は1894(明治27)年と1909(明治42)年に「現三本木町内各区の村社ならびに無格社26社を合祀し、町の総鎮守となった。」(2)とあります。神様の数が23神と26社で合いませんが、『神社明細帳』によるとこの内7社が鹿島社ということです。三本木町の町内にかつて7社の鹿島社があったことがわかりました。これらは、明治の半ば以降「八坂神社」に合祀されてしまったわけです。ここから一覧表は7社と数えたいところですが、今は保留状態にして、近世の記録で確認してからの課題にしました。

 同じようなケースはいくつかあります。47の遠田郡美里町関根の「北鹿嶌神社」は祭神がAAで、武甕槌命が重なっています。明治以降の『神社明細帳』の情報です。どうやら一柱の神は他からもってきて合祀したものと思われます。46に同じ関根の「鹿嶋神社」があり、これは明和9(1772)年の『封内風土記』の情報ですので、47に合祀された可能性があると思いました。ところが歴博の一覧表にも出ていて、現在の地図上でも確認できますので、どうやら別の鹿島社を合祀したものと思われます。これも今のところ確認できていませんので、AAを2社とは数えていません。

 もう一つふれておきます。101の仙台市宮城野区銀杏町鹿島下の「鹿島神社」は、『角川日本地名大辞典4 宮城県』に昭和20年から40年まであった「鹿島町」という町名に関し、「町名は地区の北方にかって鹿島神社がまつられていたことから名付けられた字鹿島下による」とあったことから採ったものです。しかし、現在はこの神社はありません。103の「大崎八幡神社」の境内社に「鹿島神社」がありますので、これかも知れないと思っていますが、残念ながら確認できていません。ここはダブっているかも知れないのですが、確認するまではこのままにしておきます。

 今回は、地名のみで神社がないところも表に示しました。どこかの時点までは神社か祠か何かがあったはずと思われますが、今のところ見つかっていないものです。これは通し番号から外しています。

 『安永風土記』と『封内風土記』では、「鹿島(嶋)社」や「鹿島神社」と社名だけしかわかりません。しかし、『神社明細帳』や『神社名鑑』などでは祭神名が分かります。そこでこの二つから祭神武甕槌命が確認できる神社は、ほとんど採用することにしました(3)。合祀された神社を遡ってみていくと、「鹿島(嶋)社」などの摂末社や境内社であったり、近くの村々の小社、小祠であることがはっきり示されている史料に出会います。この一覧表はそうしたものを出来る限り拾い集めたために、この数になったわけです。

 現代の地図で確認していながら、市誌や町村史で確認できなかった神社があります。16と79です。新しくできた神社の可能性がありますが、例によって、確認できるまではとりあえずこの一覧表に載せておきます。

 

  2 盬竃神社

 一覧表のうち、まず最も大きな問題と思われるのは、97の盬竃神社でしょう。

 盬竃神社の祭神は種々の説あって一定しなかったと言われますが、仙台藩4代藩主の伊達綱村が元禄6年(1693)家臣に命じて各地の神社、祭神に関する諸書・諸説を調査させ、京都の吉田(卜部)兼連述・近衛基煕加筆のかたちで縁起を作成したものが現在の祭神といいます。左宮に武甕槌神、右宮に経津主神、別宮に岐神の3神です。(4)

 実際の神社の配置を見ても、正面に左宮と右宮、右手の奥に別宮がある形になっていて驚かされます。主神の位置に鹿島の武甕槌命と香取の経津主命が祀られ、本来の土地の神を別宮として脇に追いやってしまったかのように見えます。しかも別宮の祭神も、塩土老翁や猿田彦命など諸説があって、元宮司押木耿介の『盬竃神社』は塩土老翁で通しています。ことはそう簡単な話ではなさそうです。

 結局、押木耿介は諸説を検討したところで、「私自身は、古くは盬竃大神であり、しいて神名をあてるようになったのは、おそらく鎌倉以降のことと思うのである。」と言っていますが、私もこれが妥当なところかと思います。

 それでは、武甕槌命や経津主命はどうなのかということが問題でしょう。

 私が注目するのは、鎌倉時代の延慶2年(1309)に作成された『春日権現験記』の伝承です。『春日権現験記』は、藤原氏が氏神の春日明神の霊験を描いて奉納した絵巻物ですが、その巻一の第一段の冒頭とも言って良いところで、

「その源を尋ぬれば、昔、我が朝、悪鬼・邪神明け暮れ戦ひて、都鄙安からざりしかば、武甕槌の命是を哀れみて、陸奥国塩竃浦に天降り給ふ。邪神霊威に畏れ奉りて、或ひは逃げ去り、或ひは従ひ奉る。その後、常陸国跡の社より鹿嶋に移らせ給ふ。遂に神護景雲二年春、法相擁護の為に御笠山に移り給ひて、三性五重の春の花を弄び、八門二悟の秋の月を嘲り給ふ。・・・」(5)

とあるのです。

 かなり有名なところですが、そもそも鹿島の武甕槌命は、はじめ陸奥国塩竃浦に天下り、その後常陸国鹿島に遷り、最後に大和国御(三)笠山に遷って春日の神になったというのです。

 ふつう、鹿島の武甕槌命は香取の経津主命と共に、中央から陸奥国へ下っていって蝦夷を征伐したと説かれるのですが、この伝承は武甕槌命のみで経津主命はいません。そしてその武甕槌命に関しまったく逆の動きを示し、塩竃から南下して鹿島、さらに春日に来た北方の神にしています。

 従来は、この伝承を取るに足りないものとして、ほとんど無視してきました。しかし、鎌倉時代後期の藤原氏がこれほど明確に記した伝承、氏社春日明神4座の中心に祀った武甕槌命の来歴に関する伝承を、取るに足らないとして無視するのはあまりに不可解な話です。(6)

 その理由は第1に、この伝承が、武甕槌命に深く関わり、自らの祖神として春日の神4坐の内に包摂してしまった藤原氏が、その神の霊験を記した宝物の絵巻物の冒頭で神の来歴を語ったものですから、いい加減なことを書くはずはないことです。

 藤原氏は、鹿島大神について初めて記し、その鹿島も含めた常陸国の制圧の血塗られた記録を記した『常陸国風土記』の編纂に、藤原不比等の3男藤原宇合が係わったとされています。鹿島神郡の建郡には中臣氏が係わっていました。後には藤原(中臣)鎌足が鹿島で出生したとの伝説も生まれています。藤原宇合は式部卿の時、神亀元年(724)には持節大将軍として、陸奥国の海道蝦夷の反乱を平定しています。

 有名な多賀城碑には、多賀城が神亀元年大野東人によって建置され、天平宝字6年(762)恵美(藤原)朝猟によって修造されたとあります。藤原朝猟は藤原仲麻呂(恵美押勝)の3男であり、この時代には積極的な東北経営がなされたといわれています。当然盬竃神社とも無関係とは思われません。他にも藤原氏は何人も東北経営には直接係わっています。

 このような経過をふまえて、藤原氏は、鹿島大神を武甕槌命とし、やがて鹿島武甕槌命・香取経津主命を遷座して祖神河内枚岡の天児屋根命と比女命とともに4神にまつって春日神社としたわけです。

 藤原氏は、陸奥国の塩竃大神、常陸国の鹿島大神ともに十分に関わってきた歴史を踏まえた上で『春日権現験記』という絵巻物を作成したわけで、藤原氏の総力を挙げて作成した一族の宝物の中に書かれた伝承です。取るに足りない話なら、わざわざ書く必要もなかったはずです。しかもなぜ、経津主命と共に中央から派遣された征夷の神と書かなかったのかの方が不審です。むしろ、そういう伝承は藤原氏の中にはなかったというのが率直な見方でしょう。

 第2に、本来の土地の神ではないかといわれる別宮の、神官の一の祢宜は「男鹿島太夫」と言われていることです。ここになぜか「男鹿島」が登場します。「男鹿島」は「小鹿島」でもあり、秋田県の男鹿島とも通じます。

 もっとも別宮はややこしく、先にもふれましたが、祭神については岐神、塩土老翁、猿田彦神などの諸説があり、今の神社配置も近世初頭までは違っていて、それまで別宮自体がなかったようです。別宮の位置には、貴船(木舟)社と只州社があり、只州社は外に移され、貴船社が別宮になったといわれています。その貴船社が「地主の神」で、「龍宮より上り給ふ御神にて、始めて塩を焼き給ふ由、社人の説あり。」とも「御釜之神」ともいわれていて、この一の祢宜にも「男鹿島太夫」はなっています。(7)

 「男鹿島太夫」は明応6年(1497)の鐘銘や天文頃の記録にも出ていますので、古い社家といって良いでしょう。

『利府町誌』によると、別宮一祢宜「男鹿島太夫」鈴木氏の藩政時代の居住地は、加瀬村の「女鹿島」、二の祢宜鈴木氏は加瀬村の「男鹿島」であり、別宮の神官達がすべて加瀬村に居住していたとあります。それどころか盬竃神社の社人の多数が居住していたとあり、「どうしてわざわざこのように不便な加瀬村に居住していたのだろうか。」といぶかっています。なぜそうなのかはわかりませんが、「鹿島」地名のあるところに盬竃の神官達が集中していたというのは興味深いものがあります。(8)

 『盬竃神社縁起』には、「塩土老翁、始めてこの浦に下り、塩を焼くを民に教う。故に塩竃浦と称す。御釜今にあり。別宮の社人これを掌す。」とあり、貴船社の神事を引き継いで、今日も特殊神事として「藻塩焼神事」が行われています。この最も重要な神事を掌るのが、やはり「男鹿島太夫」たちであるといっています。ここに武甕槌命ではありませんが、「鹿島」が関わってくるのです。(9)

 盬竃大神と「鹿島」とは深くつながっていると言って良いでしょう。『春日権現験記』の伝承はそのことを示したものではないでしょうか。

 現在、この神事は境外末社のお釜神社で行われていて、ここにはその神竃が祀られています。その神竃は今では鉄竃となっていますが、松島湾一帯の製塩は土器製塩の歴史が長く、縄文時代から平安時代まで続いていました。鉄竃になるのはその後の時代といわれています。そうすると盬竃神社の塩焼き竃は、本来鉄竃ではなく製塩土器と考えるべきでしょう。

 塩竃の竃は、しかも鉄釜のような上部の釜だけのものではなく、火を焚く部分も含めた「かまど」を考えるべきです。したがって塩を焚く「かまど」「かま」の総体が本来の神竃というべきものであったわけです。生命の源の塩を作る「かまど」の神だからこそ、「安産の神」ともなるのではないでしょうか。

 盬竃神社へは、安永4年(1775)藩主重村が娘の安産祈願をしています。江戸時代に別当法連寺が「安産掛軸」を配布していますが、そこには「推古二年申寅七月始御安産祈奉行神事式祭等・・・」とあり、古くからの伝承を記しています。江戸時代にはかなり広く安産守護神として知られていたようです(10)。実は鹿島大神も安産の神として有名です。盬竃大神と鹿島大神の大きな類似点の一つがここにもあります。

 ところで、「かまど」の神としては「カマ神」「竈神さま」があります。「宮城県から岩手県南部の旧仙台藩領を中心に、竈の神として祀られてきた「カマ神」は、土や木で作られた面で多くは憤怒の形相をとる」といわれます。塩竃神社には、この土製・木製の「カマ神面」10面が県文化財に指定されてあるということです(11)。私はこれこそ、塩竃大神、塩竃大明神に係わるものではないかと思うのです。

 もう一つ、塩竃大明神の貴重な伝承が『安永風土記』にあります。

 松島の海上「七曲り水戸」に関し、

「右は一宮大明神天降り給い候節、御踏み分け成され候水道の由申伝え候事」「一宮大明神鯱(シャチ)に乗り、この浦に天降り給う、その水路屈曲いたし候由申伝え候・・・」(12)

 一宮大明神とは塩竃大神のことですが、その塩竃大神はシャチに乗って、七曲り水戸を踏み分けて天降ってきた、そして民に塩焼きを教えてくれたというのです。

 押木耿介『盬竃神社』では、「むかし、武甕槌・経津主の二神が東征にあたって、シャチにのった塩土老翁に案内され、塩竃にいたって降臨されたので、ここに東北の鎮めとして祀られたといわれ、その降臨の具体的な地が七曲坂であるという伝承がある。」とよく似た話を記しています(13)。しかしながら、村の伝承の方が海を渡ってきた神の本来の姿を示しているように思われます。

 シャチに乗って、屈曲した回路を天降ってきた神は一宮大明神1神であり、「塩土老翁」のような案内役ではありません。「塩土老翁」は穏やかな物知りの神のイメージですが、シャチに乗った神は勇猛な「カマ神」の憤怒の面の方が合いそうな気がします。

 盬竃神社の初見は、『弘仁式』(820年)「主税式」の「祭盬竃神社料一万束」です。この祭祀料は『延喜式』(927年)も同様です。伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束といいますからケタ違いの扱いを受けています(14)。それだけ古代において大きな霊力を持った神として畏れられて陸奥国に祀られていました。

 押木耿介は「当時、国家よりこうした厚遇をうけた神社はほかにはみられないので、その特殊性が知られる」としながら、『延喜式神名帳』に記載がないこと、「その後の歴史においても神位勲等などを授けられた形跡が見られないことである。国家のこのやや相反するような当社への崇敬の意味はどう解すべきであろうか。」と述べています(15)が、この謎は今までの研究者が全てもっていたもののように思われます。

 祭式料一万束の厚遇の一方で、式内にも入れられず、神位勲等も授けられないのはどうしてかということです。確かにこれは大きな疑問というべきです。

 左宮武甕槌命・右宮経津主命が入ってもダメなのかという感じですが、これは時代が後になってからの話と思われ、一覧表96「多賀神社」の『神社明細帳』の説明によると、祭神経津主命と武甕槌命は「中古塩竃神社ニ合祀ス。今左宮右宮ト称スルモノ是也」とあります。おそらく経津主命とセットになった東征の神武甕槌命を加えたのは、かなり後世になってからのものと思われますが、これとは別に、祭神は塩竃大明神あるいは塩竃大神とされ、神官は「男鹿島太夫」と称していた、これが盬竃神社の本来の姿ではなかったかと思われるのです。

 そしてこの神が、律令国家にとっては大きな霊力を恐れられながら、一方で、律令国家にとってはなおコントロールできない神、「まつろわぬ」神ではなかったか、だからこそ、『延喜式神名帳』には入れられなかったし、神位勲等も授けられなかったということではないでしょうか。9世紀から10世紀にかけて律令国家が最も畏れた神であったからこそ、「祭祀料一万束」によって和らげ鎮めようとしていたわけです。

 私は、表面の祭神武甕槌命とは別になっていて、隠されてしまっているような神官「男鹿島大夫」こそ、『春日権現験記』の武甕槌命の原像を示していると思うのです。

 全国の「鹿島」地名を調べ、鹿島神社(武甕槌命を祀る神社を含む)を全国的に調べていますが、その成果を青森・岩手・秋田・山形とまとめてきました。その中で、鹿島信仰にはかなり北方的要素がありそうだという感触を、今持ってきています。(16)

 

  3 貞観8年の大神苗裔神について

 『三代実録』巻一二の貞観8年(866)正月20日条に、鹿嶋神宮司が陸奥国にある大神の苗裔神38社をあげて、奉幣するため入関の許可を求めたことなどを記しています。この結果の入関を許した太政官符が『類聚三代格』巻一にあり、ここにも苗裔神は同じように出ています。これも、鹿島の神の話の中ではかなり有名なところです。

