古社の秘密を探る

2016年

4.山形県の鹿島神社

4.山形県の鹿島神社

 

神社名

所 在 地

祭 神

備 考

出典

歴博

1

鹿 嶋神社

(酒田市保岡)字村東

鹿島大神

保安2年1121小社建立

風土記

75

2

鹿 島大明神

飽海郡北俣村

(酒田市)字鹿嶋

獅子踊り

字鹿島山とも

町史

74

3

新 山神社

東田川郡黒川村

(鶴岡市)大字黒川字宮田

健御賀豆

智命他3

旧郷社→県社 

現在は春日神社

明細帳

 

4

深 山神社

西田川郡大泉村

(鶴岡市)大字下清水字内田

A他7

旧村社

明細帳

 

5

鹿 島神社

西田川郡温海村

(鶴岡市)大字五十川字安土

春日4神

無格社古四王神社・

川内神社境内神社

明細帳

 

6

鹿 嶋太神宮

温海町(鶴岡市大岩川)

 

寛政期1789~1801に改築 

t.5年大坂神社に合併

町史

 

7

鹿 島神社

最上郡舟形村

(舟形町)大字長沢字内山

無格社

文久年間1861~1864とも

明細帳

71

8

鹿 島神社

北村山郡宮沢村

(尾花沢市)大字中島字浦山

m.6村社

寛文2年1662創建

明細帳

70

9

鹿 島神社

西村山郡高松村

(寒河江市)大字八鍬字鹿島

弥勒領(慈恩寺) 長和元年1012建立  八鍬村総鎮守

明細帳

69

10

鹿 島明神

西村山郡西根村

(寒河江市)字下河原

現鹿島月山両所神社

神社誌

68

11

鹿 嶋神社

東村山郡(山形市鈴川町)

大字印役字東浦

印鑰神明宮摂社

明細帳

64

12

鹿 嶋神社

東村山郡鈴川村(山形市

和合町)大字上山部字和合

無格社 

正徳2年1712創立

明細帳

 

13

鹿 島神社

南村山郡中川村(上山市)

大字高野字峠

無格社 石祠

明細帳

66

14

鹿 島神社

南村山郡西郷村

(上山市)大字藤吾字上ノ代

元文2年1737創立 

m.12年村社

明細帳

65

15

鹿 島神社

西置賜郡蚕桑村

(白鷹町)大字高玉字明神堂

無格社

天明4年1784再建

明細帳

 

16

五 所神社

西置賜郡西根村

(長井市)大字寺泉字明神廻

A他10

寛治4年1090創立

明細帳

 

17

鹿 島神社

東置賜郡宮内町

(南陽市宮内町)字坂町 

旧県社熊野神社境内神社

明細帳

73

18

香 島神社

西置賜郡豊原村

(飯豊町)大字黒沢字九反田

無格社

明細帳

 

19

浮 島神社

東置賜郡中郡村(川西町)

大字時田字浮島

A他1

大同2年807創建 

m.5年村社

明細帳

 

20

鹿 島神社

南置賜郡玉庭村(川西町)

大字玉庭字天神林

無格社 

m.42年松尾神社に合併

明細帳

 

21

二ノ宮神社

西置賜郡津川村(小国町)

大字大石沢字萩原

BA

無格社

明細帳

 

22

鹿 島神社

東置賜郡糖野目村(高畠町)

大字蛇口字鹿島南

応永年間1394~1428創立

 m.5年村社

明細帳

72

23

鹿 島神社

東置賜郡二井宿村(高畠町

二井宿)字宿

 

無格社 

t.5大社神社に合祀

明細帳

 

24

熊 野神社

東置賜郡亀岡村(高畠町)

大字入生田字十徳

A他5

 

明細帳

 

25

高 房神社

東置賜郡和田村(高畠町)

元和田字洞山

AB

旧郷社 

往古奥山高房沢に鎮座

明細帳

 

26

高 房神社

東置賜郡和田村(高畠町)

大字上和田字窪

AB

無格社 

奥山高房沢から分霊遷宮

明細帳

 

 

*表の説明

「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在の地名」を記した。

 「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、「経津主命」を「B」とし、それ以外の鹿島の神の表記はそのまま記し、その他の神は「他1」のように記した。空白は「祭神名」が確認できなかったもの。

 「出典」は、ここでは『明細帳』が基本になっている。

『明細帳』は、国文学研究資料館所蔵の『山形県神社明細帳』(明治13年作成)である。

『風土記』は、『出羽国風土記』(荒井太四郎著 明治17年) 昭和52年5月歴史図書社の復刻版。

『町史』は、『平田町史』(昭和41年12月)、『温海町史 上巻』(昭和53年4月)

『神社誌』は、『山形県神社誌』(山形県神社庁 2000年4月)

 なお「備考」は、「出典」だけではなく、『山形県史』・『図説 山形県の歴史』(河出書房新社)・『山形県の歴史』(山川書店)、『平田町史』・『温海町史』など市町村史、『角川日本地名大辞典 6 山形県』・『山形県の地名 日本歴史地名大系』などを参照し、特に注目すべき点を記した。建立・創立などは社伝による。

 「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号で、山形県の鹿島神社は12社であったが、1社は別な神社の間違いと思われたので外し、11社となった。

 

 

山形県の鹿島神社の問題

山形県の「鹿島神社」は、表に示したように26社でした。

 山形県については、国文学研究資料館に『山形県神社明細帳』(以下『明細帳』と略す)がほぼそろっていましたので、これから採用したものが基本になっています。あわせて『山形県神社誌』も参照しましたので、地理的には全県をバランス良く見たと思います。ただ『明細帳』は、酒田市はありましたが、飽海郡がなかったので少しぬけているかもしれません。

また、今までと違って近現代の資料をベースにしましたので、これから近世以前の小祠がどのくらい拾えたか、多少疑問が残っています。

 表は、「鹿島」を名乗る神社だけでなく、「武甕槌命(健御賀豆智命)」を祭神とする神社も載せています。「武甕槌命」を祭神としていることをもって「鹿島神社」の範疇に入れて良いかどうかも問題でしょうが、そのことは全国を見渡せる段階でまた考えていこうと思っています。当面「鹿島神社」≒「武甕槌命」で調べていくことにします。

 まず『明細帳』がなかったものについて、若干のコメントをしておきます。

 1に関しては、『出羽国風土記』で確認しました。祭神は冒頭に「武甕槌命なり」とあるのですが、以下の文中では「鹿島大神を勧請す」などと記していますので、こちらを祭神としてはとりました。私は、「武甕槌命」よりは「鹿島大神」の方が本来の神名と考えていますので、確認できる時はこちらの神名を採用しています。(1)

 2は、『平田町史』『角川日本地名大辞典 6山形県』『日本歴史地名大系 山形県の地名』などで確認したものです。

ここは、地名「鹿嶋」「鹿島山」に対応しています。そして、天平11年(739)創建とか、大同2年(807)坂上田村麻呂創建とか言われる新井山(新山)毘沙門堂の末社とも、愛沢大権現末社ともあって、この関係がいささかわかりにくいのですが、古代にさかのぼりそうな神社と思われます。

しかも「備考」にあるように、この神社で「獅子踊り」が行われています。ただインターネットの「山形のシシ踊り」の説明文によると、ここの「獅子踊り」はシシ6頭ですが、「シシは猪と考えられており」といっていて、鹿ではないと説明しています。もっとも旧平田町域の別な地域の「獅子踊り」では、「鹿をかたどったもの」というのもあり、唄の中に「鹿島しや 鹿島林の口輪虫」という歌詞を持つものもありますし、岩手県と同系統の獅子頭が見られるとの意見もありますますので、鹿踊りとの関連で考えて良いのではと判断しています。(2)

 山形県も「獅子踊り」が各地で盛んですが、「鹿踊り」との関係はどれも微妙です。まして鹿島神社と明確に関係しているのは、この1社だけです。

 6の「鹿嶋太神宮」は、『温海町史』の索引から偶然見つけたものです。神社の項には出ていなくて、「第6章余録」の「8 鹿島太神宮神主佐藤常陸正の家宅改築」にあったものです。神主佐藤常陸正の屋敷を寛政期に改築した記事があり、図面があって、「この家には神殿が上座敷の奥に造られている」とあります。「昔は大岩川・槙代をはじめ広い信仰圏をもつ神社であった」とあって、この改築の職人や人夫はほとんど氏子・信者の手伝いや寄進によって行われています。大正5年に大坂神社に合祀され、屋敷も昭和42年に改築されたとあります。(3)

家の中に神殿があるというもので、単なる個人の屋敷神ではなく近世まではかなり大きな神社であったらしいのですが、『明細帳』や『神社誌』には出てこなかったものです。これは合祀によって、今では表面上分からなくなっている典型的なケースです。

以上が、私が見た『明細帳』では確認できなかったものです。他は、当然いろいろ資料を見ましたが、基本的に『明細帳』から採ったものです。

問題は、国立歴史民俗博物館の一覧表との差は何なのかということになります。『明細帳』と『神社誌』

というおそらく同じものを見たはずと思っていましたが、歴博一覧表が12社、上の表が26社。「鹿島」を名乗る神社だけに限っても、上表は18社。摂社・末社に関しても歴博一覧表でも2社挙げていますから、そういう差ではなさそうです。どうやら『明細帳』そのものが違うのか、小社の拾い方に差が出たものなのか。すでに私は何県かの『明細帳』を調査していますので、いずれの県においても私の見たものとはかなり差があることがわかってきました。

次ぎに、名称が違っていたり、祭神に説明が必要な神社について、若干コメントしておきます。

 3の「新山神社」は、現在は「春日神社」です。黒川能で有名な神社です。祭神は「健御賀豆智命、伊波比主命、天津児屋根命、比賣神」で、いわゆる春日4神です。「健御賀豆智命」は「武甕槌命」、「伊波比主命」は香取神のことですから問題ありません。

