古社の秘密を探る

8 石川県の鹿島神社

8 石川県の鹿島神社

このエントリーをはてなブックマークに追加

(1)調査について

石川県の「鹿島神社」は、下の表に見られるように36社ありました。うち、能登が表の1~15までの15社、加賀が16~36までの21社です。

表を見ると、「鹿島」を名のっていない神社が多いのですが、それでも「鹿島」を名のっている神社は能登では7と10の2社、加賀では19、23、24、32、33、34、35、36、37、38の10社がありました。

「鹿島」を名のっていない神社は、祭神の中に「武甕槌命」(表中ではA)があるものです。「鹿島神社」の祭神は本来「鹿島大神」であると考えていますが、後に「武甕槌命」になっていきます。全国的にはいろいろあって、石川県でも8・9の「武美加津智命」や26の「武甕槌大神」があります。12の「大山祇神社」、19の「味知神社」、28の「石清水神社」、後に述べる「春日社」などは、祭神「武甕槌命」1神になっていて祭神と神社名が合っていません。これをどのように考えるべきか、今はまだ判断保留中ですが、とりあえず一覧表に加えています。

他に「武甕槌神社」を名のるものも2社ありました。26は、「社記によれば、往古春日島という所にあり、春日明神と称した」(1)と言いますが、祭神は「武甕槌大神」一神のみです。春日神社は、常陸国鹿島神社の武甕槌命と下総国香取神社の経津主命に藤原氏の氏神天児屋根命と比女大神の4神をあわせ祀ったものです。今までにも4神がそろっていないものがありましたが、藤原氏の氏神がない場合は鹿島神社なのではないかと判断して、この表に神社名をそのままに入れてきました。もう1社は、4神がそろっていて、明治13年に春日社を武甕槌神社と改称したとあります。「武甕槌」にこだわったのがなぜか、「春日社」で良かったのではと思うのですが、ともかく4神そろっているか、天児屋根命が入っていると「春日社」の範疇と考え、この表には入れていません。これまでもいくつかありましたが、春日神社と鹿島神社の関係は大きな問題の一つで、単に鹿島神社であることを蔽い隠すためかと思われるものがあります。

なお、国立歴史民俗博物館の「全国香取鹿島神社一覧表」では、驚くことに7と33の2社だけです。

今回の調査も、全県を統一的に見渡すものとして『石川県神社誌』(以下『神社誌』とする)と『石川県神社明細帳』(以下『神社明細帳』とする)を基本としました(2)。これに加えて、『金沢市史』『小松市史』などから近世の史料を見てつけ加えたものがあります。特に大きく加わったのは、弘化元年(1844)成立の『加賀江沼志稿』によるものです。

しかしそれにしても、国立歴史民俗博物館の研究なるものは一体何を調べたのか、何の意図が働いたのか、『神社誌』『神社明細帳』の二つは私の調査と一緒ですから、同じものを見てもこれほどの違いが出てくることに神社研究の難しさ、と言うよりもはっきりと意図的なものを感じます。ちなみに、『神社誌』でも「鹿島神社」5社、「武甕槌神社」2社が出ていますから、これだけでも拾わないのはおかしいわけです。

(2)「鹿島」地名について

『角川日本地名大辞典 17石川県』では、加賀市、穴水町、美川町、七尾市の「鹿島」と、「鹿島郡」、羽咋市の「鹿島路」、中島町「鹿島台」、「鹿島半郡」、鹿島郡「鹿島町」の9地名を項目として立てていますが、神社は1社もありません。なお中島町「鹿島台」と鹿島郡「鹿島町」は、いずれも第二次世界大戦後の地名ですので、本研究では地名の一覧表に入れていません。

『日本歴史地名大系 17石川県の地名』では、索引項目として地名は13項目あげています。

加賀市を「加島」「鹿島」「鹿島新道」「鹿島の森」の4項目、羽咋市「鹿島路町」と羽咋郡「鹿島路村」のように2項目にしていること、「鹿島郷(能登郡)」がつけ加わり、中島町「鹿島台」が入っていないことの違いがありますが、地名ばかりで神社がないことは共通しています。

『書府太郎 石川県大百科事典』(3)は、石川県の今日の意識を反映するものと見て良いと思いますが、やはり地名は6か所で、人名1人がちょっと違いますが、神社は1社もあげていません。

「鹿島」地名は鹿島神社によるものと言われていますが、石川県では、これだけ古い地名が明確に残っているにもかかわらず、対応する鹿島神社がはっきり残っていません。現在あっても新しい時代の神社です。そればかりか鹿島神社や鹿島信仰についての説明はあいまいになっています。なぜ地名がありながら、鹿島神社についてはっきり言及しないのか良く分からないところがあります。実は、これが石川県の最も大きな問題ではないかと思われます。

私なりにこれまで分かった地名を整理しておきます。(4)

能登〈1〉鹿島崎  珠洲市折戸町 (郡誌)

〈2〉鹿島村  鳳珠郡穴水町鹿島(能登志徴)

〈3〉鹿島津  七尾市 (萬葉集「香島津」、式「加島津」)

〈4〉鹿島根  中島町 (萬葉集「所聞多祢」)

〈5〉鹿島郷  七尾市等(平城宮木簡)

〈6〉鹿嶋浦  七尾市等(気多社御縁起)

〈7〉鹿島郡  七尾市等(承久3年田数注文)

〈8〉鹿嶋路  羽咋市鹿島路町(気多神社古縁起)

加賀〈9〉鹿島田  白山市中ノ郷町(皇国地誌)

〈10〉鹿島刈  白山市松任町(皇国地誌 しかしまがり)

〈11〉鹿島道  白山市石立(小字一覧)

〈12〉鹿島村  白山市鹿島町・鹿島平(皇国地誌)

〈13〉鹿島境  白山市蓮池町(小字一覧)

〈14〉鹿嶋   加賀市塩屋町(吉崎御坊絵図)

〈15〉鹿嶋山  同上(蓮如上人絵伝)

以上、15地名ありました。これは三つのまとまりに分けられます。

一つは能登の「鹿島」です。今回新たに能登半島の先に「鹿島崎」を見つけましたが、他は中世の「鹿島郡」の範囲に入っています。非常に広い「鹿島」が存在していたと考えられます。そして、特に「鹿島津」「鹿嶋郷」など全国的にも大変古い地名として注目すべきものです。

二つは、白山市の「鹿島」です。これは必ずしもまとまってあるとは言えませんが、手取川右岸に点々とあると言えます。

三つ目は加賀市の「鹿島の森」ですが、ここでは古い地名の方をあげました。

問題は、この地名と神社がどのように関係しているのか、関係していないのかであると思います。

(3)「鹿島津」について

a 「鹿島郷」の「鹿島津」

能登で最大の問題は、「鹿島津」の問題です。なぜ、ここにこれだけ古く明確な「鹿島」地名がありながら、鹿島神社がないのかという問題になりますが、まず地名を整理しておきます。

能登の「鹿島」地名の初見は、天平4年(732)4月17日平城宮跡出土木簡の「能登国能登郡鹿島郷望理里調熬海鼠六□」です。天平8年(736)、天平宝字3年(759)の木簡にも「鹿島郷」がありますので、地名としては「鹿島郷」、8世紀前半のものとなります。(5)

「香島津」は、『萬葉集』巻第17の、天平20年(748)越中国守大伴家持が春の出挙のために能登を巡行した際の、歌の題詞に出てきます。歌の中でも「香島より熊木をさして」といって、「香」の字の使用が特徴になります。(6)

