古社の秘密を探る

12月

4.山形県の鹿島神社

4.山形県の鹿島神社

 

神社名

所 在 地

祭 神

備 考

出典

歴博

1

鹿 嶋神社

(酒田市保岡)字村東

鹿島大神

保安2年1121小社建立

風土記

75

2

鹿 島大明神

飽海郡北俣村

(酒田市)字鹿嶋

獅子踊り

字鹿島山とも

町史

74

3

新 山神社

東田川郡黒川村

(鶴岡市)大字黒川字宮田

健御賀豆

智命他3

旧郷社→県社 

現在は春日神社

明細帳

 

4

深 山神社

西田川郡大泉村

(鶴岡市)大字下清水字内田

A他7

旧村社

明細帳

 

5

鹿 島神社

西田川郡温海村

(鶴岡市)大字五十川字安土

春日4神

無格社古四王神社・

川内神社境内神社

明細帳

 

6

鹿 嶋太神宮

温海町(鶴岡市大岩川)

 

寛政期1789~1801に改築 

t.5年大坂神社に合併

町史

 

7

鹿 島神社

最上郡舟形村

(舟形町)大字長沢字内山

無格社

文久年間1861~1864とも

明細帳

71

8

鹿 島神社

北村山郡宮沢村

(尾花沢市)大字中島字浦山

m.6村社

寛文2年1662創建

明細帳

70

9

鹿 島神社

西村山郡高松村

(寒河江市)大字八鍬字鹿島

弥勒領(慈恩寺) 長和元年1012建立  八鍬村総鎮守

明細帳

69

10

鹿 島明神

西村山郡西根村

(寒河江市)字下河原

現鹿島月山両所神社

神社誌

68

11

鹿 嶋神社

東村山郡(山形市鈴川町)

大字印役字東浦

印鑰神明宮摂社

明細帳

64

12

鹿 嶋神社

東村山郡鈴川村(山形市

和合町)大字上山部字和合

無格社 

正徳2年1712創立

明細帳

 

13

鹿 島神社

南村山郡中川村(上山市)

大字高野字峠

無格社 石祠

明細帳

66

14

鹿 島神社

南村山郡西郷村

(上山市)大字藤吾字上ノ代

元文2年1737創立 

m.12年村社

明細帳

65

15

鹿 島神社

西置賜郡蚕桑村

(白鷹町)大字高玉字明神堂

無格社

天明4年1784再建

明細帳

 

16

五 所神社

西置賜郡西根村

(長井市)大字寺泉字明神廻

A他10

寛治4年1090創立

明細帳

 

17

鹿 島神社

東置賜郡宮内町

(南陽市宮内町)字坂町 

旧県社熊野神社境内神社

明細帳

73

18

香 島神社

西置賜郡豊原村

(飯豊町)大字黒沢字九反田

無格社

明細帳

 

19

浮 島神社

東置賜郡中郡村(川西町)

大字時田字浮島

A他1

大同2年807創建 

m.5年村社

明細帳

 

20

鹿 島神社

南置賜郡玉庭村(川西町)

大字玉庭字天神林

無格社 

m.42年松尾神社に合併

明細帳

 

21

二ノ宮神社

西置賜郡津川村(小国町)

大字大石沢字萩原

BA

無格社

明細帳

 

22

鹿 島神社

東置賜郡糖野目村(高畠町)

大字蛇口字鹿島南

応永年間1394~1428創立

 m.5年村社

明細帳

72

23

鹿 島神社

東置賜郡二井宿村(高畠町

二井宿)字宿

 

無格社 

t.5大社神社に合祀

明細帳

 

24

熊 野神社

東置賜郡亀岡村(高畠町)

大字入生田字十徳

A他5

 

明細帳

 

25

高 房神社

東置賜郡和田村(高畠町)

元和田字洞山

AB

旧郷社 

往古奥山高房沢に鎮座

明細帳

 

26

高 房神社

東置賜郡和田村(高畠町)

大字上和田字窪

AB

無格社 

奥山高房沢から分霊遷宮

明細帳

 

 

*表の説明

「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在の地名」を記した。

 「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、「経津主命」を「B」とし、それ以外の鹿島の神の表記はそのまま記し、その他の神は「他1」のように記した。空白は「祭神名」が確認できなかったもの。

