古社の秘密を探る

1.青森県の鹿島神社

1.青森県の鹿島神社

このエントリーをはてなブックマークに追加

1.青森県の鹿島神社

  

神社名

所 在 地 (現在地名)

祭神

 備  考   

出典 

1

鹿嶋宮

高杉村(弘前市高杉) 

  

正観音末社 石堂 草創年月不祥 明和6年棟札

書上帳

  

2

鹿島 神社

出精村林(つがる市木造林)

  

旧村社 旧千年村産土神

稲垣村史

  

3

鹿島 神社

津軽郡毘沙門村中崎   (五所川原市)

  

  

新撰陸奥

  

4

鹿島 神社

中川村大字桜田     (五所川原市桜田)

  

  

郡神社誌

2

5

鹿島 神社

中津軽郡西目屋村大秋

武甕雷神

旧村社 村市が姉大秋が妹

大系 県史 

  

6

鹿島 神社

北郡明神町       (むつ市田名部町)

八幡宮相殿 宝暦13年棟札

新撰陸奥

  

7

鹿島神

北郡七戸町南町     (七戸町七戸)

神明宮相殿

新撰陸奥

  

8

鹿島 神社

八戸市根城8丁目11-36


 

隅ノ観音境内 石祠

八戸市誌

  

9

武甕槌神社

三戸郡本三戸小向村   (南部町小向)


八幡宮(建久2年甲州より遷座)摂社

新撰陸奥

 

*「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、それ以外の表記はそのまま記した。空白は「祭神」が確認できていないもの。

 「出典」は、1は「安政2年8月神社微細社司由緒調書上帳(最勝院)」の、「新撰陸奥」は「新撰陸奥国誌」の、4は「北津軽郡神社誌」の、5の「大系」は「日本歴史地名大系2 青森県の地名」の、「県史」は「青森県史」の略。

 「歴」は国立歴史民俗博物館の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。

 

 この間、私は全国の鹿島地名の調査をふまえて、全国の鹿島神社の一覧表を作成してきました。そして実は、昨年3月29日には、一通りの一覧表がほぼ完成できたと思っていました。

鹿島神社の全国一覧表は、すでに1994年3月に国立歴史民俗博物館が「特定研究 香取鹿島に関する史的研究」として、全国神社明細帳と「全国同祭神神社一覧表」(「春日の神がみ」編纂委員会編『春日の神がみ』平成3年全国春日連合会)と各都府県宗教法人名簿を参照して、鹿島神社および香取神社の一覧表を作成して発表していました(以下、歴博一覧表と称す)。

 私は、この歴博一覧表から鹿島神社のみをぬき出して、これに私の「鹿島地名」の調査の中から見つけた鹿島神社、武甕槌神社、武甕槌命を祭神とする神社などをつけ加えたら、それで新たな全国の一覧表が出来ると安易に思っていました。

 しかし、青森県・岩手県・宮城県などの調査を進める中で、ふと近世の資料を見たために、現代ではすでになくなっていたり、わからなくなっている鹿島神社、鹿島社などがかなりあることがわかってきたのです。歴博一覧表は近現代の資料に基づいていましたから、近世の史料を見ますと、ここにはない神社がいくつも出てきてしまったのです。

 直接のきっかけは、『宮城県史』所収の『安永風土記』でした。『安永風土記』は、仙台藩の地史編纂の過程で作成され、各村々から提出された「風土記御用書出」等の「書出」の総称で、安永2(1773)年から同9年のものが最も多いので『安永風土記』といわれているものです。幸い、『宮城県史』がほぼ収録していたので、わりあい簡単に見ることが出来ました。

 その結果、今まで知らなかった地名や神社が次々に出てきたのであわてました。『安永風土記』については岩手県・宮城県のところでまた改めてふれたいと思いますが、その後は、各地の近世の地誌や検地帳、村明細、寺社明細などできるだけ目を通すことにしてきました。とにかく近世のものをしっかり見ること、あるいは近代の廃仏毀釈や神社の統廃合以前の姿がうかがわれる史料をしっかり見ないと、古い神社の実像はわかってこないことが改めて思い知らされました。そのため私の一覧表は、各県毎にすべてやり直しになり、1年以上かかってしまっています。まだ未完ですが、少しずつ発表することにしました。

 そこで、まずは青森県。

『青森県百科辞典』((株)東奥日報社 昭和56年3月1日)の「鹿島信仰」(小舘衷三)の項を、つぎに全文かかげます。

「県内に鹿島神社が7社あるがいずれも津軽地方だけである。その祭神は武神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、本社は茨城県の旧官幣大社である。代表社は南郡藤崎町鹿島神社、弘前市乳井神社、中郡西目屋村市のものであるが、神仏分離以前はいずれも毘沙門天(びしゃもんてん 多聞天)を祭っていた。すなわち、東北地方は日本の鬼門であったので、古代から北方鎮護のこの神仏が祭られていたのである。なお、西郡岩崎村周辺で行われている「鹿島送り」は、秋田藩主が鹿島本社のある常陸(茨城県)から転封になって来て、一時、岩崎地区を領有していたことによる。」

なおこの辞典は、この後に南津軽郡藤崎町の「鹿島神社」と、西津軽郡深浦町、同岩崎地区などの「鹿島流し」(上記の「鹿島送り」のこと)の 項をたてて、同様な説明を加えています。鹿島神社や鹿島信仰に関する青森県内の典型的な認識を示しているものと言えます。