「香」の字については、「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」で詳細に検討しましたが、家持の歌と『常陸国風土記』、『御堂関白日記』などの藤原摂関家関係者の日記に一部あるだけと言っても良いほどで、全国の地名や神社名にはほとんどありません(7)。『常陸国風土記』は養老年間(717~24)に藤原宇合が関わって作成されたといわれています。この宇合の子宿奈麻呂(良継)が家持と同じ時に越前守に就任していて、家持とは関係があったのですから、『常陸国風土記』の話は何らか伝わっていたとしても不思議ではありません。家持の何らかの意図による用字と考えられます。

その後『延喜式』(927年成立)では「加島津」(8)、『和名類聚抄』(931~938成立)では「加島郷」(9)となり、ここでは「加」の字の使用となっています。

この「加」の字の問題も、「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」で同様に検討しています。いずれも、何らかの事情で「鹿」字を避けたというべき用字ですが、地名は木簡が示すように「鹿島郷」ですから、「鹿島郷」の津、「鹿島津」が正しい表記になります。

『延喜式』の「加島津」は能登国の国津で、能登郡になりますが、「能登津」ではなく、また国府のあったという八田郷の「八田津」でもありません。国津としてこの段階までは「加島津」、正しくは「鹿島津」であったことを押さえておきたいと思います。

しかし、なぜか「鹿島津」の地名は、『延喜式』以降見当たらなくなります。そして中世後半になると、「府中」、「所口」の地名に変わっていくようです。

また、「鹿島郷」は中世には「鹿島郡」に継承され、「能登郡」がなくなっています。この「能登郡」との関係は興味深いものがありますが、近世には一時前田氏の命により「能登郡」が復活し、元禄期に再度「鹿島郡」に戻り、その後は「鹿島郡」が続きます。

なお、「桜井家文書」の元和5年(1619)「御尋随由来條々」と貞享2年(1685)「氣多社御縁起」には「鹿島浦」の地名が出て来ます(10)。神社伝承の中では「鹿島」へのこだわりが続いたようですが、享保16年(1731)の『氣多本宮縁起』では「府中の浦」「府中浦」になっています(11)。

中世からの長氏の「鹿島半郡」へのこだわりも含めて、この地域の「鹿島」地名へのこだわりにただならないものを感じさせますが、同時に執拗に「鹿島」をなくしていこうとする歴史の動きも注目すべきものです。

b 「鹿島津」はどこか

『角川日本地名大辞典』は、「鹿島」について「七尾湾南湾の南岸、いまの七尾市の中心市街区の、特に西半部の御祓(みそぎ)地区を郷域の中心とし、御祓川を挟んで東の八田(やた)郷と並行していたとする説(郷土辞彙)が妥当であり、加島津(香島津)も、当然現七尾港の一部に相当すると見なすべきである。」(12)としています。

ここでは「七尾南湾の南岸」とし、古代「鹿島郷」と「八田郷」とは、御祓川を挟んで並行していたとしています。しかしそうすると、「鹿島津」が「鹿島郷」「八田郷」に両属するか、「八田津」が存在するかしなければなりません。地名は「鹿島津」だけですから、無理な想定になります。確かに中世になると、「気多本宮 所口」「鹿嶋郡八田郷府中」となって「所口湊」「府中湊」になり、「鹿島郷」「鹿島津」がなくなっていきました(13)。これを古代に遡らせることが出来るかどうかでしょう。

『七尾市史』は、「国府の外港としての香島津の所在について、小島町(こじま=かしま)付近に求めようとする考えも古くからであるが、位置的にみればまず大谷川口、矢田新町か、ついで御祓川口とするのが穏当であろう。」としていました。(14)

しかしこれについては、『鹿島郡誌』が「七尾湾東南沿岸の地は砂浜沼沢にして船舟に便ならざるに、小島の地が小杉崎を北に控えて水深く波静かなる故、古代に於ける要津たりしや」(15)と述べていたことをどうふまえたかが問われます。

近年の『新修七尾市史』の見解は、驚きました。

「木簡に見える『望理里』は能登島曲町に比定でき、『鹿島郷』は能登島全域に比定できると考えた」と言うのです(16)。「望理」は『和名類聚抄』播磨国賀古郡望理郷の「マカリ」にもとづき、能登島曲町が江戸時代に海鼠(なまこ)を特産品としていたことなどによるもので、これはこれで妥当な見解であると思ったのですが、その結果能登島が「鹿島郷」であり、「鹿島」であるという話になっていき、現七尾港はすべて「八田郷」になるといいます。そして、「加島津は、半島と島を結ぶ渡であったと考える。そのような相互の往来の歴史の故に、『加島(鹿島)へ向かうための渡し』という意味で『加島(鹿島)渡』もしくは『加島(鹿島)津』と命名されたと考えておきたい」(17)とも言います。

「鹿島津」のこれまでの議論はなぜか混乱している印象がありましたが、これはさらに混乱させるものでしかありません。

まず、「鹿島」地名について海でまわりを囲まれた狭義の島地の地名と思い込んでいるのではないかと思いますが、すでに地名の所で明らかにしたように間違いです。東国ではほとんどがこの狭義の島地ではありません。能登の「鹿島」も狭義の島地を前提に考えるとわからなくなります。(18)

「鹿島津」は、従来から言われているように能登国の国津ですから、国府からさほど遠くない港津に求めるべきで、ややこしく考えるものではないでしょう。確かに「津」は「渡し場」の意味もありますが、地名は国府側の海岸から名づけられるはずです。そうすると「鹿島津」ではなくて、「八田津」となるのではないでしょうか。

なにより、能登島はずっと能登島以外の何ものでもありません。大伴家持は、「香島津」から「熊木村」へ船で向かう時、能登島を見て「とぶさたて船木刈るという能登の島山」と歌いました。大伴家持においては、「香島津」と「能登の島山」は同じ土地を示していません。

また能登島は平安中頃から地名が見え、中世は能登島荘、能登島御厨と一貫して能登島と呼ばれています。古代は「能登郡鹿島郷」、中世は「能登国鹿島郡」に属していますが、この島が「鹿島」と呼ばれた形跡はありません(19)。私も調べましたが、鹿島神社も鹿島信仰の痕跡もほとんど発見できませんでした。

能登島を「鹿島」、能登島だけを「鹿島郷」とするのが間違いです。

古代「能登郡鹿島郷」は中世「能登国鹿島郡」に継承されたといいますが、中世「鹿島郡」は、承久3年9月6日注進の「能登国田数注文」を見ると、北は「大屋庄穴水保」、南西は「金丸保」「酒井保」など現羽咋市まで及んでいて、大変広い地域を示しています(20)。能登島だけを「鹿嶋郷」とするならば、「能登島庄」の地名も不審となりますが、「鹿島郷」が大きな「鹿島郡」に継承されるのははるかに無理となるでしょう。

ここから『和名類聚抄』の上日・下日・越蘇・八田・加嶋・与木・熊木・長浜・神戸9郷の「加嶋(鹿島)」以外の郷比定地を仮に差し引いてみても、古代「鹿島郷」は能登島を含めかなり広い地域が想定できると思われるのです。そしてその中心の「七尾南湾の南岸」を「鹿島浦」と呼び、港津の部分を「鹿島津」と呼んだと考えるべきでしょう。その港津は、やはり「七尾港域に河口を開く主な河川に桜川・御祓川・大谷川がある」、そのどれかの河口付近とするのが問題の焦点と思われます。(21)

c 「鹿島神社」はどこか。

そこで問題は七尾港域の何処にあったかですが、そのためには「鹿島神社」がどこにあったのかを問う必要があります。「鹿島」の地名は、「鹿島神社」ないしは鹿島の神を祀る場があるから生じたものと言われていますから、どこかに「鹿島神社」がなくてはならないはずです。

