古社の秘密を探る

5 宮城県の鹿島神社
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 1 地名と神社の分布図  赤四角は地名 青丸は「鹿島」を名のる神社 緑丸は別名の神社
              「地震まっちゃ」の「自由地図」を利用した。


 

2 調査について
 宮城県の鹿島神社は、全126社です。一覧表はかなり大きいので、今回は文章の後にまわしました。
 
「鹿島地名」は51か所81地名。茨城県についで2番目に多かったので、鹿島神社が多くなることは予想していましたが、調べれば調べるほど鹿島神社が新たに出てくるので困りました。

 一覧表の一番右に、例によって国立歴史民俗博物館(以下、歴博と略称)の特定研究の成果「全国香取鹿島神社一覧
表」の通し番号をつけましたが、歴博の鹿島神社は全部で39社だけです。(1)

 歴博の研究は『神社明細帳』を見ているというのですが、それにしては神社数があまりに少なすぎます。私は現在8県の『神社明細帳』の調査をしましたが、このすべてから歴博の一覧表をはるかに超える数の鹿島神社を見出しています。歴博の調査は、一体何を調査したのかが大きな疑問になっています。

 私の今回の宮城県調査の特徴は、何と言っても、近世の史料の通称『安永風土記』を基本にしたことで、これで足りないところは『封内風土記』で補足しました。
 
 近世の仙台藩の地誌編纂は、まず4代藩主伊達綱村の命で佐久間洞巌が『奥羽観蹟聞老志』(享保4年 1719)を編纂し、5代藩主吉村の寛保元年(1741)には佐藤信要が『封内名跡志』を編纂しました。それを引き継ぎ、7代重村の明和9年(1772)に田辺希文によって編纂されたものが『封内風土記』で、村の戸口、小地名、社寺、伝説などの村の実情が記述されています。そして、さらにより内容を細かく藩が指定して村々から書き上げさせていったものが、安永年間(1772~1781)のものが多いので通称『安永風土記』と称される『風土記御用書出』などの一連の書き出し文書になります。この『安永風土記』は、『宮城県史』23~28巻と補遺(4、32巻)にまとめられていましたので、わりあい簡単に見ることができました。
 
 すでに岩手県などのところでも述べましたように、鹿島神社の調査をすっかりやり直させられたのが、この『安永風土記』との出会いでした。それまでは歴博の一覧表に、私が「鹿島地名」の調査で見つけた鹿島神社を補充すれば十分と思っていたのですが、『安永風土記』を見ると今まで知らなかった地域からも鹿島神社が次々に出てきました。それこそ近現代の史料では表面上分からなくなってしまっている鹿島神社が、これらの近世史料からかなりはっきりと出てきたのです。
 
 今回は、これに加えて国文学資料館所蔵『宮城県神社明細帳』(以下『神社明細帳』と記す。)も調べました。念のため、1976(昭和51)年の『宮城県神社名鑑』(以下『神社名鑑』と記す。)も見ました。市町村史のたぐいもかなり見ました。宮城県の鹿島神社の問題はなかなか難しい問題がありますので、ある程度見通しを立てたいと思っていたからです。

 『神社明細帳』と『神社名鑑』にあたった時、これで神社合祀の経緯が分かると思ったのですが、またまた判断つかないものがかなり出てきてしまって、一覧表にはそのまま出すことにしました。したがってダブっているものもいくつかありそうな気がしています。しかし一方失われた神社がさらにありそうな記述も出てきました。
 
 たとえば、一番極端なのは、35の大崎市三本木の「八坂神社」です。祭神は素戔嗚命、他23神は1894(明治27)年と1909(明治42)年に「現三本木町内各区の村社ならびに無格社26社を合祀し、町の総鎮守となった。」(2)とあります。神様の数が23神と26社で合いませんが、『神社明細帳』によるとこの内7社が鹿島社ということです。三本木町の町内にかつて7社の鹿島社があったことがわかりました。これらは、明治の半ば以降「八坂神社」に合祀されてしまったわけです。ここから一覧表は7社と数えたいところですが、今は保留状態にして、近世の記録で確認してからの課題にしました。
 
 同じようなケースはいくつかあります。47の遠田郡美里町関根の「北鹿嶌神社」は祭神がAAで、武甕槌命が重なっています。明治以降の『神社明細帳』の情報です。どうやら一柱の神は他からもってきて合祀したものと思われます。46に同じ関根の「鹿嶋神社」があり、これは明和9(1772)年の『封内風土記』の情報ですので、47に合祀された可能性があると思いました。ところが歴博の一覧表にも出ていて、現在の地図上でも確認できますので、どうやら別の鹿島社を合祀したものと思われます。これも今のところ確認できていませんので、AAを2社とは数えていません。

 もう一つふれておきます。101の仙台市宮城野区銀杏町鹿島下の「鹿島神社」は、『角川日本地名大辞典4 宮城県』に昭和20年から40年まであった「鹿島町」という町名に関し、「町名は地区の北方にかって鹿島神社がまつられていたことから名付けられた字鹿島下による」とあったことから採ったものです。しかし、現在はこの神社はありません。103の「大崎八幡神社」の境内社に「鹿島神社」がありますので、これかも知れないと思っていますが、残念ながら確認できていません。ここはダブっているかも知れないのですが、確認するまではこのままにしておきます。
 
 今回は、地名のみで神社がないところも表に示しました。どこかの時点までは神社か祠か何かがあったはずと思われますが、今のところ見つかっていないものです。これは通し番号から外しています。
 
 『安永風土記』と『封内風土記』では、「鹿島(嶋)社」や「鹿島神社」と社名だけしかわかりません。しかし、『神社明細帳』や『神社名鑑』などでは祭神名が分かります。そこでこの二つから祭神武甕槌命が確認できる神社は、ほとんど採用することにしました(3)。合祀された神社を遡ってみていくと、「鹿島(嶋)社」などの摂末社や境内社であったり、近くの村々の小社、小祠であることがはっきり示されている史料に出会います。この一覧表はそうしたものを出来る限り拾い集めたために、この数になったわけです。

 現代の地図で確認していながら、市誌や町村史で確認できなかった神社があります。16と79です。新しくできた神社の可能性がありますが、例によって、確認できるまではとりあえずこの一覧表に載せておきます。
 
  3 盬竃神社
 一覧表のうち、まず最も大きな問題と思われるのは、97の盬竃神社でしょう。

 盬竃神社の祭神は種々の説あって一定しなかったと言われますが、仙台藩4代藩主の伊達綱村が元禄6年(1693)家臣に命じて各地の神社、祭神に関する諸書・諸説を調査させ、京都の吉田(卜部)兼連述・近衛基煕加筆のかたちで縁起を作成したものが現在の祭神といいます。左宮に武甕槌神、右宮に経津主神、別宮に岐神の3神です。(4)

 実際の神社の配置を見ても、正面に左宮と右宮、右手の奥に別宮がある形になっていて驚かされます。主神の位置に鹿島の武甕槌命と香取の経津主命が祀られ、本来の土地の神を別宮として脇に追いやってしまったかのように見えます。しかも別宮の祭神も、塩土老翁や猿田彦命など諸説があって、元宮司押木耿介の『?竃神社』は塩土老翁で通しています。ことはそう簡単な話ではなさそうです。
 
 結局、押木耿介は諸説を検討したところで、「私自身は、古くは盬竃大神であり、しいて神名をあてるようになったのは、おそらく鎌倉以降のことと思うのである。」と言っていますが、私もこれが妥当なところかと思います。

 それでは、武甕槌命や経津主命はどうなのかということが問題でしょう。
 
 私が注目するのは、鎌倉時代の延慶2年(1309)に作成された『春日権現験記』の伝承です。『春日権現験記』は、藤原氏が氏神の春日明神の霊験を描いて奉納した絵巻物ですが、その巻一の第一段の冒頭とも言って良いところで、
「その源を尋ぬれば、昔、我が朝、悪鬼・邪神明け暮れ戦ひて、都鄙安からざりしかば、武甕槌の命是を哀れみて、陸奥国塩竃浦に天降り給ふ。邪神霊威に畏れ奉りて、或ひは逃げ去り、或ひは従ひ奉る。その後、常陸国跡の社より鹿嶋に移らせ給ふ。遂に神護景雲二年春、法相擁護の為に御笠山に移り給ひて、三性五重の春の花を弄び、八門二悟の秋の月を嘲り給ふ。・・・」(5)
とあるのです。

 かなり有名なところですが、そもそも鹿島の武甕槌命は、はじめ陸奥国塩竃浦に天下り、その後常陸国鹿島に遷り、最後に大和国御(三)笠山に遷って春日の神になったというのです。
 
 ふつう、鹿島の武甕槌命は香取の経津主命と共に、中央から陸奥国へ下っていって蝦夷を征伐したと説かれるのですが、この伝承は武甕槌命のみで経津主命はいません。そしてその武甕槌命に関しまったく逆の動きを示し、塩竃から南下して鹿島、さらに春日に来た北方の神にしています。

 従来は、この伝承を取るに足りないものとして、ほとんど無視してきました。しかし、鎌倉時代後期の藤原氏がこれほど明確に記した伝承、氏社春日明神4座の中心に祀った武甕槌命の来歴に関する伝承を、取るに足らないとして無視するのはあまりに不可解な話です。(6)
 
 その理由は第1に、この伝承が、武甕槌命に深く関わり、自らの祖神として春日の神4坐の内に包摂してしまった藤原氏が、その神の霊験を記した宝物の絵巻物の冒頭で神の来歴を語ったものですから、いい加減なことを書くはずはないことです。
 
 藤原氏は、鹿島大神について初めて記し、その鹿島も含めた常陸国の制圧の血塗られた記録を記した『常陸国風土記』の編纂に、藤原不比等の3男藤原宇合が係わったとされています。鹿島神郡の建郡には中臣氏が係わっていました。後には藤原(中臣)鎌足が鹿島で出生したとの伝説も生まれています。藤原宇合は式部卿の時、神亀元年(724)には持節大将軍として、陸奥国の海道蝦夷の反乱を平定しています。
 