しかし、時代をさかのぼると、ここは近世前半では「新山明神」、中頃には「四所大明神」、文化10年(1813)から「春日大明神」となっていて、正式には明治に入って現社名にしたとあります。そこで、ここでは最も古い時期の「新山神社」を採りました。

『風土略記』も「四所大明神 黒川村にあり。祭神詳ならず。一説に新山権現ともいふ。・・・」とあります。(4)

 4の「深山神社」も「新山神社」の可能性があります。祭神は「武甕槌命」以外は共通していません。それでは「新山神社」とは何ものかですが、今のところ私は男鹿の「真山神社」の関係を疑っています。

 5は「鹿島神社」ですが、祭神は「武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売命」の春日4神です。そこで私の判断として「春日4神」と書きました。戦前の神社の格付けでは何もない神社、「無格社」という小社の古四王神社と川内神社と境内を同じくする神社です。末社と書くものもありますが、『明細帳』の表記で「境内神社」としました。

 「春日神社」は、奈良の春日大社が中心の摂関政治で有名な藤原氏の氏神ですが、第一殿に鹿島の武甕槌命・第二殿に香取の斎主命(経津主命)・第三殿に枚岡神社の天児屋根命・第四殿に比売神を祀り「春日祭神四座」としています。

したがって、「鹿島神社」や「香取神社」を藤原氏が自己の祖神に取り込んでしまったものですから、「鹿島」「香取」のバリエイションのひとつと考えて良い神社と思います。それだけに地方の神社では、「鹿島」「香取」と少なからず混乱があるように思われます。3と5の例は、まさにそれに当たっているものです。私は、神社名と「春日4神(3神の場合もあります)」、特に「天児屋根命」を含んだ祭神であるときには「春日神社」と判断し、この一覧表には入れていません。しかし、なおこの問題は慎重に判断していこうと思っています。

そもそも藤原氏はなぜ東国の「鹿島」「香取」を祖神に取り込んだのか、これは「鹿島神社」「香取神社」の本質に関わる大問題ですから、そう簡単な問題ではありません。藤原鎌足の常陸国鹿島生誕説もありますので、やはり全国を見渡した上で結論を出そうと思っています。

ただこの段階では、すでにいくつか「鹿島神社」の方が本来の姿だった「春日神社」を見つけて検討していることだけは報告しておきます。

10は、現在は寒河江市西根字家浦の「鹿島月山両所神社」となって合祀されています。『明細帳』も同様です。しかし、『神社誌』に「鹿島明神は元、字下河原に鎮座」とありましたので、元の状態を記しました。

なお、歴博一覧表には歴博番号67の「鹿島月山両所神社」がもう一つ出ています。西村山郡河北町谷地の旧村社です。こちらは『神社誌』『明細帳』で「鹿島月山両所神社」を確認できず、「月山神社」がありますのでそれの間違いかも知れないと考え、上の表には入れませんでした。谷地地域は後にふれます慈恩寺との関係がありますので、「鹿島」があってもおかしくないと思っていますが、確認できない以上はやむを得ません。

16の「五所神社」は、『神社誌』では祭神「別雷命」で、『明細帳』は「武甕槌命」になっていました。全11神ですので合祀記録をみましたが、単独の「鹿島神社」は確認できませんでした。

18の「香島神社」はめずらしく「香島」表記の神社です。地名のところで、この表記については検討し、見解を示しました。(5)

元は『常陸国風土記』の表記で、「香島」から「鹿島」に代わったとする説があります。しかし地名でも神社でも、実際には全国的にこの表記はあまり見られません。この神社がなぜこの表記になっているかはわかりませんが、神社では特に珍しいものと思われます。

23は、旧村社大社神社の合祀記録中にあったものです。このようにして元の神社が分かってくることがかなりあります。 

地名では、山形県は12地名、8か所でした。神社26社の内、地名と重なったのは、2の北俣字鹿島山と9の八鍬字鹿島と22の蛇口字鹿島南の3か所のみで、やはり変だという印象です。神社が消えて、地名だけが残った可能性があります。新しく地名が見つかったものは八鍬の鹿島神社に関したものだけです。(6)

 神社26社を旧郡域でみてみると、飽海郡2、最上郡1、村山郡4、置賜郡13、田川郡4となります。

置賜郡が多いのですが、他がもう少しあっても良いのではと思っています。

全体を通して、私が特に注目したいのは、9の寒河江市大字八鍬字鹿島の「鹿島神社」です。

『新版 山形県大百科事典』も、「鹿島」の項はこの「鹿島神社」だけです。そして、この由緒の説明はなかなか興味深いものがあります。

「社伝によると、1234年(文暦元)大江氏の家臣稲沢新助郎信政が常陸国鹿島神宮から分霊を勧請した。稲沢氏は代々祭祀をつかさどり・・・・」とし、「慶安年間(1648~51)慈恩寺に併せられ、明治維新に至って社地を返上した。」と、慈恩寺との関係を近世のこととしているようです。そうしながら、「古来から一村の鎮守として、崇敬はことに厚い。由緒には文暦元年創立とあるが、現存する尊体からみると、それ以前の創立のように思われ、本地仏の仏体年代は約1,200年前のものと推察される。」(7)と社伝を覆す事実も指摘しています。実は慈恩寺との関係ももっと古いはずです。これは実はほぼ『神社誌』の記述と同じです。

『山形県の地名』では、

「近世末までは慈恩寺末社4社の一で、別当は慈恩寺最上院支配鹿島院、祝詞役は慈恩寺華蔵院支配長学院が勤めた。安政4年(1857)鹿島院が最上院に提出した覚(最上院文書)によると、当社は長和元年(1012)に建立、文暦元年(1234)に再建されたという。鹿島明神由緒(社蔵文書)はその後の経緯を、寒河江庄地頭大江親広の時代、家臣稲沢新助郎信政が当社を守護して再建、・・・」としています。(8)

ここで言う安政4年の覚「鹿島宮に関する覚」は、

「一、長和元壬子年 鹿島宮 壱宇建立 行基菩薩

一、文暦元甲午年 同社  再建   当院則武代

・・・」(9)

とあります。

つまり、近世末の鹿島神社別当鹿島院の伝承では、長和元(1012)年に行基菩薩によって鹿島宮が建立されたというのです。行基は天平21(749)年に死去していますからあり得ない話で、荒唐無稽なものとして削除したのでしょう。しかし、本地仏が「約1,200年前」というなら800年頃になりますから、荒唐無稽とは一概に言えなくなります。少なくとも行基の弟子達の誰かを考えても良いはずです。『山形県の地名』は「長和元壬子年」の方を採っていますが、行基伝承の方をとってもおかしくないでしょう。

慈恩寺は、神亀元(724)年行基が開山、天平18(746)年婆羅門僧正が建立開基したとしています。山形県には行基の開創伝承を持つ寺院が18か寺もある(10)ということですから、行基の継承者達の活動を想定したらあながち荒唐無稽な話ともいえません。

慈恩寺の本尊は弥勒菩薩、鎮守は八幡大神。その後、平安時代の後半藤原基衡による再興の時は白山権現が鎮守となり、さらに後文治元年の整備の際には熊野権現を鎮守にしたとあります。本尊弥勒菩薩は、慈恩寺というお寺の形より前の可能性があり、お寺の鎮守は三転しています。(11)

平安後期には平泉の平泉寺と並ぶ大きな寺であり、近世には村山郡18か村に朱印地2,812石を所持する東北第一の格式の高い寺院ということです。(12)

この慈恩寺には、寺内にもいくつもの神社が置かれていますが、「鹿島神社」は寺外にあって大きな末社4社の一つに位置づけられていました。

そして、この慈恩寺の本尊弥勒菩薩を支える弥勒蔵方直轄の「弥勒田」のあるところが八鍬村でした。

その八鍬村の鎮守が、この「鹿島神社」です。しかも単なる村鎮守ではなく、弥勒蔵方直属の社でもありました。弥勒と鹿島神社と八鍬村が直結しています。

この蔵方の司が寺司ですが、この寺司も弥勒菩薩が秘仏のため、「一山惣持」の宮殿の門扉のカギを、「元来本尊へ格別の由緒があり、往古より右鍵預り来り候につき」「古来の通り鍵役料として・・・高7石余配当頂戴仕り・・・」(13)と言われている特別な存在です。どうやら慈恩寺の僧侶より古い由緒がうかがえるように思えます。

慈恩寺は、天台宗と真言宗が一体となり慈恩宗をなし、天台宗の最上院と真言宗の宝蔵院・華蔵院の3か院が一山の支配をしていたということです。後に、禅宗が入った時期もあるということもあり、最上院の配下には時宗の寺2寺が属してもいます。

そうすると、まず弥勒信仰があり、後に寺が入り込んだのではないかとも思われ、長野の善光寺が天台宗と浄土宗に管理されている状態に似ているのではないかと思われます。

この鹿島神社の特別な位置づけとしては、慈恩寺の山内の年間行事の中に毎年9月9日弥勒内陣において「鹿島講(鹿島祭)」が行われ、その祈祷料物を八鍬村が担っていることがあげられます。普段は、華蔵院配下の真言修験の同村長学院が「鹿島神社」の祝詞を執行し、最上院配下の天台修験の同村鹿島院が日々の献供、清掃等を執り行っていたとあります。その費用等も蔵方から出されていました。

 これは近世末の「鹿島林」伐採の事件の文書に書かれていることです。「鹿島林」も「一山惣持」と確認されていますが、このことは「鹿島神社」自体が単なる末社ではなく、本尊弥勒菩薩の直属の社、鎮守であったことを示しているのではと思われます。(14)