ここでは、青森県内の鹿島神社は7社だけで、すべて津軽地方だけのものであるといっています。

歴博一覧表では、『百科辞典』が7社といっているのに対して6社で、津軽地方だけのものというのは同じです。これは弘前市の乳井神社が入っていないからでしょう。乳井神社は神社名こそ「鹿島」を名乗っていませんが、祭神は武甕槌命・経津主命他1神で、坂上田村麻呂に関わる伝承をもつ北方鎮護の神ですから、一覧に挙げられてもおかしくないものです。神社名にこだわったのかもしれません。

ところが『百科辞典』は、この7社が「神仏分離以前はいずれも毘沙門天(多聞天)を祭っていた」と言っています。実際のところその通りで、近世の史料では毘沙門天とか毘沙門堂になっていて、鹿島神社の姿は見えません。そして明治になって、毘沙門堂を改め鹿島神社としたとしているものばかりです。そうすると、青森県には、近世以前にさかのぼる本来の鹿島神社は一つもないことになります。

しかし、私の調査では、近世から現代までの史料で、鹿島(嶋)神社、鹿島神、鹿島宮、武甕槌神社、乳井神社などさまざまな名前のものを含めて25社を数えました。しかも、津軽地方22社と圧倒的に津軽が多いのですが、下北郡、上北郡にも3社見つかっています。

 そして、これらは確かに近世の文献の中で毘沙門天、毘沙門堂を名乗っているものが多かったのですが、そうしたものを省いていくと、かかげた一覧表のように8社だけが残りました。津軽5社と北郡3社です。

 これを見ると、下北、上北郡の3社は問題なさそうです。鹿島神社は、相殿と摂社ですが、津軽地方だけのものではありませんでした。史料は『新撰陸奥国誌』ですから、明治5年~9年のころの情報になります。

 さらに津軽では、大変興味深いものが見つかっています。

 1の弘前市高杉の「鹿嶋宮」です。安政2(1855)年8月「神社微細社司由緒調書上帳」(最勝院 『新編弘前市史』1303頁)の、高杉村「正観音一宇」の項の中に、「同末社 鹿嶋宮」があり、小さい石堂で創建不詳だが、明和6(1769)年の棟札があるとあります。 おもしろいのは、「正観音」という仏教施設に「同末社 鹿嶋宮」がはっきり見つかったことです。近世以前では神仏混交ですから、お寺に神社がくっついていても不思議ではなく、今日でもその名残は注意しているといくらも見ることは出来ます。

 この「鹿嶋宮」が今日も存在しているかどうかは今のところわかりません。「正観音」は、津軽三十三観音の第四番札所浄土宗南貞院の観音堂と思われ、村内には諏訪神社や加茂神社があることは地名辞典でわかりましたが、これら辞典は鹿島には全くふれていません。

 しかし、これが見つかったことは、明治になって毘沙門堂が廃され、代わって新しく鹿島神社になったという説明に大きな疑いが出てきます。毘沙門天を祀る毘沙門堂に付随して、鹿島神社や武甕槌命が祀られていても不思議ではないでしょう。それが明治になって、毘沙門堂を廃したときに残った神社として浮上した可能性も出てきたと思います。

 私は、まず第一に、こうした話が青森県だけで説明されているのではないかと疑っています。私の不勉強かもしれませんが、他の地域ではあまり聞かない話です。たとえば、岩手県平泉の有名な達谷窟は、毘沙門堂です。この「堂ノ前」には「鹿島大明神宮跡」があったと『安永風土記』にはあります。ここでは近世の段階で、すでに鹿島神社は跡だけになり、毘沙門堂が今日まで存続しています。明治になって鹿島神社を復活して、毘沙門堂を廃してもおかしくないと思いますが、そうしたことはなかったのです。逆に鹿島神社は今日では痕跡さえもわかりにくくなっています。毘沙門堂と鹿島神社が同居していて、どのような事情かはわかりませんが、鹿島神社がなくなり、毘沙門堂が残った逆のケースが存在することは重要です。

青森県の「鹿島」地名は、4ヵ所7地名あります。公表している地名一覧表にはなかったところが1ヵ所2地名増えました。西津軽郡深浦町岩崎の「へたの鹿島」「沖の加島」です。菅江真澄が島の絵を描いていました。ここには「武甕槌神社」がありますが、近世には毘沙門堂で、鹿島神社や武甕槌命は確認できませんでした。『百科辞典』でもふれられているように「鹿島流し(送り)」「鹿島祭」が盛んに行われている地域でもあります。「鹿島信仰」の痕跡が地名と祭りに濃厚に残っています。しかし、鹿島神社は近世にさかのぼっては確認できません。『百科辞典』は、「鹿島送り」について常陸国から転封した秋田佐竹氏が一時支配したことによるとしますが、それなら鹿島神社を勧請していてもおかしくないはずです。「鹿島祭」が深浦町域に何カ所もあることなど、一時的な佐竹氏の影響では説明つかないものがあります。

 また、普通は神社があったから地名が残ったと説明されるのですが、今のところ対応する神社が見つかっていません。津軽には22ヵ所の鹿島神社がありましたが、どれも近世は毘沙門天を祭っていたとすると、地名や「鹿島祭」などの行事との関係が説明つきません。これだけ鹿島信仰の痕跡が在りながら、確かな鹿島神社がなさ過ぎます。

 私の一覧表では、今のところ近世の毘沙門天、毘沙門堂についてはっきりしないものを4ヵ所挙げています。

鹿島神社であることがはっきりしているもの、津軽1ヵ所、北郡3ヵ所、しかしなお検討を要するもの4ヵ所です。この4ヵ所ばかりでなく、津軽地方の鹿島神社のすべてを一つ一つもう少し検討すべきではないかと思っています。そして、この鹿島神社が今後消えていくのか、近世以前の鹿島神社の存在を確認することになるのかが今後の問題になります。

 とりあえずは、全国の鹿島神社を見てからの課題とします。

»

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です