 「出典」は、ここでは『明細帳』が基本になっている。

『明細帳』は、国文学研究資料館所蔵の『山形県神社明細帳』(明治13年作成)である。

『風土記』は、『出羽国風土記』(荒井太四郎著 明治17年) 昭和52年5月歴史図書社の復刻版。

『町史』は、『平田町史』(昭和41年12月)、『温海町史 上巻』(昭和53年4月)

『神社誌』は、『山形県神社誌』(山形県神社庁 2000年4月)

 なお「備考」は、「出典」だけではなく、『山形県史』・『図説 山形県の歴史』(河出書房新社)・『山形県の歴史』(山川書店)、『平田町史』・『温海町史』など市町村史、『角川日本地名大辞典 6 山形県』・『山形県の地名 日本歴史地名大系』などを参照し、特に注目すべき点を記した。建立・創立などは社伝による。

 「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号で、山形県の鹿島神社は12社であったが、1社は別な神社の間違いと思われたので外し、11社となった。

 

 

山形県の鹿島神社の問題

山形県の「鹿島神社」は、表に示したように26社でした。

 山形県については、国文学研究資料館に『山形県神社明細帳』(以下『明細帳』と略す)がほぼそろっていましたので、これから採用したものが基本になっています。あわせて『山形県神社誌』も参照しましたので、地理的には全県をバランス良く見たと思います。ただ『明細帳』は、酒田市はありましたが、飽海郡がなかったので少しぬけているかもしれません。

また、今までと違って近現代の資料をベースにしましたので、これから近世以前の小祠がどのくらい拾えたか、多少疑問が残っています。

 表は、「鹿島」を名乗る神社だけでなく、「武甕槌命(健御賀豆智命)」を祭神とする神社も載せています。「武甕槌命」を祭神としていることをもって「鹿島神社」の範疇に入れて良いかどうかも問題でしょうが、そのことは全国を見渡せる段階でまた考えていこうと思っています。当面「鹿島神社」≒「武甕槌命」で調べていくことにします。

 まず『明細帳』がなかったものについて、若干のコメントをしておきます。

 1に関しては、『出羽国風土記』で確認しました。祭神は冒頭に「武甕槌命なり」とあるのですが、以下の文中では「鹿島大神を勧請す」などと記していますので、こちらを祭神としてはとりました。私は、「武甕槌命」よりは「鹿島大神」の方が本来の神名と考えていますので、確認できる時はこちらの神名を採用しています。(1)

 2は、『平田町史』『角川日本地名大辞典 6山形県』『日本歴史地名大系 山形県の地名』などで確認したものです。

ここは、地名「鹿嶋」「鹿島山」に対応しています。そして、天平11年(739)創建とか、大同2年(807)坂上田村麻呂創建とか言われる新井山(新山)毘沙門堂の末社とも、愛沢大権現末社ともあって、この関係がいささかわかりにくいのですが、古代にさかのぼりそうな神社と思われます。

しかも「備考」にあるように、この神社で「獅子踊り」が行われています。ただインターネットの「山形のシシ踊り」の説明文によると、ここの「獅子踊り」はシシ6頭ですが、「シシは猪と考えられており」といっていて、鹿ではないと説明しています。もっとも旧平田町域の別な地域の「獅子踊り」では、「鹿をかたどったもの」というのもあり、唄の中に「鹿島しや 鹿島林の口輪虫」という歌詞を持つものもありますし、岩手県と同系統の獅子頭が見られるとの意見もありますますので、鹿踊りとの関連で考えて良いのではと判断しています。(2)

 山形県も「獅子踊り」が各地で盛んですが、「鹿踊り」との関係はどれも微妙です。まして鹿島神社と明確に関係しているのは、この1社だけです。

 6の「鹿嶋太神宮」は、『温海町史』の索引から偶然見つけたものです。神社の項には出ていなくて、「第6章余録」の「8 鹿島太神宮神主佐藤常陸正の家宅改築」にあったものです。神主佐藤常陸正の屋敷を寛政期に改築した記事があり、図面があって、「この家には神殿が上座敷の奥に造られている」とあります。「昔は大岩川・槙代をはじめ広い信仰圏をもつ神社であった」とあって、この改築の職人や人夫はほとんど氏子・信者の手伝いや寄進によって行われています。大正5年に大坂神社に合祀され、屋敷も昭和42年に改築されたとあります。(3)

家の中に神殿があるというもので、単なる個人の屋敷神ではなく近世まではかなり大きな神社であったらしいのですが、『明細帳』や『神社誌』には出てこなかったものです。これは合祀によって、今では表面上分からなくなっている典型的なケースです。