 弥勒信仰と「鹿島神社」の結びつきはいくつか各地にあることが分かっていますが、何と言っても、常陸国鹿島神宮の周辺の「鹿島踊り」「弥勒踊り」を思い起こします。柳田国男の「みろくの船」で有名な話です。寺院の本尊弥勒菩薩と民衆のみろく信仰ではレベルが違うと言われそうですが、どうでしょうか。

 慈恩寺では、この本尊弥勒菩薩の前で舞楽が演じられてきました。林家舞楽ですが、その由緒によると、「摂津国四天王寺の楽人で林越前政照という人がむ、貞観2年(860)、慈覚大師円仁に従って山寺立石寺に来住し、舞部として舞楽をつかさどってきたという。それがいつのころからか寒河江慈恩寺に移り、やがて谷地に移住したと伝える。」とあります。(15)

林家舞楽が、山寺立石寺から移ってきたことにここでは注目しておきたいと思います。また、慈恩寺には中世の「舞童帳」が残っていて有名です。もっと興味深いのは、林家舞楽の「それ以前は4月7・8日の両日、太夫職であった鹿嶋院が神楽(獅子舞)を奉納したと推察される。」と言われ、「鹿嶋神楽は、江戸時代中期に飢饉をはらうために始まったと伝えられ、毎年4月17日の鹿島祭りに各戸を回って獅子による悪魔払いをする。」と述べられています。(16) そして、寒河江のシシ踊りが同じような由緒を伝えています。

 先にもふれましたが、山形県でも「シシ踊り」が各地で盛んに踊られています。

インターネットに「山形シシ踊りネットワーク事務局」による「山形のシシ踊り」の紹介があります。それによると、庄内地域は鶴岡市・酒田市・庄内町の17団体、村山・最上地域は山形市・天童市・中山町・寒河江市・朝日町・大江町・東根市・村山市・新庄市の17団体、置賜地域は米沢市・長井市・川西町・飯豊町・小国町の9団体が紹介されています。

これらはイノシシ(猪)、カノシシ(鹿)、アオジシ(羚羊)のシシの踊りとされ、特に鹿とのつながりだけではないものが多いようです。大まかに置賜地域は3頭立て、庄内、村上などは5~7頭立てで踊られていて、その他の囃子手などは地域によって人数が違います。

 山形市の鹿楽招旭踊(からおぎあさひおどり)は、

「シシの目は吊り上がって鼻は猪のようにやや前に突き出る形状を示していますが、このようなカシラは、旧暦7月7日に山寺に奉納踊りを行ってきた村山地方の多くの山寺系シシ踊りにほぼ共通しています。この系統のシシ踊りは、いずれも山寺からいただいた木製の斧を背中に持っているのが特徴です。」といっています。

この地域は、山寺立石寺において江戸時代から旧暦7月7日の磐司際に、死者の鎮魂供養の奉納踊りを行ってきたということで、明治以降では20数団体もが集まっていたとのことです。

 旧藤島町と旧余目町周辺も「獅子郷」といわれていたということですが、インターネットに「藤島の獅子踊り」が出ていました。団体は同じものがあり、合併前のホームページと思われます。

 「藤島は昔から獅子郷といわれ、美しく勇壮な獅子踊りが数多く伝承されてきた。起源は遠く時代を遡り、室町時代の舞楽から派生したともいわれるが、遙か悠久の昔より先人達が厳しい生活の中でまつりの行事に安らぎを見出し、唄い踊り継がれて今日に至る。・・・」

 記録があまりないため、近世近代からしか分かっていないものが多く、古い由緒ははっきりとは語られていません。しかし、山寺立石寺の磐司祭といい、「室町時代の舞楽」との関係にふれながらも、さらに「遙か悠久の昔より」「唄い踊り継がれて」きた思いがあるようです。

やはり、私は岩手県・宮城県の鹿踊りとよく似ていると思います。秋田県の「ささら」も同じ範疇に入るものでしょう。鹿とははっきり言わないところが多いのですが、演目に「鹿踊り」「鹿たね」などがあったり、カシラに角があるのは鹿のイメージと思われます。

しかしながら、鹿島神社や鹿島信仰との結びつきは、ほとんどなさそうです。

 とにかくこれだけ熱心に行われているシシ踊り、かすかなつながりしか今はないのですが、全国に目配りしながらていねいに一つ一つの伝承を探っていく以外はなさそうです。

          以  上

 

 

註(1) 『常陸国風土記』は「香嶋之大神」「香島天之大神」であり、祭神タケミカヅチの登場は、大同2年の斎部広成の『古語拾遺』に「武甕槌命 是甕速日神之子、今常陸国、鹿島神是也」とあることなどで、「文献でみるかぎり、9世紀以降からの祭神名」(大和岩雄「鹿島神宮」『日本の神々』白水社)と言われています。「香島」の表記については、HP「鹿島信仰の研究」の「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」参照。祭神を「鹿島大神」とする神社はいくつかあります。

(2) 『平田町史』(昭和46年12月)「坂本獅子踊」「桜林獅子舞」

 (3) 『温海町史』(昭和53年4月)959~964頁

 (4) 桜井昭男編著『黒川村春日神社文書』(東北出版企画 1998年5月)206頁など。『出羽国風土略記』3ノ7頁。

 (5) HP「鹿島信仰の研究」の「全国『鹿島』地名の表記(用字)について」参照。

 (6) HP「鹿島信仰の研究」の「表1 全国『鹿島』地名一覧」参照。八鍬では、「かしまのはらそい」(「鹿島の原沿い」か)、「鹿島林(森)」、「かしま東」、「かしまの下」、「かしまの西」などが中近世の資料から見つかっています。地名としては「鹿島」「鹿島林」の2地名としました。

 (7) 『新版山形県大百科事典』(山形放送株式会社 平成5年10月)98頁

 (8) 『山形県の地名 日本歴史地名大系6』(平凡社 1990年2月)435頁

 (9) 「安政4年閏5月 鹿島宮に関する覚」(『山形県史 資料編14』)86頁

 (10) 『山形県史 第1巻 原始・古代・中世編』(昭和57年3月)538頁

 (11) 「(年号不祥)慈恩寺縁起」(『山形県史 資料編14』)6頁など。

 (12) 北畠教爾「慈恩寺資料 解説」(『山形県史 資料編14』)1頁

 (13)  (『山形県史 資料編14』)343頁

 (14) 「万延元年12月 鹿島林一件につき済口証文」(『山形県史 資料編14』)807~810頁など。

 (15) 『図説山形県の歴史』()100頁

 (16) 『寒河江市史 中巻 近世編』(平成11年12月)1047、1053、1192頁

3.秋田県の鹿島神社

  3.秋田県の鹿島神社

 

神社名

所在地

祭神

備考

出典

歴博

1

鹿島堂

能代町(能代市柳町)

    八幡神社末社

 

元禄・宝永の

地震以後に建立

能代市史

 

2

鹿島社

山本郡梅内

(能代市二ツ井町梅内)

   

秋 田

風土記

 

3

鹿 嶋

神社

北秋田郡合川町

(北秋田市)道城上堀

A他2

村鎮守

角川地名大辞典 

63

4

鹿 島

神社

北秋田郡森吉町(北秋田市)

米内沢  米内沢神社摂末

A

 

歴博

62

5

鹿 嶋

神社

南秋田郡八郎潟町

川崎前川原92

A他3

村鎮守  鹿島の森

貞和2年銘板碑  

八郎潟

町史 

61

6

鹿嶋堂

馬場野目村

(南秋田郡五城目町馬場目)

 

いせ堂同社地 

秋田郡

神社調帳 

 

7

鹿嶋堂

八田大倉村(南秋田郡井川町

八田大倉)   八幡堂末社

   

秋田郡

神社調帳

 

8

鹿島社

秋田郡下虻川村

(潟上市飯田川下虻川) 

鹿嶋ながし

秋 田

風土記 

60

9

鹿嶋堂

和田妹川村

(潟上市飯田川和田妹川)

 

伊勢堂と同社地

秋田郡

神社調帳

 

10

鹿島

大崎村

(潟上市天王大崎)

 

伊勢、諏訪に同殿

絹篩

 

11

鹿島

岩倉村

(男鹿市脇本富永 岩倉)

   

絹篩

 

12

鹿島

小浜村

(男鹿市船川港小浜)

 

社地一間一間

絹篩

 

13

真 山

神社

(男鹿市北浦真山) 字水喰沢

A他10

景行代に武内宿禰が

瓊々杵・Aの2柱勧請

男鹿半島

 

14

鹿島

畠ケ村

(男鹿市北浦入道崎)

 

神明、西宮と同社地

地区にかしま祭り

絹篩

 

15

鹿島

秋田郡雄鹿黒崎村

(男鹿市北浦西黒沢)

   

秋 田

風土記

 

16

鹿島社

秋田郡雄鹿相川村

(男鹿市北浦相川)

 

地区にかしま祭り

秋 田

風土記

 

17

鹿嶋堂

笠ケ岡村中野村分

(秋田市下新城中野)

   

秋田郡

神社調帳

 

18

鹿島社

高岡村

(秋田市金足高岡)

   

秋 田

風土記

 

19

鹿島社

岩城村

(秋田市下新城岩城)

   

秋 田

風土記 

 

20

古四王

神社

(秋田市寺内児桜1)

A他1

社伝では齶田浦神

日本の

神々

 

21

鹿島堂

秋田市寺町

(大町3丁目)東正院

 

宝永3年建立

鹿島祭が広がり

秋田市史

 

22

鹿嶋堂

秋田市川尻村(川尻総社町) 

神明・惣社大明神末社

   

秋田郡

神社調帳

 

23

鹿嶋堂

秋田市八橋村(八橋本町1丁目)

日吉八幡神社内三重殿

   

秋田市百社参詣記

 

24

鹿 島

神社

秋田市四拾間堀町

(旭南2丁目)

   

秋田市百社参詣記

 

25

鹿 島

神社

秋田市八日町(大町5丁目)

   

秋田市百社参詣記

 