 有名な多賀城碑には、多賀城が神亀元年大野東人によって建置され、天平宝字6年(762)恵美(藤原)朝猟によって修造されたとあります。藤原朝猟は藤原仲麻呂(恵美押勝)の3男であり、この時代には積極的な東北経営がなされたといわれています。当然盬竃神社とも無関係とは思われません。他にも藤原氏は何人も東北経営には直接係わっています。
 
 このような経過をふまえて、藤原氏は、鹿島大神を武甕槌命とし、やがて鹿島武甕槌命・香取経津主命を遷座して祖神河内枚岡の天児屋根命と比女命とともに4神にまつって春日神社としたわけです。
 
 藤原氏は、陸奥国の盬竃大神、常陸国の鹿島大神ともに十分に関わってきた歴史を踏まえた上で『春日権現験記』という絵巻物を作成したわけで、藤原氏の総力を挙げて作成した一族の宝物の中に書かれた伝承です。取るに足りない話なら、わざわざ書く必要もなかったはずです。しかもなぜ、経津主命と共に中央から派遣された征夷の神と書かなかったのかの方が不審です。むしろ、そういう伝承は藤原氏の中にはなかったというのが率直な見方でしょう。
 
 第2に、本来の土地の神ではないかといわれる別宮の、神官の一の祢宜は「男鹿島太夫」と言われていることです。ここになぜか「男鹿島」が登場します。「男鹿島」は「小鹿島」でもあり、秋田県の男鹿島とも通じます。
 
 もっとも別宮はややこしく、先にもふれましたが、祭神については岐神、塩土老翁、猿田彦神などの諸説があり、今の神社配置も近世初頭までは違っていて、それまで別宮自体がなかったようです。別宮の位置には、貴船(木舟)社と只州社があり、只州社は外に移され、貴船社が別宮になったといわれています。その貴船社が「地主の神」で、「龍宮より上り給ふ御神にて、始めて塩を焼き給ふ由、社人の説あり。」とも「御釜之神」ともいわれていて、この一の祢宜にも「男鹿島太夫」はなっています。(7)
 
 「男鹿島太夫」は明応6年(1497)の鐘銘や天文頃の記録にも出ていますので、古い社家といって良いでしょう。
『利府町誌』によると、別宮一祢宜「男鹿島太夫」鈴木氏の藩政時代の居住地は、加瀬村の「女鹿島」、二の祢宜鈴木氏は加瀬村の「男鹿島」であり、別宮の神官達がすべて加瀬村に居住していたとあります。それどころか?竃神社の社人の多数が居住していたとあり、「どうしてわざわざこのように不便な加瀬村に居住していたのだろうか。」といぶかっています。なぜそうなのかはわかりませんが、「鹿島」地名のあるところに?竃の神官達が集中していたというのは興味深いものがあります。(8)
 
 『盬竃神社縁起』には、「塩土老翁、始めてこの浦に下り、塩を焼くを民に教う。故に塩竃浦と称す。御釜今にあり。別宮の社人これを掌す。」とあり、貴船社の神事を引き継いで、今日も特殊神事として「藻塩焼神事」が行われています。この最も重要な神事を掌るのが、やはり「男鹿島太夫」たちであるといっています。ここに武甕槌命ではありませんが、「鹿島」が関わってくるのです。(9)

 盬竃大神と「鹿島」とは深くつながっていると言って良いでしょう。『春日権現験記』の伝承はそのことを示したものではないでしょうか。
 
 現在、この神事は境外末社のお釜神社で行われていて、ここにはその神竃が祀られています。その神竃は今では鉄竃となっていますが、松島湾一帯の製塩は土器製塩の歴史が長く、縄文時代から平安時代まで続いていました。鉄竃になるのはその後の時代といわれています。そうすると?竃神社の塩焼き竃は、本来鉄竃ではなく製塩土器と考えるべきでしょう。
 
 塩竃の竃は、しかも鉄釜のような上部の釜だけのものではなく、火を焚く部分も含めた「かまど」を考えるべきです。したがって塩を焚く「かまど」「かま」の総体が本来の神竃というべきものであったわけです。生命の源の塩を作る「かまど」の神だからこそ、「安産の神」ともなるのではないでしょうか。
 
 盬竃神社へは、安永4年(1775)藩主重村が娘の安産祈願をしています。江戸時代に別当法連寺が「安産掛軸」を配布していますが、そこには「推古二年申寅七月始御安産祈奉行神事式祭等・・・」とあり、古くからの伝承を記しています。江戸時代にはかなり広く安産守護神として知られていたようです(10)。実は鹿島大神も安産の神として有名です。盬竃大神と鹿島大神の大きな類似点の一つがここにもあります。
 
 ところで、「かまど」の神としては「カマ神」「竈神さま」があります。「宮城県から岩手県南部の旧仙台藩領を中心に、竈の神として祀られてきた「カマ神」は、土や木で作られた面で多くは憤怒の形相をとる」といわれます。塩竃神社には、この土製・木製の「カマ神面」10面が県文化財に指定されてあるということです(11)。私はこれこそ、塩竃大神、塩竃大明神に係わるものではないかと思うのです。
 
 もう一つ、塩竃大明神の貴重な伝承が『安永風土記』にあります。

 松島の海上「七曲り水戸」に関し、
「右は一宮大明神天降り給い候節、御踏み分け成され候水道の由申伝え候事」「一宮大明神鯱(シャチ)に乗り、この浦に天降り給う、その水路屈曲いたし候由申伝え候・・・」(12)
一宮大明神とは塩竃大神のことですが、その塩竃大神はシャチに乗って、七曲り水戸を踏み分けて天降ってきた、そして民に塩焼きを教えてくれたというのです。

 押木耿介『盬竃神社』では、「むかし、武甕槌・経津主の二神が東征にあたって、シャチにのった塩土老翁に案内され、塩竃にいたって降臨されたので、ここに東北の鎮めとして祀られたといわれ、その降臨の具体的な地が七曲坂であるという伝承がある。」とよく似た話を記しています(13)。しかしながら、村の伝承の方が海を渡ってきた神の本来の姿を示しているように思われます。

 シャチに乗って、屈曲した回路を天降ってきた神は一宮大明神1神であり、「塩土老翁」のような案内役ではありません。「塩土老翁」は穏やかな物知りの神のイメージですが、シャチに乗った神は勇猛な「カマ神」の憤怒の面の方が合いそうな気がします。

 盬竃神社の初見は、『弘仁式』(820年)「主税式」の「祭?竃神社料一万束」です。この祭祀料は『延喜式』(927年)も同様です。伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束といいますからケタ違いの扱いを受けています(14)。それだけ古代において大きな霊力を持った神として畏れられて陸奥国に祀られていました。

 押木耿介は「当時、国家よりこうした厚遇をうけた神社はほかにはみられないので、その特殊性が知られる」としながら、『延喜式神名帳』に記載がないこと、「その後の歴史においても神位勲等などを授けられた形跡が見られないことである。国家のこのやや相反するような当社への崇敬の意味はどう解すべきであろうか。」と述べています(15)が、この謎は今までの研究者が全てもっていたもののように思われます。

 祭式料一万束の厚遇の一方で、式内にも入れられず、神位勲等も授けられないのはどうしてかということです。確かにこれは大きな疑問というべきです。

 左宮武甕槌命・右宮経津主命が入ってもダメなのかという感じですが、これは時代が後になってからの話と思われ、一覧表96「多賀神社」の『神社明細帳』の説明によると、祭神経津主命と武甕槌命は「中古塩竃神社ニ合祀ス。今左宮右宮ト称スルモノ是也」とあります。おそらく経津主命とセットになった東征の神武甕槌命を加えたのは、かなり後世になってからのものと思われますが、これとは別に、祭神は塩竃大明神あるいは塩竃大神とされ、神官は「男鹿島太夫」と称していた、これが盬竃神社の本来の姿ではなかったかと思われるのです。

 そしてこの神が、律令国家にとっては大きな霊力を恐れられながら、一方で、律令国家にとってはなおコントロールできない神、「まつろわぬ」神ではなかったか、だからこそ、『延喜式神名帳』には入れられなかったし、神位勲等も授けられなかったということではないでしょうか。9世紀から10世紀にかけて律令国家が最も畏れた神であったからこそ、「祭祀料一万束」によって和らげ鎮めようとしていたわけです。

 私は、表面の祭神武甕槌命とは別になっていて、隠されてしまっているような神官「男鹿島大夫」こそ、『春日権現験記』の武甕槌命の原像を示していると思うのです。
 
 全国の「鹿島」地名を調べ、鹿島神社(武甕槌命を祀る神社を含む)を全国的に調べていますが、その成果を青森・岩手・秋田・山形とまとめてきました。その中で、鹿島信仰にはかなり北方的要素がありそうだという感触を、今持ってきています。(16)
 
  4 貞観8年の大神苗裔神について
『三代実録』巻一二の貞観8年(866)正月20日条に、鹿嶋神宮司が陸奥国にある大神の苗裔神38社をあげて、奉幣するため入関の許可を求めたことなどを記しています。この結果の入関を許した太政官符が『類聚三代格』巻一にあり、ここにも苗裔神は同じように出ています。これも、鹿島の神の話の中ではかなり有名なところです。

 苗裔神は、
「菊多郡1 磐城郡11 標葉郡2 行方郡1 宇多郡7 伊具郡1 日理郡2 宮城郡3 黒河郡1 色麻郡3 志太郡1 小田郡4 牡鹿郡1」
とあり、郡ごとの神社数はわかりますが、具体的な神社がわかるわけではありません。