 苗裔神は、

「菊多郡1 磐城郡11 標葉郡2 行方郡1 宇多郡7 伊具郡1 日理郡2 宮城郡3 黒河郡1 色麻郡3 志太郡1 小田郡4 牡鹿郡1」

とあり、郡ごとの神社数はわかりますが、具体的な神社がわかるわけではありません。

 同条はその後に、延暦(782~805)から弘仁(810~823)まで鹿嶋神宮の封物を割いて苗裔神に奉幣していたが、それが絶えたために諸神の祟り、物の怪がひどくなった。そこで嘉祥元年(848)に宮司らが奉幣するために陸奥国に向かったが、入関が許されず、やむなく関外の川辺に祓い棄てて帰ってきた。その後も神の祟りは止まず、神宮の境内でも疫病などが広がった。そこで陸奥国に下知して、諸社に大神の封物を奉幣して神の怒りを解くために関の出入りを許してほしいと願い出た話があります。これに対しての太政官符が『類聚三代格』のものです。

 さらにもう一つ話があります。鹿島神宮の修造のための用材を常陸国那賀郡から採っていたが、大変煩いが多いので宮の周辺に栗樹、杉樹を植えたいとこれも願い出て、許可を得たとあります。(17)

 ここには陸奥国の苗裔神の話と常陸国那賀郡の用材の話がありますが、苗裔神の話は、「諸神の祟り、物の怪」が国家にとって大問題になっていることを示していると思われます。大変おもしろい史料で、この問題全体を評価した上で苗裔神を見ないのは危険なこととは思いますが、今ここでは深入りしません。福島県・茨城県の鹿島神社を検討した上でふれるべきでしょう。とりあえず、宮城県内の苗裔神の問題だけに留めておきます。

 「苗裔」とは、『大辞林』によると「遠い子孫。末裔。末孫。」とあります。『常陸国風土記』では「香島の神子の社」とあるものがいくつか出ていて、『延喜式神名帳』にも「鹿島御兒神社」「鹿島天足別神社」などがあり、一覧表にもいくつかあります。従来はこうした「神子の社」をイメージしていたように思われますが、そこまで厳密な「神子の社」のみを考える必要はないと思われます。

 そして従来は、この分布を解釈して、「それらは海岸伝いに北上し、今の石巻市に及んでおり、大和朝廷の勢力の北進の跡を示している。」などといわれていました。まさに征夷の神の北上を示すものとされていたわけです。(18)

 宮城県の古代の苗裔神と、『延喜式神名帳』の鹿島を名乗る神社の数と、近世を元にした今回の一覧表の数とを比較する表を作ってみました。

 近世のものは、その中で古代に由緒をもつ神社数を「古由緒」という欄に出してみました。神社の伝承ですから、それがそのまま正しいわけではありませんが、参考にはなります。(なお、古代の長岡郡は、近世では栗原郡と遠田郡に別れますが、表では罫線が引けないのでやむなく栗原郡に入っています。)

 

表 古代の鹿島社と近世の鹿島社の比較

古代の郡

苗裔神

延喜式

近世の鹿島社

古由緒

近世の郡

     

5

2

本吉

登米

   

1

 

登米

栗原

   

13

6

栗原

新田

         

長岡

         

遠田

   

6

 

遠田

小田

4

       

玉造

   

2

1

玉造

賀美

   

11

2

賀美

色麻

3

 

志太

1

 

29

3

志田

桃生

   

14

1

桃生

牡鹿

1

1

7

2

牡鹿

黒川

1

1

6

1

黒川

宮城

3

 

8

2

宮城

名取

   

7

 

名取

柴田

   

7

1

柴田

刈田

   

1

1

刈田

亘理

2

3

5

3

亘理

伊具

1

 

4

 

伊具

16

5

126

   18

 

 

 「苗裔神」は貞観8年(866)の時点のものですが、延暦年間(782~805)から鹿島神宮との経過が記されていますから、8世紀末から9世紀中頃までのものと見て良いと思います。陸奥国全体で38社ですが、宮城県内では16社です。いわゆる「奥十郡」「黒川以北十郡」といわれる地域のものが10社と多く、他は南部に6社です。

 次の「延喜式」は延長5年(927)に成立していますから、貞観8年からおよそ60年後のものになります。問題は、この二つを比較するとわずか60年で16社が5社になってしまったかのように見えます。この状況は福島県でも同様です。

 

 『石巻の歴史』は、延暦年間まで征夷の戦いにおいて「中央神、特に武神が活躍している。その典型は鹿島神であろう。」として、この苗裔神などをあげています。「しかし、大戦中は厚遇されたものの、戦争が終結した弘仁以降は奉幣がしだいになされなくなっていく。」「このように大戦争終結以降は鹿島神に限らず、中央神は陸奥国内における地位を低下させていったものと思われる。」代わって、地主神が地位向上させていると、これを解釈しています。(19)

 ここで言う大戦争は、律令国家による対蝦夷戦争のことで、最近は宝亀5年(774)から弘仁2年(811)までの征夷戦争を三八年戦争というもののようです。この戦争の間は、鹿島の苗裔神は征夷の神として厚遇されてきましたが、戦争が終わってお払い箱になったとばかりにいっています。

 しかし、戦争が終結したというのは律令国家側の把握であって、政府は戦争を止めたけれどこれ以降も関東・東北では引き続き騒擾が各地で起こり、抵抗と思われる動きも続いています。貞観8年の記事は、「諸神の祟り、物の怪がひどくなった」とそのことを示していると思われます。そして歴史はやがて大きく平将門の乱、前九年・後三年の戦い、平泉の藤原氏へと続いているのではないでしょうか。戦争が本当に終結したのだろうかという問題があります。

 『石巻の歴史』は、この鹿島神を「中央神」「武神」と単純化して言い、「中央神」と「地主神」と対立させていますが、盬竃神社で述べたようにことはそう簡単ではありません。

 近世のデータから中世、そして古代を遡及的に見ていくかぎり、鹿島信仰がどこかの時点で衰えていったとはとうてい言えません。おそらく『延喜式神名帳』の段階でも、鹿島神は数を減らしたわけではなく、『神名帳』の枠内に収まるように鎮められていなかったのではないかと思うのです。律令国家が『神名帳』の枠内に取り込めなかっただけで、これを「地位低下」と言えるのかどうかも問題です。盬竃神社がそうでした。

 表の内容に戻って、苗裔神の分布と近世のデータをつきあわせると、古代と近世の分布が重要なところで相関していないことに気づきます。

 どちらも「奥郡」「黒川以北十郡」に多く集中していると言えますが、良く見ると重大なずれがあります。

 まず志太郡の苗裔神は1社だけで、しかも明らかになっていません。志太郡には式内社もありません。しかし、近世志田郡は地名も集中していましたし、神社も29社と最も集中しているところです。志太郡、志太郷などという地名自体、関東からの移住の根拠とされているところです。ただ中世大崎氏の滅亡という大混乱によって、古い由緒をもつ神社はあまり多くないのですが、それでも3社あります。三本木地区が信太郷に比定されていますが、ここには古い由緒の神社はありません。玉造郡にも信太郷がありますが、苗裔神、式内社ともにありません。

 苗裔神がない郡もかなりありますが、近世の神社はかなりありますので、比定されてもおかしくないと思われます。苗裔神がある郡も、ほとんど比定されていません。実は、いずれの苗裔神も、あまりしっかりした伝承を残していないというのが実情です。式内社も同様です。征夷の神と称揚されていて、近世にここまで集中している鹿島神社に、輝かしい過去の伝承が残っていないのは大きな謎です。

 さらに、栗原郡にも苗裔神は全くありませんが、近世の栗原郡には13社あり、古代の栗原郡と思われる地域に古い由緒の神社は2社あります。式内社とされる香取御兒神社を相殿とする2築館黒瀬の鹿嶋社は、景行天皇の時代の勧請としています。相殿が式内社の論社になりながら、肝心な鹿嶋社が何でもないのは不審というべきです。やはり式内社とされる9表刀神社も、天平神護元年(765)の勧請とされています。

 近世栗原郡の4社は古代長岡郡にあったと思われますが、12古川桜ノ目の鹿島神社は、今では式内社といわれる志波姫神社に合祀されています。別当は鹿嶋山桜目寺で、村名はここからきたということで、用明天皇手植えの桜の伝承を持っています。これらの伝承はそのままは信じがたいものですが、かなり古い由緒をうかがわせるものです。

 桃生郡も苗裔神はありませんが、近世は14社、古い由緒の神社は1社あります。柴田郡、刈田郡も苗裔神はありませんが、古い由緒の神社は各1社あります。柴田郡、刈田郡は「海岸伝いに北上」のルートとは言えません。

 刈田郡の1社は白石市郡山の122鹿嶋社ですが、『安永風土記』では旧跡として「鹿嶋社跡」になっています。ここには「往古田村丸御下向の節、このところの鹿嶋明神社へ立願成され候由申し伝え候。」とあり、坂上田村麻呂一行がここを通っていったとあります。その際祈願した鹿嶋社ですからかなり重要な鹿嶋社と思われますが、苗裔神でもなく、近世には廃れていました。(20)

 征夷戦争に活躍した神であるなら、伊治公呰麻呂の乱の呰麻呂の拠点と思われる栗原郡にないのはおかしい気がします。志太郡は鹿島神社が集中していたのですから、もっと重要な地点であったと思われます。岩手県の前線の重要拠点にも苗裔神はまったくありません。胆沢城の鎮守は八幡神社です。多賀城にも鹿島社はありません。

 苗裔神と式内社の従来の解釈は、『古事記』『日本書紀』の神話に引きずられて何か先入観が過ぎるような感じがしています。私は、一つ一つの鹿島神社の伝承を見ながら征夷戦争との関連を考えてきましたが、どうも違うぞという感じを抱くに至っています。

 まず、この苗裔神だけの分布で鹿島神を論ずるのは間違いであると思います。60年後の「式内社」は、数が少なすぎるだけではなく、征夷の神であるならばこの時点でもっと重要な地域の鹿島神社が選ばれるべきだと思うのですが、そうなっていないのが一番大きな問題というべきでしょう。

 そもそも征夷の神の根拠となるのは、『古事記』『日本書紀』の神話を除けばあまりありません。

 一つは、延暦元年(782)に、陸奥国が「鹿島神に祈祷して兇賊を打ち払いました。鹿島神の霊験は偽りではありません。位階を授けられるように」と言上した結果、勲五等と封二戸を授けたという話です(21)。これが陸奥国のどこの鹿島神かはわかっていません。

 これは宝亀11年(780)伊治公呰麻呂の反乱で、按察使紀広純らが殺害され、多賀城が焼き払われた事件に対し派遣された征討使に関わってのものと思われますが、さして成果を上げられなかった征討といわれています。しかも天応元年(781)には天皇が譲位し、間もなく亡くなっています。状況から考えると、鹿島神の慰撫のような感じがあります。

 もう一つは、延暦7年(788)に蝦夷征討のため大動員を命じたとき、「常陸国の神賤」すなわち鹿島神社の神賤を動員したことです。鹿島神社には神賤と呼ばれる賤民がいました。そして、賤民を兵士に徴発したのはこの例だけのようです。(22)

 鈴木拓也は「鹿島神(武甕槌神)は征夷の神として信仰されてきた経緯があるので、鹿島神宮から兵を出すことによって鹿島神の加護を期待したのであろう。」と言っています(23)が、この征夷戦は蝦夷の阿弖流為らによって征夷軍が大損害を出して敗れたことで有名です。「鹿島神の加護」どころか祟りがあったと思ったのではないかと疑います。実際、この戦いの経過の記述はかなりありますが、鹿島の神賤がどのように活躍したかは何の記述もありません。そしてこの後の征夷戦、有名な坂上田村麻呂の登場する征夷戦などでは、もはや動員さえしていないのではないかと思われます。

 古代の戦争は神霊戦、宗教戦争の面が強いので、これらは縁起の良い話ではないはずです。私は征夷戦に関しての常陸国の鹿島神宮の役割も気になります。常陸国の鹿島神社はこのころは大和春日に遷座し、藤原氏の氏神化がすすんでいました。

 苗裔神の話も、征夷戦が終わったとしてから50年以上後の話です。この前後には、貞観6年の富士山の大噴火や貞観11年の陸奥国巨大地震・大津波など大きな天変地異が引き続きました。これらは神の怒り、祟りと受け止められていたと思われます。したがってこうしたことを総合的に把握して、苗裔神の史料などを慎重に見直す必要があると思われます。

 

  4 三つの「鹿島御兒神社」

 牡鹿郡の鹿島苗裔神1社に、石巻市の「鹿島御兒神社」が比定されています。ここは延喜式内社にも比定されています。ところが、同市内にあと二つの同名社があったことがわかってきました。

 石巻市の「鹿島御兒神社」といえば、牡鹿郡陸方門脇村、現石巻市日和が丘の好日山(日和山 ひよりやま)上の85鹿島御兒神社をふつう言います。

 祭神は武甕槌命と鹿島天足別命。有名な神社で、場所も石巻港を眼下に望む絶好の位置にあるような気がします。しかしながら、どうもあまり古い確かな伝承はなさそうです。(24)

 『封内風土記』は、「土人は鹿島大明神と言う。この村の地主神である。いつ勧請されたかはわからない。・・・伝承では、旧社は好日山の西北にあり、ここを鹿島台といっている。葛西家が築城したため今の社地に移った。享保19年旧社地鹿島台に土地を賜い移った。」と言っています(25)。好日山は、現在は日和山と記されています。その西北に鹿島台があるとありますが、『葛西氏考拠雑記』によると好日山は鹿島山とも言われていて同じ土地をさしています(26)。ここに永仁年中(1293~99)葛西氏が築城し、その南麓に移ったが、享保19年(1734)に藩に願い出て戻ったということのようです。

 大事なことは、通称「鹿島大明神」といい「村の地主神」であったことと、葛西氏が宝物等寄進してきたとは言え、築城にあたって動かしていることからあまり重要視はしていなかったのではないかと思われることです。延喜式内社の伝承があれば城内に置くことも考えられ、葛西氏は簡単には動かさなかったのではないかと思うのです。

 牡鹿湊から石巻湊への発展も近世以降のことと言われています。つぎに示す、真野の鹿島御兒神社の方が古いのではないかと思われます。

 古代の牡鹿柵について、「その所在地は、長いこと石巻市日和山の地と考えられてきたが、最近遺構・遺物等から桃生郡矢本町赤井星場御下囲遺跡が有力視されている。」(27)といいますので、征夷の神としては城柵から離れすぎてしまったという感じがします。

 二つ目のものは、すでにふれた牡鹿郡陸方真野村(現石巻市真野)の84鹿島御兒神社です。

 『安永風土記』でこの鹿島御兒神社を初めて見つけたときは驚きました。同じ鹿島御兒神社が二つあったということもありますが、真野村の真野川、真野の萱原と鹿島御兒神社のセットは福島県鹿島町の真野と全く同じであったからです。福島県の方は、『和名抄』の行方郡真野郷とされ、常陸国行方郡との関連が想定できます。そうすると、常陸国行方郡・香島の神子の社→陸奥国行方郡真野郷・鹿島御兒神社→石巻市真野・鹿島御兒神社という関連が見えてきます。

 『安永風土記』によると、村名の由来は、往古は入江となっていて、船着場があり、楫取島などの島もあり、入江真野となったので真野と唱えてきたとあります。真野川が流れ、長谷寺境内には名所真野の萱原もあり、小名鹿島山に鹿島御兒神社があります。

 鹿島御兒神社については、葛西家が関東から船で当国へ下ってきた節、当村へ初めて居館を作ったが、その館の丑寅に鹿島古社を再興された、当社参詣の時三葉柏を鳥がくわえ来て神前に落としたので、葛西家の御家紋とされたとあります。(28)

 『石巻の歴史』の「中世編」には、この伝承と関連して真野の伝承を詳しく紹介しています。

 そこではまず、「古代の真野は真野公の勢力下にあった。」「真野の地が牡鹿郡の政治的中心であった可能性は、その立地条件や古代の真野公の根拠地であったことなどから見ても、否定できない。」と述べ、この「古代における『田夷』の首長、真野公によるリーダーシップにとって代わって、高橋氏の一統によるそれが確立されたのは、平泉藤原氏の統治が始まる辺りのことであったろうか。」とし、「平安後期から鎌倉前期において、都市平泉の玄関口の役割を果たした牡鹿湊は、真野の入江(古稲井湾)の辺りに位置していた。」と言っています。どうやら古代から中世にかけて、真野の入江が大きな役割を果たしていたようです。(29)