26

鹿 島

神社

秋田市明田村(東通明田)

   

秋田市百社参詣記

 

27

鹿 島

神社

秋田市御舟町(楢山登町)

 

かしまさん

秋田市百社参詣記

 

28

鹿 嶋

神社

河辺郡雄和町

(秋田市雄和)椿川袖ノ沢73

 

宝暦10年創立

雄和町史

58

29

鹿 嶋

神社

河辺郡雄和町川添地区

(秋田市雄和椿川)

鹿島大神

 

雄和町史 

 

30

鹿 島

神社

河辺郡雄和町種平地区

(秋田市雄和種沢)

   

雄和町史

 

31

鹿 島

明神

仙北郡角館

(仙北市角館町細越町)

 

弥勒院に鹿島香取

 鹿島ながし

秋 田

風土記

 

32

鹿 島

大明神

津久毛沢村(大仙市協和船岡)

 賀茂大明神

 

此御神の事を鹿島大明神

と記し・・・

菅江真澄

 

33

鹿 嶋

大明神

仙北郡戸地谷村(大仙市戸地谷)

鎮守神明宮末社

   

菅江真澄

 

34

鹿 島

神社

仙北郡中仙町(大仙市清水)

賢木字上大野120

A他3

 

歴博

57

35

鹿 島

神社

(横手市平鹿町下鍋倉)

 

かしま送り

報告書

 

36

鹿 島

神社

(横手市平鹿町上吉田字吉田)

 

かしま送り

報告書

 

37

鹿 島

神社

(横手市平鹿町醍醐字深間内)

 

かしま送り

報告書

 

38

鹿 嶋

明神

平鹿郡大森邑

(横手市大森町十日町)剣花山

A他3

長暦2年勧請 下居ノ社実は地主ノ御神 鹿島流し

菅江真澄

 

39

鹿 島

大神

(横手市清水町新田)

 

石碑 かしま送り

報告書

 

40

鹿嶋

平鹿郡沼館村(横手市雄物川町

沼館)   沼館八幡宮末社

 

鹿嶋舟送り

菅江真澄

 

41

鹿 嶋

大明神

(横手市平鹿町浅舞)

   

マップル道路地図

 

42

鹿 島

神社

(由利本荘市東由利舘合)

 

大物忌神社(鹿島神社)

 鹿島送り

角川地名大辞典

 

43

鹿 島

神社

(由利本荘市東由利老方新町)

A

鹿島送り

東由利

町史

 

44

鹿 島

神社

(由利本荘市東由利湯出野)

A

元禄14年創始

鹿島送り

東由利

町史

 

45

鹿 島

神社

(由利本荘市東由利八日町)

A

 

東由利

町史

 

46

鹿 嶋

神社

(由利本荘市東由利老方)

 

明治43年御嶽神社へ合祀

東由利

町史

 

47

鹿 島

大明神

矢島町中山村(由利本荘市

矢島町立石) 十二ヶ沢

 

宝暦記

続矢島

町史

 

 

*表の説明 

「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。

「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、それ以外の鹿島の神の表記はそのままとし、その他の神名は「他1」の様に記した。空白は「祭神」が確認できていないもの。

 「出典」は、直接の出典のみ記し、他の参考文献はここには記さなかった。

『秋田風土記』は、淀川盛品著、文化12年、『新秋田叢書』より

「秋田郡神社調帳」は、年月不祥「秋田郡村々神社調帳」(『秋田県史 近世編下』)

『絹篩』は、鈴木重孝著、嘉永年間、『新秋田叢書』より

「秋田市百社参詣記」は、明治25年「秋田市近傍百社参詣順道記」(『秋田市史 第16編 民俗編』)

「菅江真澄」は、『菅江真澄全集』より『月の出羽路』『雪の出羽路』

『角川地名大辞典』は、『角川日本地名大辞典 5 秋田県』(角川書店)

「歴博」は、国立歴史民俗博物館『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」より

「男鹿半島」は、男鹿市教育委員会編『男鹿半島 その自然・歴史・民俗』(平成10年3月)

『日本の神々』は、『日本の神々 神社と聖地 12 北海道・東北』(白水社)

「報告書」は、『秋田県文化財調査報告書 第148集 秋田県の年中行事Ⅰ ぼんでんとかしま送り』

「マップル道路地図」は、昭文社『県別マップル5 秋田県道路地図』2010年3版1刷

 1番右の欄「歴博」は、上記出典「歴博」の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号で、6社しかない。

 

 

秋田県の鹿島神社の問題

 秋田県の鹿島神社は、表に示したように47社ありました。

 昨年3月にまとめた段階では、地名は「小鹿島(男鹿島)」1ヵ所のみ、神社は国立歴史民俗博物館の一覧表所載の6社のみでした。あまりない県という印象でした。

しかし一方で、秋田県には「鹿島祭」「鹿島舟」「鹿島人形」「鹿島流し」「鹿島さま」と称するお祭りがたくさんあって、鹿島信仰の痕跡はかなりあると思っていましたので、神社はもう少し出てくるだろうと思っていました。実際調べる毎に数が増えてきました。まだ出そうだという感じがあります。

 ただ、全県を見渡せる資料、『秋田県神社明細帳』や『秋田県神社名鑑』などを東京で見ることが出来なかったため、地域によっては調べ尽していないところがあります。

 国立歴史民俗博物館の一覧表では、『神社明細帳』と各都府県宗教法人名簿を適宜参照したと述べていますが、秋田県に6社しかなかったというのが不可解です。『神社明細帳』を調べていたら、かなりの数の神社が出てきたはずです。各県の『神社明細帳』は、明治の初年に作られ、昭和までの神社の合併、合祀が記されていますから、小社の動向がよく分かる史料です。私も何県か調べましたが、どの県でも国立歴史民俗博物館の一覧表とは大きなギャップが出ています。

 私の調査は、今回秋田県については、「出典」が時代も性質もかなりまちまちでした。現代の地図帳からとったものさえあります。いろいろ町史のたぐいを調べましたが、近世以前のものとは確認しきれていないものもあります。神社の統廃合は江戸時代から明治大正とかなりありますので、時代の違いで異動しているものもあると思われ、重複している可能性もあります。しかし、とりあえず、今分かった限りを一覧表にしました。それにしても、47社と6社の差がどうして起こってくるのか理解し難いものがあります。

 今まで私は、国立歴史民俗博物館の一覧表は明治以降の史料によるもので、近世以前との違いと漠然と考えていました。しかし、どうやらそうではなく、『神社明細帳』にしても宗教法人名簿にしても参照はしたものの、あまり小社や小祠を拾っていないことによるのではないかと疑うようになりました。

 『秋田大百科事典』によると、「鹿嶋神社」の項は、茨城県の鹿島神宮を「総本社格」として、香取神宮の経津主命と「二神は同一視されて」「武神」として東北に広がったことをるる述べて、「鹿島流し」は「この鹿島が語源」といい、「鹿島神社との関連で香取神宮があり、経津主命をまつるが、秋田には少ない。」と述べています。香取神社が少ないというのは良いでしょうが、一般的な鹿島信仰の説明ばかりで、かんじんの秋田県の鹿島神社のものがほとんどありません。

 このあと具体的に取り上げているのは、「河辺郡雄和町椿川袖沢」の「鹿嶋神社」1社のみで、上の表の28にあたります。現在は「秋田市雄和椿川」、秋田空港の近くです。「俗に森の山と呼ぶ所にある。1671年(寛文11)畑谷村と椿川村で境界論争のあったとき、平穏に収まるようにと勧請した神社。1873年(明治6)村社として椿川、鹿野戸、安養寺の3ヵ所で祭事を行ったが、1935年(昭和10)からは鹿野戸だけで行い、神社を修復した。」とあります。しかし、なぜここだけを具体例として取りあげたかは説明がありません(1)。

『雄和町史』によると、「森の山」は、「鹿島堂」とも通称されていて、「『秋田風土記』に記される真山権現は字袖ノ沢の旧村社鹿島神社をさし、真山大神・武甕槌神ほか7神を祀り、宝暦10年(1760)の創立という。」と別伝も伝えています(2)。

『秋田大百科事典』は、「鹿島堂」という通称地名もありながらそのことには触れず、神社の創立の経緯や祭神の話も別伝にはふれていません。

 『秋田大百科事典』の次の「鹿島まつり」の項は、「わらや紙で作った鹿島人形を柴船に乗せて流す民間行事。」とし、「秋田市新屋の鹿島まつり・・・300年の伝統」「秋田市楢山登町の鹿島神社の鹿島まつり・・・130年間も続く」「大曲地方では・・・」「仙北郡協和町船岡・・・」と4ヵ所をあげています。(1)

しかし一方、『秋田県文化財調査報告書 第148集』は「かしま送り」と呼んでいますが、秋田県内54ヵ所の報告をしています(3)。『秋田大百科事典』が4ヵ所をあげたのは良いとして、なぜこれだけの「鹿島まつり」の全貌を指摘しないのかが不思議です。どうも鹿島信仰を、秋田県域全体で大きくとらえようとしないのが不可解な感じがします。

 『秋田県史』は近世の鹿島信仰について、「菅江真澄は鹿島祭りを、常陸から移封の時にもたらしたものと見ているが、その拡がりと深さからすれば、鹿島の事触の教宣活動が、鹿島信仰を民衆の中に深く浸透させた結果と見るべきである。」(4)と言っています。菅江真澄は、秋田の佐竹氏が移封の時にもたらしたものとし、これに対して『秋田県史』は「鹿島の事触れの教宣活動」によるものとしているわけですが、いずれも近世に起こったものと見ています。しかし、まさに秋田県の鹿島信仰の「その拡がりと深さからすれば」、もっと古い伝統に基づくものではないかと思うのですが、そこには踏みこみません。