 同条はその後に、延暦(782~805)から弘仁(810~823)まで鹿嶋神宮の封物を割いて苗裔神に奉幣していたが、それが絶えたために諸神の祟り、物の怪がひどくなった。そこで嘉祥元年(848)に宮司らが奉幣するために陸奥国に向かったが、入関が許されず、やむなく関外の川辺に祓い棄てて帰ってきた。その後も神の祟りは止まず、神宮の境内でも疫病などが広がった。そこで陸奥国に下知して、諸社に大神の封物を奉幣して神の怒りを解くために関の出入りを許してほしいと願い出た話があります。これに対しての太政官符が『類聚三代格』のものです。

 さらにもう一つ話があります。鹿島神宮の修造のための用材を常陸国那賀郡から採っていたが、大変煩いが多いので宮の周辺に栗樹、杉樹を植えたいとこれも願い出て、許可を得たとあります。(17)

 ここには陸奥国の苗裔神の話と常陸国那賀郡の用材の話がありますが、苗裔神の話は、「諸神の祟り、物の怪」が国家にとって大問題になっていることを示していると思われます。大変おもしろい史料で、この問題全体を評価した上で苗裔神を見ないのは危険なこととは思いますが、今ここでは深入りしません。福島県・茨城県の鹿島神社を検討した上でふれるべきでしょう。とりあえず、宮城県内の苗裔神の問題だけに留めておきます。
 
 「苗裔」とは、『大辞林』によると「遠い子孫。末裔。末孫。」とあります。『常陸国風土記』では「香島の神子の社」とあるものがいくつか出ていて、『延喜式神名帳』にも「鹿島御兒神社」「鹿島天足別神社」などがあり、一覧表にもいくつかあります。従来はこうした「神子の社」をイメージしていたように思われますが、そこまで厳密な「神子の社」のみを考える必要はないと思われます。
 
 そして従来は、この分布を解釈して、「それらは海岸伝いに北上し、今の石巻市に及んでおり、大和朝廷の勢力の北進の跡を示している。」などといわれていました。まさに征夷の神の北上を示すものとされていたわけです。(18)

 宮城県の古代の苗裔神と、『延喜式神名帳』の鹿島を名乗る神社の数と、近世を元にした今回の一覧表の数とを比較する表を作ってみました。

 近世のものは、その中で古代に由緒をもつ神社数を「古由緒」という欄に出してみました。神社の伝承ですから、それがそのまま正しいわけではありませんが、参考にはなります。(なお、古代の長岡郡は、近世では栗原郡と遠田郡に別れますが、表では罫線が引けないのでやむなく栗原郡に入っています。)
 
表 古代の鹿島社と近世の鹿島社の比較
古代の郡
 
苗裔神
 
延喜式
 
近世の鹿島社 古由緒
 
近世の郡
 
        5 2 本吉
登米     1   登米
栗原     13 6 栗原
新田          
長岡          
遠田     6   遠田
小田 4      
玉造     2 1 玉造
賀美     11
 
2
 
賀美
 
色麻 3  
志太 1   29 3 志田
桃生     14 1 桃生
牡鹿 1 1 7 2 牡鹿
黒川 1 1 6 1 黒川
宮城 3   8 2 宮城
名取     7   名取
柴田     7 1 柴田
刈田     1 1 刈田
亘理 2 3 5 3 亘理
伊具 1   4   伊具

 
16
 
5
 
126
 
   18
 
 
「苗裔神」は貞観8年(866)の時点のものですが、延暦年間(782~805)から鹿島神宮との経過が記されていますから、8世紀末から9世紀中頃までのものと見て良いと思います。陸奥国全体で38社ですが、宮城県内では16社です。いわゆる「奥十郡」「黒川以北十郡」といわれる地域のものが10社と多く、他は南部に6社です。
 次の「延喜式」は延長5年(927)に成立していますから、貞観8年からおよそ60年後のものになります。問題は、この二つを比較するとわずか60年で16社が5社になってしまったかのように見えます。この状況は福島県でも同様です。
 
 『石巻の歴史』は、延暦年間まで征夷の戦いにおいて「中央神、特に武神が活躍している。その典型は鹿島神であろう。」として、この苗裔神などをあげています。「しかし、大戦中は厚遇されたものの、戦争が終結した弘仁以降は奉幣がしだいになされなくなっていく。」「このように大戦争終結以降は鹿島神に限らず、中央神は陸奥国内における地位を低下させていったものと思われる。」代わって、地主神が地位向上させていると、これを解釈しています。(19)
 
 ここで言う大戦争は、律令国家による対蝦夷戦争のことで、最近は宝亀5年(774)から弘仁2年(811)までの征夷戦争を三八年戦争というもののようです。この戦争の間は、鹿島の苗裔神は征夷の神として厚遇されてきましたが、戦争が終わってお払い箱になったとばかりにいっています。

 しかし、戦争が終結したというのは律令国家側の把握であって、政府は戦争を止めたけれどこれ以降も関東・東北では引き続き騒擾が各地で起こり、抵抗と思われる動きも続いています。貞観8年の記事は、「諸神の祟り、物の怪がひどくなった」とそのことを示していると思われます。そして歴史はやがて大きく平将門の乱、前九年・後三年の戦い、平泉の藤原氏へと続いているのではないでしょうか。戦争が本当に終結したのだろうかという問題があります。

 『石巻の歴史』は、この鹿島神を「中央神」「武神」と単純化して言い、「中央神」と「地主神」と対立させていますが、盬竃神社で述べたようにことはそう簡単ではありません。

 近世のデータから中世、そして古代を遡及的に見ていくかぎり、鹿島信仰がどこかの時点で衰えていったとはとうてい言えません。おそらく『延喜式神名帳』の段階でも、鹿島神は数を減らしたわけではなく、『神名帳』の枠内に収まるように鎮められていなかったのではないかと思うのです。律令国家が『神名帳』の枠内に取り込めなかっただけで、これを「地位低下」と言えるのかどうかも問題です。盬竃神社がそうでした。
 
 表の内容に戻って、苗裔神の分布と近世のデータをつきあわせると、古代と近世の分布が重要なところで相関していないことに気づきます。
 
 どちらも「奥郡」「黒川以北十郡」に多く集中していると言えますが、良く見ると重大なずれがあります。

 まず志太郡の苗裔神は1社だけで、しかも明らかになっていません。志太郡には式内社もありません。しかし、近世志田郡は地名も集中していましたし、神社も29社と最も集中しているところです。志太郡、志太郷などという地名自体、関東からの移住の根拠とされているところです。ただ中世大崎氏の滅亡という大混乱によって、古い由緒をもつ神社はあまり多くないのですが、それでも3社あります。三本木地区が信太郷に比定されていますが、ここには古い由緒の神社はありません。玉造郡にも信太郷がありますが、苗裔神、式内社ともにありません。

 苗裔神がない郡もかなりありますが、近世の神社はかなりありますので、比定されてもおかしくないと思われます。苗裔神がある郡も、ほとんど比定されていません。実は、いずれの苗裔神も、あまりしっかりした伝承を残していないというのが実情です。式内社も同様です。征夷の神と称揚されていて、近世にここまで集中している鹿島神社に、輝かしい過去の伝承が残っていないのは大きな謎です。

 さらに、栗原郡にも苗裔神は全くありませんが、近世の栗原郡には13社あり、古代の栗原郡と思われる地域に古い由緒の神社は2社あります。式内社とされる香取御兒神社を相殿とする2築館黒瀬の鹿嶋社は、景行天皇の時代の勧請としています。相殿が式内社の論社になりながら、肝心な鹿嶋社が何でもないのは不審というべきです。やはり式内社とされる9表刀神社も、天平神護元年(765)の勧請とされています。

 近世栗原郡の4社は古代長岡郡にあったと思われますが、12古川桜ノ目の鹿島神社は、今では式内社といわれる志波姫神社に合祀されています。別当は鹿嶋山桜目寺で、村名はここからきたということで、用明天皇手植えの桜の伝承を持っています。これらの伝承はそのままは信じがたいものですが、かなり古い由緒をうかがわせるものです。
 
 桃生郡も苗裔神はありませんが、近世は14社、古い由緒の神社は1社あります。柴田郡、刈田郡も苗裔神はありませんが、古い由緒の神社は各1社あります。柴田郡、刈田郡は「海岸伝いに北上」のルートとは言えません。
 
 刈田郡の1社は白石市郡山の122鹿嶋社ですが、『安永風土記』では旧跡として「鹿嶋社跡」になっています。ここには「往古田村丸御下向の節、このところの鹿嶋明神社へ立願成され候由申し伝え候。」とあり、坂上田村麻呂一行がここを通っていったとあります。その際祈願した鹿嶋社ですからかなり重要な鹿嶋社と思われますが、苗裔神でもなく、近世には廃れていました。(20)
 
 征夷戦争に活躍した神であるなら、伊治公呰麻呂の乱の呰麻呂の拠点と思われる栗原郡にないのはおかしい気がします。志太郡は鹿島神社が集中していたのですから、もっと重要な地点であったと思われます。岩手県の前線の重要拠点にも苗裔神はまったくありません。胆沢城の鎮守は八幡神社です。多賀城にも鹿島社はありません。
 
 まず、この苗裔神だけの分布で鹿島神を論ずるのは間違いであると思います。60年後の「式内社」は、数が少なすぎるだけではなく、征夷の神であるならばこの時点でもっと重要な地域の鹿島神社が選ばれるべきだと思うのですが、そうなっていないのが一番大きな問題というべきでしょう。

 そもそも征夷の神の根拠となるのは、『古事記』『日本書紀』の神話を除けばあまりありません。

 一つは、延暦元年(782)に、陸奥国が「鹿島神に祈祷して兇賊を打ち払いました。鹿島神の霊験は偽りではありません。位階を授けられるように」と言上した結果、勲五等と封二戸を授けたという話です(21)。これが陸奥国のどこの鹿島神かはわかっていません。