従来の説の中では、穴水町の甲神社を「鹿島神社」とする説などがありましたが、「鹿島神社」を捜したのは正しいとしても、国津「鹿島津」の位置としては到底あり得ない位置です。

表では、7から13までが中世「鹿島郡」内の神社ですが、7も港津でもありません。位置としても同様に妥当ではありません。残念ながら、この中には「鹿島津」に対応する「鹿島神社」はありません。

私は、小丸山に鎮座していた気多本宮(能登生国玉比古神社)がそれにあたるだろうと考えています。

この気多本宮は、前田利家が小丸山に城を築いた時、村人共々明神野(めじの)に移され、今日に到っています。そして、前田氏は町の名を「所口」と変えています。

地形的に考えると、前面の港の背後の小山は、全国の「鹿島」地名では「鹿島山」にあたると考えられます。残念ながらここにその地名はありませんが、かってそう呼ばれたことがあってもおかしくない地形です。もともとは円山と呼ばれたものを、小丸山・愛宕山・屋敷山・西光寺山の四山に切り割りして城を築いたものといいます。この愛宕山に気多本宮がありました。気多本宮が鹿島神社ならば、その前面の港が「鹿島津」になります。

気多本宮社務所発行「気多本宮略縁起」は、祭神は「大己貴命 素戔嗚命 奇稲田姫命」で、「鹿島大神」も「武甕槌命」もありません。「上古より天正年間まで現在の小丸山(小丸山 愛宕山)一帯を境内地として鎮座」してきたとあります。ところがそこには、「上代には能登の国造 加島の国造が奉祀する能登の鎮護の大神と仰がれてきた」とあるのです。

ここで「能登の国造」と並んで「加島の国造」が出てくることに注目すべきです。「加島の国造」は「鹿島の国造」です。「くにのみやつこ」であり、律令制以前の在地首長、律令制下では祭祀を司ったとされています。能登の古代豪族といえば、能登臣氏と羽咋公氏が知られていますが、「鹿島の国造」もいたのだとすると地名と話が適合します。

羽咋には能登一宮気多神社(祭神 大己貴命)があり、これにたいする気多本宮を称するわけですが、3月の平国祭(オイデ祭)は本宮に神が行幸する一大行事になっています。これをさきの貞享2年「気多社御縁起」では、「毎年二月ニ鹿嶋ノ翁ノ社ニ御幸成ケリ」と述べています。なお、神(ここでは、神仏習合の関係で王子と表現している)は能登島から「鹿島浦」に着いて、その所を「所口」というともあり、羽咋の気多神社の伝承としては「鹿島浦」や「鹿嶋の翁の社」の伝承が近世初めにはしっかり伝わっていたことがわかります。さらに、宝暦10年の「気多大社由来」においても「気多太神宮」「気比大神」と並んで、「鹿島能登両太神」との表現まであります(22)。

考古学的には、これまでも小島町から「室町時代の臨海小運河とその附属施設」とされる土器や遺構が出土していましたが、新たに小島西遺跡から大量の祭具が出土しています。『新修七尾市史』では、ここ桜川河口付近の小さな入り江となっていた汀に、8世紀後半から9世紀中ごろを中心に斎串や人形など1,000点 を超える古代木製祭具が出てきたとし、「古墳時代の中期の5世紀後半頃水辺の祭場となっており」、「以後も水にかかわる儀礼が連綿と続けられ、奈良時代末期からはケガレや悪霊を流し去る大規模な『祓戸』へと変っていった」といいます。そして、「小島西遺跡の祓や祭祀を担った在地有力者もまた、指呼の間にあったと推定される香嶋津の管理に少なからず関わっていたのではなかろうか。」と述べています(23)。発掘報告書は、「祭祀の規模と継続性から判断して、能登国府あるいは香嶋津に付随する祭祀場であったと推定される」ともっとすっきり言っています(24)。

私も、小島西遺跡は端的に「鹿島津」の祭祀場と言うべきだと思います。そして、従来も小島町を含めた地域に「鹿島津」を比定する意見はありましたが、むしろ気多本宮の旧社地を中心とする港湾一帯を「鹿島津」とすべきであると考えます。小島西遺跡が「水辺の祭場」であり、奈良時代末期には「ケガレや悪霊を流し去る大規模な『祓戸』」になったというのは、「鹿島送り」など各地の鹿島信仰と共通しています。まさに、鹿島大神の神祭りであったろうと思われます。

d 「鹿島神社」は消されてきた。

それならば、なぜ鹿島神社ではないのかという問題が出て来ます。

気多本宮は、羽咋の神社がそうであるように祭神は大己貴命を中心とした出雲の神です。しかし近世には「気多本宮」につけて「能登生国玉比古神社」を名のっていました。つまり大己貴命とともに能登国の「生国玉比古神」、国魂神を祭っていることを示しています。

「気多神社古縁起」は「人王八代孝元天皇御宇、北国越中之北嶋魔王化鳥而害国土之人民不少、又到渡海之舟船亦為害止通路、又其時節、鹿嶋路湖水之大蛇出現而害人不可勝計、国中人民及悩愁、地裡昆蟲当致苦患、当此時大己貴尊引具三百余神末社之眷属而來降于当国、殺彼化鳥與大虵、故国中之民唱太平、海上之船謂能登、依之越中之国分四郡号能登国、尒已来此南陽之浦垂跡、天下国家君民之守護神也」

(25)といい、「北嶋魔王の化鳥」と「鹿嶋路湖水の大蛇」が人々を困らせていたので、大己貴が三百余神を引き連れて退治し、そのため天下が太平になり守護神となったと言っています。ここでいう「北嶋魔王の化鳥」と「鹿嶋路湖水の大蛇」は、邪悪なものにされていますが、土地の神々を表していると考えられます。

気多社の縁起、気多本宮の縁起など表現はいろいろ異なるところもありますが、大きくは化鳥(大鷲)と大蛇が在地の神を表し、これが制圧されて、出雲大神大己貴命が能登国の守護神となったという経過になっているのです。大鷲は「鷲蔵(へくら 舳倉)大明神」だというものもあります。そうすると「鹿嶋路湖水の大蛇」は龍蛇神の「鹿島大神」を示すものかもしれません。征服された神は、大己貴の陰に隠れて祀られることになるのです。

表向きから「鹿島神社」が隠され、やがて「鹿島津」も「鹿島郷」も消されていったのではないかと思われます。近世には一時「鹿島郡」もなくなりかけました。一体なぜかと思いますが、全国的に「鹿島」地名と「鹿島神社」には、こうした傾向があることが徐々に分かってきたのが実情です。

そこでもう一つの、大きな問題があります。

「加島津は、斉明朝には北方遠征の基地となり、能登立国以降は、能登国の国津として重要な役割を果たした。」(26)といわれてきました。この後半は良いとして、前半の「北方遠征の基地」が本当にそうなのかという問題です。

その具体的な根拠は、『日本書紀』斉明天皇6年(660)3月条において、阿倍比羅夫の蝦夷征討に能登臣馬見龍が従軍して、戦死したことなどわずかな事実だけです。能登臣馬見龍が能登の豪族として、能登の軍勢を引き連れて従軍したこと、出発に当たって「鹿島津」を拠点としであろうことは推測できますが、蝦夷征討の基地としてどれだけの役割を果たしたか。(27)