 『秋田大百科事典』には、もう一つ、「ささら」という芸能が関係しそうな項目としてあります。ここでは、「全国的に見られる獅子舞をいう。シシにからむ道化役が持つ楽器のササラからこの名が起こった。」とし、「全体的に、佐竹氏の秋田入国随従説話が多いが、東北地方に伝承されているシシ舞と同系の中世の神楽から派生したものと位置づけられている。」と述べています(5)。岩手県などの鹿踊りとの関係が気になりますが、あまり明確な説明はありません。そしてここでも、近世の常陸国の佐竹氏が秋田に入国した時の伝承が多いとしています。

 『仙北のささら』では、「秋田ではこれらのささらの大半が、明らかに様ざまな系統の獅子踊りなのに、いずれも400年余り前、佐竹公が水戸から秋田へ入部の際、行列の先頭で踊っていたものだという由来伝承を持っています。」とあり、( )の中で、「本荘や新関等は別です」と述べています(6)。どうやら明らかに別伝承のものもあるといっています。

 そして、潟上市昭和大久保の「新関ササラ」の映像を見て驚きました。鹿の頭そのものをかぶって踊っています。説明によると、「男鹿に棲む鹿達の様子を見て始まった踊りだとの伝承を有し、県内他地域のささらと異なり、枝角のついた鹿の頭をかぶって舞う。」とあります(7)。これはまさに鹿踊りそのものです。しかも鹿の様子を見て始まった踊りとしていますが、ほかのささらにもある伝承のようです。最も興味深いのは、その鹿が「男鹿の鹿」となっていることです。「佐竹氏の秋田入国随従説話」以前の伝承がうかがわれるもので、特に岩手の鹿踊りとの関連がありそうですが、そのような説明は残念ながらありません。

 上表の鹿島神社の分布を見ると、米代川流域4社、男鹿半島6社、男鹿・八郎潟周辺6社、秋田市14社、角館・大仙市4社、横手市7社、東由利・矢島町6社のかたまりが指摘できます。

 私は、この中でも男鹿半島6社とその周辺6社が、最も注目すべきものと考えています。地名として「小鹿島(男鹿島)」一つを取り上げましたが、その時はいま一つ裏付けがないと思っていました。しかし、「かしま祭り」「鹿嶋ながし」があるのですから、鹿島神社もあるはずと思っていました。『絹篩』を見たとき、やっぱりあったと思ったものです。

13の「真山神社」は鹿島神社ではありませんが、男鹿半島の中心ともいうべき本山・真山の、その本山の赤神神社(五社堂)と並ぶ真山神社です。現在は真山大神を含め11神が祀られているということですが、社伝によると景行天皇の代に武内宿禰が「男鹿島」にきて、瓊々杵命・武甕槌命の2神を勧請したということです(8)。この「武甕槌命」を「鹿島大神」と今は見ておいて良いだろうと思います。真山神社のそもそもの神祀りの中心に「武甕槌命」=「鹿島大神」が存在することが大事な点です。そして、半島を巡って鹿島神社5社が確認でき、男鹿半島(男鹿島)を仰ぐ位置に6社確認できたということが重要でしょう。「鹿島祭り」も何ヵ所も行われています。「小鹿島(男鹿島)」は鹿島信仰と深い関わりのある地域であったことが判明しました。

赤神神社の赤神は漢の武帝といわれていますが、菅江真澄は本山日積寺永禅院の薬師堂でこの漢の武帝の寿像を見ています。(9)

「絵(カタ)のさま雲車を鹿にひかれ、いつくさに彩たる仙鼠(カハボリ)あり。」(『牡鹿の嶋風』)、

「日積寺の庫におさめつたふる宝物いと多かるが中に、漢武帝の、鹿の車に駕りて雲の中にとどろかし、ひだんの轅のもとより西王母、ひとつの桃をたなごころにのせてささげもてり。五色の仙鼠、みくるまの四方にたちむれり。御せる鹿の袋角てふものを霊芝のさまに画り。」(『恩荷奴金風』)

ここでは赤神・漢の武帝は「鹿の車」に乗っています。同じ菅江真澄が載せている「赤神山大権現縁起」では「武帝飛車にのり、白鳥に駕し赤旗に車をかざり、五色の蝙蝠御車の左右の前後を囲繞す。五鬼を伴ひて頂に御座す。」とあって、こちらは白鳥に牽かせています。異伝があるということで、どちらも興味深いものですが、今は鹿の方に注目しておきます。

 柳田国男が「をがさべり―男鹿風景談―」の中で、特に「鹿盛衰記」として男鹿の鹿にふれた理由がわかります。柳田は、「爰では常陸鹿島や金華山の如き、信仰の保護は夙くから無かつたらしい。」と語り始め、「併し兎に角に鹿の居りさうな山である。」と男鹿の鹿へのこだわりを見せているのです。「椿は春の木」の方では、青森県深浦の椿山の椿が、男鹿半島からやって来た鹿の群れにすっかり食い荒らされたことにふれ、「秋田の男鹿は日本海岸では、最も鹿の沢山居る半島でありましたが、そこと深浦との間は二十里以上もあり、又その中間の山には野獣は幾らも居たのです。それをただ鹿が南の方から、又は海辺づたひに来たといふだけで、直ちに男鹿半島からと断定したのには、何か隠れたる理由があるらしいのであります。」と思わせぶりなことを書いています。柳田は何かはっきりしたことをいっている訳ではありませんが、「男鹿島」と鹿との関係に信仰の問題があると感じていることを言っているのです(10)。

 ちなみに、青森県深浦町はやはり「鹿島祭り」が盛んなところで、深浦町岩崎には「へたの鹿島」「沖の加島」

の2島があり、菅江真澄が絵を残しています(11)。鹿島と鹿のつながりがここにもありそうです。少なくとも柳田は少なからずそのことを意識して、西国の方でも鹿島と鹿の関係にふれています。

 次ぎに、秋田市の14社も注目すべきものです。

 その中心は、やはり鹿島神社ではなく、古四王神社ではないかと思われます。祭神は、『秋田風土記』では甕速日神・熯速日命・武甕槌命・経津主命の4神で、「外に1社を神秘とす」としています。この4神は、伊弉諾尊が軻遇突智を切ったしたたる血から生まれた神として、同系の神で1神とも見なせます。神秘の1社が問題ですがこれは分かりません。社伝によると、四道将軍大彦命が蝦夷征伐の際に武甕槌命を祀った。それが「齶田浦神(あぎたのうらのかみ)」であるという。その後斉明天皇4年に阿倍比羅夫が北行して秋田浦に停泊したとき、土地の豪族恩荷(おが)がこの「齶田浦神」に盟いを立てたので、比羅夫がこの社に大彦を合祀して古四王神社が成立したといいます(12)。ここではまず武甕槌が祀られ、それが「齶田浦神」だといっています。斉明天皇4年の阿倍比羅夫の遠征の話は『日本書紀』にある有名な話ですが、それより遙か以前に武甕槌が祀られているとあるのです。

 私は以前、鹿島神宮が北面している問題に関連し、北面する神社として各地の古四王神社を調べたことがありましたが、秋田の古四王社の祭神にあまり注意しませんでした。今回改めて、鹿島神社や鹿島祭りの関係から古四王社、「齶田浦神」、「恩荷」をとらえ返す必要が出てきました。

 秋田市内の鹿島神社と「鹿島祭り」はかなり密集していると思われますので、「齶田浦神」を意識しつつ、失われたか細い伝承を丹念に拾う必要がありそうです。

 横手市も又、鹿島神社と「鹿島祭り」(かしま送り)が密集していると思われるところです。ここは、『秋田県文化財調査報告書 第148集 秋田県の年中行事Ⅰ ぼんでんとかしま送り』の「鹿島祭り」の報告の中から鹿島神社を見つけました。39などは「鹿島大神」の石碑とありましたが、ここで「かしま送り」(「鹿島祭り」)の祀りをした後で町内を一巡するとありますので、ここに入れました。山梨県で神社がつぶれた後、「鹿島大神」の石碑を建てたものを見ていましたので、おそらく同じようなケースと思いました。

 横手市では、大森町十日町の剣花山に注目すべきでしょう。

『角川地名大辞典』によると、大森町は「式内社と伝える波宇志別神社(保呂羽山)への参道に位置し、長暦2年勧請の剣花山鹿島明神や寛治6年勧請の剣花山八幡神社など、数多くの古代伝承に富む。剣花山(剣箇山)は雄物川に突き出た山塊で、要害の地。」(13)とあります。

菅江真澄が『雪の出羽路』の中で、「剣箇岬之図」を記し、

「こは鹿嶋明神にして、長暦二年戊寅のとしに祀奉りていといと古きみやしろながら、行宮、頓宮のごと下居の社とまをし奉るはかしこき事也。まことに地主の御神にてこそ座しまさめ。」

と言っています。「剣箇岬之図」では上に八幡宮が描かれ、下にまさに「下居の社」として鹿嶋社が描かれています。そこにも「実は地主の御神也」と書かれています(14)。八幡よりも古く勧請された地主神が鹿嶋神社だというのです。

 しかし、現在では大森神社に合祀されていて、先の『報告書』によるとこの大森神社の行事として「田楽灯籠とかしま流し」が報告されています。行事内容を読むと、「由来」のところに、合祀された神社のひとつに鹿島神社があり、「この鹿島流しはみことが地震をゆり起こす大鯰を退治するために船出をするものとされている。」と妙な説明になっています(15)。『報告書』の一覧表には鹿島社は出てきませんので、鹿島社の存在が次第に埋もれつつあるという感じになっています。

 由利地方は近世に小さく別れて諸藩がありましたので、十分な調査が仕切れていません。その中で、『東由利町史』等から5社、『矢島町史』から1社が見つかっています。これも「鹿島送り」の記事から探し出したものです。「鹿島神社」「碑」とありますので、「石碑」だけになっているものの可能性があります。今では合祀されたりして、なくなっているかも知れません。