以上が、私が見た『明細帳』では確認できなかったものです。他は、当然いろいろ資料を見ましたが、基本的に『明細帳』から採ったものです。

問題は、国立歴史民俗博物館の一覧表との差は何なのかということになります。『明細帳』と『神社誌』

というおそらく同じものを見たはずと思っていましたが、歴博一覧表が12社、上の表が26社。「鹿島」を名乗る神社だけに限っても、上表は18社。摂社・末社に関しても歴博一覧表でも2社挙げていますから、そういう差ではなさそうです。どうやら『明細帳』そのものが違うのか、小社の拾い方に差が出たものなのか。すでに私は何県かの『明細帳』を調査していますので、いずれの県においても私の見たものとはかなり差があることがわかってきました。

次ぎに、名称が違っていたり、祭神に説明が必要な神社について、若干コメントしておきます。

 3の「新山神社」は、現在は「春日神社」です。黒川能で有名な神社です。祭神は「健御賀豆智命、伊波比主命、天津児屋根命、比賣神」で、いわゆる春日4神です。「健御賀豆智命」は「武甕槌命」、「伊波比主命」は香取神のことですから問題ありません。

しかし、時代をさかのぼると、ここは近世前半では「新山明神」、中頃には「四所大明神」、文化10年(1813)から「春日大明神」となっていて、正式には明治に入って現社名にしたとあります。そこで、ここでは最も古い時期の「新山神社」を採りました。

『風土略記』も「四所大明神 黒川村にあり。祭神詳ならず。一説に新山権現ともいふ。・・・」とあります。(4)

 4の「深山神社」も「新山神社」の可能性があります。祭神は「武甕槌命」以外は共通していません。それでは「新山神社」とは何ものかですが、今のところ私は男鹿の「真山神社」の関係を疑っています。

 5は「鹿島神社」ですが、祭神は「武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売命」の春日4神です。そこで私の判断として「春日4神」と書きました。戦前の神社の格付けでは何もない神社、「無格社」という小社の古四王神社と川内神社と境内を同じくする神社です。末社と書くものもありますが、『明細帳』の表記で「境内神社」としました。

 「春日神社」は、奈良の春日大社が中心の摂関政治で有名な藤原氏の氏神ですが、第一殿に鹿島の武甕槌命・第二殿に香取の斎主命(経津主命)・第三殿に枚岡神社の天児屋根命・第四殿に比売神を祀り「春日祭神四座」としています。

したがって、「鹿島神社」や「香取神社」を藤原氏が自己の祖神に取り込んでしまったものですから、「鹿島」「香取」のバリエイションのひとつと考えて良い神社と思います。それだけに地方の神社では、「鹿島」「香取」と少なからず混乱があるように思われます。3と5の例は、まさにそれに当たっているものです。私は、神社名と「春日4神(3神の場合もあります)」、特に「天児屋根命」を含んだ祭神であるときには「春日神社」と判断し、この一覧表には入れていません。しかし、なおこの問題は慎重に判断していこうと思っています。

そもそも藤原氏はなぜ東国の「鹿島」「香取」を祖神に取り込んだのか、これは「鹿島神社」「香取神社」の本質に関わる大問題ですから、そう簡単な問題ではありません。藤原鎌足の常陸国鹿島生誕説もありますので、やはり全国を見渡した上で結論を出そうと思っています。

ただこの段階では、すでにいくつか「鹿島神社」の方が本来の姿だった「春日神社」を見つけて検討していることだけは報告しておきます。

10は、現在は寒河江市西根字家浦の「鹿島月山両所神社」となって合祀されています。『明細帳』も同様です。しかし、『神社誌』に「鹿島明神は元、字下河原に鎮座」とありましたので、元の状態を記しました。

なお、歴博一覧表には歴博番号67の「鹿島月山両所神社」がもう一つ出ています。西村山郡河北町谷地の旧村社です。こちらは『神社誌』『明細帳』で「鹿島月山両所神社」を確認できず、「月山神社」がありますのでそれの間違いかも知れないと考え、上の表には入れませんでした。谷地地域は後にふれます慈恩寺との関係がありますので、「鹿島」があってもおかしくないと思っていますが、確認できない以上はやむを得ません。

16の「五所神社」は、『神社誌』では祭神「別雷命」で、『明細帳』は「武甕槌命」になっていました。全11神ですので合祀記録をみましたが、単独の「鹿島神社」は確認できませんでした。