 これは宝亀11年(780)伊治公呰麻呂の反乱で、按察使紀広純らが殺害され、多賀城が焼き払われた事件に対し派遣された征討使に関わってのものと思われますが、さして成果を上げられなかった征討といわれています。しかも天応元年(781)には天皇が譲位し、間もなく亡くなっています。状況から考えると、鹿島神の慰撫のような感じがあります。

 もう一つは、延暦7年(788)に蝦夷征討のため大動員を命じたとき、「常陸国の神賤」すなわち鹿島神社の神賤を動員したことです。鹿島神社には神賤と呼ばれる賤民がいました。そして、賤民を兵士に徴発したのはこの例だけのようです。(22)

 鈴木拓也は「鹿島神(武甕槌神)は征夷の神として信仰されてきた経緯があるので、鹿島神宮から兵を出すことによって鹿島神の加護を期待したのであろう。」と言っています(23)が、この征夷戦は蝦夷の阿弖流為らによって征夷軍が大損害を出して敗れたことで有名です。「鹿島神の加護」どころか祟りがあったと思ったのではないかと疑います。実際、この戦いの経過の記述はかなりありますが、鹿島の神賤がどのように活躍したかは何の記述もありません。そしてこの後の征夷戦、有名な坂上田村麻呂の登場する征夷戦などでは、もはや動員さえしていないのではないかと思われます。

 古代の戦争は神霊戦、宗教戦争の面が強いので、これらは縁起の良い話ではないはずです。私は征夷戦に関しての常陸国の鹿島神宮の役割も気になります。常陸国の鹿島神社はこのころは大和春日に遷座し、藤原氏の氏神化がすすんでいました。

 苗裔神の話も、征夷戦が終わったとしてから50年以上後の話です。この前後には、貞観6年の富士山の大噴火や貞観11年の陸奥国巨大地震・大津波など大きな天変地異が引き続きました。これらは神の怒り、祟りと受け止められていたと思われます。したがってこうしたことを総合的に把握して、苗裔神の史料などを慎重に見直す必要があると思われます。
 
  5 三つの「鹿島御兒神社」
 牡鹿郡の鹿島苗裔神1社に、石巻市の「鹿島御兒神社」が比定されています。ここは延喜式内社にも比定されています。ところが、同市内にあと二つの同名社があったことがわかってきました。
 
 石巻市の「鹿島御兒神社」といえば、牡鹿郡陸方門脇村、現石巻市日和が丘の好日山(日和山 ひよりやま)上の85鹿島御兒神社をふつう言います。

 祭神は武甕槌命と鹿島天足別命。有名な神社で、場所も石巻港を眼下に望む絶好の位置にあるような気がします。しかしながら、どうもあまり古い確かな伝承はなさそうです。(24)

 『封内風土記』は、「土人は鹿島大明神と言う。この村の地主神である。いつ勧請されたかはわからない。・・・伝承では、旧社は好日山の西北にあり、ここを鹿島台といっている。葛西家が築城したため今の社地に移った。享保19年旧社地鹿島台に土地を賜い移った。」と言っています(25)。好日山は、現在は日和山と記されています。その西北に鹿島台があるとありますが、『葛西氏考拠雑記』によると好日山は鹿島山とも言われていて同じ土地をさしています(26)。ここに永仁年中(1293~99)葛西氏が築城し、その南麓に移ったが、享保19年(1734)に藩に願い出て戻ったということのようです。

 大事なことは、通称「鹿島大明神」といい「村の地主神」であったことと、葛西氏が宝物等寄進してきたとは言え、築城にあたって動かしていることからあまり重要視はしていなかったのではないかと思われることです。延喜式内社の伝承があれば城内に置くことも考えられ、葛西氏は簡単には動かさなかったのではないかと思うのです。

 牡鹿湊から石巻湊への発展も近世以降のことと言われています。つぎに示す、真野の鹿島御兒神社の方が古いのではないかと思われます。

 古代の牡鹿柵について、「その所在地は、長いこと石巻市日和山の地と考えられてきたが、最近遺構・遺物等から桃生郡矢本町赤井星場御下囲遺跡が有力視されている。」(27)といいますので、征夷の神としては城柵から離れすぎてしまったという感じがします。

 二つ目のものは、すでにふれた牡鹿郡陸方真野村(現石巻市真野)の84鹿島御兒神社です。
『安永風土記』でこの鹿島御兒神社を初めて見つけたときは驚きました。同じ鹿島御兒神社が二つあったということもありますが、真野村の真野川、真野の萱原と鹿島御兒神社のセットは福島県鹿島町の真野と全く同じであったからです。福島県の方は、『和名抄』の行方郡真野郷とされ、常陸国行方郡との関連が想定できます。そうすると、常陸国行方郡・香島の神子の社→陸奥国行方郡真野郷・鹿島御兒神社→石巻市真野・鹿島御兒神社という関連が見えてきます。
 
 『安永風土記』によると、村名の由来は、往古は入江となっていて、船着場があり、楫取島などの島もあり、入江真野となったので真野と唱えてきたとあります。真野川が流れ、長谷寺境内には名所真野の萱原もあり、小名鹿島山に鹿島御兒神社があります。
 
 鹿島御兒神社については、葛西家が関東から船で当国へ下ってきた節、当村へ初めて居館を作ったが、その館の丑寅に鹿島古社を再興された、当社参詣の時三葉柏を鳥がくわえ来て神前に落としたので、葛西家の御家紋とされたとあります。(28)
 
 『石巻の歴史』の「中世編」には、この伝承と関連して真野の伝承を詳しく紹介しています。
そこではまず、「古代の真野は真野公の勢力下にあった。」「真野の地が牡鹿郡の政治的中心であった可能性は、その立地条件や古代の真野公の根拠地であったことなどから見ても、否定できない。」と述べ、この「古代における『田夷』の首長、真野公によるリーダーシップにとって代わって、高橋氏の一統によるそれが確立されたのは、平泉藤原氏の統治が始まる辺りのことであったろうか。」とし、「平安後期から鎌倉前期において、都市平泉の玄関口の役割を果たした牡鹿湊は、真野の入江(古稲井湾)の辺りに位置していた。」と言っています。どうやら古代から中世にかけて、真野の入江が大きな役割を果たしていたようです。(29)
 
 ここに出てきた「真野公」は木簡からも確認され、弘仁6年には遠田郡の真野公が真野連を賜姓したなどと出てきます。「田夷」、蝦夷系の豪族です。(30)

 また、高橋氏は「高橋郡司大夫」といわれ、「真野村には葛西氏が再興した零羊崎神社・鹿島御兒神社・香取神社の三社がある。高橋郡司大夫は葛西氏が入部する以前からこの地にいたものであるが、三社の再興の時にその社家になったというのである。また高橋郡司大夫の子孫は江戸時代には修験となり、真野村の観寿院という修験に住したという。」と述べています(31)。『安永風土記』によると、観寿院は鹿島山明覚院と改めたとあります。
 
 また牡鹿湊については、鎌倉後期から南北朝・室町期にかけては、「真野入江の港湾機能の大半が失われ」、その代わりに「御所入江が、牡鹿湊の呼称を専らにすることになった。」とし、やがて近世にかけては石巻湊が発展していったと変遷を述べています。(32)
 
 三つ目は、湊村(石巻市湊)の鹿島御兒神社です。
『封内風土記』の「湊邑」に、「神社凡十七」とあって、零羊崎神社以下が列挙されていますが、その中に、鹿島御兒神社、香取神社、浮洲神社があり、いずれも「何時勧請かを詳らかにしない」としています。

 しかし、『安永風土記』『神社明細帳』などではこれが確認できません。そこで保留にしていますが、『神社明細帳』の字鹿妻の菅原神社が祭神菅原道真だけでありながら、小名「鹿島山」を朱書きで記入していたのです。その朱書きの意味が、字鹿妻の小名「鹿島山」なのか、鹿妻を訂正して「鹿島山」なのかわかりませんが、いずれにしても「鹿島山」の地名がここにあるということがわかりました。つまりは、おそらく鹿島御兒神社がここにあったのではないかと思うのです。何らかの事情で廃社になったものでしょうが、残念ながらそれ以上は不明のままです。

 以上、三つの鹿島御兒神社が石巻市内にあったということで、三つあってもおかしくはありませんが、日和山の鹿島御兒神社だけを考えていた従来の考えは訂正せざるを得なくなったのではないでしょうか。
 
6 分布でわかってきたこと
「表 古代の鹿島社と近世の鹿島社の比較」の近世の分布に戻ります。

 すでにふれましたが、志田郡に29社と圧倒的に集中しています。現在の大崎市古川地区と三本木地区で、古代の志太郡にあたる地域とされています。これは地名の分布でもそうでした。日本中で見渡しても、これは大変特異な現象と思われます。

 その次が、桃生郡の14社、栗原郡の13社、賀美郡の11社になります。

 また、牡鹿郡7社から本吉郡5社、登米郡1社、岩手県になりますが気仙郡4社は、古代で言えば「海道」といわれていましたが、その「海道」奥深く広がっていたのでいささか驚きました。

 これを地図上に落としてみると、古代の「奥十郡」「黒川以北十郡」といわれた地域に大きなひとかたまりが見えると思われます。

 もちろん古代の栗原郡と桃生郡は、「奥十郡」の中に入っておらず、その周辺部ですが、ここにも広がっています。近世の栗原郡は古代の新田郡、長岡郡を含み、遠田郡は小田郡を含むと言いますから、試みに鹿島神社を数えてみると、古代の新田郡は2社、長岡郡は4社、小田郡は4社となります。

 ここから「奥十郡」の「牡鹿・小田・新田・長岡・志田・玉造・富田・色麻・賀美・黒川」郡(冨田郡は延暦18年に色麻郡に合併)を計算すると、65社にもなり、宮城県の鹿島神社の半数を超えます。郡域については諸説ありますので、多少の誤差はあると思いますが、おおよその傾向は変わらないと思います。