 秋田県の鹿島神社は、やはり長い歴史過程の中で、徐々に埋もれていっています。表面的にはわからなくなってきています。それでも近世のものにはその痕跡が沢山残っていました。「鹿島祭」「鹿島舟」「鹿島人形」「鹿島流し」「鹿島さま」と称するお祭りがかなり盛んに行われていました。明治以降はさらに合祀されたりして、祭の起源も分からなくなっていて、次第に行われなくなってきているようです。

 征夷の神として古代や近代の国家が大事にしてきた神社とは、とうてい思われないような過程をたどってきた

としか思えません。おそらく鹿島神社・鹿島信仰の本質は、そうしたものとは全く別なものではないかと思うのですが、秋田県の実態はそうしたことを色濃く示していると思われます。

 

1 『秋田大百科事典』(秋田魁新報社 昭和56年9月)184頁

2 『雄和町史』 昭和51年6月

3 『秋田県文化財調査報告書 第148集 秋田県の年中行事1 ぼんでんとかしま送り』 1986年

4 『秋田県史 第二巻 近世編上』357頁

5 『秋田大百科事典』(秋田魁新報社 昭和56年9月)367頁

6  小田島晴明「仙北のささら基調報告」(『仙北のささら 秋田県仙北地方ささら事業報告書』2012年3月)

7 『仙北のささら 秋田県仙北地方ささら事業報告書』129頁

8 『男鹿半島 その自然・歴史・民俗』(平成10年3月)192頁

9 『菅江真澄全集』第4巻 未来社 1973年2月

10 『定本柳田国男集』第2巻

11 「そとがはまきしょう」『菅江真澄全集』第3巻153頁

12 「古四王神社」(『日本の神々 神社と聖地 12 北海道・東北』白水社 2000年7月)

13 『角川日本地名大辞典 5 秋田県』(角川書店)164頁

14 『菅江真澄全集』第6巻(未来社 19年月)88頁、613頁

15 『秋田県文化財調査報告書 第148集』(1986年)8頁、39~40頁

2.岩手県の鹿島神社

2.岩手県の鹿島神社

 

神社名

所 在 地

祭神

備  考

出典

1

武甕槌

神社

九戸郡軽米町山内  権現林

建久4年に祀り

慶長9年勧請

名鑑 

  

2

鹿嶋

大明神

伊保内村 (九戸郡九戸村伊保内)

  

バス停鹿島

書上帳

  

3

真部地

明神社

江苅村馬淵 (岩手郡葛巻町江苅)

鹿嶋大明

神他1

  

書上帳

  

4

駒形

神社

宮古市津軽石藤畑

AB他1

馬を祀る

大系

  

5

鹿島

大明神社

岩手郡栗谷川県土淵村

(盛岡市土淵)

  

頼義が祈願、

勧請

郷村志

  

6

鹿島

大明神宮

岩手郡上田県新庄村

(盛岡市新庄)

鹿島

大明神

字鹿島下・鹿島山

城内~後廃社

郷村志 

  

7

鹿島

大明神宮

盛岡市内丸

鹿島

大明神

往古甲州より勧請

郷村誌 

  

8

志賀理和気神社

紫波郡紫波町 桜町本町川原

AB他5

田村麻呂が鹿島

香取勧請 

神々

  

9

鹿島神社

和賀郡東和町谷内 (花巻市)

鹿島

大明神

寛政7年の棟札

町史

11

10

鹿嶋社

胆沢郡上胆沢若柳村 (奥州市)猿山

  

於呂閉志神社内

か 小祠

神々

  

11

鹿島神社

北上市鬼柳町上鬼柳 満屋

  

鹿島館

寛永18年建立

大系

  

12

鹿島

大明神宮

磐井郡達谷村堂ノ前

(平泉町平泉北沢)

  

西光寺毘沙門堂

宮跡 

安永 

  

13

鹿島社

磐井郡達谷村赤部

(平泉町平泉北沢)

  

  

安永

  

14

鹿嶋神社

東磐井郡黄海村字辻山

(藤沢町黄海) 大明神

A

  

安永 

  

15

鹿嶋社

磐井郡蝦島村鹿嶋

(一関市花泉町油島)

  

慶長6年勧請

鹿嶋御林あり

安永

  

16

鹿嶋社

磐井郡峠村藤田

(一関市花泉町老松)

  

運南社相殿

安永

  

17

鹿嶋社

磐井郡鬼死骸村六本椚

(一関市真柴字佐野)

A他1

大同2年勧請

鬼石 

安永 

12

18

鹿嶋神社

気仙郡(陸前高田市

広田町根岬)

建御雷神

 

市史

 

19

多賀神社

気仙郡矢作村(陸前高田市矢作町)神明前

天照御祖神社末社

市史

 

20

塩釜神社

気仙郡矢作村

(陸前 高田市矢作町)打越

武美加槌命B他1

往昔は獅子稲荷大明神と称す

市史

 

21

鹿嶋社

気仙郡長部村

(陸前高田市気仙町二日市)

A

建久年勧請 鹿嶋

屋敷 お鹿島さま

安永 

13

 

*「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、「経津主命」をBとし、それ以外の鹿島の神の表記はそのままとし、その他の神名は「他1」のように記した。空白は「祭神」が確認できていないものである。

 「出典」は、1の「名鑑」は『岩手県神社名鑑』、2・3の「書上帳」は「八戸廻・軽米通の諸堂社書上帳」(『新編八戸市史 近世資料編Ⅲ』)、4・11の「大系」は『日本歴史地名大系3 岩手県の地名』(平凡社)、5・6・7の「郷村誌」は『邦内郷村誌』(『南部叢書』5)、

8・10の「神々」は『日本の神々12』、12~17・21の「安永」は『安永風土記』(『宮城県史』)、9の「町史」は『東和町史』、18~20の「市史」は『陸前高田市第7巻』である。いずれも主として拠ったものという意味で掲げた。

 「歴」は、国立歴史民俗博物館による『特定研究 香取鹿島に関する史的研究』(1994年3月)の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。これは香取神社と鹿島神社の一覧表であるので両社を含めた通し番号になっているが、番号はそのままのものである。

 

 

 岩手県の鹿島神社は、「鹿島」「鹿嶋」を名乗る神社が15社、「武甕槌神社」が1社、その他は祭神から判断したものが5社、全部で21社になりました。

3の「真部地明神社」の祭神は「鹿嶋・賀茂大明神」ですから問題ありませんが、4の「駒形神社」は武甕槌命・経津主命・大山祇命ですので、武甕槌命を祀る神社としてここに入れました。

鹿島神社と祭神武甕槌命の関係は厳密には問題がありますが、この一覧表ではとりあえず入れています。この問題はいずれ全国を見渡した上で論ずるべき課題です。

8の「志賀理和気神社」は、延喜式神名帳所載の最北の神社です。祭神は経津主命・武甕槌命他5神ということですが、社伝によると坂上田村麻呂が香取・鹿島を勧請したのが起こりとなっているようです。本来は土着の神と思われ、そのこともいずれ論ずる必要があるでしょうが、鹿島神社のバリエイションの一つと考えて良いと思います。

19の「多賀神社」は武甕槌命、20の「塩釜神社」は武美加槌命と経津主他1神なので入れています。

なお、春日神社は、祭神武甕槌命・経津主命・天津児屋根命・比売命の4神で鹿島のバリエイションには違いはありませんが、明らかに藤原氏の氏神化がはっきりしていますので、ここでは意識しつつも一線を画して載せませんでした。ただし地方によっては微妙なものがありますので、そのつど判断するつもりですが、岩手県にはありませんでした。

岩手県はかなり広いので、21社というのは大変少ない感じですが、分布はその割に広くなっています。北上川流域を離れたところがかなりありました。1から4の九戸郡、岩手郡葛巻町、宮古市、18から21の気仙郡の8社です。

「鹿島」地名は、以前は3ヵ所4地名でしたが、今回さらに5地名が加わりました。1ヵ所は盛岡市新庄に「鹿島山」が加わりました。他の4ヵ所は、九戸村1、一関市2、陸前高田市1と全く新しいところです。地名も多くはありませんが、神社と同様分布は興味深いものがあります。

ところで、国立歴史民俗博物館「全国香取鹿島神社一覧表」(以下「歴博一覧表」と略す)では鹿島神社はわずかに3社だけです。いったい、この差は何でしょうか。

「歴博一覧表」は、「全国神社明細帳」や「全国同祭神神社一覧表」(「春日の神がみ」編纂委員会編『春日の神がみ』 全国春日連合会 平成3年)や「各都府県宗教法人名簿」を適宜参照し、「現・旧社名に香取または鹿島を冠する神社を採録した。」(凡例)とあります。

したがって「武甕槌神社」「志賀理和気神社」などが入っていませんが、それを除いても15社ですからこの差はいささか大きいものがあります。摂社末社は「歴博一覧表」も採録していますのでこの差ではありません。

『岩手県神社名鑑』(昭和63年6月10日)によりますと、「鹿島(嶋)神社」が3社、「武甕槌神社」が1社でしたから、主にこれに基づいたものかもしれません。各県の「神社明細帳」は丁寧に見るとかなり出てきますので、「歴博一覧表」がこれを見たとは考えられないと思っています。むしろ、近代以降のものの中でも、整理統廃合された結果のものから採録したものではないかと思われます。

本一覧表は、『封内郷村史』(寛政年間)や『安永風土記』など近世江戸時代の記録を基本にして採録しています。この差が一番大きいと思われます。つまり近世江戸時代までは存在した神社が、明治以降の近代化の過程で、まず廃仏毀釈でお寺が廃され、その後神社の統廃合がかなりなされていますから、その過程で消えて分からなくなってしまったということでしょう。各県の「神社明細帳」は、近代になってからの統廃合つまり合祀の経過がかなりよく分かりますので、丹念に見るとそれ以前の神社が分かってきます。