古代の戦争に神祭りは欠かせないものであり、霊戦、神々の戦いという面を持つものです。大和国家が「鹿島津」を征夷の基地とするのならば、「鹿島神社」武甕槌命はなくてはならない神社と神のはずです。「鹿島神社」を出さずに、それを制圧した出雲大神大己貴命をまつる「気多神社」「気多本宮」ではつじつまが合っていません。『古事記』『日本書紀』によれば武甕槌命が経津主命とともに出雲大神大己貴命を服属させているはずですが、ここでは話が逆になります。「鹿島津」に大己貴命を主神とする気多本宮を祀り、羽咋の気多神社が延喜式内の大社、能登国一宮にもなって重要視されていきますが、「鹿島津」は消されていきます。これは一体どういうことなのかということです。

私は、能登の「鹿島」地名と「鹿島神社」を調べて、ここに最大の問題があると思いました。能登には、「鹿島津」「鹿島郷」「鹿島郡」の地名がありながら、「鹿島神社」が8世紀以降地名に対応して祀られていないことです。むしろ「鹿島神社」は表面から消され、やがて地名も消されてきたのが能登の歴史の実情です。

では、この「鹿島」とはなにものなのでしょうか。まだ十分答えられない問題ですが、すくなくとも全国の「鹿島」地名と「鹿島神社」の実際の有り様からすると、「征夷の神」と言うのは大分怪しくなってきたとは言えそうです。

(4) 穴水町の「鹿島村」と「鹿島神社」

鳳珠郡(旧鳳至郡)穴水町鹿島は、初見は天文元年(1532)の史料に「かしま」とあり、近世には「鹿島村」の地名があり(28)、村の中を「鹿島川」が流れています。鹿島のはずれにのと鉄道七尾線の能登鹿島駅があり、桜のトンネルで知られています。

「鹿島川」の地名は、地名一覧の方では取り上げましたが、いつからの地名であるか明確でなかったので今回はあげていません。しかし全国の地名を見ると「鹿島川」はかなりあり、水の神として重要な地名かもしれないと思っています。

『角川日本地名大辞典』は、「地名の由来は、常陸国鹿島神社を勧請した鹿島神社の社号にちなむという(能登志徴)。同社付近には『つくねんさま』と呼ばれる大石があり、『万葉集』巻16に『かしまねの机の島・・・』と見える(鹿島神社縁起)。西部の山中にタタラ製鉄跡があり、穴水城主長氏の刀鍛冶がいたという伝承がある。」と説明しています(29)。同書の穴水町の箇所では、さらに「出先の森に『万葉集』記載の香島津縁起を伝える鹿島神社がある。」とも言います。(30)

『穴水の歴史』では、穴水付近を「香島津?」とする「家持順路想像図」まで描かれていて、海べの「つくねん様」と称されている大石、今では木が生い茂り小さな陸継島となっているところに鹿島神社があります。近くには要石(ようせき)という岩礁があり、丁寧なことに「しただみが50~60このせられています。」と同書写真の説明があります。(31)

この話の根拠は『鹿島神宮御縁起』(東四柳文書)が正式な名前のようですが(32)、長谷部神社の博物館でも「ない、表に出していない」ということで、現地に行っても確認できませんでした。『穴水の歴史』の引用史料などから推測すると、江戸時代の幕末以降に作成されたものではないかと思われますが、いずれにしても穴水付近に国津の「鹿島津」を持って行こうというのが無理な話です。

『神社明細帳』は、「当社ヨリ道程一里ヲ距テ、嶽ノ御前ト云フ所ニ本社ノ舊址アリテ、村民之ヲ大名持像石神社ナリト通称ス。其ノ今ノ社地ニ移転シタル年月不祥。」とあります。したがって現在の鹿島神社は古くからのものではなく、もと「嶽ノ御前」という所にあり、村民は大名持像石神社と呼んでいるといいます。

「鹿島」地名ですから「鹿島神社」が本来存在したと思われますが、ここでもまた「大名持」=大己貴命にどこかで変化してしまったものと思われます。材料がないため推測するしかありません。しかし穴水までは古代能登郡、中世鹿島郡の範囲に入っています。西南の羽咋郡との境には「鹿島路」があります。中枢部の古代「鹿島郷」を考えると、古い段階ではかなり広範囲な「鹿島」地域の意識があったのではと思われます。『常陸国風土記』では「香島国」つまり「鹿島国」がありましたから、ここでもそうした可能性があるのではないかと思うのです。

能登はまだまだ調べることがたくさんありそうです。ここでは古墳に触れませんでしたが、当然古墳時代との関連がいろいろ考えられます。しかしこれは今後の課題にしておきます。

(5) 北加賀の「鹿島神社」

a 「18 加嶋明神」について

加賀では金沢市内の神社が7社もあり、「鹿島」地名のないところですから驚きました。

鳴和町の鹿島神社は、正徳2年(1712)が初見で「加嶋明神 談議所村」とありますが、文政11年(1828)の史料では「鹿島社 祭神武甕槌命 談議所村鎮座産神」(33)、明治以降は鹿島神社、祭神は「武甕槌大神」としているものもあります(34)。

『角川日本地名大辞典』では、「鳴和」「鳴和滝」の項に「地名は地内の鹿島神社境内にある義経・弁慶ゆかりの鳴和の滝にちなむ」とあります。滝は、謡曲「安宅」で名高く、「源義経が山伏姿で奥羽落ちする時、勧進帳の舞台で知られる弁慶の忠謀の深さに感激した関守富樫がその後を追って来て酒宴をしたと伝え」、一行が休んだ場所といいます(35)。ちょっとした名所であり、大正時代には「茶店及び浴湯ありて休憩に便ず」などとあります(36)。しかし今では、細い水がわずかに流れている程度のさびしいところで、その脇に鹿島神社がありますが、神社は新しく、祀りごとがしっかり続いているように思われました。ただこれでは、滝のゆかりと鹿島神社はつながっていません。

旧地名の「談議所」は、「近所に春日の社有之。往古は七堂伽藍の神宮寺有之。境内にて毎日談議有之。夫故其地を談議所村と申由申伝候」とあり、近所にある春日神社の神宮寺がかっては七堂伽藍を備えた大寺であって、其の境内の談議所が村名となったというものです(37)。こちらは春日神社です。

地図を見ると、卯辰山の一山が春日山とよばれ、近くに春日町、神宮寺の地名もあります。春日神社は鳴和町の隣の山の上町にあり、明治になって小坂神社と改称したようです。小坂神社の祭神は、饒速日命と武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比咩大神の春日四神です。

この小坂神社(春日神社)の享保5年5月「小坂神社由緒」には、興味深い話が出ています。

そこでは、「元正天皇養老元年、越大徳神融法師(泰澄大師是也)白山山上の後に忽然として一老翁に遇奉る。老翁示して曰、自茲東北に当りて一の泉あり、是五穀豊饒を可得の霊泉也。」と霊泉の話から始まります。老翁は天児屋根命を名乗り、この教えで泰澄は「飛泉の湧出る所」を見出し、民を催して開墾し、民はために「神祠を建て神田御神と崇奉る」といいます。初めは「神田社」であったとあります。その後天児屋根命は、「神護景雲二年和州春日野に影向して春日大明神と申奉る。当社も御神体相同きが故に、後世通じて此社をも春日と称し来れるの名也。」といいます。(38)