 問題は、それではなぜここにこれだけ集中するのかと言うことです。しかし、中世・近世のこの地区の歴史にそうさせて来た要因を見つけることはできません。やはり、古代しか原因は考えられないと思っています。

 志田郡については、やはり古代志太郡の名称に関わることしか考えられません。志太郡には志太郷もあり、玉造郡に信太郷もあります。これらは常陸国信太郡、駿河国志太郡と関係があり、そこからの人の移動が考えられています。私も、駿河国志太郡→常陸国信太郡→陸奥国志太郡志太郷・玉造郡信太郷の地名の移動、すなわち人の移動と考えるのが一番あり得る想定だろうと思います。

 しかし移動の原因については、いささか違ったことが考えられると思います。

 『常陸国風土記』(33)逸文には、「筑波・茨城の郡の七百戸を分ちて信太の郡を置けり。この地は、本、日高見の国なり。」とあり、もう一つ、黒坂命の死に関わる話もあります。黒坂命は陸奥の蝦夷を征討して凱旋したが、途中で病死します。その後棺を乗せた車をひいて日高見国に到着した。葬具の赤旗青旗が翻り、野を照らし道を輝かしたので、赤旗の垂(しだり)の国といったので、信太の国と言うようになったというのです。

 『常陸国風土記』茨城郡の条にも、もと茨城国といって「つちくも」「やつかはぎ」が住んでいたが、黒坂命は皆が家を出て遊んでいるところを突然騎兵で追い立て、攻め殺したとあります。

 ここからわかるのは、常陸国信太郡は、もと日高見国といい、その後蝦夷征討の黒坂命の拠点になったということです。黒坂命の征討軍はここを出発して、茨城国でも住民を責め殺し、陸奥国まで進軍し凱旋して戻ってきたが、黒坂命は途中で病死したということです。

 そうすると、ここから日高見国や茨城国の人々、あるいは陸奥国の人々はどこに避難したのでしょうか。黒坂命の征討軍に追われて陸奥国の奥深く避難したに違いありません。事実陸奥国には、日高見川の訛りと考えられる北上川が流れ、桃生郡には日高見神社があり、岩手県水沢市にも日高神社があります。日高見の人々が避難して集住したところを、常陸国と同様に志太郡志太郷、あるいは信太郷と呼んで後に編成したということが考えられます。

 真野の鹿島御児神社に関して、常陸国行方郡・香島の神子の社→陸奥国行方郡真野郷・鹿島御兒神社→石巻市真野・鹿島御兒神社という関連を指摘しました。ここも人の移動を考えてもよいところです。

 常陸国の行方郡にも移動の原因がはっきり書かれています。有名なところですが、那賀国造の初祖建借間命が安婆の島から板来村へ侵攻し、攻めあぐんだとき、船を筏にし、蓋をひるがえし、旗をはためかせ、7日7夜琴や笛をならして歌い舞ったところ、男も女も浜に出てきて楽しみ笑った。そこを後から騎兵が襲って皆殺しにした。「此の時、痛く殺すと言ひし所は、今、伊多久の郷と謂ひ、臨(ふつに)斬ると言ひし所は、今、布都奈の村てと謂ひ、安く殺(き)ると言ひし所は、今、安伐(やすきり)の里と謂ひ、吉く殺(さ)くと言ひし所は、今、吉前(えさき)の邑と謂ふ。」ということで、現潮来市の地名が比定されています。

 紀記によく出ている「だまし討ち」の典型です。この記述の問題については、茨城県のところですべきことですが、大事なことは、これは建借間命が鹿島国へ侵略した事件の前段と思われることです。このひどい殺戮戦によって多くの人々が、常陸国から避難していったに違いありません。もちろん黒坂命と建借間命は時期の異なる話になっていますが、陸奥国に人々が移動する要因としてわかりやすい事件ではないでしょうか。

 「真野公」が「田夷」であるというのは、日高見の人々と同様です。律令国家側が「まつろわぬ民」、「蝦夷」と規定したにすぎないのではないでしょうか。

 「奥十郡」「黒川以北十郡」については、「華夷雑居とみられ」「蝦夷は俘囚と呼ばれ、柵戸も移住してきた。」とされ、ここと接する遠田郡は、「田夷の中心的居住地」と説明されています。(34)

 鈴木卓也『蝦夷と東北戦争』は、和銅6(713)年12月に丹取郡が大崎平野に置かれたとし、「この時期に、すでに丹取郡・志太郡などの数郡が存在していたと考えられている。」と言っています。そして「霊亀元年(715)5月には、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の6ヵ国から富民1000戸が陸奥国に移配された。これは丹取郡など大崎平野に対する移民と考えられ、50戸1里(郷)の原則からすると、実に20郷分に相当する大規模な移民である。大崎平野は後に黒川以北十郡と呼ばれる微細な郡の集合体に再編成されるが、黒川以北十郡の郷の総数は32なので、この地域の郷はその3分の2が霊亀元年の移民によって編成されたことになる。」と述べ、郷名が「上記の6ヵ国の郡名に基づくものが少なくない。」としています。そして、養老4年(720)「蝦夷の大規模な反乱としては史上初の事件がおこり」、それにより「最も大きな影響を受け」、「乱後にこれを10の微細な郡に分割し、支配体制を強化するのである。」と成立について述べています。「多賀城の創建と、黒川以北十郡および玉造等5柵の成立は、一連の施策であったとみられる。」とも言っています。(35)

 和銅6年(713)には、丹取郡・志太郡など数郡が存在していた、霊亀元年(715)には関東から大規模な移民があった、養老4年(720)の蝦夷の反乱後にこの地域を黒川以北十郡の微細な郡の集合体にした、という話になります。関東からの大規模移民があったにもかかわらず、蝦夷の反乱に対して特別厳重警戒地域に編成したのが、「奥十郡」「黒川以北十郡」というわけです。

 「玉造等5柵の成立」も一連のものとしていますが、この5柵は、「玉造柵は名生館官衙遺跡(大崎市)、新田柵は新田柵推定地(大崎市)、牡鹿柵は赤井遺跡(東松島市)、色麻柵は城生柵跡(加美郡加美町)」に比定されていて、残る1柵は名称不明とされていますが、この十郡を囲むようになっています。

 鈴木によると、関東からの大規模移民の前に志太郡は成立しています。そして大規模移民があって安定した体制になったはずのところ、「微細な郡の集合体」に再編成しています。蝦夷と移民(柵戸)は、陸奥国だけでなく出羽国においても混住しているはずで、最前線の地区も何ヶ所か考えられます。しかし全ての地区が「黒川以北十郡」のように特別地区となっていません。ここだけが「微細な郡の集合体」となっています。その理由は何かが問題でしょう。

 征夷戦は弘仁2年(811)の文室綿麻呂による征夷で終わったことにしていますが、「承和三年(836)から7年にかけてと、斉衡元年(854)・2年に、大規模な争乱が発生する。争乱が発生した地域は、『奥郡』『奥県』などと呼ばれる黒川以北の奥郡で、移民系住民と蝦夷系住民が雑居する地域であった。」「その最初の記事」によると「百姓(移民系住民)が妖言(人を惑わす流言)をして騒擾が止まず、奥邑の民が住居を捨てて逃げ出しており、また栗原・賀美両郡の百姓に逃出する者が特に多かったという。」とあります。(36)

 移民系住民が広範囲に逃げ出していったのですから、鹿島神社が移民系住民によって持ち込まれたものなら、後世これほどこの地区に集中しなかっただろうと思われます。むしろそれ以前に、常陸国の日髙見国などから避難した人々が集住していたと考えた方が、鹿島神社の説明にはなります。だとすると、「微細な郡の集合体」にして、これらの避難民の後裔の人々を分断支配する必要があったのではないでしょうか。

 私はこう考えた方が理屈に合うと思っていますが、しかし近世の鹿島神社の史料を、古代の「志太郡信太郷」や「黒川以北十郡」の説明にいきなり結び付けるのは、いささか無理もあり、もう少し間をつなぐ材料が必要だと思っています。この間をつなぐ材料をこれからていねいに探し出す必要があるでしょう。

 ところで、この地域に「宮沢遺跡」という注目すべき遺跡があります。(36)
この宮沢遺跡は「東西1,400m、南北800mと、東北地方のこの種の遺跡の中では最大規模である。」いや、「全国でも最大級の規模を誇る古代遺跡」といわれ、昭和49年~51年東北自動車道の建設に伴って発見された遺跡です。出土遺物は8世紀前半から10世紀前半頃のものですが、問題は、古代の長岡郡内にあった城柵、官衙遺跡としながらも、近世、中世、古代のあらゆる資料を渉猟してついに関連した資料を発見できなかったと言うことです。
ところが安彦克己「『和田家文書』で読む宮沢遺跡」によると、偽書だと騒がれてきた『東日流外3郡誌』などの『和田家文書』には8件の関連資料を見出しています。その一つを紹介します。

 寛政5年の「日髙見宮沢柵之事」によると、
「多賀城も及ばざる宮沢柵の築城は荒吐王安国が築きけるものなり。
安部と氏をなしける安国は、倭討以来、奥州の本詰たるを宮沢として来朝柵を見告とせり。依てその出城を白河に駅をなし、更に板東に豊田柵、乳房柵を築き日髙見国と境とせり。・・・
宮沢なる要所を以て、古代なる日髙見の護り強けきは荒吐の民なほこりなりける。」(38)

 良く分からない点もありますが、ここに「多賀城も及ばない宮沢柵」「日髙見国」が出ています。安彦によると、位置づけと規模が遺跡の現状と良く合致していると言います。私の視点では、「日髙見国」の中心に「宮沢柵」が置かれていることが興味深いと思われます。

 何と言っても、これらの史料は、昭和49年~51年に明らかになった遺跡に関するものですから、偽書と言うなら何を根拠に宮沢遺跡がわかったのか、不思議な話になります。正史の記録に関連したものがなく、偽書にあったとしたら、正偽は逆転するというとんでもないことになります。