『新版岩手百科事典』(岩手放送株式会社 1988年10月15日)というのを見ますと、「鹿島」の項目は「鹿島卯女」「鹿島精一」「鹿島守之助」の(株)鹿島建設関係者のものばかりで、「鹿島神社」は11北上市鬼柳の「鹿島神社宮殿」が取り上げられているだけです。それも鹿島信仰ではなく、宮殿が県指定文化財になっていることの説明です。どうやら岩手県では、鹿島信仰は極めて希薄なものでしかないととらえられているようです。「歴博一覧表」は3社ですから、やはり同じ印象を与えています。

本一覧表もたかだか21社ですから、これを覆すものとは到底言えません。しかし、今まで言われていなかったところに神社が見つかっていることは重要です。私は、どの神社にも興味深いものがあると思いますが、特に次の4点に注目しています。

一つはすでに述べましたが、かなり広い分布です。

二つ目は、6、7の「鹿島大明神宮」です。これは、往古南部氏が甲州より下向する際勧請したものといわれ、盛岡城内の台所に祀られてあったといいます。しかし、その後南部の殿様が娘の疱瘡のために新庄村の鹿島山に遷して盛大に祭ったのですが、その効なかったため、大変怒って神社に封印をしてしまったそうです。そのため神社は廃れ、ついに大正の初めには鹿島山も崩してしまったといいます。先祖が大事に甲州から勧請してきた神を台所に祀っていたとか、それをわざわざ外に遷して娘のために祀ったとか、功がないので封印して、やがて明治以降の話ではありますが大事な鹿島山まで崩してしまったとか、鹿島神社の祀り方、いやその祀り捨て方が大変興味深いものがあります。(盛岡の歴史を語る会『もりおか物語(六)』昭和51年9月10日など)

三つ目は、青森県でも報告しましたが、達谷窟(岩屋)の毘沙門堂にかかわります。この堂ノ前に12の「鹿島大明神宮」跡があったことがわかりました。この達谷村には、赤部というところにも13「鹿島社」がありました。達谷窟は、蝦夷の悪路王と赤頭がとりでを構えていましたが、征夷大将軍坂上田村麻呂がこれを滅ぼした後、毘沙門天を祀ったものとされています。そこで鹿島神社も征夷の神として祀られたものというべきかもしれません。しかし、いつしか鹿島神社はなくなり、毘沙門堂は残っています。青森県では、明治初年の廃仏毀釈によって毘沙門堂は廃され、代わって鹿島神社が祀られたとされています。しかしこの達谷では、毘沙門堂が存続し、かってあった鹿島神社は再興もされていません。(『安永風土記』など)

二つ目と三つ目は、近世に廃されていますが、征夷の神としては無残な廃され方をしていると思えないでしょうか。

四つ目は、10の奥州市猿山の鹿嶋社です。

安永5(1776)年7月の『安永風土記』では「猿山神社」として「右ハ延喜式神名帳ニ相載候・・・於呂閉志神社ニ可有之哉ト申伝候近年鹿嶋社ト御神名唱誤候間此度往古之猿山神社ト御書上仕候事」と述べています。「猿山神社は於呂閉志神社であろうと伝えられていますが、近年は神名を鹿嶋社と誤って唱えているので往古の猿山神社と書き上げました。」というのですが、何か「鹿嶋社」と唱えることを憚るような感じです。明和9(1772)年の『封内風土記』(『仙台叢書』)では「猿山鹿島神社」としています。

ところで『日本の神々』(白水社 2000年7月5日)では、於呂閉志神社が「勧請神の鹿島との混同が見受けられる。」としながら、「また猿岩山の奥宮の境内には樽水大明神・山神・鹿島の小祠がある。」と述べています。そしてこの奥宮の例祭が、私祭と称され、「自生的な民俗行事」として「郡内はもちろん江刺、和賀、東西磐井郡や秋田県側からも参詣者が多数参集して賑わった。」とあります。誤って唱えられたにしても猿山の鹿嶋社は多くの土地の人々の信仰を集めていたようです。

『水沢市史Ⅰ』では、「岩手県内に鹿島神社をひろってみると、いずれも北上川沿いであり、・・・(もっとも時代不詳であるが遠野市、宮古市にも存在している。) 胆沢郡以南に断然多く、北は厨川である。」とし、前九年役伝説地帯とのつながりを考えていますが、やはり未解決の課題の一つに「胆沢町颪江の於呂志閉神社に鹿島神を合祀していること」をあげています。ここは単純に逆転させ鹿島神社の実態から、鹿島神社の性格を考えるべきなのだと思います。果たしてこれが、常陸国の鹿島神社を勧請した神の姿なのでしょうか。

今の段階で、私が考えている課題は二つです。

一つは、上の『水沢市史Ⅰ』が指摘している鹿島神社の内3社ほどがまだ確認できないことです。岩手県に行かないと見られない文献がありますので、調査は不充分なところが多く残っています。まだまだ鹿島神社が見つかりそうな気がしています。

二つは、これが大きな発見だと思っていますが、シシ踊りとの関係です。

シシ踊りは、鹿子踊・鹿踊と書き、シカおどりともいわれるように、鹿を模した頭や衣装をつけ、鹿の動きを表現した踊りです。岩手・宮城県の代表的な民俗芸能とされますが、青森・福島、そして愛媛県宇和島周辺にもあるということです。

起源の伝説は、「殺された鹿のために始まるとする供養説・山のシカの踊るのをまねたのに始まるとする遊戯模倣説・春日大明神と結び付けた奉納起源説などさまざまあるが、要するに山から里に降りてきて祖霊と豊作のために踊る精霊であろう。」(『新版岩手百科事典』)とされています。

起源の一つに、「春日大明神と結び付けた奉納起源説」があるとしていますが、インターネットの「鹿踊りのルーツと独特の装束の謎に迫る」では、「さらには、春日明神に起因する説もあり、水沢市のある地区では、香取鹿島の神の使いとして崇敬されていた鹿に扮し、春日大社に奉納した踊りだという説もあります。」と説明しています。

なるほど奈良の春日大社の鹿は大変有名です。しかしここでは「香取鹿島の神の使い」としていますが、そうではなく「鹿島の神の使い」が鹿で、春日へは鹿島から遷ったのだとされていますから、大もとは鹿島のはずです。

実際『胆沢町史Ⅹ 民俗編3』(平成3年10月)の「鹿踊」には、「鹿踊碑文」が写真と共にたくさん載っています。享保20年のものから昭和57年までの碑ですが、その2、3を紹介します。

「鹿嶋大明神塔 寛政三亥年 八月廿一日」(若柳字下松原3八雲神社境内)

「伊勢宮獅子躑供養 鹿嶋宮 塩釜宮 寛政七甲巳天 九月十六日」(小山字八幡堂八幡神社境内)

「富士麓行山躍供養 鹿嶌大神 嘉永二年」(水沢市佐倉河字荒谷地内)

胆沢郡内の碑は全部で40ありますが、そのうち13が鹿島大明神(大神)を記しています。他には「富士麓行山躍」などとある富士のものが17あり、富士山麓の鹿とのつながりを由緒としていますが、あわせて「鹿嶌大神」などと鹿島を記したものもあります。「春日大明神」は明治のものに一つ出ているだけです。

鹿踊の伝書『仰参秘集巻』というのが注に引用されていますが、ここには、

「鹿嶋大明神 日本第一武芸之御神奉称富士神之祖神申」

と、大変面白いことが書かれています。「鹿嶋大明神」は「富士神」の「祖神」だというのです。ここからはいろいろな連想が湧いてきますが、今は禁欲しておきます。

鹿踊についてはまだ多くの資料を読み込んでいません。しかし今は、鹿島信仰と鹿踊の関係がきわめて深いことが分かってきました。これによって、「鹿島」は鹿に関わる信仰であり、地名や神社名の由来もそこにあることがはっきりしたと思います。そして、「富士山麓」と「鹿島」と「胆沢」の地理的なつながりもここから浮かんできました。これはまだ近世以降の資料によるものですが、この伝承は中世さらには古代にまで遡及することができないかと思うのです。鹿踊について、さらに各地の伝承を調べる必要があるでしょう。各地の断片的な伝承などをもっと丹念に拾っていくことによって、新しい鹿島信仰の姿が明らかになる可能性があると考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.青森県の鹿島神社

1.青森県の鹿島神社

  

神社名

所 在 地 (現在地名)

祭神

 備  考   

出典 

1

鹿嶋宮

高杉村(弘前市高杉) 

  

正観音末社 石堂 草創年月不祥 明和6年棟札

書上帳

  

2

鹿島 神社

出精村林(つがる市木造林)

  

旧村社 旧千年村産土神

稲垣村史

  

3

鹿島 神社

津軽郡毘沙門村中崎   (五所川原市)

  

  

新撰陸奥

  

4

鹿島 神社

中川村大字桜田     (五所川原市桜田)

  

  

郡神社誌

2

5

鹿島 神社

中津軽郡西目屋村大秋

武甕雷神

旧村社 村市が姉大秋が妹

大系 県史 

  

6

鹿島 神社

北郡明神町       (むつ市田名部町)

八幡宮相殿 宝暦13年棟札

新撰陸奥

  

7

鹿島神

北郡七戸町南町     (七戸町七戸)

神明宮相殿

新撰陸奥

  

8

鹿島 神社

八戸市根城8丁目11-36


 

隅ノ観音境内 石祠

八戸市誌

  

9

武甕槌神社

三戸郡本三戸小向村   (南部町小向)


八幡宮(建久2年甲州より遷座)摂社

新撰陸奥

 

*「神社名」は出典の神社名とし、「所在地」も出典のものを記し、( )内に「現在地名」を記した。「祭神」は、「武甕槌命」を「A」とし、それ以外の表記はそのまま記した。空白は「祭神」が確認できていないもの。