18の「香島神社」はめずらしく「香島」表記の神社です。地名のところで、この表記については検討し、見解を示しました。(5)

元は『常陸国風土記』の表記で、「香島」から「鹿島」に代わったとする説があります。しかし地名でも神社でも、実際には全国的にこの表記はあまり見られません。この神社がなぜこの表記になっているかはわかりませんが、神社では特に珍しいものと思われます。

23は、旧村社大社神社の合祀記録中にあったものです。このようにして元の神社が分かってくることがかなりあります。 

地名では、山形県は12地名、8か所でした。神社26社の内、地名と重なったのは、2の北俣字鹿島山と9の八鍬字鹿島と22の蛇口字鹿島南の3か所のみで、やはり変だという印象です。神社が消えて、地名だけが残った可能性があります。新しく地名が見つかったものは八鍬の鹿島神社に関したものだけです。(6)

 神社26社を旧郡域でみてみると、飽海郡2、最上郡1、村山郡4、置賜郡13、田川郡4となります。

置賜郡が多いのですが、他がもう少しあっても良いのではと思っています。

全体を通して、私が特に注目したいのは、9の寒河江市大字八鍬字鹿島の「鹿島神社」です。

『新版 山形県大百科事典』も、「鹿島」の項はこの「鹿島神社」だけです。そして、この由緒の説明はなかなか興味深いものがあります。

「社伝によると、1234年(文暦元)大江氏の家臣稲沢新助郎信政が常陸国鹿島神宮から分霊を勧請した。稲沢氏は代々祭祀をつかさどり・・・・」とし、「慶安年間(1648~51)慈恩寺に併せられ、明治維新に至って社地を返上した。」と、慈恩寺との関係を近世のこととしているようです。そうしながら、「古来から一村の鎮守として、崇敬はことに厚い。由緒には文暦元年創立とあるが、現存する尊体からみると、それ以前の創立のように思われ、本地仏の仏体年代は約1,200年前のものと推察される。」(7)と社伝を覆す事実も指摘しています。実は慈恩寺との関係ももっと古いはずです。これは実はほぼ『神社誌』の記述と同じです。

『山形県の地名』では、

「近世末までは慈恩寺末社4社の一で、別当は慈恩寺最上院支配鹿島院、祝詞役は慈恩寺華蔵院支配長学院が勤めた。安政4年(1857)鹿島院が最上院に提出した覚(最上院文書)によると、当社は長和元年(1012)に建立、文暦元年(1234)に再建されたという。鹿島明神由緒(社蔵文書)はその後の経緯を、寒河江庄地頭大江親広の時代、家臣稲沢新助郎信政が当社を守護して再建、・・・」としています。(8)

ここで言う安政4年の覚「鹿島宮に関する覚」は、

「一、長和元壬子年 鹿島宮 壱宇建立 行基菩薩

一、文暦元甲午年 同社  再建   当院則武代

・・・」(9)

とあります。

つまり、近世末の鹿島神社別当鹿島院の伝承では、長和元(1012)年に行基菩薩によって鹿島宮が建立されたというのです。行基は天平21(749)年に死去していますからあり得ない話で、荒唐無稽なものとして削除したのでしょう。しかし、本地仏が「約1,200年前」というなら800年頃になりますから、荒唐無稽とは一概に言えなくなります。少なくとも行基の弟子達の誰かを考えても良いはずです。『山形県の地名』は「長和元壬子年」の方を採っていますが、行基伝承の方をとってもおかしくないでしょう。

慈恩寺は、神亀元(724)年行基が開山、天平18(746)年婆羅門僧正が建立開基したとしています。山形県には行基の開創伝承を持つ寺院が18か寺もある(10)ということですから、行基の継承者達の活動を想定したらあながち荒唐無稽な話ともいえません。

慈恩寺の本尊は弥勒菩薩、鎮守は八幡大神。その後、平安時代の後半藤原基衡による再興の時は白山権現が鎮守となり、さらに後文治元年の整備の際には熊野権現を鎮守にしたとあります。本尊弥勒菩薩は、慈恩寺というお寺の形より前の可能性があり、お寺の鎮守は三転しています。(11)

平安後期には平泉の平泉寺と並ぶ大きな寺であり、近世には村山郡18か村に朱印地2,812石を所持する東北第一の格式の高い寺院ということです。(12)