神護景雲2年(768)は、鹿島大神武甕槌命が大和国春日に遷って春日神社が創設された年と言われています。ここでは御神体が同じなので春日を称したありますが、武甕槌命と天児屋根命を取り違えているようです。天児屋根は中臣(藤原)氏の氏神ですから、それならばもともと春日社なり、その本拠の平岡社を名のっていれば良かったのですが、そうではなかったのです。

『角川日本地名大辞典』によると、「創建年代は不明であるが、摂関家領(のち二条家領)小坂荘の総鎮守として大和の春日神を勧請したと伝えられ、通称を『春日さん』という。『延喜式』神名帳記載の神田神社は当社であるともいう。中世になって、たびたび兵火を受け社殿・縁起・記録などを焼失し、・・・寛永13年に現在地に再興された」(39)とあります。小坂荘と春日社は鎌倉期以降はっきりしていますが、古代が分からなくなっているのが実情です。

「小坂神社由緒」にもどると、後半で霊泉の名が「延年滝」とあり、これはまた義経弁慶にちなんで「鳴和賀滝」と名づけたともあります。「鳴和の滝」であり、「談議所離宮、奉号武雄社」ともあります(40)。ここでは「離宮」になっていますが、滝、「飛泉の湧出る所」が「神祠」のあるところとするのが大事です。また「武雄社」としたともありますが、「武雄社」は表の16に二俣村のものがありますように、祭神は武甕槌命です。つまり現在の鹿島神社を指しています。

小坂は古代においては小坂郷であり、小坂古墳群など遺跡が集中し、律令期に加賀郡の「郡領氏族となった道君(みちのきみ 道公)の本拠地と目される」とされています(41)。道氏はさらに石川平野に進出し、白山麓に味知郷を形成するとも考えられています。白山はこの味知郷にあり、神主は上道氏の一族が担っていきます。式内社の味知神社は、所在不明ですが、祭神は武甕槌命の説もあります。道氏が、白山と鹿島神社武甕槌命に関係していることは注目すべきことと思われますが、度重なる戦火によって大変分かりにくくなっていることも事実です。

b 「19 味知神社」「24 味知郷神社」について

「19 味知神社」は北安江町にあり、現在は安江八幡宮と称しています。祭神は住吉三神と武甕槌命ですが、延喜式内社味知神社の説明もありますので、隠しているわけではなさそうです。

しかし、文政11年11月「上安江郷八幡宮・下安江郷味知神社両社神主の書出」によると、「延喜式内味知神社 祭神武甕槌命」とあり、相殿に「底筒男命・中筒男命・表筒男命」の住吉三神が祀られています。表に出すものが逆転してしまったというわけです。やはり、式内社の主張にもかかわらず否定されてきたことが影響しているのでしょうか。

詳しいことが分かりませんが、ここでは式内社の主張よりは、小坂の近くにあって祭神武甕槌命の味知神社があることが重要だと思います。

同様に白山市福留の「24 味知郷神社」の問題も見ておきます。

『神社明細帳』によると、祭神は「白山姫神、天照皇大神、武甕槌命、春日四柱神」、明治40年5月神明社、春日社、白山社を合祀して味知郷神社と改称したといいます。これは古来の名称ではありませんが、武甕槌命がダブっていますので、一つは何処の武甕槌命か、となります。

『石川郡誌』は神明社について、「往古味知神社と称したりといへども・・・社記に依れば、この神明社は、加賀国石川郡味知郷山島組四十二ヶ村の総社にして、字味知の森と称する森林中に鎮座し、殿宇頗る宏大なりしが・・・」、その後廃社再興、流失遷座などして今日に到ったといいます。また別のか所で、「福留の北端を味智森と唱ふ。・・・石川郡旧村地髙帳に味智渡と見え、味智森は味智渡邑の旧地にして、此邑は明暦寛文の比猶存せりといへり。」といいます。(42)

「味智渡」が武甕槌命にふさわしいものと思われ、この伝承に信憑性を感じたのですが、これも古代の石川郡内ではないとされて式内社としては否定されています。しかしながら、これも上と同様、式内社かどうかよりは「味知神社」であるということが重要な気がします。

またこの近くには、源兵島町の「25 武甕槌神社」、内方新保町の武甕槌神社、さらに手取川扇状地の上流部に行くと地名の「〈9〉鹿島田」「〈10〉鹿島刈」もあり、逆に下流部海岸近くには「〈11〉鹿島村」「〈12〉鹿島境」もあり、「23 鹿嶋神社」があります。地名と神社が、やや集中しているところでもあります。

源兵島町の「25 武甕槌神社」は、『神社誌』『神社明細帳』によると「往古春日島と称する地に、武甕槌大神を奉祀して春日大明神と称え、神田神領も有したと伝える。」とあり、木曽義仲の軍勢が渡河する伝承を記載しています。祭神は武甕槌一神ですが春日大明神と称えたとあり、aの話に似ています。

内方新保町の神社は、祭神が春日四神ですが、明治13年に春日社を武甕槌神社と改称したといいます。ここは春日社の方がふさわしいと思いますが、何か地元に違う伝承があるのかもしれません。なお「26 春日神社」「27 春日社」も祭神は武甕槌命一神だけですから、鹿島神社あるいは武甕槌神社と称した方が良さそうですがそうなっていません。

今のところはこれ以上のことはわかりませんが、道氏と味知神社、春日神社と鹿島神社の問題は今後とも注意していく必要があります。

c 鹿島町の「23 鹿嶋神社」について

現在の地名は「鹿島町」「鹿島平」です。明治の初めまでは「鹿島村」、これに関連して「鹿島道」「鹿島境」の地名があり、ひとかたまりになっていると言えます。そして鹿島町にりっぱな「鹿嶋神社」があります。

「地名の由来は氏神の鹿島明神にちなむ」といいますが、『蝶屋の歴史 集落・資料編』は疑問を呈しています。というのは、主祭神は「伊弉那岐、伊弉那美、菊理媛命」、由緒沿革は「もとは白山社と称したが、明治11年に鹿島神社と改称し」たとあります。古くは「観音堂」「鹿島村十一面観音」とも記されていたといいます(43)。『神社明細帳』は祭神不詳、創立年月不祥としています。

しかし、『天文日記』天文15年5月24日に「加州加島宝殊房」が初見とあり、以下「鹿嶋」を名のる人物が登場するようです。近世には村名は鹿島村となります(44)。地名があり、それを名のる人物が居た、しかし神社と祭神などは混乱しているというわけです。

『加賀志徴』は、「今は社家・社僧もなく、祭礼の時は柏野の山伏青蓮寺来りて神楽をなすのみ。今は神号も失ひて、千手観音を安置す。」とあります(45)。これは明治の話です。

柏野の青蓮寺は、天台宗白林山青蓮寺。「境内広大樹木繁茂せる大寺なりしといふ。寛政年間類焼・・・規模衰退す。・・・明治維新の際廃寺・・・」とあり、「往時此の地は楢柏野と唱ふる曠原にして、膳臣の裔孫なる道の公の氏族住せる所たりしが」とあります(46)。ここでまた「道の公」が出て来ました。「山伏青蓮寺」はこの寺を継承した人物が居たものと思われますが、これ以上は分かりません。

直接のつながりも不明ですが、「道の公」(47)の伝承がある周辺に「鹿島」地名と鹿島神社や武甕槌神社が分布していることだけは分かりました。そして「鹿島」信仰の痕跡が歴史の過程でかなり徹底して壊されてきたことも分かりました。