 ここに出てきた「真野公」は木簡からも確認され、弘仁6年には遠田郡の真野公が真野連を賜姓したなどと出てきます。「田夷」、蝦夷系の豪族です。(30)

 また、高橋氏は「高橋郡司大夫」といわれ、「真野村には葛西氏が再興した零羊崎神社・鹿島御兒神社・香取神社の三社がある。高橋郡司大夫は葛西氏が入部する以前からこの地にいたものであるが、三社の再興の時にその社家になったというのである。また高橋郡司大夫の子孫は江戸時代には修験となり、真野村の観寿院という修験に住したという。」と述べています(31)。『安永風土記』によると、観寿院は鹿島山明覚院と改めたとあります。

 また牡鹿湊については、鎌倉後期から南北朝・室町期にかけては、「真野入江の港湾機能の大半が失われ」、その代わりに「御所入江が、牡鹿湊の呼称を専らにすることになった。」とし、やがて近世にかけては石巻湊が発展していったと変遷を述べています。(32)

 「田夷」の首長真野公、高橋郡司大夫、葛西氏などとの関わりを見ると、この鹿島御兒神社はかなり古い歴史をうかがわせています。牡鹿柵が矢本町赤井遺跡(現東松島市)とするならば、地理的には旧北上川を挟んでちょうど対峙する位置になります。

 三つ目は、湊村(石巻市湊)の鹿島御兒神社です。

 『封内風土記』の「湊邑」に、「神社凡十七」とあって、零羊崎神社以下が列挙されていますが、その中に、鹿島御兒神社、香取神社、浮洲神社があり、いずれも「何時勧請かを詳らかにしない」としています。

 しかし、『安永風土記』『神社明細帳』などではこれが確認できません。そこで保留にしていますが、『神社明細帳』の字鹿妻の菅原神社が祭神菅原道真だけでありながら、小名「鹿島山」を朱書きで記入していたのです。その朱書きの意味が、字鹿妻の小名「鹿島山」なのか、鹿妻を訂正して「鹿島山」なのかわかりませんが、いずれにしても「鹿島山」の地名がここにあるということがわかりました。つまりは、おそらく鹿島御兒神社がここにあったのではないかと思うのです。何らかの事情で廃社になったものでしょうが、残念ながらそれ以上は不明のままです。

 以上、三つの鹿島御兒神社が石巻市内にあったということで、三つあってもおかしくはありませんが、日和山の鹿島御兒神社だけを考えていた従来の考えは訂正せざるを得なくなったのではないでしょうか。

 

  5 分布でわかってきたこと

 「表 古代の鹿島社と近世の鹿島社の比較」の近世の分布に戻ります。

 すでにふれましたが、志田郡に29社と圧倒的に集中しています。現在の大崎市古川地区と三本木地区で、古代の志太郡にあたる地域とされています。これは地名の分布でもそうでした。日本中で見渡しても、これは大変特異な現象と思われます。

 その次が、桃生郡の14社、栗原郡の13社、賀美郡の11社になります。

 また、牡鹿郡7社から本吉郡5社、登米郡1社、岩手県になりますが気仙郡4社は、古代で言えば「海道」といわれていましたが、その「海道」奥深く広がっていたのでいささか驚きました。 

 これを地図上に落としてみると、古代の「奥十郡」「黒川以北十郡」といわれた地域に大きなひとかたまりが見えると思われます。

 もちろん古代の栗原郡と桃生郡は、「奥十郡」の中に入っておらず、その周辺部ですが、ここにも広がっています。近世の栗原郡は古代の新田郡、長岡郡を含み、遠田郡は小田郡を含むと言いますから、試みに鹿島神社を数えてみると、古代の新田郡は2社、長岡郡は4社、小田郡は4社となります。

 ここから「奥十郡」の「牡鹿・小田・新田・長岡・志田・玉造・富田・色麻・賀美・黒川」郡(冨田郡は延暦18年に色麻郡に合併)を計算すると、65社にもなり、宮城県の鹿島神社の半数を超えます。郡域については諸説ありますので、多少の誤差はあると思いますが、おおよその傾向は変わらないと思います。

 問題は、それではなぜここにこれだけ集中するのかと言うことです。しかし、中世・近世のこの地区の歴史にそうさせて来た要因を見つけることはできません。やはり、古代しか原因は考えられないと思っています。

 志田郡については、やはり古代志太郡の名称に関わることしか考えられません。志太郡には志太郷もあり、玉造郡に信太郷もあります。これらは常陸国信太郡、駿河国志太郡と関係があり、そこからの人の移動が考えられています。私も、駿河国志太郡→常陸国信太郡→陸奥国志太郡志太郷・玉造郡信太郷の地名の移動、すなわち人の移動と考えるのが一番あり得る想定だろうと思います。

 しかし移動の原因については、いささか違ったことが考えられると思います。

   『常陸国風土記』(33)逸文には、「筑波・茨城の郡の七百戸を分ちて信太の郡を置けり。この地は、本、日高見の国なり。」とあり、もう一つ、黒坂命の死に関わる話もあります。黒坂命は陸奥の蝦夷を征討して凱旋したが、途中で病死します。その後棺を乗せた車をひいて日高見国に到着した。葬具の赤旗青旗が翻り、野を照らし道を輝かしたので、赤旗の垂(しだり)の国といったので、信太の国と言うようになったというのです。

  『常陸国風土記』茨城郡の条にも、もと茨城国といって「つちくも」「やつかはぎ」が住んでいたが、黒坂命は皆が家を出て遊んでいるところを突然騎兵で追い立て、攻め殺したとあります。

     ここからわかるのは、常陸国信太郡は、もと日高見国といい、その後蝦夷征討の黒坂命の拠点になったということです。黒坂命の征討軍はここを出発して、茨城国でも住民を責め殺し、陸奥国まで進軍し凱旋して戻ってきたが、黒坂命は途中で病死したということです。

     そうすると、ここから日高見国や茨城国の人々、あるいは陸奥国の人々はどこに避難したのでしょうか。黒坂命の征討軍に追われて陸奥国の奥深く避難したに違いありません。事実陸奥国には、日高見川の訛りと考えられる北上川が流れ、桃生郡には日高見神社があり、岩手県水沢市にも日高神社があります。日高見の人々が避難して集住したところを、常陸国と同様に志太郡志太郷、あるいは信太郷と呼んで後に編成したということが考えられます。

     真野の鹿島御児神社に関して、常陸国行方郡・香島の神子の社→陸奥国行方郡真野郷・鹿島御兒神社→石巻市真野・鹿島御兒神社という関連を指摘しました。ここも人の移動を考えてもよいところです。

 常陸国の行方郡にも移動の原因がはっきり書かれています。有名なところですが、那賀国造の初祖建借間命が安婆の島から板来村へ侵攻し、攻めあぐんだとき、船を筏にし、蓋をひるがえし、旗をはためかせ、7日7夜琴や笛をならして歌い舞ったところ、男も女も浜に出てきて楽しみ笑った。そこを後から騎兵が襲って皆殺しにした。「此の時、痛く殺すと言ひし所は、今、伊多久の郷と謂ひ、臨(ふつに)斬ると言ひし所は、今、布都奈の村てと謂ひ、安く殺(き)ると言ひし所は、今、安伐(やすきり)の里と謂ひ、吉く殺(さ)くと言ひし所は、今、吉前(えさき)の邑と謂ふ。」ということで、現潮来市の地名が比定されています。

 記紀によく出ている「だまし討ち」の典型です。この記述の問題については、茨城県のところですべきことですが、大事なことは、これは建借間命が鹿島国へ侵略した事件の前段と思われることです。このひどい殺戮戦によって多くの人々が、常陸国から避難していったに違いありません。もちろん黒坂命と建借間命は時期の異なる話になっていますが、陸奥国に人々が移動する要因としてわかりやすい事件ではないでしょうか。

 「真野公」が「田夷」であるというのは、日高見の人々と同様です。律令国家側が「まつろわぬ民」、「蝦夷」と規定したにすぎないのではないでしょうか。

 「奥十郡」「黒川以北十郡」については、「華夷雑居とみられ」「蝦夷は俘囚と呼ばれ、柵戸も移住してきた。」とされ、ここと接する遠田郡は、「田夷の中心的居住地」と説明されています。(34)

 鈴木卓也『蝦夷と東北戦争』は、和銅6(713)年12月に丹取郡が大崎平野に置かれたとし、「この時期に、すでに丹取郡・志太郡などの数郡が存在していたと考えられている。」と言っています。そして「霊亀元年(715)5月には、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の6ヵ国から富民1000戸が陸奥国に移配された。これは丹取郡など大崎平野に対する移民と考えられ、50戸1里(郷)の原則からすると、実に20郷分に相当する大規模な移民である。大崎平野は後に黒川以北十郡と呼ばれる微細な郡の集合体に再編成されるが、黒川以北十郡の郷の総数は32なので、この地域の郷はその3分の2が霊亀元年の移民によって編成されたことになる。」と述べ、郷名が「上記の6ヵ国の郡名に基づくものが少なくない。」としています。そして、養老4年(720)「蝦夷の大規模な反乱としては史上初の事件がおこり」、それにより「最も大きな影響を受け」、「乱後にこれを10の微細な郡に分割し、支配体制を強化するのである。」と成立について述べています。「多賀城の創建と、黒川以北十郡および玉造等5柵の成立は、一連の施策であったとみられる。」とも言っています。(35)

 和銅6年(713)には、丹取郡・志太郡など数郡が存在していた、霊亀元年(715)には関東から大規模な移民があった、養老4年(720)の蝦夷の反乱後にこの地域を黒川以北十郡の微細な郡の集合体にした、という話になります。関東からの大規模移民があったにもかかわらず、蝦夷の反乱に対して特別厳重警戒地域に編成したのが、「奥十郡」「黒川以北十郡」というわけです。

 「玉造等5柵の成立」も一連のものとしていますが、この5柵は、「玉造柵は名生館官衙遺跡(大崎市)、新田柵は新田柵推定地(大崎市)、牡鹿柵は赤井遺跡(東松島市)、色麻柵は城生柵跡(加美郡加美町)」に比定されていて、残る1柵は名称不明とされていますが、この十郡を囲むようになっています。

 鈴木によると、関東からの大規模移民の前に志太郡は成立しています。そして大規模移民があって安定した体制になったはずのところ、「微細な郡の集合体」に再編成しています。蝦夷と移民(柵戸)は、陸奥国だけでなく出羽国においても混住しているはずで、最前線の地区も何ヶ所か考えられます。しかし全ての地区が「黒川以北十郡」のように特別地区となっていません。ここだけが「微細な郡の集合体」となっています。その理由は何かが問題でしょう。

 征夷戦は弘仁2年(811)の文室綿麻呂による征夷で終わったことにしていますが、「承和三年(836)から7年にかけてと、斉衡元年(854)・2年に、大規模な争乱が発生する。争乱が発生した地域は、『奥郡』『奥県』などと呼ばれる黒川以北の奥郡で、移民系住民と蝦夷系住民が雑居する地域であった。」「その最初の記事」によると「百姓(移民系住民)が妖言(人を惑わす流言)をして騒擾が止まず、奥邑の民が住居を捨てて逃げ出しており、また栗原・賀美両郡の百姓に逃出する者が特に多かったという。」とあります。(36)

 移民系住民が広範囲に逃げ出していったのですから、鹿島神社が移民系住民によって持ち込まれたものなら、後世これほどこの地区に集中しなかっただろうと思われます。むしろそれ以前に、常陸国の日髙見国などから避難した人々が集住していたと考えた方が、鹿島神社の説明にはなります。だとすると、「微細な郡の集合体」にして、これらの避難民の後裔の人々を分断支配する必要があったのではないでしょうか。

 私はこう考えた方が理屈に合うと思っていますが、しかし近世の鹿島神社の史料を、古代の「志太郡信太郷」や「黒川以北十郡」の説明にいきなり結び付けるのは、いささか無理もあり、もう少し間をつなぐ材料が必要だと思っています。この間をつなぐ材料をこれからていねいに探し出す必要があるでしょう。

 ところで、この地域に「宮沢遺跡」という注目すべき遺跡があります。(36)

 この宮沢遺跡は「東西1,400m、南北800mと、東北地方のこの種の遺跡の中では最大規模である。」いや、「全国でも最大級の規模を誇る古代遺跡」といわれ、昭和49年~51年東北自動車道の建設に伴って発見された遺跡です。出土遺物は8世紀前半から10世紀前半頃のものですが、問題は、古代の長岡郡内にあった城柵、官衙遺跡としながらも、近世、中世、古代のあらゆる資料を渉猟してついに関連した資料を発見できなかったと言うことです。

 ところが安彦克己「『和田家文書』で読む宮沢遺跡」によると、偽書だと騒がれてきた『東日流外3郡誌』などの『和田家文書』には8件の関連資料を見出しています。その一つを紹介します。

 寛政5年の「日髙見宮沢柵之事」によると、

「多賀城も及ばざる宮沢柵の築城は荒吐王安国が築きけるものなり。安部と氏をなしける安国は、倭討以来、奥州の本詰たるを宮沢として来朝柵を見告とせり。依てその出城を白河に駅をなし、更に板東に豊田柵、乳房柵を築き日髙見国と境とせり。・・・宮沢なる要所を以て、古代なる日髙見の護り強けきは荒吐の民なほこりなりける。」(38)

 良く分からない点もありますが、ここに「多賀城も及ばない宮沢柵」「日髙見国」が出ています。安彦によると、位置づけと規模が遺跡の現状と良く合致していると言います。私の視点では、「日髙見国」の中心に「宮沢柵」が置かれていることが興味深いと思われます。

 何と言っても、これらの史料は、昭和49年~51年に明らかになった遺跡に関するものですから、偽書と言うなら何を根拠に宮沢遺跡がわかったのか、不思議な話になります。正史の記録に関連したものがなく、偽書にあったとしたら、正偽は逆転するというとんでもないことになります。

 ちなみに「荒吐」は、関東から東北にかけてみられる「荒ハバキ神社」を想い起こしますが、明治9年(1876)の「多賀城古址の図」(39)には、多賀城の裏手に鎮守の一つのように「荒ハヾキ神社」があります。

 私が手をつけたのは鹿島神社だけですが、盬竃神社の所でも指摘しましたように、古い神社の伝承を見ていくと従来の見解を覆しかねない伝承をいくつか発見します。おそらく東北の神社や寺院の傳承を丹念に探していくと、東北史の姿も大分変わるはずと思っています。

 

(1) 国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)。ちなみに、ここ宮城県では香取神社は4社だけであ  る。鹿島神社と香取神社はともすればセットで語られることが多く、特に東北ではややあいまいに一緒に語られているが、神社の実情は必ずしもそうではない。私は、香取神社については厳密に数え上げていないが、今のところ東北における香取神社は、鹿島神社の密度に比べて極端に少ないという印象をもっている。本来は、セットで考えるべきではない神社である。

(2) 『宮城県神社明細帳』(国文学資料館所蔵)、『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』(平凡社 1987年7月)453頁。

(3) 鹿島神社の祭神は、『常陸国風土記』では「香島の天の大神」と記すだけではっきりしていない。タケミカヅチの初見は、大同2年の『古語拾遺』の「武甕槌命」であり、正史では『続日本後紀』承和3年5月9日条の「建御賀豆智命」であるので、9世紀以降の祭神名である。したがって、鹿島神社は本来=「武甕槌命」とはならないと思われるが、後世同一になってしまっている。この一覧表作成では、当面同一と考えて集成している。