 「出典」は、1は「安政2年8月神社微細社司由緒調書上帳(最勝院)」の、「新撰陸奥」は「新撰陸奥国誌」の、4は「北津軽郡神社誌」の、5の「大系」は「日本歴史地名大系2 青森県の地名」の、「県史」は「青森県史」の略。

 「歴」は国立歴史民俗博物館の「全国香取鹿島神社一覧表」の通し番号である。

 

 この間、私は全国の鹿島地名の調査をふまえて、全国の鹿島神社の一覧表を作成してきました。そして実は、昨年3月29日には、一通りの一覧表がほぼ完成できたと思っていました。

鹿島神社の全国一覧表は、すでに1994年3月に国立歴史民俗博物館が「特定研究 香取鹿島に関する史的研究」として、全国神社明細帳と「全国同祭神神社一覧表」(「春日の神がみ」編纂委員会編『春日の神がみ』平成3年全国春日連合会)と各都府県宗教法人名簿を参照して、鹿島神社および香取神社の一覧表を作成して発表していました(以下、歴博一覧表と称す)。

 私は、この歴博一覧表から鹿島神社のみをぬき出して、これに私の「鹿島地名」の調査の中から見つけた鹿島神社、武甕槌神社、武甕槌命を祭神とする神社などをつけ加えたら、それで新たな全国の一覧表が出来ると安易に思っていました。

 しかし、青森県・岩手県・宮城県などの調査を進める中で、ふと近世の資料を見たために、現代ではすでになくなっていたり、わからなくなっている鹿島神社、鹿島社などがかなりあることがわかってきたのです。歴博一覧表は近現代の資料に基づいていましたから、近世の史料を見ますと、ここにはない神社がいくつも出てきてしまったのです。

 直接のきっかけは、『宮城県史』所収の『安永風土記』でした。『安永風土記』は、仙台藩の地史編纂の過程で作成され、各村々から提出された「風土記御用書出」等の「書出」の総称で、安永2(1773)年から同9年のものが最も多いので『安永風土記』といわれているものです。幸い、『宮城県史』がほぼ収録していたので、わりあい簡単に見ることが出来ました。

 その結果、今まで知らなかった地名や神社が次々に出てきたのであわてました。『安永風土記』については岩手県・宮城県のところでまた改めてふれたいと思いますが、その後は、各地の近世の地誌や検地帳、村明細、寺社明細などできるだけ目を通すことにしてきました。とにかく近世のものをしっかり見ること、あるいは近代の廃仏毀釈や神社の統廃合以前の姿がうかがわれる史料をしっかり見ないと、古い神社の実像はわかってこないことが改めて思い知らされました。そのため私の一覧表は、各県毎にすべてやり直しになり、1年以上かかってしまっています。まだ未完ですが、少しずつ発表することにしました。

 そこで、まずは青森県。

『青森県百科辞典』((株)東奥日報社 昭和56年3月1日)の「鹿島信仰」(小舘衷三)の項を、つぎに全文かかげます。

「県内に鹿島神社が7社あるがいずれも津軽地方だけである。その祭神は武神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、本社は茨城県の旧官幣大社である。代表社は南郡藤崎町鹿島神社、弘前市乳井神社、中郡西目屋村市のものであるが、神仏分離以前はいずれも毘沙門天(びしゃもんてん 多聞天)を祭っていた。すなわち、東北地方は日本の鬼門であったので、古代から北方鎮護のこの神仏が祭られていたのである。なお、西郡岩崎村周辺で行われている「鹿島送り」は、秋田藩主が鹿島本社のある常陸(茨城県)から転封になって来て、一時、岩崎地区を領有していたことによる。」

なおこの辞典は、この後に南津軽郡藤崎町の「鹿島神社」と、西津軽郡深浦町、同岩崎地区などの「鹿島流し」(上記の「鹿島送り」のこと)の 項をたてて、同様な説明を加えています。鹿島神社や鹿島信仰に関する青森県内の典型的な認識を示しているものと言えます。

ここでは、青森県内の鹿島神社は7社だけで、すべて津軽地方だけのものであるといっています。

歴博一覧表では、『百科辞典』が7社といっているのに対して6社で、津軽地方だけのものというのは同じです。これは弘前市の乳井神社が入っていないからでしょう。乳井神社は神社名こそ「鹿島」を名乗っていませんが、祭神は武甕槌命・経津主命他1神で、坂上田村麻呂に関わる伝承をもつ北方鎮護の神ですから、一覧に挙げられてもおかしくないものです。神社名にこだわったのかもしれません。

ところが『百科辞典』は、この7社が「神仏分離以前はいずれも毘沙門天(多聞天)を祭っていた」と言っています。実際のところその通りで、近世の史料では毘沙門天とか毘沙門堂になっていて、鹿島神社の姿は見えません。そして明治になって、毘沙門堂を改め鹿島神社としたとしているものばかりです。そうすると、青森県には、近世以前にさかのぼる本来の鹿島神社は一つもないことになります。

しかし、私の調査では、近世から現代までの史料で、鹿島(嶋)神社、鹿島神、鹿島宮、武甕槌神社、乳井神社などさまざまな名前のものを含めて25社を数えました。しかも、津軽地方22社と圧倒的に津軽が多いのですが、下北郡、上北郡にも3社見つかっています。

 そして、これらは確かに近世の文献の中で毘沙門天、毘沙門堂を名乗っているものが多かったのですが、そうしたものを省いていくと、かかげた一覧表のように8社だけが残りました。津軽5社と北郡3社です。

 これを見ると、下北、上北郡の3社は問題なさそうです。鹿島神社は、相殿と摂社ですが、津軽地方だけのものではありませんでした。史料は『新撰陸奥国誌』ですから、明治5年~9年のころの情報になります。

 さらに津軽では、大変興味深いものが見つかっています。

 1の弘前市高杉の「鹿嶋宮」です。安政2(1855)年8月「神社微細社司由緒調書上帳」(最勝院 『新編弘前市史』1303頁)の、高杉村「正観音一宇」の項の中に、「同末社 鹿嶋宮」があり、小さい石堂で創建不詳だが、明和6(1769)年の棟札があるとあります。 おもしろいのは、「正観音」という仏教施設に「同末社 鹿嶋宮」がはっきり見つかったことです。近世以前では神仏混交ですから、お寺に神社がくっついていても不思議ではなく、今日でもその名残は注意しているといくらも見ることは出来ます。

 この「鹿嶋宮」が今日も存在しているかどうかは今のところわかりません。「正観音」は、津軽三十三観音の第四番札所浄土宗南貞院の観音堂と思われ、村内には諏訪神社や加茂神社があることは地名辞典でわかりましたが、これら辞典は鹿島には全くふれていません。

 しかし、これが見つかったことは、明治になって毘沙門堂が廃され、代わって新しく鹿島神社になったという説明に大きな疑いが出てきます。毘沙門天を祀る毘沙門堂に付随して、鹿島神社や武甕槌命が祀られていても不思議ではないでしょう。それが明治になって、毘沙門堂を廃したときに残った神社として浮上した可能性も出てきたと思います。

 私は、まず第一に、こうした話が青森県だけで説明されているのではないかと疑っています。私の不勉強かもしれませんが、他の地域ではあまり聞かない話です。たとえば、岩手県平泉の有名な達谷窟は、毘沙門堂です。この「堂ノ前」には「鹿島大明神宮跡」があったと『安永風土記』にはあります。ここでは近世の段階で、すでに鹿島神社は跡だけになり、毘沙門堂が今日まで存続しています。明治になって鹿島神社を復活して、毘沙門堂を廃してもおかしくないと思いますが、そうしたことはなかったのです。逆に鹿島神社は今日では痕跡さえもわかりにくくなっています。毘沙門堂と鹿島神社が同居していて、どのような事情かはわかりませんが、鹿島神社がなくなり、毘沙門堂が残った逆のケースが存在することは重要です。

青森県の「鹿島」地名は、4ヵ所7地名あります。公表している地名一覧表にはなかったところが1ヵ所2地名増えました。西津軽郡深浦町岩崎の「へたの鹿島」「沖の加島」です。菅江真澄が島の絵を描いていました。ここには「武甕槌神社」がありますが、近世には毘沙門堂で、鹿島神社や武甕槌命は確認できませんでした。『百科辞典』でもふれられているように「鹿島流し(送り)」「鹿島祭」が盛んに行われている地域でもあります。「鹿島信仰」の痕跡が地名と祭りに濃厚に残っています。しかし、鹿島神社は近世にさかのぼっては確認できません。『百科辞典』は、「鹿島送り」について常陸国から転封した秋田佐竹氏が一時支配したことによるとしますが、それなら鹿島神社を勧請していてもおかしくないはずです。「鹿島祭」が深浦町域に何カ所もあることなど、一時的な佐竹氏の影響では説明つかないものがあります。

 また、普通は神社があったから地名が残ったと説明されるのですが、今のところ対応する神社が見つかっていません。津軽には22ヵ所の鹿島神社がありましたが、どれも近世は毘沙門天を祭っていたとすると、地名や「鹿島祭」などの行事との関係が説明つきません。これだけ鹿島信仰の痕跡が在りながら、確かな鹿島神社がなさ過ぎます。

 私の一覧表では、今のところ近世の毘沙門天、毘沙門堂についてはっきりしないものを4ヵ所挙げています。

鹿島神社であることがはっきりしているもの、津軽1ヵ所、北郡3ヵ所、しかしなお検討を要するもの4ヵ所です。この4ヵ所ばかりでなく、津軽地方の鹿島神社のすべてを一つ一つもう少し検討すべきではないかと思っています。そして、この鹿島神社が今後消えていくのか、近世以前の鹿島神社の存在を確認することになるのかが今後の問題になります。

 とりあえずは、全国の鹿島神社を見てからの課題とします。