 ちなみに「荒吐」は、関東から東北にかけてみられる「荒ハバキ神社」を想い起こしますが、明治9年(1876)の「多賀城古址の図」(39)には、多賀城の裏手に鎮守の一つのように「荒ハヾキ神社」があります。

 私が手をつけたのは鹿島神社だけですが、盬竃神社の所でも指摘しましたように、古い神社の伝承を見ていくと従来の見解を覆しかねない伝承をいくつか発見します。おそらく東北の神社や寺院の傳承を丹念に探していくと、東北史の姿も大分変わるはずと思っています。

 
  神社名 所在地 祭神 備考 出典
    栗原郡藤渡戸村(栗原市金成藤渡戸)   鹿島前    
    栗原郡栗原村(栗原市栗駒菱沼)   鹿嶋    
1
 
御嶽神社
 
栗原郡栗原村
(栗原市栗駒栗原)
A
1
栗原八鹿踊
 
明細

 
2
 
鹿嶋社
 
栗原郡二迫富村端郷黒瀬
(栗原市築館黒瀬) 白鹿山
A
 
村鎮守 景行の時勧請
 相殿香取御児神社
風土
45
 
3
 
鹿嶋社
 
栗原郡一迫真坂村(栗原市
一迫真坂) 真坂館(鹿島館とも)

 
鹿嶋堰
 
風土

 
4
 
鹿嶋社
 
栗原郡一迫堀口村
(栗原市志波姫堀口) 林
A
 
村鎮守
 
風土
44
 
5
 
鹿嶋社
 
栗原郡三迫石越村
(登米市石越町北郷) かしま

 
地主鹿嶋屋敷三拾蔵
 
風土

 
6
 
鹿嶋神社
 
栗原郡石越町北郷中沢
(登米市)
A
 
佐々木家の氏神
 
町史
 

 
7
 
鹿嶋社
 
栗原郡高清水村
(栗原市高清水)

 
現在牟良佐喜神社摂末
旧小山田村に鹿島
風土記
 
43
 
8
 
鹿嶋社
 
栗原郡宮沢村
(大崎市古川宮沢) 本丸之内

 
別当鹿嶋山本覚院
弘安2年勧請
風土記
 

 
9
 
表刀神社
 
栗原郡小野村
(大崎市古川小野) 大崎沼
A
2
式内 天平神護元年勧請
「小野弁天様」
明細帳
 

 
10
 
鹿島神社
 
栗原荘荒谷邑
(大崎市古川荒谷) 神守
A
 
大同年中田村麻呂勧請
のち斗瑩神社
封内
 

 
11
 
鹿島神社
 
栗原荘長岡邑
(大崎市古川長岡) 茂木

 
大同年中田村麻呂勧請
鹿嶋田
封内
 

 
12
 
鹿島神社
 
栗原荘桜目邑
(大崎市古川桜ノ目) 鹿島伝
A
 
式内志波姫神社に合祀
別当鹿嶋山桜目寺
封内
 

 
13
 
鹿島神社
 
栗原荘沢田邑
(大崎市古川沢田) 神守
A
 
大同年中田村麻呂創建
応長の碑など
封内
 
21
 
14
 
荒雄河
神社
玉造郡岩出山町池月
(大崎市岩出山) 字上宮宮下

 
祭神大物忌神 配祀9神のうちAB 名鑑
 

 
15
 
鹿嶋宮
 
玉造郡新田村
(大崎市古川新田) 夜烏
A
5
現在式内小松神社
鹿島西 鹿島前 鹿島浦
風土記
 

 
    志田郡(大崎市古川斎下上斎下)   鹿島堂    
16
 
鹿島神社
 
志田郡(大崎市古川柏崎
安国寺前・畑中前)

 
鹿島上 鹿島田 鹿島下
 
マップル
 
17
 
鹿嶋社
 
志田郡北方耳取村
(大崎市古川耳取鹿島) 西畑
A
 
貞観4年慈覚大師勧請
別当鹿嶋山観水寺 鹿島
風土記
 
18
 
18
 
鹿嶋社
 
志田郡北方保柳村
(大崎市古川保柳) 冠木

 
慶安2年勧請
別当薬師寺(大同年中開山)
風土記
 

 
    志田郡(大崎市古川保柳) 大下   鹿島 鹿島西 鹿島前    
19
 
鹿嶋社
 
志田郡荒田目村
(大崎市古川荒田目) 葛生

 
村鎮守 元和2年勧請
別当鹿嶋山正福寺
風土記
 

 
20
 
鹿嶋社
 
志田郡北方上中目村(大崎市)
 荒屋敷

 
村鎮守
寛永189月勧請
風土記
 
19
 
21
 
鹿嶋社
 
志田郡北方宮袋村
(大崎市古川宮袋) 鳥井原の西
A
 
村鎮守
鹿島前 鹿嶋浦
風土記
 
17
 
22
 
鹿島社
 
志田郡古川村
(大崎市古川) 有池ヶ嶋(内鹿島)
A
 
村鎮守 現古川神社 大同
2勧請 別当鹿島山古川寺
風土記
 

 
    志田郡(大崎市古川・古川本鹿島)   本鹿島 本鹿島袋    
23
 
鹿島社
 
志田郡中里村
(大崎市古川中里) 中野在家

 
別当古川寺
 
風土記
 

 
24
 
鹿嶋社
 
志田郡北方米倉村
(大崎市古川米倉) 沢目
A
 
村鎮守
天文年中大崎義直勧請
風土記
 
16
 
25
 
鹿島社
 
志田郡稲葉村
(大崎市古川金五輪) 天神之東
A
 
村鎮守
祇園社(現在八坂神社)末社
風土記
 
20
 
26
 
鹿嶋社
 
志田郡北方西荒井村
(大崎市古川西荒井) 中荒井
A
 
村鎮守 慶長2年常陸
から分霊 当初は元鹿島
風土記
 
22
 
27
 
鹿嶋社
 
志田郡矢ノ目村
(大崎市古川矢ノ目)
A
 
延文21357勧請
 
風土記
 
37
 
28
 
鹿嶋社
 
志田郡南方引田村
(大崎市古川引田) 堀込(鹿島とも)
A
 
天文2年大崎家臣笠原氏
勧請 弘安元年古碑
風土記
 
38
 
29
 
鹿嶋社
 
志田郡堤根村
(大崎市古川堤根)
A
 
延文21357勧請
 
風土記
 
39
 
30
 
鹿嶋社
 
志田郡南方中沢村
(大崎市古川中沢) 鹿嶋
A
1
明暦元年勧請 古社遺址
あり 弘安2年の板碑
風土記
 
40
 
31
 
鹿嶋社
 
志田郡北方石森村
(大崎市古川石森) 宮在家
AB
 
鎮守 大同年中建立
別当鹿嶋山光明院
風土記
 
41
 
32
 
鹿嶋社
 
志田郡北方師山村
(大崎市古川師山) 荒屋敷

 

 
風土記
 

 
33
 
鹿嶋社
 
志田郡北方下中目村
(大崎市古川下中目) 下原

 

 
風土記
 

 
34
 
鹿嶋社
 
志田郡南方高柳村
(大崎市三本木高柳)  鹿嶋

 
村鎮守 中世の板碑
鹿島堂
風土記
 

 

35
 

八坂神社
 
志田郡(大崎市三本木北町)
志田郡三本木町三本木
(大崎市三本木) 天王山


 
鹿島浦
祭神素戔嗚命他23神のうち鹿島7社合祀

明細帳
 


 
36
 
鹿島神社
 
志田郡南方南谷地邑
(大崎市三本木南谷地)

 
千刈田鹿島堂
熊ノ越鹿島堂
封内
 

 
37
 
鹿嶋社
 
志田郡南方蒜袋村
(大崎市三本木蒜袋) 安藤後

 
村鎮守  室木に古鹿島
 
風土記
 

 
38
 
鹿嶋社
 
志田郡南方桑折村
(大崎市三本木桑折) 鹿嶋屋敷

 
村鎮守 鹿島下
 
風土記
 

 
39
 
鹿嶋社
 
志田郡南方伊賀村
(大崎市三本木伊賀)

 
村鎮守 鹿島 鹿島前
伊賀神楽
風土記
 

 
40
 
鹿島神社
 
志田郡南方坂本邑
(大崎市三本木坂本) 跡水

 
村鎮守 永正8年勧請
坪ヶ山鹿島
封内
 

 
41
 
鹿島神社
 
志田郡南方斎田邑
(大崎市三本木斉田) 小原

 
永正7年勧請
大西(大錦)鹿島
封内
 

 
    (大崎市三本木音無)   鹿島前    
42
 
鹿島神社
 
志田郡南方下伊場野村
(大崎市松山下伊場野) 程沢

 
花ヶ崎鹿島浦
 
封内
 

 
43
 
鹿嶋社
 
志田郡南方松山郷深谷村
(大崎市鹿島台深谷) 要害

 
村鎮守
地主別当要害屋敷與六
風土記
 

 
44
 
鹿嶋社
 
志田郡南方松山郷広長村
(大崎市鹿島台広長) 鹿嶋台

 
現鹿島台神社 苗裔神小田
郡の1 鹿島 元鹿島台
風土記
 
36
 
45
 
鹿島神社
 
遠田郡中埣村
(美里町中埣) 堰場

 

 
明細帳
 

 
46
 
鹿嶋神社
 
遠田郡関根邑
(美里町関根)
AB
 

 
封内
 
42
 
47
 
北鹿嶌
神社
遠田郡北浦村関根
(美里町関根) 道明
AA
 
嘉吉2年勧請
 
明細帳
 

 
48
 
都々古
和気神社
遠田郡北浦村
(美里町北浦) 横埣
A
 

 
明細帳
 

 
49
 
鹿嶋社
 
遠田郡桑針村
(大崎市古川桑針) 谷地中
A
 

 
風土記
 

 
50
 
熊野神社
 
遠田郡田尻町蕪栗
(大崎市田尻蕪栗) 中沢目

 
伊弉諾他3のうちにA
 
明細帳
 

 
51
 
鹿嶋社
 
加美郡下多田川村
(加美町下多田川) 宮田

 
村鎮守
鹿嶋浦 鹿嶋前 鹿嶋前中
風土記
 

 
52
 
鹿島社
 
加美郡鳥嶋村
(加美町鳥嶋) 鹿嶋

 
村鎮守

誉田別命A大山祇命
 
風土記
明細帳

 