(4) 押木耿介『盬竃神社』(学生社 2005年6月改訂新版)17頁、『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』(平凡社 1987年7月)363頁。押木は、綱村が家臣に命じて調査し、縁起を作成したとし、別宮の祭神は「塩土老翁神」としているが、大系は作成された縁起にある通り、京都に依頼して縁起が完成したとし、別宮は「岐神」としている。

(5) 小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵 上』(中央公論社 1991年4月)、絵巻物については、『日本美術館』(小学館 1997年11月)、『国史大辞典』(吉川弘文館 1983年2月)など。

(6) 大塚徳郎「盬竃神社史」『塩竃市史 別編Ⅰ』(国書刊行会 1959年3月)では、「勿論この説そのものは問題にならないけれども」(365頁)と一蹴しているが、その理由を説明していない。

(7) 阿部金吉「塩竃市の聚落の発達」『塩竃市史 別編Ⅰ』160頁

(8) 『利府町誌』(1986年3月)288~289頁

(9) 押木耿介『盬竃神社』45頁、ただし漢文の意訳は筆者。

(10) 押木耿介『盬竃神社』205~208頁

(11) 押木耿介『盬竃神社』201~202頁、なお狩野敏次『ものと人間の文化史117 かまど』(法政大学出版局 2004年1月)、『日本民俗大辞典 上』(吉川弘文館 1999年10月)「かまがみ」「かまど」「かまどがみ」「かまどばらえ」の項など。

(12) 「塩釜村風土記御用書出」(『宮城県史24』300頁)

(13) 押木耿介『盬竃神社』102~103頁

(14) 「弘仁式」「延喜式」『新訂増補国史大系26』(吉川弘文館)

(15) 押木耿介『盬竃神社』63~64頁―

(16) 鹿島信仰は基本的には西から東に広がっていったと思っているが、中部以東のどこかで北方的要素が入っていったのではないかと思われる。

(17) 『新訂増補国史大系4 日本三代実録』、『新訂増補国史大系25 類聚三代格』(吉川弘文館)

(18) 肥後和男「鹿島御兒神社」(『国史大辞典』吉川弘文館)など。

(19) 『石巻の歴史 第1巻 通史編 上』(1998年3月)356~357頁

 

4.山形県の鹿島神社

4.山形県の鹿島神社

 

神社名

所 在 地

祭 神

備 考

出典

歴博

1

鹿 嶋神社

(酒田市保岡)字村東

鹿島大神

保安2年1121小社建立

風土記

75

2

鹿 島大明神

飽海郡北俣村

(酒田市)字鹿嶋

獅子踊り

字鹿島山とも

町史

74

3

新 山神社

東田川郡黒川村

(鶴岡市)大字黒川字宮田

健御賀豆

智命他3

旧郷社→県社 

現在は春日神社

明細帳

 

4

深 山神社

西田川郡大泉村

(鶴岡市)大字下清水字内田

A他7

旧村社

明細帳

 

5

鹿 島神社

西田川郡温海村

(鶴岡市)大字五十川字安土

春日4神

無格社古四王神社・

川内神社境内神社

明細帳

 

6

鹿 嶋太神宮

温海町(鶴岡市大岩川)

 

寛政期1789~1801に改築 

t.5年大坂神社に合併

町史

 

7

鹿 島神社

最上郡舟形村

(舟形町)大字長沢字内山

無格社

文久年間1861~1864とも

明細帳

71

8

鹿 島神社

北村山郡宮沢村

(尾花沢市)大字中島字浦山

m.6村社

寛文2年1662創建

明細帳

70

9

鹿 島神社

西村山郡高松村

(寒河江市)大字八鍬字鹿島

弥勒領(慈恩寺) 長和元年1012建立  八鍬村総鎮守

明細帳

69

10

鹿 島明神

西村山郡西根村

(寒河江市)字下河原

現鹿島月山両所神社

神社誌

68

11

鹿 嶋神社

東村山郡(山形市鈴川町)

大字印役字東浦

印鑰神明宮摂社

明細帳

64

12

鹿 嶋神社

東村山郡鈴川村(山形市

和合町)大字上山部字和合

無格社 

正徳2年1712創立

明細帳

 

13

鹿 島神社

南村山郡中川村(上山市)

大字高野字峠

無格社 石祠

明細帳

66

14

鹿 島神社

南村山郡西郷村

(上山市)大字藤吾字上ノ代

元文2年1737創立 

m.12年村社

明細帳

65

15

鹿 島神社

西置賜郡蚕桑村

(白鷹町)大字高玉字明神堂

無格社

天明4年1784再建

明細帳

 

16

五 所神社

西置賜郡西根村

(長井市)大字寺泉字明神廻

A他10

寛治4年1090創立

明細帳

 

17

鹿 島神社

東置賜郡宮内町

(南陽市宮内町)字坂町 

旧県社熊野神社境内神社

明細帳

73

18

香 島神社

西置賜郡豊原村

(飯豊町)大字黒沢字九反田

無格社

明細帳

 

19

浮 島神社

東置賜郡中郡村(川西町)

大字時田字浮島

A他1

大同2年807創建 

m.5年村社

明細帳

 

20

鹿 島神社

南置賜郡玉庭村(川西町)

大字玉庭字天神林

無格社 

m.42年松尾神社に合併

明細帳

 

21

二ノ宮神社

西置賜郡津川村(小国町)

大字大石沢字萩原

BA

無格社

明細帳

 

22

鹿 島神社

東置賜郡糖野目村(高畠町)

大字蛇口字鹿島南

応永年間1394~1428創立

 m.5年村社

明細帳

72

23

鹿 島神社

東置賜郡二井宿村(高畠町

二井宿)字宿

 

無格社 

t.5大社神社に合祀

明細帳

 

24

熊 野神社

東置賜郡亀岡村(高畠町)

大字入生田字十徳

A他5

 

明細帳

 

25

高 房神社

東置賜郡和田村(高畠町)

元和田字洞山

AB

旧郷社 

往古奥山高房沢に鎮座

明細帳

 

26

高 房神社

東置賜郡和田村(高畠町)

大字上和田字窪

AB

無格社 

奥山高房沢から分霊遷宮

明細帳

 

 

*表の説明

「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在の地名」を記した。

 「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、「経津主命」を「B」とし、それ以外の鹿島の神の表記はそのまま記し、その他の神は「他1」のように記した。空白は「祭神名」が確認できなかったもの。

 「出典」は、ここでは『明細帳』が基本になっている。

『明細帳』は、国文学研究資料館所蔵の『山形県神社明細帳』(明治13年作成)である。

『風土記』は、『出羽国風土記』(荒井太四郎著 明治17年) 昭和52年5月歴史図書社の復刻版。

『町史』は、『平田町史』(昭和41年12月)、『温海町史 上巻』(昭和53年4月)

『神社誌』は、『山形県神社誌』(山形県神社庁 2000年4月)

 なお「備考」は、「出典」だけではなく、『山形県史』・『図説 山形県の歴史』(河出書房新社)・『山形県の歴史』(山川書店)、『平田町史』・『温海町史』など市町村史、『角川日本地名大辞典 6 山形県』・『山形県の地名 日本歴史地名大系』などを参照し、特に注目すべき点を記した。建立・創立などは社伝による。

 「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号で、山形県の鹿島神社は12社であったが、1社は別な神社の間違いと思われたので外し、11社となった。

 

 

山形県の鹿島神社の問題

山形県の「鹿島神社」は、表に示したように26社でした。

 山形県については、国文学研究資料館に『山形県神社明細帳』(以下『明細帳』と略す)がほぼそろっていましたので、これから採用したものが基本になっています。あわせて『山形県神社誌』も参照しましたので、地理的には全県をバランス良く見たと思います。ただ『明細帳』は、酒田市はありましたが、飽海郡がなかったので少しぬけているかもしれません。

また、今までと違って近現代の資料をベースにしましたので、これから近世以前の小祠がどのくらい拾えたか、多少疑問が残っています。

 表は、「鹿島」を名乗る神社だけでなく、「武甕槌命(健御賀豆智命)」を祭神とする神社も載せています。「武甕槌命」を祭神としていることをもって「鹿島神社」の範疇に入れて良いかどうかも問題でしょうが、そのことは全国を見渡せる段階でまた考えていこうと思っています。当面「鹿島神社」≒「武甕槌命」で調べていくことにします。

 まず『明細帳』がなかったものについて、若干のコメントをしておきます。

 1に関しては、『出羽国風土記』で確認しました。祭神は冒頭に「武甕槌命なり」とあるのですが、以下の文中では「鹿島大神を勧請す」などと記していますので、こちらを祭神としてはとりました。私は、「武甕槌命」よりは「鹿島大神」の方が本来の神名と考えていますので、確認できる時はこちらの神名を採用しています。(1)

 2は、『平田町史』『角川日本地名大辞典 6山形県』『日本歴史地名大系 山形県の地名』などで確認したものです。

ここは、地名「鹿嶋」「鹿島山」に対応しています。そして、天平11年(739)創建とか、大同2年(807)坂上田村麻呂創建とか言われる新井山(新山)毘沙門堂の末社とも、愛沢大権現末社ともあって、この関係がいささかわかりにくいのですが、古代にさかのぼりそうな神社と思われます。

しかも「備考」にあるように、この神社で「獅子踊り」が行われています。ただインターネットの「山形のシシ踊り」の説明文によると、ここの「獅子踊り」はシシ6頭ですが、「シシは猪と考えられており」といっていて、鹿ではないと説明しています。もっとも旧平田町域の別な地域の「獅子踊り」では、「鹿をかたどったもの」というのもあり、唄の中に「鹿島しや 鹿島林の口輪虫」という歌詞を持つものもありますし、岩手県と同系統の獅子頭が見られるとの意見もありますますので、鹿踊りとの関連で考えて良いのではと判断しています。(2)

 山形県も「獅子踊り」が各地で盛んですが、「鹿踊り」との関係はどれも微妙です。まして鹿島神社と明確に関係しているのは、この1社だけです。

 6の「鹿嶋太神宮」は、『温海町史』の索引から偶然見つけたものです。神社の項には出ていなくて、「第6章余録」の「8 鹿島太神宮神主佐藤常陸正の家宅改築」にあったものです。神主佐藤常陸正の屋敷を寛政期に改築した記事があり、図面があって、「この家には神殿が上座敷の奥に造られている」とあります。「昔は大岩川・槙代をはじめ広い信仰圏をもつ神社であった」とあって、この改築の職人や人夫はほとんど氏子・信者の手伝いや寄進によって行われています。大正5年に大坂神社に合祀され、屋敷も昭和42年に改築されたとあります。(3)

家の中に神殿があるというもので、単なる個人の屋敷神ではなく近世まではかなり大きな神社であったらしいのですが、『明細帳』や『神社誌』には出てこなかったものです。これは合祀によって、今では表面上分からなくなっている典型的なケースです。

以上が、私が見た『明細帳』では確認できなかったものです。他は、当然いろいろ資料を見ましたが、基本的に『明細帳』から採ったものです。

問題は、国立歴史民俗博物館の一覧表との差は何なのかということになります。『明細帳』と『神社誌』

というおそらく同じものを見たはずと思っていましたが、歴博一覧表が12社、上の表が26社。「鹿島」を名乗る神社だけに限っても、上表は18社。摂社・末社に関しても歴博一覧表でも2社挙げていますから、そういう差ではなさそうです。どうやら『明細帳』そのものが違うのか、小社の拾い方に差が出たものなのか。すでに私は何県かの『明細帳』を調査していますので、いずれの県においても私の見たものとはかなり差があることがわかってきました。

次ぎに、名称が違っていたり、祭神に説明が必要な神社について、若干コメントしておきます。

 3の「新山神社」は、現在は「春日神社」です。黒川能で有名な神社です。祭神は「健御賀豆智命、伊波比主命、天津児屋根命、比賣神」で、いわゆる春日4神です。「健御賀豆智命」は「武甕槌命」、「伊波比主命」は香取神のことですから問題ありません。

しかし、時代をさかのぼると、ここは近世前半では「新山明神」、中頃には「四所大明神」、文化10年(1813)から「春日大明神」となっていて、正式には明治に入って現社名にしたとあります。そこで、ここでは最も古い時期の「新山神社」を採りました。

『風土略記』も「四所大明神 黒川村にあり。祭神詳ならず。一説に新山権現ともいふ。・・・」とあります。(4)

 4の「深山神社」も「新山神社」の可能性があります。祭神は「武甕槌命」以外は共通していません。それでは「新山神社」とは何ものかですが、今のところ私は男鹿の「真山神社」の関係を疑っています。

 5は「鹿島神社」ですが、祭神は「武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売命」の春日4神です。そこで私の判断として「春日4神」と書きました。戦前の神社の格付けでは何もない神社、「無格社」という小社の古四王神社と川内神社と境内を同じくする神社です。末社と書くものもありますが、『明細帳』の表記で「境内神社」としました。

 「春日神社」は、奈良の春日大社が中心の摂関政治で有名な藤原氏の氏神ですが、第一殿に鹿島の武甕槌命・第二殿に香取の斎主命(経津主命)・第三殿に枚岡神社の天児屋根命・第四殿に比売神を祀り「春日祭神四座」としています。

したがって、「鹿島神社」や「香取神社」を藤原氏が自己の祖神に取り込んでしまったものですから、「鹿島」「香取」のバリエイションのひとつと考えて良い神社と思います。それだけに地方の神社では、「鹿島」「香取」と少なからず混乱があるように思われます。3と5の例は、まさにそれに当たっているものです。私は、神社名と「春日4神(3神の場合もあります)」、特に「天児屋根命」を含んだ祭神であるときには「春日神社」と判断し、この一覧表には入れていません。しかし、なおこの問題は慎重に判断していこうと思っています。

そもそも藤原氏はなぜ東国の「鹿島」「香取」を祖神に取り込んだのか、これは「鹿島神社」「香取神社」の本質に関わる大問題ですから、そう簡単な問題ではありません。藤原鎌足の常陸国鹿島生誕説もありますので、やはり全国を見渡した上で結論を出そうと思っています。

ただこの段階では、すでにいくつか「鹿島神社」の方が本来の姿だった「春日神社」を見つけて検討していることだけは報告しておきます。

10は、現在は寒河江市西根字家浦の「鹿島月山両所神社」となって合祀されています。『明細帳』も同様です。しかし、『神社誌』に「鹿島明神は元、字下河原に鎮座」とありましたので、元の状態を記しました。

なお、歴博一覧表には歴博番号67の「鹿島月山両所神社」がもう一つ出ています。西村山郡河北町谷地の旧村社です。こちらは『神社誌』『明細帳』で「鹿島月山両所神社」を確認できず、「月山神社」がありますのでそれの間違いかも知れないと考え、上の表には入れませんでした。谷地地域は後にふれます慈恩寺との関係がありますので、「鹿島」があってもおかしくないと思っていますが、確認できない以上はやむを得ません。

16の「五所神社」は、『神社誌』では祭神「別雷命」で、『明細帳』は「武甕槌命」になっていました。全11神ですので合祀記録をみましたが、単独の「鹿島神社」は確認できませんでした。

18の「香島神社」はめずらしく「香島」表記の神社です。地名のところで、この表記については検討し、見解を示しました。(5)

元は『常陸国風土記』の表記で、「香島」から「鹿島」に代わったとする説があります。しかし地名でも神社でも、実際には全国的にこの表記はあまり見られません。この神社がなぜこの表記になっているかはわかりませんが、神社では特に珍しいものと思われます。

23は、旧村社大社神社の合祀記録中にあったものです。このようにして元の神社が分かってくることがかなりあります。 

地名では、山形県は12地名、8か所でした。神社26社の内、地名と重なったのは、2の北俣字鹿島山と9の八鍬字鹿島と22の蛇口字鹿島南の3か所のみで、やはり変だという印象です。神社が消えて、地名だけが残った可能性があります。新しく地名が見つかったものは八鍬の鹿島神社に関したものだけです。(6)