(6) 南加賀の「鹿島神社」

地名は、加賀市塩屋町の2地名ですが、1ヵ所です。しかし神社が意外に多く出て来たという感じがします。能美市が2ヵ所、小松市が4ヵ所、加賀市が5ヵ所あります。特に『加賀江沼志稿』から江沼郡の6ヵ所もが出て来たのは驚きました。しかもいずれも「鹿島社」を名のっています。

これは一体どういうことかと思いながら、文献調査をし、現地も回ってみましたが、簡単に答えが見つかるわけがありません。

ここでは、「土俗毘沙門ト云」が3ヵ所もあります。青森県などでは明治になって毘沙門天を鹿島神社としたのだという説明がされていました。ここは弘化元年(1844)の史料ですから事情は異なるのではないかと思われます。むしろ毘沙門堂に鹿島神社が併設されていた可能性がありますが、今のところ確かめられていません。

加賀市塩屋町の「36 加嶋社」は、地名「〈14〉鹿嶋」「〈15〉鹿嶋山」に関係した神社ですが、当時の塩屋村イノ1番地の八幡社に明治40年2月合祀されています。

現在は地名は「鹿島の森」と称され、島の頂上には武甕槌命を祀る鹿島神社(堀切明神)があります。『塩屋町史』によると、昔は島の頂上に天台宗の霊場があったが、それを大聖寺藩6代藩主前田利治が万法院という日蓮宗の道場に改め、七面大明神を勧請、あわせて鹿島明神を祀っていた、しかし明治になり廃寺となった、その後鹿島の社殿も取り壊し、八幡に合祀した、それを昭和4年に大本教の出口日出麿が鹿島に参拝のおり神社の再建を村長に話し、翌年再建され、八幡に合祀されていた御神体と出口日出麿鎮めの霊石を祀ったということです。(48)

近世までは「加嶋寺」という呼称もあったようです(49)が、とにかく鹿島明神の祀りは続いています。

問題は地名ではないかと思われます。やはり『塩屋町史』によると、「古くは『加賀島』と書かれているが、それが『加島』から『鹿島』になった」とあります。(50)

「加賀島」の根拠は、『大乗院寺社雑事記』文明12年(1480)条にある興福寺の庄園「河口ノ庄・坪江ノ庄付近図」の「カゝシマ」と思われますが、雑な略図に「細呂木下方」があり、「海」の中に「カゝシマ」と書かれているものです。これは「鹿島」を示していると考えられますが、人名などはともかく他に「カゝシマ」の地名の史料は見当たりません。「鹿島」は「海」の中ではなく「湖」の中ですから、正確とはとても言えない地図です。(51)

『角川日本地名大辞典』は、「『反古裏書』に『加州加島』とあるのが初見」としています(52)。『反古裏書』は浄土真宗8世蓮如の孫の書いたもの、永禄11年(1568)成立のものです。

実は「鹿島」の目と鼻の先に、蓮如ゆかりの吉崎御坊があります。現代の地図で言うと、福井県に吉崎は属し、「鹿島」は石川県ですから、近くにあるとは承知していましたが、実際に行ってみると一体のものというべき位置にあります。そしてこの吉崎御坊に関する文献、絵図などに「鹿島」に関するものが豊富に出て来ます。

まずは「文明五年八月二日 蓮如書之」の賛がある「吉崎御坊絵図。文明5年(1473)に描かれた照西寺(滋賀県多賀町)蔵絵図の写本」、これには右上部に「鹿嶋」が描かれています(53)。『福井県史』にも同じ絵図からの写本を載せていて、原本と共に「戦国期の原像を今に伝える最古の地図」と評価していますが、この図には「鹿嶋社二ウアリ」とあります(54)。

「吉崎御坊蓮如上人記念館」には、近世後期の「蓮如上人絵伝」が展示されていました。その第二幅最初が「一六、月夜の晩、吉崎御山から 鹿島の森を眺む」蓮如が描かれています。そして蓮如の歌として、「鹿島山 とまり鴉の声きけば 今日も暮れぬと 告げわたるなり」が伝わっていると説明していました。(55)

吉崎御坊は、蓮如が比叡山延暦寺の迫害を避けて、文明3年(1471)から文明7年(1475)まで5年間布教の拠点とした地であり、この布教によって北陸に大きく教線が拡がり、やがて一向一揆につながっていきました。浄土真宗の歴史ばかりではなく、大きく戦国時代史を揺り動かすきっかけになった地ともいえます。

蓮如は、この地を「要害モヨク、スクレテオモシロキ」と表現しました(56)が、何が「スクレテオモシロキ」なのかが問題です。

「記念館」のチラシ「蓮如上人七不思議」の一つに、「七 白鹿の道案内」があります。「京から吉崎に向かわれた蓮如上人御一行が道に迷われました。その時一匹の大鹿が現れ、吉崎の御山へ導きました。そこには白髪の老人が座っていて『ここに御坊をお建てなさい』と告げて消えました。鹿島明神の化身であったといいます。」別な資料にも「民話 鹿の案内」があり、最後に「鹿島明神さまとはどんなおかたでござりますか。」と問われ、蓮如が答えています。「そうじゃ、親鸞聖人さまが関東稲田の御坊でご教化のおり、かみそりを受け、法名を信海と申されたと伝えきいているじゃがの」と(57)。伝説の話ですから、事実とは多少違います。しかし、親鸞が常陸国稲田に庵を結び、鹿島(神宮寺と社)に通って、『教行信証』を著し、初期の門徒に鹿島の神官らがいて鹿島門徒と呼ばれた事実はあります。この鹿島神社の神の使いが鹿であり、大和春日神社の鹿は鹿島から遷ったのだといわれています。

井上鋭夫『本願寺』では、「とくに重視すべきは鹿島明神の鹿に誘導されて吉崎にいたったという伝説で、吉崎入江の真ん中にある鹿島はその明神灯が灯台の役割を果たしていたと考えられるが、ここには蓮如の子光闡坊蓮誓が住しており、これも吉崎占定の要素と考えねばならない。」と言っています。(58)

私も、北陸から関東東北へと思いを馳せた蓮如が、この地で「鹿島」を眺めた時、宗祖親鸞に熱い想いを寄せないはずはないと思いました。その媒介となったのが、鹿と鹿島明神であったろうと思われ、そうした思いが伝説を生み出したのだと思います。

地名に戻ると、文明年間の明確な地名の記載はありませんが、近世に伝わったこれらの記録から蓮如の段階で、「かしま」は「カゝシマ」「加島」ではなく、鹿と鹿島明神の話からはっきり「鹿島」という地名の認識があったと考えられます。

なお、塩屋町には「シャシャムシャ踊り」(加賀市指定文化財)という盆踊りがあり、別名を「蓮如踊り」というとあります。蓮如が鹿の案内で吉崎御坊の地に入ろうとした時、「笹のムシャムシャのところをかき分けて御山へあがられたので、このような名がつけられた。その笹をかき分ける身ぶりが踊りの振り付けになったと伝承されている。」といいます。歌詞がいくつか載っていますので、鹿島に関したものを紹介します。(59)

鹿島山から水戸口見れば 出船 入船 ほかけ船

加賀の鹿島にとまらぬ鳥は ふくら雀か うぐいすか

鹿嶋向いの 弁財天見れば 余の木はないわの 松ばかり

あいに出られず くだりに曇る とかく鹿島の根につなぐ

塩屋も吉崎も天然の良港として栄えたはずです。港の繁栄がうかがわれると共に、歓楽街の存在がうかがわれます。『加賀江沼志稿』には、「鹿嶋 竹浦入江中ニ在、頗佳景也。男女随時集会、或愉楽帰、或耽楽忘帰。常燕楽之地、納涼最佳也。」(60)とあり、景色も良いが、男女が随時集まり、楽しみ極まり帰るを忘れるほどの地であり、「常に燕楽の地」であるとあります。ふと「歌垣」を連想しました。何か古い歴史を感じさせますが、残念ながらさらに遡る史料はありません。