 
53
 
八幡神社
 
加美郡賀美石村鳥屋ヶ崎
(加美町鳥屋ヶ崎) 八幡浦

 
54
 
鹿嶋社
 
加美郡平柳村(加美町平柳)
 高川
A
 
村鎮守 鹿嶋古社地あり
鹿島越 鹿嶋 鹿嶋浦
風土記
 
35
 
55
 
鹿嶋神社
 
加美郡鳴瀬村平柳
(加美町平柳) 石堰
A
 

 
明細帳
 

 
56
 
鹿嶋社
 
加美郡中新田村(加美町四日市場) 鹿島(宮ノ越とも)
 
8か村鎮守 延暦年中
塩釜左宮勧請
風土記
 
34
 
57
 
鹿島神社
 
加美郡中新田町(加美町) 土塚

 
鹿島神社の境内社
 
明細帳
 

 
58
 
廣原神社
 
加美郡廣原村菜切谷
(加美町菜切谷) 出羽道

 
熊野他10神のうち
鹿島2合祀
明細帳
 

 
59
 
伊達神社
 
加美郡色麻村四竃
(色麻町四竃) 香取

 
五十猛神BA 近世香取社
延暦年中田村麻呂勧請
明細帳
 

 
60
 
鹿嶋社
 
加美郡大村(色麻町大)
 鹿嶋堂

 
地主別当本町屋敷
清左右衞門
風土記
 

 
61
 
武甕槌社
 
加美郡小栗山(色麻町小栗山)
 船形十二社権現社末社

 
正観音堂
(奉称武甕槌命候事)
風土記
 

 
62
 
鹿 嶋
明神社
黒川郡大松沢村
(大郷町大松沢) 宮下
AB
8
天文4年宮沢実家が再興
地主別当胎蔵院
風土記
 
33
 
63
 
鹿島神社
 
黒川郡大谷荘川内邑
(大郷町川内) 上堰場

 
岡氏氏神 近世観音堂に
合祀 明治年5鹿島神社
封内
 
32
 
64
 
鹿島社
 
(黒川郡大衡村)
 亀岡

 
明治41八幡神社に合祀
 
大系
 

 
65
 
鹿島明神
 
黒川郡奥田村
(大衡村奥田) 大蛸屋敷

 
地主大たこ屋敷
御百姓喜助・甚兵衛
風土記
 

 
66
 
八幡神社
 
黒川郡吉岡町
(大和町吉岡) 町裏

 
応神他13のうちにA
 
明細帳
 

 
67
 
鹿嶋天足別神社 黒川郡大亀村
(富谷町大亀) 和合田
AB
 
大亀明神 式内 苗裔神
黒川郡1 明治初め現社号
風土記
 
31
 
68
 
八幡神社
 
本吉郡小泉村
(本吉町) 外尾

 
誉田別命他11神のうちA
 
明細帳
 

 
69
 
久須師
神社
本吉郡志津川町清水浜
(南三陸町) 松井田
BA他1 もと大天場十二神
または薬師
明細帳
 

 
70
 
鹿島神社
 
登米郡米谷邑
(登米市東和町米谷)

 
900年前の古社 別当鹿島
山神宮寺常善院 要石
封内
 

 
71
 
鹿嶋社
 
本吉郡南方水戸辺村
(南三陸町戸倉水戸辺) 鹿嶋山

 

 
風土記
 

 
72
 
鹿嶋社
 
本吉郡南方折立村
(南三陸町戸倉折立) 権現山

 
行基勧請
 
風土記
 

 
73
 
鹿嶋社
 
本吉郡南方十三浜
(石巻市北上町十三浜) 大平
A
 
白浜鎮守
 
風土記
 
56
 
74
 
鹿 島
明神社
桃生郡橋浦村
(石巻市北上町橋浦) 西山崎
A
 
村鎮守
 
風土記
 
52
 
75 鹿嶋社 桃生郡福地村(石巻市福地) 鹿嶋   地主別当町屋敷吉兵衛 風土記  
76
 
鹿嶋社
 
桃生郡名振浜
(石巻市雄勝町名振) 鹿嶋

 

 
風土記
 

 
77
 
鹿島神社
 
桃生郡十五浜村大字雄勝
(石巻市雄勝町) 呉壺

 

 
明細帳
 
46
 
78
 
鹿島神社
 
(石巻市雄勝町立浜)
 

 

 
マップル
 
79
 
鹿嶋社
 
牡鹿郡出島(女川町出島)
 鹿嶋林

 
村鎮守 鹿島山
 
風土記
 

 
80
 
鹿島神社
 
牡鹿郡竹ノ浜
(石巻市竹浜)

 

 
封内
 

 
81
 
鹿島神社
 
牡鹿郡田代浜(石巻市田代浜)
 大泊

 

 
封内
 
55
 
82
 
鹿嶋社
 
牡鹿郡陸方沢田村
(石巻市沢田) 宮前
A
 
村鎮守 白鳥明神とも
 
風土記
 
53
 
83
 
鹿 島
御兒神社
牡鹿郡陸方真野村(石巻市真野)
 鹿島山

 
葛西家御下りの節鹿嶋
古社再興 鹿島腰掛石
風土記
 

 
84
 
鹿 嶋
御兒神社
牡鹿郡陸方門脇村
(石巻市日和が丘2丁目) 好日山
A
1
村鎮守 式内
苗裔牡鹿郡1
風土記
 
15
 
    石巻町大字湊(石巻市湊) 字鹿妻   鹿島山とも 菅原神社社地    
85
 
鹿島神社
 
牡鹿郡湊邑
(石巻市湊)

 

 
封内
 

 
86
 
鹿嶋神社
 
桃生郡樫崎村
(石巻市桃生町樫崎) 鹿島山
AB
 
村鎮守 鹿島前
 
封内
 
51
 
87
 
鹿嶋社
 
桃生郡中津山村端郷神取
(石巻市桃生町神取) 神取山

 
神取鎮守 寛永7年再興
 
風土記
 
50
 
88
 
和渕神社
 
桃生郡河南町和渕町
(石巻市和渕)
BA
6
北村3郷の鎮守 式内
船中之守護神
明細帳
 

 
89
 
鹿島社
 
桃生郡太田村
(石巻市桃生町太田) 北平山

 
寛永20年大槻五郎助勧請
 
風土記
 

 
    桃生郡深谷北村(石巻市北村)   鹿島沢堤    
90
 
鹿嶋三社
 
桃生郡深谷広渕村
(石巻市広渕) 鹿嶋

 
左宮塩釜岐神右宮経津主命
天正2葛西家臣夷内氏勧請
風土記
 
48
 
91
 
鹿嶋明神
 
桃生郡深谷大窪村
(東松島市大塩) 鹿嶋

 

 
風土記
 

 
92
 
鹿石神社
 
桃生郡鷹来村矢本
(東松島市矢本) 鹿妻

 
田村麻呂勧請
 
町史
 

 
93
 
鹿嶋神社
 
桃生郡小野村川下
(東松島市川下) 宿浦

 

 
明細帳
 

 
94
 
鹿島神社
 
桃生郡室浜(東松島市宮戸室浜)
 鹿島()
A
 

 
封内
 
47
 
95
 
多賀神社
 
宮城郡多賀城市高崎
(多賀城市) 上野
BA他3 中古塩竃神社ニ合祀ス今左宮右宮ト称スルモノ乃是也 明細帳
 

 
96
 
?竃神社
 
宮城郡塩釜村
(塩竃市一森山)
AB
他1
式外社 弘仁式「祭塩竃
神料一万束」 奥州一宮
封内
 

 
    宮城郡(利府町加瀬)   男鹿島 女鹿島 男鹿島台    
97
 
鹿島社
 
宮城郡国分松森村
(仙台市泉区松森) 鹿島

 
鹿島屋敷御百姓卯平治
 
風土記
 

 
98
 
二柱神社
 
宮城郡和泉市市名坂
(仙台市泉区) 西裏
AB他2 もと仁和多利大権現
 
名鑑
 

 
99
 
鹿島神社
 
宮城郡和泉市福岡村
(仙台市泉区福岡) 中在家

 
福岡鹿踊
 
市誌
 

 
100
 
鹿島香取
神社
府城城北光明寺中
(仙台市青葉区青葉町3丁目)

 
鹿島崎 鹿島堤
 
封内
 
14
 
101
 
鹿島神社
 
(仙台市宮城野区銀杏町) 鹿島下
 

 
現在青葉区の
大崎八幡神社境内社か

 

 
102
 
鹿島神社
 
仙台市八幡町
(仙台市青葉区八幡)

 
大崎八幡神社境内神社6
の一つ
明細帳
 

 
103
 
鹿 嶋
明神社
名取郡下余田村
(名取市下余田) 鹿島

 
村鎮守 天正年中建立
阿昼屋敷に名取老女の墓
風土記
 

 
104
 
増田神社
 
名取郡増田町大字増田
(名取市増田) 町浦
A
 
土祖命他9神のうち
旧荒神社
明細帳
 

 
105
 
鹿島神社
 
名取郡飯野坂村
(名取市飯野坂)

 
鹿島田(かしまでん)
 
大系
 

 
106
 
館腰神社
 
名取郡館腰村植松
(名取市植松) 山
A
 
天照皇大神他13神のうち
 
明細帳
 

 
107
 
鹿 嶋
明神社
名取郡南方小豆嶋村
(名取市愛島小豆島)