この慈恩寺には、寺内にもいくつもの神社が置かれていますが、「鹿島神社」は寺外にあって大きな末社4社の一つに位置づけられていました。

そして、この慈恩寺の本尊弥勒菩薩を支える弥勒蔵方直轄の「弥勒田」のあるところが八鍬村でした。

その八鍬村の鎮守が、この「鹿島神社」です。しかも単なる村鎮守ではなく、弥勒蔵方直属の社でもありました。弥勒と鹿島神社と八鍬村が直結しています。

この蔵方の司が寺司ですが、この寺司も弥勒菩薩が秘仏のため、「一山惣持」の宮殿の門扉のカギを、「元来本尊へ格別の由緒があり、往古より右鍵預り来り候につき」「古来の通り鍵役料として・・・高7石余配当頂戴仕り・・・」(13)と言われている特別な存在です。どうやら慈恩寺の僧侶より古い由緒がうかがえるように思えます。

慈恩寺は、天台宗と真言宗が一体となり慈恩宗をなし、天台宗の最上院と真言宗の宝蔵院・華蔵院の3か院が一山の支配をしていたということです。後に、禅宗が入った時期もあるということもあり、最上院の配下には時宗の寺2寺が属してもいます。

そうすると、まず弥勒信仰があり、後に寺が入り込んだのではないかとも思われ、長野の善光寺が天台宗と浄土宗に管理されている状態に似ているのではないかと思われます。

この鹿島神社の特別な位置づけとしては、慈恩寺の山内の年間行事の中に毎年9月9日弥勒内陣において「鹿島講(鹿島祭)」が行われ、その祈祷料物を八鍬村が担っていることがあげられます。普段は、華蔵院配下の真言修験の同村長学院が「鹿島神社」の祝詞を執行し、最上院配下の天台修験の同村鹿島院が日々の献供、清掃等を執り行っていたとあります。その費用等も蔵方から出されていました。

 これは近世末の「鹿島林」伐採の事件の文書に書かれていることです。「鹿島林」も「一山惣持」と確認されていますが、このことは「鹿島神社」自体が単なる末社ではなく、本尊弥勒菩薩の直属の社、鎮守であったことを示しているのではと思われます。(14)

 弥勒信仰と「鹿島神社」の結びつきはいくつか各地にあることが分かっていますが、何と言っても、常陸国鹿島神宮の周辺の「鹿島踊り」「弥勒踊り」を思い起こします。柳田国男の「みろくの船」で有名な話です。寺院の本尊弥勒菩薩と民衆のみろく信仰ではレベルが違うと言われそうですが、どうでしょうか。

 慈恩寺では、この本尊弥勒菩薩の前で舞楽が演じられてきました。林家舞楽ですが、その由緒によると、「摂津国四天王寺の楽人で林越前政照という人がむ、貞観2年(860)、慈覚大師円仁に従って山寺立石寺に来住し、舞部として舞楽をつかさどってきたという。それがいつのころからか寒河江慈恩寺に移り、やがて谷地に移住したと伝える。」とあります。(15)

林家舞楽が、山寺立石寺から移ってきたことにここでは注目しておきたいと思います。また、慈恩寺には中世の「舞童帳」が残っていて有名です。もっと興味深いのは、林家舞楽の「それ以前は4月7・8日の両日、太夫職であった鹿嶋院が神楽(獅子舞)を奉納したと推察される。」と言われ、「鹿嶋神楽は、江戸時代中期に飢饉をはらうために始まったと伝えられ、毎年4月17日の鹿島祭りに各戸を回って獅子による悪魔払いをする。」と述べられています。(16) そして、寒河江のシシ踊りが同じような由緒を伝えています。

 先にもふれましたが、山形県でも「シシ踊り」が各地で盛んに踊られています。

インターネットに「山形シシ踊りネットワーク事務局」による「山形のシシ踊り」の紹介があります。それによると、庄内地域は鶴岡市・酒田市・庄内町の17団体、村山・最上地域は山形市・天童市・中山町・寒河江市・朝日町・大江町・東根市・村山市・新庄市の17団体、置賜地域は米沢市・長井市・川西町・飯豊町・小国町の9団体が紹介されています。

これらはイノシシ(猪)、カノシシ(鹿)、アオジシ(羚羊)のシシの踊りとされ、特に鹿とのつながりだけではないものが多いようです。大まかに置賜地域は3頭立て、庄内、村上などは5~7頭立てで踊られていて、その他の囃子手などは地域によって人数が違います。