(7) おわりに

インターネット上の「地震まっちゃ」「自由地図」を使って、石川県・富山県・新潟県「北陸3県分布図」を作ってみました。Googleマップに分布図が作れるソフトです。赤四角は地名、青丸は神社で、大字のレベルで表示していますから厳密性に欠けると言えば欠けるかもしませんが、おおよその分布状態が分かります。

地名と神社の重なっているところを表示しようと、四角と丸にしたのですが、保存してみたら赤四角しか表示されなくなっていました。新潟県の3地点と石川県の加賀市塩屋町の鹿島の森が重なっています。これは今後の改善点です。

これを見ると、石川県は地名がわりあい多く残っていることがはっきり分かります。そしてその地名に鹿島神社がほとんど残っていないことも良く分かります。

その代表の一つが、能登の「鹿島郷」「鹿島津」「鹿島郡」「鹿島根」などの古い鹿島地名の密集地です。ここでは気多本宮を鹿島神社であったとし、鹿島が蔽われてきた歴史があることを示しました。しかし、「能登郡」「能登臣氏」との関係がまだ充分示すことができていません。古墳との関係も大きな課題になっています。しかし少なくとも、従来の能登の歴史とは異なる見通しが出来てきたと思われます。

現在、地名に鹿島神社がしっかり残っているかのようなところもありましたが、調べてみると、神社が長い歴史経過の中であいまいになっているところもありました。

加賀では、道氏と味知神社が大きな問題になってきました。私は、吉備国上道氏との関係を疑っています。上道郡には最も古い鹿島地名の「蚊島田」があり、新羅・加羅などとの関係が深いところが似ています。白山信仰は新羅・高句麗などとのつながりがあります。出羽の俘囚道氏というのも、興味深い存在です。

南加賀の「鹿島神社」はまだ調査不足かもしれません。史料がなくて簡単には分からないのは当然のことですから、じっくりと今後断片を捜していくほかはないと思っています。

以 上

石川県の鹿島神社

神社名 所  在  地

()内は現在の地名

祭神 備考 出典 歴博
1 珠洲神社

高座宮

珠洲郡三崎村字寺家

(珠洲市三崎町寺家)

瓊々杵命・A・他4 県社 明細帳
2 本宮神社 同上 無格社 明治43年珠洲神社に合祀 明細帳
3 本内神社 鳳至郡本郷村字本内

(輪島市門前町本内)

石長姫命

A・B

村社

もとうち

明細帳
4 猿橋神社 鳳至郡櫛比村字猿橋

(輪島市門前町猿橋)

石長姫

A・B

村社 明細帳
5 三像神社 羽咋郡稗造村字阿川

(羽咋郡志賀町阿川)

少彦名命・A 村社

あこう

明細帳
6 大山祇

神社

羽咋郡稗造村字尊保

(羽咋郡志賀町尊保)

そんぽ 明細帳
7 鹿島神社 鳳至郡穴水町字鹿島

(鳳珠郡穴水町鹿島)

村社

「嶽の御前」に旧址

明細帳 1196
8 河崎社 鹿島郡豊川村字河崎

(七尾市中島町河崎)

武美加津智命 村社

古昔河崎将軍社

明細帳
9 嵜山社 鹿島郡豊川村

(七尾市中島町崎山)

武美加津智命 村社 明細帳
10 鹿  島

神社

鹿島郡北大呑村(七尾市庵町大神宮谷地) 経津主大神 無格社

旧家高橋家守護神

明細帳
11 上澤野

神社

鹿島郡東湊村

(七尾市沢野町松尾)

味鉏髙彦根命

BA他1

村社 鹿島郡誌は

武甕龍神

明細帳
12 伊須流岐

比古神社

鹿島郡越路村字石動山(鹿島郡中能登町) 伊弉諾尊・B・A

他85神

郷社 明細帳
13 能登神明

神社

鹿島郡越路村字徳前(鹿島郡中能登町) 彦狭島命・B・A

他7神

村社

もと能登河中明神

明細帳
14 菅原神社

相殿

羽咋郡南邑知村(羽咋郡宝達志水町菅原) 応神天皇・A 県社

往昔菅原寺

明細帳
15 二柱神社 羽咋郡釶打村字北免田(宝達志水町免田) AB天照大神

他1

村社

もと大将軍社

明細帳
16 武雄社 河北郡二俣村

(金沢市二俣町)

A・天手力雄命 産神

現医王山神社

神社録
17 多聞天 河北郡卯辰村

(金沢市卯辰町)

髙皇産霊尊・A

他2

産神

現宇多須神社

神社録
18 加  嶋

明神

河北郡談議所村

(金沢市鳴和町)

産神 鳴和滝

現鹿島神社

正徳

書上帳

19 味  知

神社

石川郡下安江村

(金沢市北安江町)

式内社 相殿住吉三神 現住吉神社 神社録
20 八幡宮 相殿 石川郡鍛冶町

(金沢市此花町)

A他3 現安江八幡宮 神社録
21 豊田白山

神社

金沢市三社町一番地 菊理姫・A・ 応神 村社

養老2年勧請

明細帳
22 鹿島之社 石川郡金沢野町

(金沢市千日町)

野町神明宮境内社

香取之社もある

神社録
23 鹿  嶋

神社

石川郡蝶屋村字鹿嶋

(白山市鹿島町)

祭神不詳 村社 明細帳
24 味知郷

神社

石川郡福留村字福留

(白山市福留町)

A・春日四神・他2 村社 明治40年春日社など合祀改称 明細帳
25 武甕槌

神社

石川郡比楽島村字源兵衛島(白山市源兵島町) 武甕槌大神 村社

義仲軍祈願

明細帳
26 春日神社 能美郡根上町道林町

(能美市道林町)

無格社 神社誌
27 春日社 (小松市新大工町) 鎮守兎橋神社

末社

文政書上
28 石清水社 能美郡在方 湯谷村

(能美市湯谷町)

文政書上
29 摩利子天 小松三日市領

(小松市三日市町)

AB他1 神社録
30 鹿島社 能美郡小松町上本折町(小松市上本折町) 県社多太神社摂末

春日もある

明細帳
31 鹿嶋社 江沼郡下村・縁其村

(小松市滝ヶ原)

しもむら・えんく両村鎮守 江沼志稿
32 鹿嶋社 江沼郡東谷口村字水田丸(加賀市水田丸町) A・他3 土俗毘沙門薬師

トモ云

江沼志稿 1195
33 鹿嶋社 江沼郡津波倉村

(加賀市津波倉町)

土俗毘沙門ト云 明治40桑原社合祀 江沼志稿
34 鹿嶋社 江沼郡日谷村

(加賀市日谷町)

土俗毘沙門ト云 江沼志稿
35 鹿嶋社 府城在山ノ下

(加賀市大聖寺神明町)

神明社末社6社の内 現在はない 江沼志稿
36 加嶋社 江沼郡塩屋村

(加賀市塩屋町)