 

 
風土記
 

 
108
 
愛宕神社
 
名取郡玉浦村下野郷
(岩沼市下野郷) 上中筋
A
 
伊邪那美命他7神のうち
 
明細帳
 

 
109
 
鹿嶋神社
 
名取郡(岩沼市下野郷館外)
 
A
1
寛和年中の勧請
境内神社に香取神社
明細帳
 
29
 
110
 
鹿島社
 
柴田郡北方支倉村(川崎町支倉)
 音無

 
地主・別当
音無屋敷六右衛門
風土記
 

 
111
 
菅生神社
 
柴田郡冨岡村
(村田町菅生) 宮脇
A
 
もと六社権現
延暦年中田村麻呂勧請
明細帳
 

 
112
 
白鳥神社
 
柴田郡村田町
(村田町村田) 七小路
A
 
日本武尊他6神のうち
 
明細帳
 

 
113
 
鹿島社
 
柴田郡沼辺村
(村田町沼辺) 寄門

 

 
風土記
 

 
114
 
鹿嶋社
 
柴田郡入間田村
(柴田町入間田) 鹿嶋山

 
鹿島前
 
風土記
 

 
115
 
鹿島神社
 
柴田郡上川名邑
(柴田町上川名) 舘山
A
 
旧村社
 
封内
 
23
 
116
 
鹿島神社
 
柴田郡下名生邑
(柴田町下名生)

 

 
封内
 

 
    柴田郡(大河原町大谷上谷)   鹿島山    
117
 
鹿嶋天足別神社 亘理郡鹿島邑
(亘理町逢隈鹿島字宮前)
A
2
式内・苗裔神
鹿島 北鹿島
封内
 
27
 
118
 
鹿嶋伊都乃比気
 

 
称する神社なし 社家三品
家は3神逢隈鹿島に
封内
 

 
119
 
鹿嶋緒名太神社 亘理郡小山邑(亘理町逢隈小山)
  西山
A
 
式内・苗裔神 社地鹿島山
 
封内
 
28
 
120
 
鷺屋神社
 
亘理郡鷺屋村鷺屋
(亘理町逢隈鷺屋) 宮前

 
天之御中主神他5神のうち
AB塩土翁神
明細帳
 

 
121
 
鹿島社
 
亘理郡吉田村(亘理町吉田)
 鹿島林

 
無格社 伊都乃比気社か
 
調査報告
 
122
 
鹿嶋社
 
苅田郡郡山村(白石市郡山)
 

 
烏帽子石の上に鹿嶋社跡
田村丸立願 鹿嶋鹿島山
風土記
 

 
    苅田郡(白石市白川犬卒塔婆)   鹿島 鹿嶋入 鹿嶋後山    
123
 
鹿島神社
 
伊具郡藤田邑
(角田市藤田)

 
鹿島
 
封内
 

 
124
 
鹿島社
 
伊具郡西根小田村(角田市小田)
 坊ケ入
A
 
村鎮守 苗裔神とも
神主石本越前守 鹿島
風土記
 
24
 
125
 
鹿嶋社
 
伊具郡東根尾山村(角田市尾山)
 月崎

 
小名神取に香取社
 
風土記
 

 
126
 
鹿嶋宮
 
伊具郡東根小斎村(角田市小斎)
 鹿嶋山

 
別当鹿嶋山金剛寺宝成院
苗裔神伊具郡1の説も
風土記
 
25
 
 
*表の説明
 「神社名」は基本的に出典の神社名とした。
「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。
「祭神」は「武甕槌命」をAとし、「経津主命」をBとし、その他の神名は「他1」の様に記した。
空白は「祭神」が確認できていないもの。なお、いくつかの祭神の中にABが祭られている場合は、その旨備考に記した。
「出典」は、「神社名」と「所在地」の出典のみとしたが、式内社や貞観8年の苗裔神については諸論があるので代表的なものと思われるものにした。
「風土記」は、『風土記御用書出』などの通称『安永風土記』のことであり、今回はこれを基本的な出典としている。『宮城県史』4、23~28、32、『古川市史』第8巻など。
「封内」は、田辺希文編『封内風土記』(仙台叢書)で、『安永風土記』にないものを補った。
「明細帳」は、国文学資料館所蔵の『宮城県神社明細帳』20冊である。
「名鑑」は、『宮城県神社名鑑』(宮城県神社庁編 昭和51年)
「大系」は、『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』(平凡社)
「角」は、『角川日本地名大辞典4 宮城県』(角川書店)
「マップル」は、『県別マップル道路地図 宮城県』(昭文社 2007年2版10冊)
「調査報告」は、『式内社調査報告書』第14巻(皇學館大学出版部 昭和61年2月)
一番右の「歴」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。
 
 
(1) 国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)。ちなみに、ここ宮城県では香取神社は4社だけである。鹿島神社と香取神社はともすればセットで語られることが多く、特に東北ではややあいまいに一緒に語られているが、神社の実情は必ずしもそうではない。私は、香取神社については厳密に数え上げていないが、今のところ東北における香取神社は、鹿島神社の密度に比べて極端に少ないという印象をもっている。本来は、セットで考えるべきではない神社である。
(2) 『宮城県神社明細帳』(国文学資料館所蔵)、『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』(平凡社 1987年7月)453頁。
(3) 鹿島神社の祭神は、『常陸国風土記』では「香島の天の大神」と記すだけではっきりしていない。タケミカヅチの初見は、大同2年の『古語拾遺』の「武甕槌命」であり、正史では『続日本後紀』承和3年5月9日条の「建御賀豆智命」であるので、9世紀以降の祭神名である。したがって、鹿島神社は本来=「武甕槌命」とはならないと思われるが、後世同一になってしまっている。この一覧表作成では、当面同一と考えて集成している。
(4) 押木耿介『?竃神社』(学生社 2005年6月改訂新版)17頁、『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』(平凡社 1987年7月)363頁。押木は、綱村が家臣に命じて調査し、縁起を作成したとし、別宮の祭神は「塩土老翁神」としているが、大系は作成された縁起にある通り、京都に依頼して縁起が完成したとし、別宮は「岐神」としている。
(5) 小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵 上』(中央公論社 1991年4月)、絵巻物については、『日本美術館』(小学館 1997年11月)、『国史大辞典』(吉川弘文館 1983年2月)など。
(6) 大塚徳郎「?竃神社史」『塩竃市史 別編Ⅰ』(国書刊行会 1959年3月)では、「勿論この説そのものは問題にならないけれども」(365頁)と一蹴しているが、その理由を説明していない。
(7) 阿部金吉「塩竃市の聚落の発達」『塩竃市史 別編Ⅰ』160頁
(8) 『利府町誌』(1986年3月)288~289頁
(9) 押木耿介『?竃神社』45頁、ただし漢文の意訳は筆者。
(10) 押木耿介『?竃神社』205~208頁
(11) 押木耿介『?竃神社』201~202頁、なお狩野敏次『ものと人間の文化史117 かまど』(法政大学出版局 2004年1月)、『日本民俗大辞典 上』(吉川弘文館 1999年10月)「かまがみ」「かまど」「かまどがみ」「かまどばらえ」の項など。
(12) 「塩釜村風土記御用書出」(『宮城県史24』300頁)
(13) 押木耿介『?竃神社』102~103頁
(14) 「弘仁式」「延喜式」『新訂増補国史大系26』(吉川弘文館)
(15) 押木耿介『?竃神社』63~64頁―
(16) 鹿島信仰は基本的には西から東に広がっていったと思っているが、中部以東のどこかで北方的要素が入っていったのではないかと思われる。
(17) 『新訂増補国史大系4 日本三代実録』、『新訂増補国史大系25 類聚三代格』(吉川弘文館)
(18) 肥後和男「鹿島御兒神社」(『国史大辞典』吉川弘文館)など。
(19) 『石巻の歴史 第1巻 通史編 上』(1998年3月)356~357頁
(20) 「苅田郡郡山村風土記御用書出」『宮城県史23』291、295頁
(21) 『続日本紀』延暦元年5月壬寅条(岩波新古典文学大系)
(22) 『続日本紀』延暦7年3月辛亥条(岩波新古典文学大系)、同註2
(23) 鈴木拓也『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争』(吉川弘文館 2008年12月)158頁
(24) 松田文人「鹿島御兒神社」(『式内社調査報告』第14巻 1986年2月)
(25) 『封内風土記』牡鹿郡門脇邑条
(26) 『葛西氏考拠雑記』(『図説宮城県の歴史』159頁)の引用による。
(27) 『角川日本地名大辞典 4 宮城県』142頁
(28) 「牡鹿郡陸方真野村風土記御用書出」(『宮城県史』28)
(29) 『石巻の歴史 第1巻 通史編上』中世編448~470頁、571~595頁、特に「第4章中世の民衆生活」の「第2節」は「真野の太平記」となっている。
(30) 『石巻の歴史 第1巻 通史編上』255頁、賜姓の記事は『新訂増補国史大系 日本後紀』弘仁6年3月丁酉条。
(31) 『石巻の歴史 第1巻 通史編上』419~420頁
(32) 『石巻の歴史 第1巻 通史編上』589~595頁
(33) 以下『常陸国風土記』は『風土記』(小学館 2006年8月第1版第5冊)による。
(34) 高橋崇『蝦夷』(中央公論新書 2004年3月19版)
(35) 鈴木拓也『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争』(吉川弘文館 2008年12月)41~42頁、44頁、60~61頁。
(36) 同上266頁
(37) 以下、主として安彦克己「『和田家文書』で読む宮沢遺跡」(『Tokyo 古田会News―古田武彦と古代史を研究する会―』No.122 2008年9月)による。
(38) 寛政5年10月秋田孝季「日髙見宮沢柵之事」(『東日流三郡誌1古代篇』八幡書店1989年1月)
(39) 工藤雅樹『日本の古代遺跡15 宮城』(保育社 1994年11月)175頁