 神社26社を旧郡域でみてみると、飽海郡2、最上郡1、村山郡4、置賜郡13、田川郡4となります。

置賜郡が多いのですが、他がもう少しあっても良いのではと思っています。

全体を通して、私が特に注目したいのは、9の寒河江市大字八鍬字鹿島の「鹿島神社」です。

『新版 山形県大百科事典』も、「鹿島」の項はこの「鹿島神社」だけです。そして、この由緒の説明はなかなか興味深いものがあります。

「社伝によると、1234年(文暦元)大江氏の家臣稲沢新助郎信政が常陸国鹿島神宮から分霊を勧請した。稲沢氏は代々祭祀をつかさどり・・・・」とし、「慶安年間(1648~51)慈恩寺に併せられ、明治維新に至って社地を返上した。」と、慈恩寺との関係を近世のこととしているようです。そうしながら、「古来から一村の鎮守として、崇敬はことに厚い。由緒には文暦元年創立とあるが、現存する尊体からみると、それ以前の創立のように思われ、本地仏の仏体年代は約1,200年前のものと推察される。」(7)と社伝を覆す事実も指摘しています。実は慈恩寺との関係ももっと古いはずです。これは実はほぼ『神社誌』の記述と同じです。

『山形県の地名』では、

「近世末までは慈恩寺末社4社の一で、別当は慈恩寺最上院支配鹿島院、祝詞役は慈恩寺華蔵院支配長学院が勤めた。安政4年(1857)鹿島院が最上院に提出した覚(最上院文書)によると、当社は長和元年(1012)に建立、文暦元年(1234)に再建されたという。鹿島明神由緒(社蔵文書)はその後の経緯を、寒河江庄地頭大江親広の時代、家臣稲沢新助郎信政が当社を守護して再建、・・・」としています。(8)

ここで言う安政4年の覚「鹿島宮に関する覚」は、

「一、長和元壬子年 鹿島宮 壱宇建立 行基菩薩

一、文暦元甲午年 同社  再建   当院則武代

・・・」(9)

とあります。

つまり、近世末の鹿島神社別当鹿島院の伝承では、長和元(1012)年に行基菩薩によって鹿島宮が建立されたというのです。行基は天平21(749)年に死去していますからあり得ない話で、荒唐無稽なものとして削除したのでしょう。しかし、本地仏が「約1,200年前」というなら800年頃になりますから、荒唐無稽とは一概に言えなくなります。少なくとも行基の弟子達の誰かを考えても良いはずです。『山形県の地名』は「長和元壬子年」の方を採っていますが、行基伝承の方をとってもおかしくないでしょう。

慈恩寺は、神亀元(724)年行基が開山、天平18(746)年婆羅門僧正が建立開基したとしています。山形県には行基の開創伝承を持つ寺院が18か寺もある(10)ということですから、行基の継承者達の活動を想定したらあながち荒唐無稽な話ともいえません。

慈恩寺の本尊は弥勒菩薩、鎮守は八幡大神。その後、平安時代の後半藤原基衡による再興の時は白山権現が鎮守となり、さらに後文治元年の整備の際には熊野権現を鎮守にしたとあります。本尊弥勒菩薩は、慈恩寺というお寺の形より前の可能性があり、お寺の鎮守は三転しています。(11)

平安後期には平泉の平泉寺と並ぶ大きな寺であり、近世には村山郡18か村に朱印地2,812石を所持する東北第一の格式の高い寺院ということです。(12)

この慈恩寺には、寺内にもいくつもの神社が置かれていますが、「鹿島神社」は寺外にあって大きな末社4社の一つに位置づけられていました。

そして、この慈恩寺の本尊弥勒菩薩を支える弥勒蔵方直轄の「弥勒田」のあるところが八鍬村でした。

その八鍬村の鎮守が、この「鹿島神社」です。しかも単なる村鎮守ではなく、弥勒蔵方直属の社でもありました。弥勒と鹿島神社と八鍬村が直結しています。

この蔵方の司が寺司ですが、この寺司も弥勒菩薩が秘仏のため、「一山惣持」の宮殿の門扉のカギを、「元来本尊へ格別の由緒があり、往古より右鍵預り来り候につき」「古来の通り鍵役料として・・・高7石余配当頂戴仕り・・・」(13)と言われている特別な存在です。どうやら慈恩寺の僧侶より古い由緒がうかがえるように思えます。

慈恩寺は、天台宗と真言宗が一体となり慈恩宗をなし、天台宗の最上院と真言宗の宝蔵院・華蔵院の3か院が一山の支配をしていたということです。後に、禅宗が入った時期もあるということもあり、最上院の配下には時宗の寺2寺が属してもいます。

そうすると、まず弥勒信仰があり、後に寺が入り込んだのではないかとも思われ、長野の善光寺が天台宗と浄土宗に管理されている状態に似ているのではないかと思われます。

この鹿島神社の特別な位置づけとしては、慈恩寺の山内の年間行事の中に毎年9月9日弥勒内陣において「鹿島講(鹿島祭)」が行われ、その祈祷料物を八鍬村が担っていることがあげられます。普段は、華蔵院配下の真言修験の同村長学院が「鹿島神社」の祝詞を執行し、最上院配下の天台修験の同村鹿島院が日々の献供、清掃等を執り行っていたとあります。その費用等も蔵方から出されていました。

 これは近世末の「鹿島林」伐採の事件の文書に書かれていることです。「鹿島林」も「一山惣持」と確認されていますが、このことは「鹿島神社」自体が単なる末社ではなく、本尊弥勒菩薩の直属の社、鎮守であったことを示しているのではと思われます。(14)

 弥勒信仰と「鹿島神社」の結びつきはいくつか各地にあることが分かっていますが、何と言っても、常陸国鹿島神宮の周辺の「鹿島踊り」「弥勒踊り」を思い起こします。柳田国男の「みろくの船」で有名な話です。寺院の本尊弥勒菩薩と民衆のみろく信仰ではレベルが違うと言われそうですが、どうでしょうか。

 慈恩寺では、この本尊弥勒菩薩の前で舞楽が演じられてきました。林家舞楽ですが、その由緒によると、「摂津国四天王寺の楽人で林越前政照という人がむ、貞観2年(860)、慈覚大師円仁に従って山寺立石寺に来住し、舞部として舞楽をつかさどってきたという。それがいつのころからか寒河江慈恩寺に移り、やがて谷地に移住したと伝える。」とあります。(15)

林家舞楽が、山寺立石寺から移ってきたことにここでは注目しておきたいと思います。また、慈恩寺には中世の「舞童帳」が残っていて有名です。もっと興味深いのは、林家舞楽の「それ以前は4月7・8日の両日、太夫職であった鹿嶋院が神楽(獅子舞)を奉納したと推察される。」と言われ、「鹿嶋神楽は、江戸時代中期に飢饉をはらうために始まったと伝えられ、毎年4月17日の鹿島祭りに各戸を回って獅子による悪魔払いをする。」と述べられています。(16) そして、寒河江のシシ踊りが同じような由緒を伝えています。

 先にもふれましたが、山形県でも「シシ踊り」が各地で盛んに踊られています。

インターネットに「山形シシ踊りネットワーク事務局」による「山形のシシ踊り」の紹介があります。それによると、庄内地域は鶴岡市・酒田市・庄内町の17団体、村山・最上地域は山形市・天童市・中山町・寒河江市・朝日町・大江町・東根市・村山市・新庄市の17団体、置賜地域は米沢市・長井市・川西町・飯豊町・小国町の9団体が紹介されています。

これらはイノシシ(猪)、カノシシ(鹿)、アオジシ(羚羊)のシシの踊りとされ、特に鹿とのつながりだけではないものが多いようです。大まかに置賜地域は3頭立て、庄内、村上などは5~7頭立てで踊られていて、その他の囃子手などは地域によって人数が違います。

 山形市の鹿楽招旭踊(からおぎあさひおどり)は、

「シシの目は吊り上がって鼻は猪のようにやや前に突き出る形状を示していますが、このようなカシラは、旧暦7月7日に山寺に奉納踊りを行ってきた村山地方の多くの山寺系シシ踊りにほぼ共通しています。この系統のシシ踊りは、いずれも山寺からいただいた木製の斧を背中に持っているのが特徴です。」といっています。

この地域は、山寺立石寺において江戸時代から旧暦7月7日の磐司際に、死者の鎮魂供養の奉納踊りを行ってきたということで、明治以降では20数団体もが集まっていたとのことです。

 旧藤島町と旧余目町周辺も「獅子郷」といわれていたということですが、インターネットに「藤島の獅子踊り」が出ていました。団体は同じものがあり、合併前のホームページと思われます。

 「藤島は昔から獅子郷といわれ、美しく勇壮な獅子踊りが数多く伝承されてきた。起源は遠く時代を遡り、室町時代の舞楽から派生したともいわれるが、遙か悠久の昔より先人達が厳しい生活の中でまつりの行事に安らぎを見出し、唄い踊り継がれて今日に至る。・・・」

 記録があまりないため、近世近代からしか分かっていないものが多く、古い由緒ははっきりとは語られていません。しかし、山寺立石寺の磐司祭といい、「室町時代の舞楽」との関係にふれながらも、さらに「遙か悠久の昔より」「唄い踊り継がれて」きた思いがあるようです。

やはり、私は岩手県・宮城県の鹿踊りとよく似ていると思います。秋田県の「ささら」も同じ範疇に入るものでしょう。鹿とははっきり言わないところが多いのですが、演目に「鹿踊り」「鹿たね」などがあったり、カシラに角があるのは鹿のイメージと思われます。

しかしながら、鹿島神社や鹿島信仰との結びつきは、ほとんどなさそうです。

 とにかくこれだけ熱心に行われているシシ踊り、かすかなつながりしか今はないのですが、全国に目配りしながらていねいに一つ一つの伝承を探っていく以外はなさそうです。

          以  上

 

 

註(1) 『常陸国風土記』は「香嶋之大神」「香島天之大神」であり、祭神タケミカヅチの登場は、大同2年の斎部広成の『古語拾遺』に「武甕槌命 是甕速日神之子、今常陸国、鹿島神是也」とあることなどで、「文献でみるかぎり、9世紀以降からの祭神名」(大和岩雄「鹿島神宮」『日本の神々』白水社)と言われています。「香島」の表記については、HP「鹿島信仰の研究」の「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」参照。祭神を「鹿島大神」とする神社はいくつかあります。

(2) 『平田町史』(昭和46年12月)「坂本獅子踊」「桜林獅子舞」

 (3) 『温海町史』(昭和53年4月)959~964頁

 (4) 桜井昭男編著『黒川村春日神社文書』(東北出版企画 1998年5月)206頁など。『出羽国風土略記』3ノ7頁。

 (5) HP「鹿島信仰の研究」の「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」参照。

 (6) HP「鹿島信仰の研究」の「表1 全国『鹿島』地名一覧」参照。八鍬では、「かしまのはらそい」(「鹿島の原沿い」か)、「鹿島林(森)」、「かしま東」、「かしまの下」、「かしまの西」などが中近世の資料から見つかっています。地名としては「鹿島」「鹿島林」の2地名としました。

 (7) 『新版山形県大百科事典』(山形放送株式会社 平成5年10月)98頁

 (8) 『山形県の地名 日本歴史地名大系6』(平凡社 1990年2月)435頁

 (9) 「安政4年閏5月 鹿島宮に関する覚」(『山形県史 資料編14』)86頁

 (10) 『山形県史 第1巻 原始・古代・中世編』(昭和57年3月)538頁

 (11) 「(年号不祥)慈恩寺縁起」(『山形県史 資料編14』)6頁など。

 (12) 北畠教爾「慈恩寺資料 解説」(『山形県史 資料編14』)1頁

 (13)  (『山形県史 資料編14』)343頁

 (14) 「万延元年12月 鹿島林一件につき済口証文」(『山形県史 資料編14』)807~810頁など。

 (15) 『図説山形県の歴史』()100頁

 (16) 『寒河江市史 中巻 近世編』(平成11年12月)1047、1053、1192頁

3.秋田県の鹿島神社

  3.秋田県の鹿島神社

 

神社名

所在地

祭神

備考

出典

歴博

1

鹿島堂

能代町(能代市柳町)

    八幡神社末社

 

元禄・宝永の

地震以後に建立

能代市史

 

2

鹿島社

山本郡梅内

(能代市二ツ井町梅内)

   

秋 田

風土記

 

3

鹿 嶋

神社

北秋田郡合川町

(北秋田市)道城上堀

A他2

村鎮守

角川地名大辞典 

63

4

鹿 島

神社

北秋田郡森吉町(北秋田市)

米内沢  米内沢神社摂末

A

 

歴博

62

5

鹿 嶋

神社

南秋田郡八郎潟町

川崎前川原92

A他3

村鎮守  鹿島の森

貞和2年銘板碑  

八郎潟

町史 

61

6

鹿嶋堂

馬場野目村

(南秋田郡五城目町馬場目)

 

いせ堂同社地 

秋田郡

神社調帳 

 

7

鹿嶋堂

八田大倉村(南秋田郡井川町

八田大倉)   八幡堂末社

   

秋田郡

神社調帳

 

8

鹿島社

秋田郡下虻川村

(潟上市飯田川下虻川) 

鹿嶋ながし

秋 田

風土記 

60

9

鹿嶋堂

和田妹川村

(潟上市飯田川和田妹川)

 

伊勢堂と同社地

秋田郡

神社調帳

 

10

鹿島

大崎村

(潟上市天王大崎)

 

伊勢、諏訪に同殿

絹篩

 

11

鹿島

岩倉村

(男鹿市脇本富永 岩倉)

   

絹篩

 

12

鹿島

小浜村

(男鹿市船川港小浜)

 

社地一間一間

絹篩

 

13

真 山

神社

(男鹿市北浦真山) 字水喰沢

A他10

景行代に武内宿禰が

瓊々杵・Aの2柱勧請

男鹿半島

 

14

鹿島

畠ケ村

(男鹿市北浦入道崎)

 

神明、西宮と同社地

地区にかしま祭り

絹篩

 

15

鹿島

秋田郡雄鹿黒崎村

(男鹿市北浦西黒沢)

   

秋 田

風土記

 

16

鹿島社

秋田郡雄鹿相川村

(男鹿市北浦相川)

 

地区にかしま祭り

秋 田

風土記

 

17

鹿嶋堂

笠ケ岡村中野村分

(秋田市下新城中野)

   

秋田郡

神社調帳

 

18

鹿島社

高岡村

(秋田市金足高岡)

   

秋 田

風土記

 

19

鹿島社

岩城村

(秋田市下新城岩城)

   

秋 田

風土記 

 

20

古四王

神社

(秋田市寺内児桜1)

A他1

社伝では齶田浦神

日本の

神々

 

21

鹿島堂

秋田市寺町

(大町3丁目)東正院

 

宝永3年建立

鹿島祭が広がり

秋田市史

 

22

鹿嶋堂

秋田市川尻村(川尻総社町) 

神明・惣社大明神末社

   

秋田郡

神社調帳

 

23

鹿嶋堂

秋田市八橋村(八橋本町1丁目)

日吉八幡神社内三重殿

   

秋田市百社参詣記

 

24

鹿 島

神社

秋田市四拾間堀町

(旭南2丁目)

   

秋田市百社参詣記

 

25

鹿 島

神社

秋田市八日町(大町5丁目)

   

秋田市百社参詣記

 

26

鹿 島

神社

秋田市明田村(東通明田)

   

秋田市百社参詣記

 

27

鹿 島

神社

秋田市御舟町(楢山登町)

 

かしまさん

秋田市百社参詣記

 

28

鹿 嶋

神社

河辺郡雄和町

(秋田市雄和)椿川袖ノ沢73

 

宝暦10年創立

雄和町史

58

29

鹿 嶋

神社

河辺郡雄和町川添地区

(秋田市雄和椿川)

鹿島大神

 

雄和町史 

 

30

鹿 島

神社

河辺郡雄和町種平地区

(秋田市雄和種沢)

   

雄和町史

 