 山形市の鹿楽招旭踊(からおぎあさひおどり)は、

「シシの目は吊り上がって鼻は猪のようにやや前に突き出る形状を示していますが、このようなカシラは、旧暦7月7日に山寺に奉納踊りを行ってきた村山地方の多くの山寺系シシ踊りにほぼ共通しています。この系統のシシ踊りは、いずれも山寺からいただいた木製の斧を背中に持っているのが特徴です。」といっています。

この地域は、山寺立石寺において江戸時代から旧暦7月7日の磐司際に、死者の鎮魂供養の奉納踊りを行ってきたということで、明治以降では20数団体もが集まっていたとのことです。

 旧藤島町と旧余目町周辺も「獅子郷」といわれていたということですが、インターネットに「藤島の獅子踊り」が出ていました。団体は同じものがあり、合併前のホームページと思われます。

 「藤島は昔から獅子郷といわれ、美しく勇壮な獅子踊りが数多く伝承されてきた。起源は遠く時代を遡り、室町時代の舞楽から派生したともいわれるが、遙か悠久の昔より先人達が厳しい生活の中でまつりの行事に安らぎを見出し、唄い踊り継がれて今日に至る。・・・」

 記録があまりないため、近世近代からしか分かっていないものが多く、古い由緒ははっきりとは語られていません。しかし、山寺立石寺の磐司祭といい、「室町時代の舞楽」との関係にふれながらも、さらに「遙か悠久の昔より」「唄い踊り継がれて」きた思いがあるようです。

やはり、私は岩手県・宮城県の鹿踊りとよく似ていると思います。秋田県の「ささら」も同じ範疇に入るものでしょう。鹿とははっきり言わないところが多いのですが、演目に「鹿踊り」「鹿たね」などがあったり、カシラに角があるのは鹿のイメージと思われます。

しかしながら、鹿島神社や鹿島信仰との結びつきは、ほとんどなさそうです。

 とにかくこれだけ熱心に行われているシシ踊り、かすかなつながりしか今はないのですが、全国に目配りしながらていねいに一つ一つの伝承を探っていく以外はなさそうです。

          以  上

 

 

註(1) 『常陸国風土記』は「香嶋之大神」「香島天之大神」であり、祭神タケミカヅチの登場は、大同2年の斎部広成の『古語拾遺』に「武甕槌命 是甕速日神之子、今常陸国、鹿島神是也」とあることなどで、「文献でみるかぎり、9世紀以降からの祭神名」(大和岩雄「鹿島神宮」『日本の神々』白水社)と言われています。「香島」の表記については、HP「鹿島信仰の研究」の「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」参照。祭神を「鹿島大神」とする神社はいくつかあります。

(2) 『平田町史』(昭和46年12月)「坂本獅子踊」「桜林獅子舞」

 (3) 『温海町史』(昭和53年4月)959~964頁

 (4) 桜井昭男編著『黒川村春日神社文書』(東北出版企画 1998年5月)206頁など。『出羽国風土略記』3ノ7頁。

 (5) HP「鹿島信仰の研究」の「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」参照。

 (6) HP「鹿島信仰の研究」の「表1 全国『鹿島』地名一覧」参照。八鍬では、「かしまのはらそい」(「鹿島の原沿い」か)、「鹿島林(森)」、「かしま東」、「かしまの下」、「かしまの西」などが中近世の資料から見つかっています。地名としては「鹿島」「鹿島林」の2地名としました。

 (7) 『新版山形県大百科事典』(山形放送株式会社 平成5年10月)98頁

 (8) 『山形県の地名 日本歴史地名大系6』(平凡社 1990年2月)435頁

 (9) 「安政4年閏5月 鹿島宮に関する覚」(『山形県史 資料編14』)86頁

 (10) 『山形県史 第1巻 原始・古代・中世編』(昭和57年3月)538頁

 (11) 「(年号不祥)慈恩寺縁起」(『山形県史 資料編14』)6頁など。

 (12) 北畠教爾「慈恩寺資料 解説」(『山形県史 資料編14』)1頁

 (13)  (『山形県史 資料編14』)343頁

 (14) 「万延元年12月 鹿島林一件につき済口証文」(『山形県史 資料編14』)807~810頁など。

 (15) 『図説山形県の歴史』()100頁

 (16) 『寒河江市史 中巻 近世編』(平成11年12月)1047、1053、1192頁