加嶋寺  明治40村社八幡社に合祀 明細帳

*表の説明

1番左は、表の通し番号。

「神社名」は出典の神社名。

「所在地」も出典の所在地名を記し、( )内は現在の地名を記した。

「祭神」は、Aが「武甕槌命」、Bが「経津主命」。空欄は特に祭神が記されていなかったものである。

「備考」は、出典の他に『角川日本地名大辞典 17石川県』(角川書店)、『日本歴史地名大系 17石川県の地名』(平凡社)、吉田東伍『増補大日本地名辞書 第5巻 北国・東国』(冨山房)、『県別マップル道路地図 石川県』(昭文社)、『式内調査報告 第17巻』(皇學館大学出版部)、県史・ 市町村史などを参考にし、注目すべき点を記した。

「出典」は、「明細帳」は国立国語研究所所蔵『石川県神社明細帳』、今回はこれが基本になっている。

「神社録」は、「加賀国神社録」文政11年のもの(『金沢市史 資料編13寺社』所収)、

「正徳書上帳」は、「正徳弐年 村々社堂宮支配之義書上申帳」の河北郡(『金沢市史 資料編13寺社』所収)、

「文政書上」は、文政七年の社号書上帳(『新修小松市史 資料編9』所収)

「江沼志稿」は、『加賀江沼志稿』(弘化元年)(『加賀市史 資料編第一巻』)

1番右の欄「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号であるが、2か所しかない。

(1)『角川日本地名大辞典 17石川県』(角川書店 1981年7月)361頁「源兵島」の項

(2)『石川県神社誌』は(石川県神社庁 1976年10月)、『石川県神社明細帳』は国立国語研究所蔵の「明治13年進達控」のもの。

(3)『書府太郎 石川県大百科事典』上下巻(北国新聞社 2004年11月~2005年4月)

(4)「全国『鹿島』地名一覧」を若干訂正した。穴水町鹿島の「鹿島川」、白山市「鹿島平」、塩屋町「鹿島の森」を新しい地名とみて除き、新たに〈1〉〈6〉〈9〉〈14〉〈15〉を入れた。

(5)『新修七尾市史2 古代中世編』(2003年3月)19、21、33頁

(6)『萬葉集 四』(岩波書店 新日本古典文学大系4 2003年10月)174頁

(7)「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」7参照。神社は、現在の調査では山形県に1社あったが、事情は不明。

(8)『新修七尾市史2 古代中世編』(2003年3月)78~79頁

(9) 同上83~85頁

(10)『気多神社文献集』(石川県図書館協会 1930年10月)134、138頁

(11)『神道大系 神社編三十三 若狭・越前・加賀・能登国』(神道大系編纂会 1987年12月)360、362

(12)『角川日本地名大辞典 17石川県』(角川書店 1981年7月)246頁

(13)同上791頁、『図説 石川県の歴史』(河出書房新社 1988年12月)123頁など。

(14)『七尾市史』(1974年3月)74頁

(15)『石川県鹿島郡誌』(1929年6月)498頁

(16)『新修七尾市史14 通史編1』(2011年3月)142~3頁

(17)『新修七尾市史2 古代中世編』79頁「解説」

(18)「全国『鹿島』地名の分類と二、三の特徴」参照

(19)『角川日本地名大辞典 17石川県』692~4頁

(20)『鎌倉遺文』第五巻「二八二八 能登國田數注文」

(21)橋本澄夫「七、八世紀代における能登鹿嶋津の歴史的意義」(石川考古学研究会『北陸の考古学』第26号 1983年3月)636~7頁、なおここでは、「国衙推定値を流域におさめる大谷川の河口周辺だった可能性が強いと考えている」と述べている。

(22)『気多神社文献集』171頁

(23『新修七尾市史14 通史編1』73頁、129頁

(24『七尾市 小島西遺跡』(石川県教育委員会・(財)石川県埋蔵文化財センター 2008年3月)「報告書抄録」の「要約」

(25)『神道大系 神社編三十三 若狭・越前・加賀・能登国』351頁

(26) 『新修七尾市史14 通史編1』145頁、

(27) 橋本澄夫前掲論文、橋本は史料の乏しい中、古墳などの分析を通じて「七世紀中ごろの鹿嶋津は、東北遠征に向けての軍港の性格を強め、能登臣馬見竜が編成し自から指揮をとった能登水軍の根拠港ともなった」と述べている。しかし古墳や遺跡の情況がそれを裏付けているとはとうてい言えていないのではないか。

(28)『能登志徴 巻六』下編(石川県図書館協会 1938年9月)7頁

(29)『角川日本地名大辞典 17石川県』245頁

(30)同上1247頁

(31)『穴水の歴史』(穴水町社会科研究部 1963年7月)

(32)『穴水町の集落誌』(穴水町教育委員会 1992年12月)

(33)『金沢市史 資料編13寺社』568頁

(34)『石川県河北郡誌』160頁、『石川県神社誌』50頁

(35)『角川日本地名大辞典 17石川県』665頁

(36)『石川県河北郡誌』465頁

(37)『角川日本地名大辞典 17石川県』563頁

(38)「小坂庄春日神社縁起」(『神道大系 神社編三十三 若狭・越前・加賀・能登国』「加賀諸神社縁起」)121頁

(39)『角川日本地名大辞典 17石川県』376頁

(40)「小坂庄春日神社縁起」122頁

(41)『角川日本地名大辞典 17石川県』375頁

(42)『石川県石川郡誌』(1927年3月 1970年3月復刻)614~6頁

(43)(鹿島町 2002年9月)136~9頁

(44)『角川日本地名大辞典 17石川県』245頁

(45)『加賀志徴 下編 巻八』47頁

(46)『石川県石川郡誌』629から30頁

(47)「道の公」氏に関しては、浅香年木「道氏に関する一試考」(『古代地域史の研究』法政大学出版局 1978年)、米沢康「江沼臣氏道君氏」(『北陸古代の政治と社会』法政大学出版局 1989年12月)を参照した。

(48)(塩屋町 1997年1月)128~9頁

(49)『金津町 吉崎の郷土誌』(金津町教育委員会 1999年2月)118頁所引の「朝倉始末記」など。

(50)『塩屋町史』『金津町 吉崎の郷土誌』もともに「カガシマ」説を主張している。

(51)『増補 続史料大成 大乗院寺社雑事記七』(臨川書店 1933年12月)180~1頁に別紙付図があり、地名は活字で表記されていて、本文に「細呂木ヨリ北ハ則加賀国也」の説明がある。正確には北東が加賀国になる。なお『よみがえる中世6 実像の戦国城下町 越前一乗谷』(平凡社 1990年6月)36頁に原本地図の見やすい大きさの地図が載っている。

(52)『角川日本地名大辞典 17石川県』244頁

(53)朝倉喜祐『吉崎御坊の歴史』(国書刊行会 1995年9月)グラビア

(54)『福井県史 通史編2 中世』(1994年3月)742頁

(55)財団法人本願寺維持財団 吉崎御坊蓮如上人記念館「平成二十六年春季特別展 絵伝にみる蓮如上人」

(56)蓮如「御文」文明五年九月日()

(57)朝倉喜祐『吉崎御坊の歴史』56~7頁

(58)(講談社学術文庫 2008年10月)172~3頁

(59)『加賀市の文化財』(加賀市教育委員会 2007年4月)83頁、「塩屋町のシャムシャム踊り」(『えぬのくに』第47号 江沼地方史研究会 2002年4月)15~9頁、なお歌詞の4番目のものは鹿島の森の入り口近くのぼんぼりに書かれていたものである。

(60)「加賀江沼志稿」(『加賀市史 資料編第一巻』 1975年4月)261頁

« »

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です