31

鹿 島

明神

仙北郡角館

(仙北市角館町細越町)

 

弥勒院に鹿島香取

 鹿島ながし

秋 田

風土記

 

32

鹿 島

大明神

津久毛沢村(大仙市協和船岡)

 賀茂大明神

 

此御神の事を鹿島大明神

と記し・・・

菅江真澄

 

33

鹿 嶋

大明神

仙北郡戸地谷村(大仙市戸地谷)

鎮守神明宮末社

   

菅江真澄

 

34

鹿 島

神社

仙北郡中仙町(大仙市清水)

賢木字上大野120

A他3

 

歴博

57

35

鹿 島

神社

(横手市平鹿町下鍋倉)

 

かしま送り

報告書

 

36

鹿 島

神社

(横手市平鹿町上吉田字吉田)

 

かしま送り

報告書

 

37

鹿 島

神社

(横手市平鹿町醍醐字深間内)

 

かしま送り

報告書

 

38

鹿 嶋

明神

平鹿郡大森邑

(横手市大森町十日町)剣花山

A他3

長暦2年勧請 下居ノ社実は地主ノ御神 鹿島流し

菅江真澄

 

39

鹿 島

大神

(横手市清水町新田)

 

石碑 かしま送り

報告書

 

40

鹿嶋

平鹿郡沼館村(横手市雄物川町

沼館)   沼館八幡宮末社

 

鹿嶋舟送り

菅江真澄

 

41

鹿 嶋

大明神

(横手市平鹿町浅舞)

   

マップル道路地図

 

42

鹿 島

神社

(由利本荘市東由利舘合)

 

大物忌神社(鹿島神社)

 鹿島送り

角川地名大辞典

 

43

鹿 島

神社

(由利本荘市東由利老方新町)

A

鹿島送り

東由利

町史

 

44

鹿 島

神社

(由利本荘市東由利湯出野)

A

元禄14年創始

鹿島送り

東由利

町史

 

45

鹿 島

神社

(由利本荘市東由利八日町)

A

 

東由利

町史

 

46

鹿 嶋

神社

(由利本荘市東由利老方)

 

明治43年御嶽神社へ合祀

東由利

町史

 

47

鹿 島

大明神

矢島町中山村(由利本荘市

矢島町立石) 十二ヶ沢

 

宝暦記

続矢島

町史

 

 

*表の説明 

「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。

「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、それ以外の鹿島の神の表記はそのままとし、その他の神名は「他1」の様に記した。空白は「祭神」が確認できていないもの。

 「出典」は、直接の出典のみ記し、他の参考文献はここには記さなかった。

『秋田風土記』は、淀川盛品著、文化12年、『新秋田叢書』より

「秋田郡神社調帳」は、年月不祥「秋田郡村々神社調帳」(『秋田県史 近世編下』)

『絹篩』は、鈴木重孝著、嘉永年間、『新秋田叢書』より

「秋田市百社参詣記」は、明治25年「秋田市近傍百社参詣順道記」(『秋田市史 第16編 民俗編』)

「菅江真澄」は、『菅江真澄全集』より『月の出羽路』『雪の出羽路』

『角川地名大辞典』は、『角川日本地名大辞典 5 秋田県』(角川書店)

「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」より

「男鹿半島」は、男鹿市教育委員会編『男鹿半島 その自然・歴史・民俗』(平成10年3月)

『日本の神々』は、『日本の神々 神社と聖地 12 北海道・東北』(白水社)

「報告書」は、『秋田県文化財調査報告書 第148集 秋田県の年中行事Ⅰ ぼんでんとかしま送り』

「マップル道路地図」は、昭文社『県別マップル5 秋田県道路地図』2010年3版1刷

 1番右の欄「歴博」は、上記出典「歴博」の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号で、6社しかない。

 

 

秋田県の鹿島神社の問題

 秋田県の鹿島神社は、表に示したように47社ありました。

 昨年3月にまとめた段階では、地名は「小鹿島(男鹿島)」1ヵ所のみ、神社は国立歴史民俗博物館の一覧表所載の6社のみでした。あまりない県という印象でした。

しかし一方で、秋田県には「鹿島祭」「鹿島舟」「鹿島人形」「鹿島流し」「鹿島さま」と称するお祭りがたくさんあって、鹿島信仰の痕跡はかなりあると思っていましたので、神社はもう少し出てくるだろうと思っていました。実際調べる毎に数が増えてきました。まだ出そうだという感じがあります。

 ただ、全県を見渡せる資料、『秋田県神社明細帳』や『秋田県神社名鑑』などを東京で見ることが出来なかったため、地域によっては調べ尽していないところがあります。

 国立歴史民俗博物館の一覧表では、『神社明細帳』と各都府県宗教法人名簿を適宜参照したと述べていますが、秋田県に6社しかなかったというのが不可解です。『神社明細帳』を調べていたら、かなりの数の神社が出てきたはずです。各県の『神社明細帳』は、明治の初年に作られ、昭和までの神社の合併、合祀が記されていますから、小社の動向がよく分かる史料です。私も何県か調べましたが、どの県でも国立歴史民俗博物館の一覧表とは大きなギャップが出ています。

 私の調査は、今回秋田県については、「出典」が時代も性質もかなりまちまちでした。現代の地図帳からとったものさえあります。いろいろ町史のたぐいを調べましたが、近世以前のものとは確認しきれていないものもあります。神社の統廃合は江戸時代から明治大正とかなりありますので、時代の違いで異動しているものもあると思われ、重複している可能性もあります。しかし、とりあえず、今分かった限りを一覧表にしました。それにしても、47社と6社の差がどうして起こってくるのか理解し難いものがあります。

 今まで私は、国立歴史民俗博物館の一覧表は明治以降の史料によるもので、近世以前との違いと漠然と考えていました。しかし、どうやらそうではなく、『神社明細帳』にしても宗教法人名簿にしても参照はしたものの、あまり小社や小祠を拾っていないことによるのではないかと疑うようになりました。

 『秋田大百科事典』によると、「鹿嶋神社」の項は、茨城県の鹿島神宮を「総本社格」として、香取神宮の経津主命と「二神は同一視されて」「武神」として東北に広がったことをるる述べて、「鹿島流し」は「この鹿島が語源」といい、「鹿島神社との関連で香取神宮があり、経津主命をまつるが、秋田には少ない。」と述べています。香取神社が少ないというのは良いでしょうが、一般的な鹿島信仰の説明ばかりで、かんじんの秋田県の鹿島神社のものがほとんどありません。

 このあと具体的に取り上げているのは、「河辺郡雄和町椿川袖沢」の「鹿嶋神社」1社のみで、上の表の28にあたります。現在は「秋田市雄和椿川」、秋田空港の近くです。「俗に森の山と呼ぶ所にある。1671年(寛文11)畑谷村と椿川村で境界論争のあったとき、平穏に収まるようにと勧請した神社。1873年(明治6)村社として椿川、鹿野戸、安養寺の3ヵ所で祭事を行ったが、1935年(昭和10)からは鹿野戸だけで行い、神社を修復した。」とあります。しかし、なぜここだけを具体例として取りあげたかは説明がありません(1)。

『雄和町史』によると、「森の山」は、「鹿島堂」とも通称されていて、「『秋田風土記』に記される真山権現は字袖ノ沢の旧村社鹿島神社をさし、真山大神・武甕槌神ほか7神を祀り、宝暦10年(1760)の創立という。」と別伝も伝えています(2)。

『秋田大百科事典』は、「鹿島堂」という通称地名もありながらそのことには触れず、神社の創立の経緯や祭神の話も別伝にはふれていません。

 『秋田大百科事典』の次の「鹿島まつり」の項は、「わらや紙で作った鹿島人形を柴船に乗せて流す民間行事。」とし、「秋田市新屋の鹿島まつり・・・300年の伝統」「秋田市楢山登町の鹿島神社の鹿島まつり・・・130年間も続く」「大曲地方では・・・」「仙北郡協和町船岡・・・」と4ヵ所をあげています。(1)

しかし一方、『秋田県文化財調査報告書 第148集』は「かしま送り」と呼んでいますが、秋田県内54ヵ所の報告をしています(3)。『秋田大百科事典』が4ヵ所をあげたのは良いとして、なぜこれだけの「鹿島まつり」の全貌を指摘しないのかが不思議です。どうも鹿島信仰を、秋田県域全体で大きくとらえようとしないのが不可解な感じがします。

 『秋田県史』は近世の鹿島信仰について、「菅江真澄は鹿島祭りを、常陸から移封の時にもたらしたものと見ているが、その拡がりと深さからすれば、鹿島の事触の教宣活動が、鹿島信仰を民衆の中に深く浸透させた結果と見るべきである。」(4)と言っています。菅江真澄は、秋田の佐竹氏が移封の時にもたらしたものとし、これに対して『秋田県史』は「鹿島の事触れの教宣活動」によるものとしているわけですが、いずれも近世に起こったものと見ています。しかし、まさに秋田県の鹿島信仰の「その拡がりと深さからすれば」、もっと古い伝統に基づくものではないかと思うのですが、そこには踏みこみません。

 『秋田大百科事典』には、もう一つ、「ささら」という芸能が関係しそうな項目としてあります。ここでは、「全国的に見られる獅子舞をいう。シシにからむ道化役が持つ楽器のササラからこの名が起こった。」とし、「全体的に、佐竹氏の秋田入国随従説話が多いが、東北地方に伝承されているシシ舞と同系の中世の神楽から派生したものと位置づけられている。」と述べています(5)。岩手県などの鹿踊りとの関係が気になりますが、あまり明確な説明はありません。そしてここでも、近世の常陸国の佐竹氏が秋田に入国した時の伝承が多いとしています。

 『仙北のささら』では、「秋田ではこれらのささらの大半が、明らかに様ざまな系統の獅子踊りなのに、いずれも400年余り前、佐竹公が水戸から秋田へ入部の際、行列の先頭で踊っていたものだという由来伝承を持っています。」とあり、( )の中で、「本荘や新関等は別です」と述べています(6)。どうやら明らかに別伝承のものもあるといっています。

 そして、潟上市昭和大久保の「新関ササラ」の映像を見て驚きました。鹿の頭そのものをかぶって踊っています。説明によると、「男鹿に棲む鹿達の様子を見て始まった踊りだとの伝承を有し、県内他地域のささらと異なり、枝角のついた鹿の頭をかぶって舞う。」とあります(7)。これはまさに鹿踊りそのものです。しかも鹿の様子を見て始まった踊りとしていますが、ほかのささらにもある伝承のようです。最も興味深いのは、その鹿が「男鹿の鹿」となっていることです。「佐竹氏の秋田入国随従説話」以前の伝承がうかがわれるもので、特に岩手の鹿踊りとの関連がありそうですが、そのような説明は残念ながらありません。

 上表の鹿島神社の分布を見ると、米代川流域4社、男鹿半島6社、男鹿・八郎潟周辺6社、秋田市14社、角館・大仙市4社、横手市7社、東由利・矢島町6社のかたまりが指摘できます。

 私は、この中でも男鹿半島6社とその周辺6社が、最も注目すべきものと考えています。地名として「小鹿島(男鹿島)」一つを取り上げましたが、その時はいま一つ裏付けがないと思っていました。しかし、「かしま祭り」「鹿嶋ながし」があるのですから、鹿島神社もあるはずと思っていました。『絹篩』を見たとき、やっぱりあったと思ったものです。

13の「真山神社」は鹿島神社ではありませんが、男鹿半島の中心ともいうべき本山・真山の、その本山の赤神神社(五社堂)と並ぶ真山神社です。現在は真山大神を含め11神が祀られているということですが、社伝によると景行天皇の代に武内宿禰が「男鹿島」にきて、瓊々杵命・武甕槌命の2神を勧請したということです(8)。この「武甕槌命」を「鹿島大神」と今は見ておいて良いだろうと思います。真山神社のそもそもの神祀りの中心に「武甕槌命」=「鹿島大神」が存在することが大事な点です。そして、半島を巡って鹿島神社5社が確認でき、男鹿半島(男鹿島)を仰ぐ位置に6社確認できたということが重要でしょう。「鹿島祭り」も何ヵ所も行われています。「小鹿島(男鹿島)」は鹿島信仰と深い関わりのある地域であったことが判明しました。

赤神神社の赤神は漢の武帝といわれていますが、菅江真澄は本山日積寺永禅院の薬師堂でこの漢の武帝の寿像を見ています。(9)

「絵(カタ)のさま雲車を鹿にひかれ、いつくさに彩たる仙鼠(カハボリ)あり。」(『牡鹿の嶋風』)、

「日積寺の庫におさめつたふる宝物いと多かるが中に、漢武帝の、鹿の車に駕りて雲の中にとどろかし、ひだんの轅のもとより西王母、ひとつの桃をたなごころにのせてささげもてり。五色の仙鼠、みくるまの四方にたちむれり。御せる鹿の袋角てふものを霊芝のさまに画り。」(『恩荷奴金風』)

ここでは赤神・漢の武帝は「鹿の車」に乗っています。同じ菅江真澄が載せている「赤神山大権現縁起」では「武帝飛車にのり、白鳥に駕し赤旗に車をかざり、五色の蝙蝠御車の左右の前後を囲繞す。五鬼を伴ひて頂に御座す。」とあって、こちらは白鳥に牽かせています。異伝があるということで、どちらも興味深いものですが、今は鹿の方に注目しておきます。

 柳田国男が「をがさべり―男鹿風景談―」の中で、特に「鹿盛衰記」として男鹿の鹿にふれた理由がわかります。柳田は、「爰では常陸鹿島や金華山の如き、信仰の保護は夙くから無かつたらしい。」と語り始め、「併し兎に角に鹿の居りさうな山である。」と男鹿の鹿へのこだわりを見せているのです。「椿は春の木」の方では、青森県深浦の椿山の椿が、男鹿半島からやって来た鹿の群れにすっかり食い荒らされたことにふれ、「秋田の男鹿は日本海岸では、最も鹿の沢山居る半島でありましたが、そこと深浦との間は二十里以上もあり、又その中間の山には野獣は幾らも居たのです。それをただ鹿が南の方から、又は海辺づたひに来たといふだけで、直ちに男鹿半島からと断定したのには、何か隠れたる理由があるらしいのであります。」と思わせぶりなことを書いています。柳田は何かはっきりしたことをいっている訳ではありませんが、「男鹿島」と鹿との関係に信仰の問題があると感じていることを言っているのです(10)。

 ちなみに、青森県深浦町はやはり「鹿島祭り」が盛んなところで、深浦町岩崎には「へたの鹿島」「沖の加島」

の2島があり、菅江真澄が絵を残しています(11)。鹿島と鹿のつながりがここにもありそうです。少なくとも柳田は少なからずそのことを意識して、西国の方でも鹿島と鹿の関係にふれています。

 次ぎに、秋田市の14社も注目すべきものです。

 その中心は、やはり鹿島神社ではなく、古四王神社ではないかと思われます。祭神は、『秋田風土記』では甕速日神・熯速日命・武甕槌命・経津主命の4神で、「外に1社を神秘とす」としています。この4神は、伊弉諾尊が軻遇突智を切ったしたたる血から生まれた神として、同系の神で1神とも見なせます。神秘の1社が問題ですがこれは分かりません。社伝によると、四道将軍大彦命が蝦夷征伐の際に武甕槌命を祀った。それが「齶田浦神(あぎたのうらのかみ)」であるという。その後斉明天皇4年に阿倍比羅夫が北行して秋田浦に停泊したとき、土地の豪族恩荷(おが)がこの「齶田浦神」に盟いを立てたので、比羅夫がこの社に大彦を合祀して古四王神社が成立したといいます(12)。ここではまず武甕槌が祀られ、それが「齶田浦神」だといっています。斉明天皇4年の阿倍比羅夫の遠征の話は『日本書紀』にある有名な話ですが、それより遙か以前に武甕槌が祀られているとあるのです。

 私は以前、鹿島神宮が北面している問題に関連し、北面する神社として各地の古四王神社を調べたことがありましたが、秋田の古四王社の祭神にあまり注意しませんでした。今回改めて、鹿島神社や鹿島祭りの関係から古四王社、「齶田浦神」、「恩荷」をとらえ返す必要が出てきました。

 秋田市内の鹿島神社と「鹿島祭り」はかなり密集していると思われますので、「齶田浦神」を意識しつつ、失われたか細い伝承を丹念に拾う必要がありそうです。

 横手市も又、鹿島神社と「鹿島祭り」(かしま送り)が密集していると思われるところです。ここは、『秋田県文化財調査報告書 第148集 秋田県の年中行事Ⅰ ぼんでんとかしま送り』の「鹿島祭り」の報告の中から鹿島神社を見つけました。39などは「鹿島大神」の石碑とありましたが、ここで「かしま送り」(「鹿島祭り」)の祀りをした後で町内を一巡するとありますので、ここに入れました。山梨県で神社がつぶれた後、「鹿島大神」の石碑を建てたものを見ていましたので、おそらく同じようなケースと思いました。

 横手市では、大森町十日町の剣花山に注目すべきでしょう。

『角川地名大辞典』によると、大森町は「式内社と伝える波宇志別神社(保呂羽山)への参道に位置し、長暦2年勧請の剣花山鹿島明神や寛治6年勧請の剣花山八幡神社など、数多くの古代伝承に富む。剣花山(剣箇山)は雄物川に突き出た山塊で、要害の地。」(13)とあります。

菅江真澄が『雪の出羽路』の中で、「剣箇岬之図」を記し、

「こは鹿嶋明神にして、長暦二年戊寅のとしに祀奉りていといと古きみやしろながら、行宮、頓宮のごと下居の社とまをし奉るはかしこき事也。まことに地主の御神にてこそ座しまさめ。」

と言っています。「剣箇岬之図」では上に八幡宮が描かれ、下にまさに「下居の社」として鹿嶋社が描かれています。そこにも「実は地主の御神也」と書かれています(14)。八幡よりも古く勧請された地主神が鹿嶋神社だというのです。

 しかし、現在では大森神社に合祀されていて、先の『報告書』によるとこの大森神社の行事として「田楽灯籠とかしま流し」が報告されています。行事内容を読むと、「由来」のところに、合祀された神社のひとつに鹿島神社があり、「この鹿島流しはみことが地震をゆり起こす大鯰を退治するために船出をするものとされている。」と妙な説明になっています(15)。『報告書』の一覧表には鹿島社は出てきませんので、鹿島社の存在が次第に埋もれつつあるという感じになっています。

 由利地方は近世に小さく別れて諸藩がありましたので、十分な調査が仕切れていません。その中で、『東由利町史』等から5社、『矢島町史』から1社が見つかっています。これも「鹿島送り」の記事から探し出したものです。「鹿島神社」「碑」とありますので、「石碑」だけになっているものの可能性があります。今では合祀されたりして、なくなっているかも知れません。

 秋田県の鹿島神社は、やはり長い歴史過程の中で、徐々に埋もれていっています。表面的にはわからなくなってきています。それでも近世のものにはその痕跡が沢山残っていました。「鹿島祭」「鹿島舟」「鹿島人形」「鹿島流し」「鹿島さま」と称するお祭りがかなり盛んに行われていました。明治以降はさらに合祀されたりして、祭の起源も分からなくなっていて、次第に行われなくなってきているようです。

 征夷の神として古代や近代の国家が大事にしてきた神社とは、とうてい思われないような過程をたどってきた

としか思えません。おそらく鹿島神社・鹿島信仰の本質は、そうしたものとは全く別なものではないかと思うのですが、秋田県の実態はそうしたことを色濃く示していると思われます。

 

1 『秋田大百科事典』(秋田魁新報社 昭和56年9月)184頁

2 『雄和町史』 昭和51年6月

3 『秋田県文化財調査報告書 第148集 秋田県の年中行事1 ぼんでんとかしま送り』 1986年

4 『秋田県史 第二巻 近世編上』357頁

5 『秋田大百科事典』(秋田魁新報社 昭和56年9月)367頁

6  小田島晴明「仙北のささら基調報告」(『仙北のささら 秋田県仙北地方ささら事業報告書』2012年3月)

7 『仙北のささら 秋田県仙北地方ささら事業報告書』129頁

8 『男鹿半島 その自然・歴史・民俗』(平成10年3月)192頁

9 『菅江真澄全集』第4巻 未来社 1973年2月

10 『定本柳田国男集』第2巻

11 「そとがはまきしょう」『菅江真澄全集』第3巻153頁

12 「古四王神社」(『日本の神々 神社と聖地 12 北海道・東北』白水社 2000年7月)

13 『角川日本地名大辞典 5 秋田県』(角川書店)164頁

14 『菅江真澄全集』第6巻(未来社 19年月)88頁、613頁

15 『秋田県文化財調査報告書 第148集』(1986年)8頁、39~40頁

2.岩手県の鹿島神社

2.岩手県の鹿島神社

 

神社名

所 在 地

祭神

備  考

出典

1

武甕槌

神社

九戸郡軽米町山内  権現林

建久4年に祀り

慶長9年勧請

名鑑 

  

2

鹿嶋

大明神

伊保内村 (九戸郡九戸村伊保内)

  

バス停鹿島

書上帳

  

3

真部地

明神社

江苅村馬淵 (岩手郡葛巻町江苅)

鹿嶋大明

神他1

  

書上帳

  

4

駒形

神社

宮古市津軽石藤畑

AB他1

馬を祀る

大系

  

5

鹿島

大明神社

岩手郡栗谷川県土淵村

(盛岡市土淵)

  

頼義が祈願、

勧請

郷村志

  

6

鹿島

大明神宮

岩手郡上田県新庄村

(盛岡市新庄)

鹿島

大明神

字鹿島下・鹿島山

城内~後廃社

郷村志 

  

7

鹿島

大明神宮

盛岡市内丸

鹿島

大明神

往古甲州より勧請

郷村誌 

  

8

志賀理和気神社

紫波郡紫波町 桜町本町川原

AB他5

田村麻呂が鹿島

香取勧請 

神々

  

9

鹿島神社

和賀郡東和町谷内 (花巻市)

鹿島

大明神

寛政7年の棟札

町史

11

10

鹿嶋社

胆沢郡上胆沢若柳村 (奥州市)猿山

  

於呂閉志神社内

か 小祠

神々

  

11

鹿島神社

北上市鬼柳町上鬼柳 満屋

  

鹿島館

寛永18年建立

大系

  

12

鹿島

大明神宮

磐井郡達谷村堂ノ前

(平泉町平泉北沢)

  

西光寺毘沙門堂

宮跡 

安永 

  

13

鹿島社

磐井郡達谷村赤部

(平泉町平泉北沢)

  

  

安永

  

14

鹿嶋神社

東磐井郡黄海村字辻山

(藤沢町黄海) 大明神

A

  

安永 

  

15

鹿嶋社

磐井郡蝦島村鹿嶋

(一関市花泉町油島)

  

慶長6年勧請

鹿嶋御林あり

安永

  

16

鹿嶋社

磐井郡峠村藤田

(一関市花泉町老松)

  

運南社相殿

安永

  

17

鹿嶋社

磐井郡鬼死骸村六本椚

(一関市真柴字佐野)

A他1

大同2年勧請

鬼石 

安永 

12

18

鹿嶋神社

気仙郡(陸前高田市

広田町根岬)

建御雷神

 

市史

 

19

多賀神社

気仙郡矢作村(陸前高田市矢作町)神明前

天照御祖神社末社

市史

 

20

塩釜神社

気仙郡矢作村

(陸前 高田市矢作町)打越

武美加槌命B他1

往昔は獅子稲荷大明神と称す

市史

 

21

鹿嶋社

気仙郡長部村

(陸前高田市気仙町二日市)

A

建久年勧請 鹿嶋

屋敷 お鹿島さま

安永 

13

 

*「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、「経津主命」をBとし、それ以外の鹿島の神の表記はそのままとし、その他の神名は「他1」のように記した。空白は「祭神」が確認できていないものである。

 「出典」は、1の「名鑑」は『岩手県神社名鑑』、2・3の「書上帳」は「八戸廻・軽米通の諸堂社書上帳」(『新編八戸市史 近世資料編Ⅲ』)、4・11の「大系」は『日本歴史地名大系3 岩手県の地名』(平凡社)、5・6・7の「郷村誌」は『邦内郷村誌』(『南部叢書』5)、

8・10の「神々」は『日本の神々12』、12~17・21の「安永」は『安永風土記』(『宮城県史』)、9の「町史」は『東和町史』、18~20の「市史」は『陸前高田市第7巻』である。いずれも主として拠ったものという意味で掲げた。

 「歴」は、国立歴史民俗博物館による『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。これは香取神社と鹿島神社の一覧表であるので両社を含めた通し番号になっているが、番号はそのままのものである。

 

 

 岩手県の鹿島神社は、「鹿島」「鹿嶋」を名乗る神社が15社、「武甕槌神社」が1社、その他は祭神から判断したものが5社、全部で21社になりました。

3の「真部地明神社」の祭神は「鹿嶋・賀茂大明神」ですから問題ありませんが、4の「駒形神社」は武甕槌命・経津主命・大山祇命ですので、武甕槌命を祀る神社としてここに入れました。

鹿島神社と祭神武甕槌命の関係は厳密には問題がありますが、この一覧表ではとりあえず入れています。この問題はいずれ全国を見渡した上で論ずるべき課題です。

8の「志賀理和気神社」は、延喜式神名帳所載の最北の神社です。祭神は経津主命・武甕槌命他5神ということですが、社伝によると坂上田村麻呂が香取・鹿島を勧請したのが起こりとなっているようです。本来は土着の神と思われ、そのこともいずれ論ずる必要があるでしょうが、鹿島神社のバリエイションの一つと考えて良いと思います。

19の「多賀神社」は武甕槌命、20の「塩釜神社」は武美加槌命と経津主他1神なので入れています。

なお、春日神社は、祭神武甕槌命・経津主命・天津児屋根命・比売命の4神で鹿島のバリエイションには違いはありませんが、明らかに藤原氏の氏神化がはっきりしていますので、ここでは意識しつつも一線を画して載せませんでした。ただし地方によっては微妙なものがありますので、そのつど判断するつもりですが、岩手県にはありませんでした。

岩手県はかなり広いので、21社というのは大変少ない感じですが、分布はその割に広くなっています。北上川流域を離れたところがかなりありました。1から4の九戸郡、岩手郡葛巻町、宮古市、18から21の気仙郡の8社です。

「鹿島」地名は、以前は3ヵ所4地名でしたが、今回さらに5地名が加わりました。1ヵ所は盛岡市新庄に「鹿島山」が加わりました。他の4ヵ所は、九戸村1、一関市2、陸前高田市1と全く新しいところです。地名も多くはありませんが、神社と同様分布は興味深いものがあります。

ところで、国立歴史民俗博物館「全国香取鹿島神社一覧表」(以下「歴博一覧表」と略す)では鹿島神社はわずかに3社だけです。いったい、この差は何でしょうか。

「歴博一覧表」は、「全国神社明細帳」や「全国同祭神神社一覧表」(「春日の神がみ」編纂委員会編『春日の神がみ』 全国春日連合会 平成3年)や「各都府県宗教法人名簿」を適宜参照し、「現・旧社名に香取または鹿島を冠する神社を採録した。」(凡例)とあります。

したがって「武甕槌神社」「志賀理和気神社」などが入っていませんが、それを除いても15社ですからこの差はいささか大きいものがあります。摂社末社は「歴博一覧表」も採録していますのでこの差ではありません。

『岩手県神社名鑑』(昭和63年6月10日)によりますと、「鹿島(嶋)神社」が3社、「武甕槌神社」が1社でしたから、主にこれに基づいたものかもしれません。各県の「神社明細帳」は丁寧に見るとかなり出てきますので、「歴博一覧表」がこれを見たとは考えられないと思っています。むしろ、近代以降のものの中でも、整理統廃合された結果のものから採録したものではないかと思われます。

本一覧表は、『封内郷村史』(寛政年間)や『安永風土記』など近世江戸時代の記録を基本にして採録しています。この差が一番大きいと思われます。つまり近世江戸時代までは存在した神社が、明治以降の近代化の過程で、まず廃仏毀釈でお寺が廃され、その後神社の統廃合がかなりなされていますから、その過程で消えて分からなくなってしまったということでしょう。各県の「神社明細帳」は、近代になってからの統廃合つまり合祀の経過がかなりよく分かりますので、丹念に見るとそれ以前の神社が分かってきます。

『新版岩手百科事典』(岩手放送株式会社 1988年10月15日)というのを見ますと、「鹿島」の項目は「鹿島卯女」「鹿島精一」「鹿島守之助」の(株)鹿島建設関係者のものばかりで、「鹿島神社」は11北上市鬼柳の「鹿島神社宮殿」が取り上げられているだけです。それも鹿島信仰ではなく、宮殿が県指定文化財になっていることの説明です。どうやら岩手県では、鹿島信仰は極めて希薄なものでしかないととらえられているようです。「歴博一覧表」は3社ですから、やはり同じ印象を与えています。

本一覧表もたかだか21社ですから、これを覆すものとは到底言えません。しかし、今まで言われていなかったところに神社が見つかっていることは重要です。私は、どの神社にも興味深いものがあると思いますが、特に次の4点に注目しています。

一つはすでに述べましたが、かなり広い分布です。

二つ目は、6、7の「鹿島大明神宮」です。これは、往古南部氏が甲州より下向する際勧請したものといわれ、盛岡城内の台所に祀られてあったといいます。しかし、その後南部の殿様が娘の疱瘡のために新庄村の鹿島山に遷して盛大に祭ったのですが、その効なかったため、大変怒って神社に封印をしてしまったそうです。そのため神社は廃れ、ついに大正の初めには鹿島山も崩してしまったといいます。先祖が大事に甲州から勧請してきた神を台所に祀っていたとか、それをわざわざ外に遷して娘のために祀ったとか、功がないので封印して、やがて明治以降の話ではありますが大事な鹿島山まで崩してしまったとか、鹿島神社の祀り方、いやその祀り捨て方が大変興味深いものがあります。(盛岡の歴史を語る会『もりおか物語(六)』昭和51年9月10日など)

三つ目は、青森県でも報告しましたが、達谷窟(岩屋)の毘沙門堂にかかわります。この堂ノ前に12の「鹿島大明神宮」跡があったことがわかりました。この達谷村には、赤部というところにも13「鹿島社」がありました。達谷窟は、蝦夷の悪路王と赤頭がとりでを構えていましたが、征夷大将軍坂上田村麻呂がこれを滅ぼした後、毘沙門天を祀ったものとされています。そこで鹿島神社も征夷の神として祀られたものというべきかもしれません。しかし、いつしか鹿島神社はなくなり、毘沙門堂は残っています。青森県では、明治初年の廃仏毀釈によって毘沙門堂は廃され、代わって鹿島神社が祀られたとされています。しかしこの達谷では、毘沙門堂が存続し、かってあった鹿島神社は再興もされていません。(『安永風土記』など)

二つ目と三つ目は、近世に廃されていますが、征夷の神としては無残な廃され方をしていると思えないでしょうか。

四つ目は、10の奥州市猿山の鹿嶋社です。

安永5(1776)年7月の『安永風土記』では「猿山神社」として「右ハ延喜式神名帳ニ相載候・・・於呂閉志神社ニ可有之哉ト申伝候近年鹿嶋社ト御神名唱誤候間此度往古之猿山神社ト御書上仕候事」と述べています。「猿山神社は於呂閉志神社であろうと伝えられていますが、近年は神名を鹿嶋社と誤って唱えているので往古の猿山神社と書き上げました。」というのですが、何か「鹿嶋社」と唱えることを憚るような感じです。明和9(1772)年の『封内風土記』(『仙台叢書』)では「猿山鹿島神社」としています。

ところで『日本の神々』(白水社 2000年7月5日)では、於呂閉志神社が「勧請神の鹿島との混同が見受けられる。」としながら、「また猿岩山の奥宮の境内には樽水大明神・山神・鹿島の小祠がある。」と述べています。そしてこの奥宮の例祭が、私祭と称され、「自生的な民俗行事」として「郡内はもちろん江刺、和賀、東西磐井郡や秋田県側からも参詣者が多数参集して賑わった。」とあります。誤って唱えられたにしても猿山の鹿嶋社は多くの土地の人々の信仰を集めていたようです。

『水沢市史Ⅰ』では、「岩手県内に鹿島神社をひろってみると、いずれも北上川沿いであり、・・・(もっとも時代不詳であるが遠野市、宮古市にも存在している。) 胆沢郡以南に断然多く、北は厨川である。」とし、前九年役伝説地帯とのつながりを考えていますが、やはり未解決の課題の一つに「胆沢町颪江の於呂志閉神社に鹿島神を合祀していること」をあげています。ここは単純に逆転させ鹿島神社の実態から、鹿島神社の性格を考えるべきなのだと思います。果たしてこれが、常陸国の鹿島神社を勧請した神の姿なのでしょうか。

今の段階で、私が考えている課題は二つです。

一つは、上の『水沢市史Ⅰ』が指摘している鹿島神社の内3社ほどがまだ確認できないことです。岩手県に行かないと見られない文献がありますので、調査は不充分なところが多く残っています。まだまだ鹿島神社が見つかりそうな気がしています。

二つは、これが大きな発見だと思っていますが、シシ踊りとの関係です。

シシ踊りは、鹿子踊・鹿踊と書き、シカおどりともいわれるように、鹿を模した頭や衣装をつけ、鹿の動きを表現した踊りです。岩手・宮城県の代表的な民俗芸能とされますが、青森・福島、そして愛媛県宇和島周辺にもあるということです。

起源の伝説は、「殺された鹿のために始まるとする供養説・山のシカの踊るのをまねたのに始まるとする遊戯模倣説・春日大明神と結び付けた奉納起源説などさまざまあるが、要するに山から里に降りてきて祖霊と豊作のために踊る精霊であろう。」(『新版岩手百科事典』)とされています。

起源の一つに、「春日大明神と結び付けた奉納起源説」があるとしていますが、インターネットの「鹿踊りのルーツと独特の装束の謎に迫る」では、「さらには、春日明神に起因する説もあり、水沢市のある地区では、香取鹿島の神の使いとして崇敬されていた鹿に扮し、春日大社に奉納した踊りだという説もあります。」と説明しています。

なるほど奈良の春日大社の鹿は大変有名です。しかしここでは「香取鹿島の神の使い」としていますが、そうではなく「鹿島の神の使い」が鹿で、春日へは鹿島から遷ったのだとされていますから、大もとは鹿島のはずです。

実際『胆沢町史Ⅹ 民俗編3』(平成3年10月)の「鹿踊」には、「鹿踊碑文」が写真と共にたくさん載っています。享保20年のものから昭和57年までの碑ですが、その2、3を紹介します。

「鹿嶋大明神塔 寛政三亥年 八月廿一日」(若柳字下松原3八雲神社境内)

「伊勢宮獅子躑供養 鹿嶋宮 塩釜宮 寛政七甲巳天 九月十六日」(小山字八幡堂八幡神社境内)

「富士麓行山躍供養 鹿嶌大神 嘉永二年」(水沢市佐倉河字荒谷地内)

胆沢郡内の碑は全部で40ありますが、そのうち13が鹿島大明神(大神)を記しています。他には「富士麓行山躍」などとある富士のものが17あり、富士山麓の鹿とのつながりを由緒としていますが、あわせて「鹿嶌大神」などと鹿島を記したものもあります。「春日大明神」は明治のものに一つ出ているだけです。

鹿踊の伝書『仰参秘集巻』というのが注に引用されていますが、ここには、

「鹿嶋大明神 日本第一武芸之御神奉称富士神之祖神申」

と、大変面白いことが書かれています。「鹿嶋大明神」は「富士神」の「祖神」だというのです。ここからはいろいろな連想が湧いてきますが、今は禁欲しておきます。

鹿踊についてはまだ多くの資料を読み込んでいません。しかし今は、鹿島信仰と鹿踊の関係がきわめて深いことが分かってきました。これによって、「鹿島」は鹿に関わる信仰であり、地名や神社名の由来もそこにあることがはっきりしたと思います。そして、「富士山麓」と「鹿島」と「胆沢」の地理的なつながりもここから浮かんできました。これはまだ近世以降の資料によるものですが、この伝承は中世さらには古代にまで遡及することができないかと思うのです。鹿踊について、さらに各地の伝承を調べる必要があるでしょう。各地の断片的な伝承などをもっと丹念に拾っていくことによって、新しい鹿島信仰の姿が明らかになる可能性があると考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.青森県の鹿島神社

1.青森県の鹿島神社

  

神社名

所 在 地 (現在地名)

祭神

 備  考   

出典 

1

鹿嶋宮

高杉村(弘前市高杉) 

  

正観音末社 石堂 草創年月不祥 明和6年棟札

書上帳

  

2

鹿島 神社

出精村林(つがる市木造林)

  

旧村社 旧千年村産土神

稲垣村史

  

3

鹿島 神社

津軽郡毘沙門村中崎   (五所川原市)

  

  

新撰陸奥

  

4

鹿島 神社

中川村大字桜田     (五所川原市桜田)

  

  

郡神社誌

2

5

鹿島 神社

中津軽郡西目屋村大秋

武甕雷神

旧村社 村市が姉大秋が妹

大系 県史 

  

6

鹿島 神社

北郡明神町       (むつ市田名部町)

八幡宮相殿 宝暦13年棟札

新撰陸奥

  

7

鹿島神

北郡七戸町南町     (七戸町七戸)

神明宮相殿

新撰陸奥

  

8

鹿島 神社

八戸市根城8丁目11-36


 

隅ノ観音境内 石祠

八戸市誌

  

9

武甕槌神社

三戸郡本三戸小向村   (南部町小向)


八幡宮(建久2年甲州より遷座)摂社

新撰陸奥

 

*「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、それ以外の表記はそのまま記した。空白は「祭神」が確認できていないもの。

 「出典」は、1は「安政2年8月神社微細社司由緒調書上帳(最勝院)」の、「新撰陸奥」は「新撰陸奥国誌」の、4は「北津軽郡神社誌」の、5の「大系」は「日本歴史地名大系2 青森県の地名」の、「県史」は「青森県史」の略。

 「歴」は国立歴史民俗博物館の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。

 

 この間、私は全国の鹿島地名の調査をふまえて、全国の鹿島神社の一覧表を作成してきました。そして実は、昨年3月29日には、一通りの一覧表がほぼ完成できたと思っていました。

鹿島神社の全国一覧表は、すでに1994年3月に国立歴史民俗博物館が「特定研究 香取鹿島に関する史的研究」として、全国神社明細帳と「全国同祭神神社一覧表」(「春日の神がみ」編纂委員会編『春日の神がみ』平成3年全国春日連合会)と各都府県宗教法人名簿を参照して、鹿島神社および香取神社の一覧表を作成して発表していました(以下、歴博一覧表と称す)。

 私は、この歴博一覧表から鹿島神社のみをぬき出して、これに私の「鹿島地名」の調査の中から見つけた鹿島神社、武甕槌神社、武甕槌命を祭神とする神社などをつけ加えたら、それで新たな全国の一覧表が出来ると安易に思っていました。

 しかし、青森県・岩手県・宮城県などの調査を進める中で、ふと近世の資料を見たために、現代ではすでになくなっていたり、わからなくなっている鹿島神社、鹿島社などがかなりあることがわかってきたのです。歴博一覧表は近現代の資料に基づいていましたから、近世の史料を見ますと、ここにはない神社がいくつも出てきてしまったのです。

 直接のきっかけは、『宮城県史』所収の『安永風土記』でした。『安永風土記』は、仙台藩の地史編纂の過程で作成され、各村々から提出された「風土記御用書出」等の「書出」の総称で、安永2(1773)年から同9年のものが最も多いので『安永風土記』といわれているものです。幸い、『宮城県史』がほぼ収録していたので、わりあい簡単に見ることが出来ました。

 その結果、今まで知らなかった地名や神社が次々に出てきたのであわてました。『安永風土記』については岩手県・宮城県のところでまた改めてふれたいと思いますが、その後は、各地の近世の地誌や検地帳、村明細、寺社明細などできるだけ目を通すことにしてきました。とにかく近世のものをしっかり見ること、あるいは近代の廃仏毀釈や神社の統廃合以前の姿がうかがわれる史料をしっかり見ないと、古い神社の実像はわかってこないことが改めて思い知らされました。そのため私の一覧表は、各県毎にすべてやり直しになり、1年以上かかってしまっています。まだ未完ですが、少しずつ発表することにしました。

 そこで、まずは青森県。

『青森県百科辞典』((株)東奥日報社 昭和56年3月1日)の「鹿島信仰」(小舘衷三)の項を、つぎに全文かかげます。

「県内に鹿島神社が7社あるがいずれも津軽地方だけである。その祭神は武神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、本社は茨城県の旧官幣大社である。代表社は南郡藤崎町鹿島神社、弘前市乳井神社、中郡西目屋村市のものであるが、神仏分離以前はいずれも毘沙門天(びしゃもんてん 多聞天)を祭っていた。すなわち、東北地方は日本の鬼門であったので、古代から北方鎮護のこの神仏が祭られていたのである。なお、西郡岩崎村周辺で行われている「鹿島送り」は、秋田藩主が鹿島本社のある常陸(茨城県)から転封になって来て、一時、岩崎地区を領有していたことによる。」

なおこの辞典は、この後に南津軽郡藤崎町の「鹿島神社」と、西津軽郡深浦町、同岩崎地区などの「鹿島流し」(上記の「鹿島送り」のこと)の 項をたてて、同様な説明を加えています。鹿島神社や鹿島信仰に関する青森県内の典型的な認識を示しているものと言えます。

ここでは、青森県内の鹿島神社は7社だけで、すべて津軽地方だけのものであるといっています。

歴博一覧表では、『百科辞典』が7社といっているのに対して6社で、津軽地方だけのものというのは同じです。これは弘前市の乳井神社が入っていないからでしょう。乳井神社は神社名こそ「鹿島」を名乗っていませんが、祭神は武甕槌命・経津主命他1神で、坂上田村麻呂に関わる伝承をもつ北方鎮護の神ですから、一覧に挙げられてもおかしくないものです。神社名にこだわったのかもしれません。

ところが『百科辞典』は、この7社が「神仏分離以前はいずれも毘沙門天(多聞天)を祭っていた」と言っています。実際のところその通りで、近世の史料では毘沙門天とか毘沙門堂になっていて、鹿島神社の姿は見えません。そして明治になって、毘沙門堂を改め鹿島神社としたとしているものばかりです。そうすると、青森県には、近世以前にさかのぼる本来の鹿島神社は一つもないことになります。

しかし、私の調査では、近世から現代までの史料で、鹿島(嶋)神社、鹿島神、鹿島宮、武甕槌神社、乳井神社などさまざまな名前のものを含めて25社を数えました。しかも、津軽地方22社と圧倒的に津軽が多いのですが、下北郡、上北郡にも3社見つかっています。

 そして、これらは確かに近世の文献の中で毘沙門天、毘沙門堂を名乗っているものが多かったのですが、そうしたものを省いていくと、かかげた一覧表のように8社だけが残りました。津軽5社と北郡3社です。

 これを見ると、下北、上北郡の3社は問題なさそうです。鹿島神社は、相殿と摂社ですが、津軽地方だけのものではありませんでした。史料は『新撰陸奥国誌』ですから、明治5年~9年のころの情報になります。

 さらに津軽では、大変興味深いものが見つかっています。

 1の弘前市高杉の「鹿嶋宮」です。安政2(1855)年8月「神社微細社司由緒調書上帳」(最勝院 『新編弘前市史』1303頁)の、高杉村「正観音一宇」の項の中に、「同末社 鹿嶋宮」があり、小さい石堂で創建不詳だが、明和6(1769)年の棟札があるとあります。 おもしろいのは、「正観音」という仏教施設に「同末社 鹿嶋宮」がはっきり見つかったことです。近世以前では神仏混交ですから、お寺に神社がくっついていても不思議ではなく、今日でもその名残は注意しているといくらも見ることは出来ます。

 この「鹿嶋宮」が今日も存在しているかどうかは今のところわかりません。「正観音」は、津軽三十三観音の第四番札所浄土宗南貞院の観音堂と思われ、村内には諏訪神社や加茂神社があることは地名辞典でわかりましたが、これら辞典は鹿島には全くふれていません。

 しかし、これが見つかったことは、明治になって毘沙門堂が廃され、代わって新しく鹿島神社になったという説明に大きな疑いが出てきます。毘沙門天を祀る毘沙門堂に付随して、鹿島神社や武甕槌命が祀られていても不思議ではないでしょう。それが明治になって、毘沙門堂を廃したときに残った神社として浮上した可能性も出てきたと思います。

 私は、まず第一に、こうした話が青森県だけで説明されているのではないかと疑っています。私の不勉強かもしれませんが、他の地域ではあまり聞かない話です。たとえば、岩手県平泉の有名な達谷窟は、毘沙門堂です。この「堂ノ前」には「鹿島大明神宮跡」があったと『安永風土記』にはあります。ここでは近世の段階で、すでに鹿島神社は跡だけになり、毘沙門堂が今日まで存続しています。明治になって鹿島神社を復活して、毘沙門堂を廃してもおかしくないと思いますが、そうしたことはなかったのです。逆に鹿島神社は今日では痕跡さえもわかりにくくなっています。毘沙門堂と鹿島神社が同居していて、どのような事情かはわかりませんが、鹿島神社がなくなり、毘沙門堂が残った逆のケースが存在することは重要です。

青森県の「鹿島」地名は、4ヵ所7地名あります。公表している地名一覧表にはなかったところが1ヵ所2地名増えました。西津軽郡深浦町岩崎の「へたの鹿島」「沖の加島」です。菅江真澄が島の絵を描いていました。ここには「武甕槌神社」がありますが、近世には毘沙門堂で、鹿島神社や武甕槌命は確認できませんでした。『百科辞典』でもふれられているように「鹿島流し(送り)」「鹿島祭」が盛んに行われている地域でもあります。「鹿島信仰」の痕跡が地名と祭りに濃厚に残っています。しかし、鹿島神社は近世にさかのぼっては確認できません。『百科辞典』は、「鹿島送り」について常陸国から転封した秋田佐竹氏が一時支配したことによるとしますが、それなら鹿島神社を勧請していてもおかしくないはずです。「鹿島祭」が深浦町域に何カ所もあることなど、一時的な佐竹氏の影響では説明つかないものがあります。

 また、普通は神社があったから地名が残ったと説明されるのですが、今のところ対応する神社が見つかっていません。津軽には22ヵ所の鹿島神社がありましたが、どれも近世は毘沙門天を祭っていたとすると、地名や「鹿島祭」などの行事との関係が説明つきません。これだけ鹿島信仰の痕跡が在りながら、確かな鹿島神社がなさ過ぎます。

 私の一覧表では、今のところ近世の毘沙門天、毘沙門堂についてはっきりしないものを4ヵ所挙げています。

鹿島神社であることがはっきりしているもの、津軽1ヵ所、北郡3ヵ所、しかしなお検討を要するもの4ヵ所です。この4ヵ所ばかりでなく、津軽地方の鹿島神社のすべてを一つ一つもう少し検討すべきではないかと思っています。そして、この鹿島神社が今後消えていくのか、近世以前の鹿島神社の存在を確認することになるのかが今後の問題になります。

 とりあえずは、全国の鹿島神社を見てからの課題とします。